03.家業がわかりました。
「腹減ったのか?」
「……あぅ?」
(誰?)
「それとも、おしっこか?」
「あぁ~うっ」
(乙女の大事なとこ見ないでよ!)
私は必死に手足をバタバタ動かしたが、情けないほど短い手足では抵抗するのもままならなくて、その後羞恥で悶えるほどの時間が過ぎ、私は涙目になりながら目の前の少年を睨んだ。
あれから、私はもっと《ここ》のことを知るために、アンジェ母さんとジャック父さんの話をよく聞こうと思っていた。
だけど、赤ん坊の体力と理性って、驚くほど無いのよね。アンジェ母さんの腕の中でゆらゆら揺さぶられている間に呆気なく寝てしまっていた。
気がついた時は部屋の中に一人。
二十歳のころの意識があるくせに急に不安になった私は大声で泣いた。もう、今思えばどうしてそんなに泣く必要があるんだと思うくらい、ぎゃあぎゃあと。
すると、ドアが勢いよく開き、誰かが駆け込んできた。
私はアンジェ母さんだと思っていたけど、目に映ったのは5、6歳の男の子だった。
「おしっこじゃなかったな。じゃあ、やっぱりお腹すいたのか?」
赤銅色の髪に、明るい茶色の目。その目が心配そうに私を見下ろしてくる。
「母さん呼んでくるな」
(ま、待って!)
引き留めようにも声は出ず、男の子は素早く部屋を出て行ってしまった。
(今の……もしかして、ケイン?)
うん、たぶんあの男の子が私の兄のケインだろう。
ちょっと落ち着きがないように見えたけど、妹の世話を積極的にしようというのは結構ポイント高い。
(でも、親子みんな髪の色が違うんだ……)
アンジェ母さんが栗色の髪に明るい茶色の瞳で、ジャック父さんの髪はくすんだ金色で目の色は緑色だった。この世界、遺伝ってないんだろうか?
でも、こうなったら私は自分の容姿が気になってきた。どんな髪の色、目の色なんだろう。
日本人でなければ金髪に青い目だってありえるけど、純日本人の私には違和感ありまくりかもしれない。
ここに鏡があればいいんだけど……あ、そもそも赤ん坊だから鏡を見ることも難しいか。
「お腹すいたの?」
しばらくして、アンジェ母さんが部屋にやってきた。その後ろにはさっきの少年がいる。
「今日はよく飲むわね」
そう言いながら抱き上げられ、胸元に顔を押し付けられたが、あいにく私は満腹状態だ。
顔を横に振ると、さすが母親、私の状況にすぐに気づいてくれた。
「お乳はいいみたいね」
「そうなの?」
「もしかしたら、一人で寂しくて泣いてしまったのかもね。リナ、お母さんはお仕事で下にいるけど、その代わりお兄ちゃんが一緒にいてくれるわよ」
あ、やっぱりこの男の子はお兄ちゃんか。
(よろしく、ケイン)
「あぅあ~あっ」
手を伸ばすと、アンジェ母さんが男の子―――ケインへと私の体を向ける。
「ほら、リナはケインと話したいみたいよ」
「リナが?」
ケインが驚いたように目を丸くし、じっと私の顔を見下ろしてきた。
アンジェ母さんと、ジャック父さん、そしてケインお兄ちゃん。それが、《今の私》の家族。あ、そこにベリンダお姉ちゃんがいるかもしれない。
私は自分に言い聞かせるように何度も心の中で呟いた。
以前の家族が懐かしくないわけがないし、突然知らない世界で目覚めてしまった不安はあるけど、私はここにいるのだ。
生きていくためには、飲み込まなくちゃいけないこともある。二十歳まで生きた記憶のある私は嫌でも納得するしかない。
「母さん、リナはもう病気治ったの?」
「ええ。ケインも看病ありがとう」
アンジェ母さんに褒められたケインが嬉しそうに顔を綻ばせる。ジャック父さん似なのに可愛いとか反則。
その後はまたアンジェ母さんは仕事に向かったけど、部屋の中にはケインがいてくれたので寂しくはなかった。
遊びたい盛りの男の子だから途中で部屋を飛び出すかもと思っていたが、案外責任感があるのかケインは再び母さんくるまで私と一緒にいて、いろんな話をしてくれた。
その多くはケインの生活圏の話だ。
幼馴染みの男の子の話とか、学校の話だとか。こちらから質問ができないので聞くばかりだったけど、話を聞く限りでは私の家はごく普通の庶民らしい。
あ、話の中で、家の商売がわかった。なんと、パン屋さんだ!
