51.敵情視察です。
布を選び、店を出た私は母さんを見上げた。
「か~しゃん、も、かえる?」
「何か欲しいものでもあるの?」
私が呼び止めたのがおねだりだと思ったのか、母さんが笑いながら聞き返してくる。ま、まあ、美味しそうな屋台に心は惹かれてるけど、せっかくこっちまで出て来たんならもう少し足を延ばしたくなっただけなんだよ。
「グランベルしゃんのおみせ、いきたい」
「グランベルさんの?」
父さんが指導して、グランベルのお店で白パンが売り出されてもう数カ月経つ。父さんは暇を見つけては様子を見に行っているみたいだけど、私は一度も足を運んだことがなかった。
どんな感じで売れているのか、ちゃんと見てみたいって思ってたけど、今日が良いチャンスなんだもん。
(父さんが一緒だと、照れちゃって絶対すぐ帰っちゃいそうだもん)
「いー?」
私が改めて母さんに頼むと、少し考えた母さんは頷いてくれた。母さんも、グランベルさんのお店のことは気になっていたんだって。
「でも、北の広場前にあるし、気後れして……」
それは、わかる。身分差というのがあまり身近になかった私とは違って、この世界では平民と貴族って天と地ほども立場が違うみたいだし。そんな貴族相手にも商売をしているグランベルさんのお店に気安く近寄るなんて考えもしないんだろう。
(まだまだ、こっちの常識には慣れないな……)
買い物に行くのに身分差を考えるなんて……ちょっと面倒臭い。
北の広場前に行くと、行きかう人々の様子はがらりと変わる。
女の人たちのドレスは華やかで、男の人たちはシャツにベストにズボンという、見るからに金持ち風の格好だ。ここでこの格好なら、貴族ってどんな格好をしてるんだろ。
「あ」
グランベルさんのお店はすぐにわかる。美味しそうな匂いが少し離れた私のところまで漂ってきて、私は思わずへらっと笑ってしまった。
(美味しそうな匂い~)
「か~しゃん、なか、はいろ」
「え……」
どうやら母さんは外から眺めるだけだと思っていたらしく、私の言葉に戸惑った様子を見せる。でも、ここまで来て店に入らないで帰るなんて勿体ないもん。
確かに、お金持ちの奥様のような服は着ていないけど、元々美人の母さんは簡素なドレス姿でも十分だし、私もそこまでみっともない恰好じゃないはずだし。パンを買いに行くくらいなら、周りから浮くようなことはないはずだよ?
「はやくっ」
私は母さんの手を引っ張って店の前に行く。
(うわぁ……)
こんなに近づいたのは初めてだ。通りに面した壁一面はガラスで、そこから棚に並べられた白パンが良く見える。これだけ窓が大きかったら、それだけで見栄えがする。
私は早く中を見たくて入口に急ぐと、そこにはお仕着せの服を着た若い男の人が立っていて、私と母さんを見ても眉を顰めたりなんかせず、ドアを開けて「いらっしゃいませ」と言ってくれた。
(すごい……ドアマンまでいるんだ……)
こんな出迎えをされるのは《佳奈》の時以来で、私は懐かしくなって思わず笑ってしまった。
母さんと一緒に店の中に入ると、途端にバターの匂いが濃厚になる。
ついさっきまで戸惑った表情だった母さんも、職業柄なのか興味深そうに店内を見回し始めた。
(ここが……お高いパンの店か……)
壁沿いに並べられた棚には、ずらりと白パンが並んでいる。一部にあのフランスパンもどきも並べられていたけど、主力はやっぱり白パンだろうな。……でも、他の種類はないのかな? この世界はパンはあくまで脇役で、総菜パンや甘いデザートパンはないってこと?
