42.異世界にはいろんな常識があります。
張り切ったはいいものの、今の時点で私ができることは何もない。実際、父さんに食パンの作り方を教える以外にすることがないのだ。
(う……どうしよう……)
店番は今のところ母さん1人いれば十分だし、店の外を掃除しようにも勝手に出て行ったら叱られてしまう。何もしないことが一番の手伝いだってよく言われるけど……。
(……頭の中で、ちゃんとシミュレーションしておこう)
白パンを作る時、二次発酵を忘れてしまって初回は失敗してしまった。材料を粗末にしないためにも、できる限り失敗しないようにしなくちゃ。
え~と、まず必要なものは、パンの粉。これはいつも使うもので十分。後は、酵母と……あ、塩と砂糖が少しずつに、バター、だっけ。
中にドライフルーツを入れたり、味を変えたりするのは上級者だもんね。今は基本に忠実に、失敗しないのが一番大切だもん。
でも、不安なのは分量をちゃんと覚えていないってことなんだよなぁ。白パンの時と同様、《佳奈》だった私が食パンを作った時は、材料の用意は全部してもらっていたし、私はただ何が入っているのか聞いていたくらいだもん。目分量で大丈夫かはやっぱり不安だけど、後は父さんと一緒に味見しながら考えるしかないか。
実を言うと、こんな過程も結構楽しいと思っていたりする。全部が完璧に御膳立てされているより、ああだ、こうだって考えるのってワクワクするし。
それに、私はパン作りに関しては職人の父さんをすごく尊敬してるし、信頼してる。たとえ最初は失敗したとしても、必ず美味しいパンを仕上げてくれるって信じられる。
(あ~、ここにパソコンとか、携帯電話とか……せめて、ノートがあったらいいんだけど……)
学校から支給されているノートはかなり高価なものらしく、1年で1冊しかもらえないらしい。それも、全教科で1冊なので、相当大切に使わなくてはならないみたいだ。
だから、妹に甘いケインも、ノートだけは譲ってくれない。
あ、1年っていえば、私はようやくこの世界での時間や季節についてケインに教えてもらった。それは、学校に入った1年目に教えてもらうことだって。私が教えてほしいって言った時、「リナは勉強が好きなんだな」って驚かれちゃった。
ここでは一週間は6日で、それが5回繰り返されたら一カ月、つまり30日で一カ月だって。
月曜日……じゃなくて、週の頭から黄の日、赤の日、青の日、緑の日、銀の日ってあって、最後の白の日が休みの日になってるらしい。
どうして色で呼ぶのかなって思うけど、ケインに聞いてもわからないんだって。まあ、私だって、月曜日がどうして月曜日っていうのかなんて改めて考えたこともなかったしなぁ。
あ、それに、季節や月の呼び方も変わってる。なんと、神様とその眷属の名前がついてるんだもん。
この世界はちゃんと四季がある。春は温かく、夏は暑く、冬は雪が降って寒い。そのあたりは私にも馴染んだ季節感だった。
冬は水の女神、ガレンツィア様の季節で、その眷属のアルレット様が三カ月支配する。つまり、「アルレットの1の月、2の月、3の月」って、感じ。
春は風の女神、エニーレ様の季節。眷属はリースベット様で、また三カ月の支配。
夏は火の神、クレメンス様の季節で、眷属はケルネールス様。
秋は大地の神、ランベール様の季節。眷属はライニール様。
ん~、言い難いよ。ここは数字でしょ! でも、違和感ありまくりな私とは違い、この世界の人たちは神様がすごく身近にいるみたいで、普通に、「ケルネールスの2の月にね」とかって言ってる。
これはもう、慣れしかない。
あとは、時間。
これは1日は24時間、午前と午後という分け方はないけど、1時、2時と数える。前と同じだから安心だよ。
自分が持っている常識と、まったく違う常識に慣れるのは大変そうだけど、これもいつか普通になっていくのかな。
「リナ、片付け手伝って」
私がうんうん唸っている間に、いつの間にかパンが売り切れたらしい。私は空になった籠を下げ、台の上を拭いていく。
母さんは土間を掃いて……2人でしていると片付けはあっという間に終わった。
そうなると、いよいよ食パン作りだ!
