41.3歳になりました。
「……んぅ……」
良い匂いがしている。
眠たいけど、その良い匂いには逆らえなくて、私はベッドの中でモゾモゾと体勢を変えた。
「……ふぅ」
起きたくないのに、もう頭の中は覚めている。私は勢いよく身を起こした。ぐっと両手を上げて背伸びをすると、少し体も目覚めたような気がする。
「……しょ」
慎重にベッドから下りた私は、クローゼットを開けた。服の種類なんてあまりないけど、ちょっと大きくなったのでこの間新しい服を作ってもらったのだ。私はそれに手を伸ばしかけたけど、我慢していつものワンピースを手に取る。あの新しい服は余所行きだもん。汚したくない。というか、これは今日の夜に着ることができるからそれまで我慢だ。
最近は着替えもスムーズにできるし、起きた後のベッドもちゃんと整えることができる。まだ身長も低いし、手だって小さいけど、やれることは確実に多くなっているのだ。
「よし!」
着替えた私は自分に気合を入れる。
今日で、私は3歳になった。
3歳って、意外に大人なんだよね。あ、もちろん、物理的な大人ってわけじゃなく、自立心がぐんっと伸びてくるっていうか。
もともと、二十歳まで生きた記憶がある私が特別なのかもしれないけど、いろんなことを自分でしたい、実際にできることもあるって感じで、ここ最近私は母さんから「お姉ちゃんになったわね」ってよく言われる。
お姉ちゃん……うん、良い響き。妹って立場も悪くないけど、無性に私より小さい子を可愛がってあげたくなっちゃう。そういえば、この間ラウルのお兄さんの子供、カナンのお守をしたんだよね。
カナンももうすぐ1歳。早くおしゃべりできるようになってほしいよ。
私がリビングに行くと、母さんが食事の後片付けをしていた。どうやら父さんもケインももう食べ終わったみたいだ。
「おか~しゃん、おはよ」
「おはよう、リナ。……うん、ちゃんと着れているわね」
私の姿を確認して頷いてくれた母さんに笑って見せると、私は自分の定位置の椅子に座った。
「かみ、して」
「はいはい」
幼児のポヤポヤとしていた髪も、少しだけ伸びて肩につくまでになっていた。俯いたりするとちょっと邪魔になり始めたので、母さんに二つに結んでもらっている。もう少し長くなったら三つ編みとかしてみたいけど、ここの世界では珍しくない結び方かな。
あんまり目立つことはしないようにって父さんに言われているので、何をするにしても慎重にならなくちゃいけない。
「できたわよ」
軽く肩を叩かれて、私はそうっと髪に触れてみた。鏡がないのでわからないが、可愛くできているといいな。
「ありがと」
「すぐにご飯の用意するから」
「リナも、おてちゅだい、する」
母さんの後を追うように歩く私の足取りは、ずいぶん軽やかになったと思う。ケインはまだまだ遅いって言うけど、もうヨチヨチはしていないもん。
それにね、言葉もいっぱい覚えた! 前は単語を繋げることでしか会話ができなかったけど、今はちゃんと文章になってる、と、思う。まだ、サ行とタ行で舌が回らない時があるけど、意思の疎通ができるくらいにはきちんと話せるようになったのが嬉しい。
「お、リナ、起きたのか」
一階に下りた時、ちょうど父さんが焼き立てのパンを持って厨房から出てきた。さっきからこの美味しそうな匂いがしてたんだ。
「おはよ、おと~しゃん」
私が言うと、父さんはパンを入れた籠を台の上に置き、私を軽々抱き上げてくれる。少しは大きくなったのに、父さんはまったく苦に思っていないみたい。重くないのかな?
