閑話.ある兄の独り言。
「おぎゃぁ……っ」
ドアの向こうから元気な泣き声が聞こえてきた。
俺はハッと顔を上げ、隣で同じように祈っていた父さんを見上げる。
(うぁ……泣いてる……)
少し怖い顔をして、いつもは黙々とパンを作っている父さん。でも、たまの休みには森に連れて行ってくれて、獣を狩るのも木の実を取るのもすごく上手くて、俺にとっては完璧で強い父さんだった。
その父さんが泣いてる。もちろん、そんな姿は初めて見るし、俺は目を逸らしていいのか、それとも顔を拭く布を取ってきたらいいのかわからなかった。
でも、
「生まれたよ」
しばらく経ってドアが開き、手を拭きながらおばあさんが出てきた瞬間、父さんのことは頭の中からすっぱり消えていた。
「ねえっ、中入っていいっ?」
「ああ、可愛い女の子だよ」
「女の子っ?」
母さんはずっと、お腹をよく蹴るから元気な男の子よって言ってたのに、女の子なんだ……。
男同士なら、一緒に森に行ったり、俺の友達とも遊んだり、いっぱいやることがあっていいなって思ってたのに、女の子じゃ無理かもしれないな。
少しだけ落ち込んだ俺とは違って、父さんは素早く部屋の中に入っていった。あ、涙、そのままだよ。
慌てて後を追った時には、父さんは布に包まれた小さな赤ちゃんを抱いていた。大きな父さんが抱くと、赤ちゃんがものすごく小さく見える。
「見せて、見せて、父さんっ」
「ああ……可愛いぞ」
言葉だけでなく、蕩けそうに顔をぐちゃぐちゃにさせた父さんが、俺に向かって抱いている赤ちゃんを見せてくれた。
「……黒?」
すっぽりと布に包まれた赤ちゃんだけど、少しだけ髪の毛が見える。その髪の毛が今まで見たことがない黒い色だったことに驚いて、俺は思わず声を上げてしまった。
「月夜みたいな艶やかな髪だろう? きっと美人になるぞ」
人とは違う色に戸惑う俺と違って、父さんは手放しに赤ちゃんを褒める。そう言われると、黒い髪もすごく綺麗だなと思った。どんな目の色なんだろう? 目の色も黒だったら、すごく可愛いかも。
小さな鼻も、小さな唇も、どの赤ちゃんより可愛い。
「父さん、名前決めてるの?」
「ああ。女の子だったらリナって決めていた。お前の妹のリナだ、可愛がって、守るんだぞ」
「うん!」
こんなに小さくて、可愛い妹なんだ、父さんに言われなくっても守るよ!
「きゃぅ」
「うん、兄ちゃんもリナが好きだぞ」
リナが生まれてからしばらく経って、ようやく目が開いた。その目の色は髪と同じ黒色だったけど、すごく可愛くて人にはない色なんて気にもならなかった。
リナはあまり泣かない子で、俺があやしたらいつだって笑っているし、父さんや母さんが相手でも機嫌がいい。
「リナは風邪もひかないし、元気でいい子ねぇ」
夜も泣かないみたいで、母さんの調子もいいって。
リナが生まれてから、うちはいつだって笑い声が響いていた。
リナが1歳の洗礼式を終えて、少し父さんと母さんの様子がおかしかった。
リナは水の女神さまの加護を得たって言うから、すごく女の子らしいって思うんだけど……何かあったのかな?
でも、そんなおかしな様子も、しばらくすると消えた。
おしゃべりもよくするようになったリナは、俺のことが大好きみたいでいつも俺の方へ近づいてくる。
「リナ、兄ちゃんが好き?」
「あ~ぅ」
「兄ちゃんも、リナが大好きだぞ」
「きゃぁっ」
母さんは笑っているけど、俺はリナはちゃんと俺が言っていることがわかってると思う。こんなに小さいのに頭が良いなんて、さすが俺の妹だ。
俺は伸ばされた小さな手を握る。子供の俺の手にすっぽりと入るもっと小さなリナの手。父さんの守れと言う言葉が俺の中でどんどん大きくなっていく。
「リナ、リナは兄ちゃんが守るからな」
「あ~い」
意味がわかっていないはずなのに、リナは俺の言葉に合わせるように手を上げた。それがおかしくて、やっぱり可愛くて、俺はリナをギュッと抱きしめた。
2歳になったリナ。
もう、ヨチヨチと歩くようになった。よく笑うリナはますます可愛くなって、俺は早く友達にリナを見せて自慢したくなる。
ラウルなんか、兄貴ばかりだから兄弟はいない方が良いって言うし、ヴィンセントは姉さんは口うるさいから女姉妹は嫌だって言うけど、俺はリナに対してそんなこと考えたことないんだよなぁ。
確かに、話すようになって勉強しないとっていう感じに言われるけど、リナと話すのは楽しいし。ただ、勉強はあんまり好きじゃないけど。
そんな時、
「おいちー、しよ?」
リナはそう言って、変な料理を作った。材料はいつも食べるパンと卵、そしてミルクとバターと、甘い粉。これが砂糖だって後で知ったけど、リナは硬いパンを甘くて柔らかい、美味しいパンに作り変えた。
作ったのは俺だけど、リナ、どうしてこんな方法を思いついたんだろう? まだ赤ちゃんなのに、リナは時々俺よりもずっと大人びたことをする。
でも、美味しいものを考えてくれるのは大賛成だ。いつものパンが、あんなに柔らかくなるなんて……うぅ、また食べたくなってしまうよ。
ただ、父さんにはすごく叱られた。勝手に厨房に入ったことも、火を使ったことも。店の手伝いはしてるけど、俺はまだ厨房に入れてもらえないし……でも、リナはなぜか父さんと一緒に厨房で何か話してる。
そして、リナが白パンを作った!