「と~しゃん」
「おう、入っていいぞ」
父さんの許可が出たので、私はウキウキした気分で厨房に入る。母さんはそんな私を笑って見ながら二階に上がっていった。
作業台の上には既に前もって伝えていた必要な材料が並んでいた。もちろん、食パンの金型も忘れてはいない。
「さて、リナ」
私を見下ろす父さんも、どこか楽しそうな雰囲気だ。私のために季節2つ分も新しいパン作りを待ってくれていたので、父さん自身今日を楽しみにしてくれていたのが良くわかる。
私は椅子を引っ張ってくると、作業台が良く見える位置に持っていって、
「んしょ」
その上に膝立ちになった。
「忘れたものはないな?」
並べられた材料は、ちゃんと私が伝えたものだ。
「だいじょぶ」
「よし。じゃあ、教えてくれ」
食パンの作り方は案外簡単だ。要は、材料を忘れずに混ぜて、型に入れてしまえばいいのだ。
「まじゅは、ぜんぶ、まじぇて」
「全部だな?」
「……うん」
(たぶん……そうだった、はず)
材料の分量は父さんに任せた。父さんは白パンの時を参考にしているらしい。一応、コップにどれくらいかって見ながら決めているみたい。あ~、こんな時にちゃんとメモを残しておきたいな。そうしたら、次の時にちゃんと役立つはずだから。
父さんは慣れた手つきで材料を混ぜ、あっという間にそれは塊に変化して、見慣れたパン生地になった。
「……まずは、これくらいか?」
呟いた父さんが生地を丸めて、大きな木の器にそれをのせる。表面が乾かないように、一応濡れた布を掛けてもらった。
「一次発酵だな」
「うん」
パン作りには発酵がとても大切なことを、父さんは良く知っている。竈の火があるので、温度も十分なはずだ。
「どのくらい置いておく?」
「ん~……いちじかん、くりゃい?」
「一時間か。発酵は時間が掛かるもんだな」
うん、そうだよ父さん。でも、そのくらいちゃんと時間を掛けないと美味しいパンは作れないの。
私はじっと器を見ている父さんを見て笑い、その視線を戸棚の方へと向けた。そこには小さな麻袋がある。
(あれが、いつまであるかってことなんだよねぇ)
あそこにある麻袋の中身は砂糖だ。でも、これはお地蔵様から貰ったあの砂糖ではなく、父さんが自分で買ったもの。5キロくらいあったあの砂糖も、白パンが売れ続け、酵母を作ったりジャムを作ったりして、とうとう五日前に無くなってしまった。
でも、私からすれば、ずいぶんもったと思う。それだけ、父さんが大切に使っていたんだけどね。
途中、甘大蜂のハチミツも手に入ったけど、それだっていつまでもあるものじゃないし。
もしかしたら、砂糖を使わない酵母の作り方もあるかもって考えたりもしたけど……私の記憶の中には残念ながらなくて、結局砂糖頼みになってしまってた。
父さんが新たに買った砂糖は1キロ。小金貨1枚……5万円だよ、高い。これでも、グランベルさんが紹介してくれて、多少安く買えたらしいんだけど。
白パンでの利益があっという間に飛んでしまうって、父さん蒼褪めてた。その気持ち、私も十分わかるよ。
1時間ほど経った。
「……見てみるぞ」
「うん」
布を外したそこにあるのは、ちゃんと発酵して膨らんだ生地だ。
「次はどうするんだ?」
「みっちゅにわけて、まるってして」
今回も、初回なので失敗してもいいように少量での試作だ。金型1個分の生地を三等分にして丸めてもらい、今度は二次発酵だ。
二次発酵は一次発酵よりは短い。その間、私は父さんに天火の準備をしてもらう。
「じぇんたい、あっためて」
「ああ、大丈夫だ」
これの扱いは父さんの方が詳しいので、私はそれ以上口を挟まない。
(今のところ間違ってないよね……?)
頭の中で工程を考えていた私は、ん?っと引っ掛かりを覚えて首を傾げた。
一次発酵でちゃんと膨らんで、次は二次発酵で、その後金型に……あれ?
(膨らんだ状態で金型に入れたっけ……?)
過去の記憶を手繰り寄せるように目を閉じた私は、ふっと過った光景に慌てて目を開ける。そして、竈の火加減を見ていた父さんを焦って呼んだ。
「と~しゃん、ちがった!」
「え? 違うのか?」
「かたにいれて、はっこー!」
そうだった。型に入れた状態で発酵させないと、生地が上手くくっついてくれないはずだ。
慌てる私につられたのか、父さんは素早く生地を手に取る。5分くらい経っていたかもしれないけど、一応見た目には変化はない。
「これを型に入れるんだな?」
安心した私が何度も頷くと、父さんは金型の中に丸めた生地を三つ入れた。
「ここで、二次発酵なんだな?」
私は何度も頷く。手順がちょっと前後してしまったけど、まだかろうじて修正できたはず……よね。
私は布で隠されていく生地を見送る。せっかくの食パン、完璧なものができなくても、少しでも美味しいものを父さんに食べてもらいたい!
「心配するな。きっと上手くいく」
「と~しゃん……」
前向きな父さんの言葉に、私も安心して頷いた。パン作りに関しては、何よりも父さんの言葉が信じられるからだ。
「さあ、もう少しだろ?」
「うん」
食パン。初めて見た父さんがどんな顔をするのか楽しみで、私は早く時間が経たないかと焦れた思いでいた。