「今日は早起きだな」
「うん、リナ、たのしみしてた」
今日、いよいよ食パン作りをする。……長かったよ、ここまで。
本当は、去年の秋には作り始めるはずだったけど、私が癒しの魔法を使えることを知った父さんが、できるだけ目立つことはしない方が良いと、しばらく食パン作りはお預けになっていた。
金型まで出来ていたのに、お預けになった時は本当にショックだった。でも、父さんが私のことを考えてくれているのがわかるから、私も我が儘は言えなかった。食パンを作りたいって、単に私が美味しいものを食べたいってことだから。
ただ、その間も父さんは白パンの改良に余念がなくて、今では当初の味よりも数段良くなっていると思う。
季節2つ分我慢して、私の誕生日の今日、父さんは食パンを作ろうと言ってくれた。
この間何もなかったことと、私が金型を見るたびについた溜め息が決め手だったかもしれない。我が儘だとは今も思うけど、新しいパンを作れることは嬉しい。
「ケインも楽しみにしてるって言ってたぞ」
「に~ちゃも、たべたい、いってた?」
「ああ。ケインはリナが作るものが大好きだからな」
そう言われると、私は照れくさいが嬉しくなる。父さんが言うように、ケインは私が作るものは何でも美味しいって言ってくれる。実際は作るのは父さんが多いんだけど……結構ケインは新しいもの好きなのかもしれない。
でも、ケインが楽しみにしてくれているんだら、失敗しないように作らなくちゃ。
「はい、リナ、運んで」
私は朝食用のパンが入った籠を渡されて、よっこらせっと階段を上った。
朝食を食べ終わり、私は愛用のエプロンを付ける。そのままベッドの下に置いてある私の宝箱を取り出した。小さな籠の蓋を開けると、中には布が入っている。それを取り出して開くと、中にはビー玉のような魔石があった。
「……ちゃんと、あいしゅぶるーだ」
エルさんがくれた魔石。私の中の魔力に異変があった時に知らせるって言われたけど、毎日変わらずアイスブルーのままだ。これがどんなふうに変化するのかと興味がないわけじゃないけど、毎日平凡なのが一番良いともわかってる。
(エルさんの目の色と同じ……)
じっと見ていると、彼は元気だろうかって思う。
あれから、彼は店に来ていない。学校に行くって言ってたけど、冬は休みのはずでしょ? もしかしたら遊びに来てくれるんじゃないかって思ってたんだけど、あの綺麗な姿は現れなかった。
その代わり、我が儘君の可哀想なパシリ君、カシミロ君は冬の間ほぼ毎日来た。やっぱり、あの我が儘な少年がうちのパンを食べたいって言ったらしい。
グランベルさんの店でも扱ってるって教えてあげたんだけど、どうしてもうちの店で買うんだって頑なならしく、カシミロ君も「慣れましたから」って言いなりなんだもん。
喧嘩をしたらいいとは思わないけど、嫌なことは嫌って言わないとね、カシミロ君。
でも、彼も再び学校が始まってからは来なくなった。毎日見ていた顔を見なくなるのは寂しかったけど、また夏になったら来てくれるって。
その時は、本人に買いに来させろっと言おうかな。
(あっと、忘れないように)
私は魔石をエプロンのポケットに入れる。できるだけ身につけておくようにって言われたから、このポケットの中が定位置だ。
本当はペンダントにしたり、お守り袋に入れたりするのが良いんだろうけど、まだ裁縫ができない私には無理だ。どうしてか、父さんと母さんにはこの魔石の存在を言えないから……どうして言えないのか、自分でも説明はつかないけど。
「よし」
私はもう一度そう言ってから部屋を出る。そして、ゆっくりと階段を下りた。一人で下りられるようになったけど、まだ一段一段、確認しながらじゃないと怖いから。
それでも、こうして一人で動ける範囲が広がったのはすごいことだし、嬉しい。
厨房に行くと、父さんはフランスパンもどきを焼いていた。
うちではまだ白パンは高い商品だから、売り上げは良いけど主力商品じゃない。ただ、フランスパンもどきも、以前とは少し硬さが変わった。自家製酵母を使うようになって父さんも試行錯誤しているらしく、私の知っているフランスパンよりも少し硬いってところまできた。
本当に、うちの父さんは研究熱心な人だよね。
「おと~しゃん」
「おう」
私が声を掛けると、父さんが軽く手を上げた。
まだオーブンは使えないみたいだから、先に店の方を手伝おう。
店にはもうお客さんがチラホラいた。朝食の時に見た焼きあがった白パンはもうないみたいだ。
「いらっちゃい」
「あら、リナちゃん、おはよう」
顔なじみのお客さんに挨拶をすると、向こうも笑いながら答えてくれる。
「今日もお手伝い? 小さいのに偉いわねぇ」
「えへへ」
この世界の子は小さいころから働いている子が多いので当たり前のことなんだろうけど、褒めてもらえるのはやっぱり嬉しい。
私は精一杯愛想良く笑いながらお客さんの相手をした。
それからしばらくはお客さんも入れ代わり立ち代わりいて忙しかった。
私にできるのは商品を並べることと、お客さんの話し相手くらいだけど、それでもいないよりは役に立っているようだ。
昼過ぎにはそのお客さんの数も落ち着いて、私は厨房の中を覗いて聞いた。
「と~しゃん、いちゅ?」
「そうだなぁ」
父さんはパンの売れ行きを見、それから母さんに声を掛ける。
「天気はどうだ?」
「そうねぇ、雨が降りそうな感じね」
小さな窓から外を見ながら母さんが言うと、父さんはうんうんと頷いてから言った。
「後一回焼いて、それが売れたら店は閉めよう。その後、しょくぱん、の、試作作りだ。手伝ってくれよ、リナ」
「あい! おてちゅだいしゅ!」
全力で手伝うつもりで元気よく手を上げたが、ちょっと言葉が詰まってしまった。
でも、嬉しいよ~、頑張ろう!
ようやく3歳。
まだまだ幼女です。