作ったのは父さんだけど、これもリナが考えたんだって! 真っ白くて、ふわふわで、甘くて! 今まで食べたことがない、すっごく美味しいパン!
いいなぁ……俺も、何か作りたい。
俺は、将来父さんと同じパン屋になりたいって思ってる。でも、今までは父さんの味を守っていくと思っていたけど、少し違う気持ちが生まれた。リナが考えるいろんな美味しいパンを、俺も作りたいんだ。みんなに美味しいって言われる、ううん、俺自身が美味しいって思えるパンを作りたい。
あんなパンができるなんて考えてもいなかったけど、一度これを食べたらもう前の硬いパンは食べたくない。……ごめん、父さん。
その時はリナも手伝ってくれるといいな。
リナの白パンは、すごく売れた。
そのせいで、有名なパン屋のグランベルさんに作り方を教えてくれって言われて、父さんはすごく悩んだみたいだ。
もしも俺だったら、せっかく考えた作り方を他の人に教えたくない。だって、それは自分だけのものだろ? でも、父さんは違った。美味しいパンをいろんな人に食べてもらうために、グランベルさんに協力する気になったみたい。
リナも、最初はあまり気乗りしなかったみたいだけど、父さんの決めたことには何も言わなかった。
グランベルさんのところが白パンを作るようになったら、俺んちのお客さん、減らないかな。父さん、心配じゃないのか?
あ、でも、リナはただの白パンだけじゃなくて、いろんな種類のパンを使った料理を作ってくれてる。ベーコンを挟んだものや、卵を載せたもの、カツ?っていう、不思議で美味いものも、上手に白パンにはさんで……これが美味いのなんのって!
あ、《まよねーず》っていう不思議なソースも! あれって、何に付けても美味い! 俺、美味いってしか言えないけど、本当に美味いんだもん。
リナが生まれてから、俺は美味しいものばかり食べてる気がする。リナは可愛い上に、美味いものを呼び込む女神だよな! そんなリナが俺の妹なんて、みんなに自慢したくてしかたがないよ。
あ、そっか、ヴィンセントとパトリシオには会わせることができた。ラウルは近所だからもっと前に会ってたけど。
パトリシオは優しい奴だから、リナのこともすぐに受け入れてくれたけど、ヴィンセントはツンツンしてリナのことを無視しようとした。あんなに可愛いリナに冷たい言葉を吐けるなんて信じられない!
でも、森で怪我をしたリナを癒してくれたし、結局ヴィンセントは良い奴なんだよ。
父さんと、リナと、ラウルも誘って甘大蜂を狩りに行った。
秋の味覚であるハチミツ取りだ。すっごく甘くて美味しいし、甘大蜂も珍しいからリナに見せたかった。
でも、現れた甘大蜂は今まで見たことがないくらいでっかくて、俺は動けなくなった。ラウルもちょっと怖かったらしくて父さんの陰に隠れちゃって……リナに良いところを見せられなかった。俺、兄ちゃんなのに……リナ、ガッカリしていないかな。
情けない俺たちとは違って、父さんはあんな大きい甘大蜂の蜜壺をちゃんと切り取っていた。さすが俺の父さん! 初めて見る大きな蜜壺にはたっぷりのハチミツがあって、この冬の楽しみができた。
ただ、あの後の父さんとリナの様子が少しおかしかったんだよな。リナが甘大蜂を怖がるのはわかるけど、父さんは違うと思うんだけど……。
でも、家に帰ったら、父さんはいつもの父さんで。リナも、少しハチミツを舐めさせたら眩しい笑顔で喜んでくれた。
やっぱりリナは笑っていた方が可愛い。もちろん、泣いている顔も、拗ねた顔も、怒った顔も可愛いけど、笑顔は俺たち家族みんなを幸せにしてくれるから。
俺の妹、リナ。
可愛くて可愛くて、俺は妹って言う存在がこんなにも愛おしいものだってこと、初めて知った。最初、弟が欲しいって思ってたのが嘘みたいだ。
そこにいるだけでもいいのに、リナは俺に美味しいものを食べさせてくれる。いろんな不思議な料理を考える。
家族だから俺は食べられるけど、もしもリナがいなくなっちゃったら……いいや、そんなこと考えるのも嫌だ。リナはずっと、俺たち家族と一緒だ。
「に~ちゃ」
今日も、リナは可愛い笑顔で俺に駆け寄ってくる。まだヨチヨチした歩きだけど、真っすぐ俺だけを見て。
そんなリナをしっかりと抱きとめて、手の中の柔らかで小さな体を感じながら思うんだ。
俺の妹は、世界一可愛い!!
本編はこの後更新します。
また少し、時間が経ちます……少しだけ。