うちみたいな下町のパン屋は種類が作れないと思ってたけど、どうやらパン屋全体がそんなものなのか。
「大変失礼ですが」
「?」
不意に、私の目の前に一人の青年がやってきた。
青年って言っても、まだ二十歳にはなってないくらいかな、茶色い髪に緑の目の、柔らかな笑みを湛えた人だ。最初は私に話しかけて来たとは思わなかったけど、彼はその場に屈み込んで私の視線に目を合わせてくる。
「ジャックの娘さんの、リナさんですか?」
「しょうです」
まさか名前を呼ばれるなんて思いもしなかった。
反射的にコクンと頷くと、目の前の緑の目が嬉しそうに細められた。
「ようこそ、我が店へ。店長のウォルターです」
「うぉるたー、しゃん?」
「グランベルの末息子です」
「えぇっ?」
私はびっくりして、目の前の彼の顔をまじまじと見つめた。
私から見て、グランベルさんはダンディなおじ様だ。歳は、50歳になるかどうかくらいかなって思ってたけど、目の前の青年が末息子って言うんなら、もう少し若かったのかな。
「え、えと。こんにちは」
とりあえず挨拶をして頭を下げると、彼……ウォルターは「こちらこそ」と言った。
「一度君に会いたいと思っていたんですよ。まさか店に来てくれるなんて思わなかったけれど……ああ、そうだ」
ウォルターは立ち上がり、そのまま店の奥へと歩いていく。
「な……なに?」
限りなくマイペースな感じに呆気にとられていると、ウォルターはすぐに戻ってきた。その手にはトレイがあって、白パンが一つのっている。彼はそれを私の前へと差し出してきた。
「……え?」
いったいどういう意味なのか。私は白パンとウォルターの顔を交互に見る。何も言ってくれないので、どうしたらいいのかまったくわからない。
「味見。白パンをよく知る君に、一度この店のパンを食べてもらいたかったんだ」
え……と。この場合、味見をした方が良いのは父さんだと思うんだけど……この息子さん、グランベルさんからどんな話を聞いているんだろう? 口ぶりから、私のことを知ってはいるみたいだけど……。
「ウォルター」
そこに、もう一つの声が掛かる。今度はもっと歳を重ねた、私も聞いたことがある声だ。
「グランベルしゃん」
グランベルさんは私とウォルターを見て、大げさに肩を竦めた。
「いらっしゃい、リナ」
「こ、こんちは」
私は焦って頭を下げる。一瞬、助かったって思ったけど、もしかしたらもっと不味い状態になって……ないよね? 今さらながら店の中まで入るんじゃなかったって思ったけど、顔を合わせてしまったのならしかたがない。
私は愛想よくグランベルさんに話しかけた。
「おみせ、きれーでしゅね。ちろぱんもおいちそーでしゅ」
……緊張しているせいか、舌が回らない。グランベルさんは微笑ましそうな顔をして私を見下ろした後、側にいる母さんにも挨拶をした。
「ようこそ。店に来るのは初めて……ですね? いかがですか、私の店は」
「と、とても綺麗で、広くて……素敵なお店ですね」
母さんも緊張しているみたい。うん、その気持ちわかる。店の中にいた数人のお客さんも店員さんも、この店の主であるグランベルさんが挨拶をする相手だってことでこっちを注目してるんだもん。
被害妄想かもしれないけど粗探しをされている気がして、私も落ち着きなく視線を彷徨わせた。
「そう言っていただけると光栄ですね。でも、ここにリナが来てくれて本当に良かった」
「あ……」
何だか、目的があるような言葉だなぁ。私は母さんの後ろにそっと隠れようとした。でも、その前に屈み込んだグランベルさんに両肩に手を置かれてしまう。
「少し、話をしないか?」
「ちない」
食い気味に否定したんだけど、グランベルさんは聞いていないふりをするつもりみたい。
「こちらにどうぞ」
店の奥に巧みに誘導されて、私は背を押されてしまう。
「アンジェもどうぞ」
店の奥にはちゃんとした応接スペースがあった。店頭に、厨房、そしてこの応接スペースなんて、いったいどれだけ広いのよ、このお店は。
「リナは果汁でいいかな? それとも紅茶もあるが」
「こうちゃ!」
うわ! 大発見! この世界、紅茶あるんだ! コーヒーは苦くてあまり好きじゃなかったけど、紅茶はすごく好きでよく飲んでいた覚えがある。ミルクを入れたり、レモンを入れたり、とにかくよく飲んでいた。
文明の全然違うこの世界に紅茶なんてあるはずないと頭から決めていたけど、あ~、紅茶! どこで売っているんだろう?
「れもんてぃ、おねあいしましゅ」
「れもんてぃってどんな飲み物かな?」
え……紅茶があるなら、レモンティだってあるでしょ? 私は当然そう思っていたので聞き返されたことにびっくりしたけど、相手は本当にレモンティを知らないらしい。
……言い返してもいいかな。なかったことにできるのが一番だけど、ごまかす方が悪目立ちするような気もするし。
「かんきちゅの……リモンのしる、いりぇてくだしゃい」
「リモンの?」
グランベルさんが考えるように髭を撫で、そのまま視線を後ろにいるウォルターを振り返った。
「用意しなさい」
「はい」
わ、このまま用意してくれるみたい。ありがたいけど、素直に喜べないのが現状だ。
母さんも私と同じものでいいって言っちゃって……間もなく、紅茶の良い香りと共に、お仕着せの服を着た若い女の子がカップとティーポットを運んできた。
(匂いは間違いなく紅茶だ)
カップに注がれる色も同じで、そこにたぶん……砂糖代わりのハチミツが入った小さな瓶と、私が言ったリモンがそのままの形で出されてきた。
(……ちょっと、考えたらわからない?)
ジャガイモみたいな大きさのまま、カップに入るわけがないでしょ。
私はムッと眉間に皺を寄せてグランベルさんを見上げた。