それを聞いた途端、私は心の中で『やっふぅ!』と叫んでしまった。日本人だからもちろんお米は大好きだが、それとは別に私はあんドーナツが大好きなのだ!
長い入院中、新しい楽しみもなかなか見つけることができなかったけど、家族が買ってきてくれるいろんなあんドーナツを食べるのはとても楽しかった。特に、こし餡ドーナツは神!
家がパン屋さんなら、きっとあんドーナツも作っているはずだ。万が一なくても、私が頼めば娘命っぽいジャック父さんは作ってくれるに違いない。
……そんなふうに、一気に高まった私の気持ちは、翌日あっという間にどん底に落ちた。
「あら、朝まではとてもご機嫌だったのにね」
アンジェ母さんが困ったように言うが、私は愛想笑いを向ける気力も起きない。まさか、まさかこんな形で私の希望を叩き潰されるとは思わなかったからだ。
(……菓子パンがないって……)
朝、朝食を済ませたアンジェ母さんの背中に負ぶわれた私は、初めて店に入った。どんなパンがあるんだろう、少しは味見させてほしいな、なんて考えたりもして。
でも、そこにあったのは私の記憶にあるような日本の店のパン屋ではなく、がらんとした部屋の中に長方形の机が五つ配置されていて、そこにたった二種類のパンが置かれているだけだった。
パンは短いフランスパンっぽい形と、アンパンみたいな丸い形のもので、注文によって切り分けをしていたが、中には何も……入っていない。そればかりかとても硬そうで、とても美味しいパンだとは言えなかった。
(ジャック父さん……下手なの?)
考えたくないが、パン屋としての腕が悪いんじゃないかと蒼褪めた。でも、店に来る客の話を聞いている限りではうちのパン屋は評判がいいらしい。
「ジャックのパンは柔らかいからねぇ」
「この間来た広場にできたパン屋、すごく硬くて飲み込むのに苦労したわ」
(……マジですか)
切り分けている時の様子を見れば、パンが硬いのはわかる。フランスパンよりもうちょっと硬いかなってくらい。丸パンなんか見た目が柔らかそうなくせに、細いのこぎりみたいな道具で切る様子を見て泣きそうになった。
(日本と、全然違う……)
私だって、全部が日本と同じだとは思っていなかった。……と、いうか、日本では食べられない種類のパンが食べられるという期待の方が大きかった。
それが、この硬いパン二種類だ。
「……あぅ……」
「どうしたの、リナ? 眠くなった?」
(眠いんじゃないの、悲しくて落ち込んでいるだけだよ……)
できれば今すぐにでも店を飛び出して、他のパン屋さんに行ってみたい。本当にあんドーナツがないのか、ううん、総菜パンや食パンがないのか確かめたい。
(……私、どうして赤ん坊なのよ……)
一人で歩くこともできず、話をすることもできない。
せめて、《佳奈》の意識が戻るのが4、5歳だったらって考えて、今さらどうしようもないと落ち込んだ。
考えてもどうしようもないことはある。
私は落ち込んだ気分のまま、店に来る客の姿を眺めた。
(……やっぱり、中世ヨーロッパって感じ……)
女の人は皆アンジェ母さんのような足首まであるドレスを着ている。でも、ドレスっていうより長いワンピースって言った方がいいのかな、華美な装飾はなく、色も地味な感じだ。
髪の色も目の色も、色んなものがあった。
一番多いのは茶髪に茶色い目だったけど、中には緑の髪や青い髪の人もいた。日本で見たらひどく浮くだろうけど、ここでは不思議と空気に馴染んでいる。
そこまで考えて、私はふと気づいた。
朝から昼近くまで、おおよそ二十人ほどの客が来たが、その中に黒髪の人物は一人もいないのだ。もちろん、まだまだ人はたくさんいるはずだけど、緑や青という、私にとっては珍しい色の髪の人がいる中で、見慣れた黒髪の人がいないというのは違和感があった。
以前読んだことのある本の中には、黒髪に黒い瞳は不吉だとかいうファンタジーもあったけど、現実問題として《ここ》ではどうなんだろう?
(あ~、鏡が見たい~)
鏡がないのなら、せめてあの窓ガラスに顔を映したい。
私は店の入口を見た。店は木造二階建ての一階なのだが、窓ガラスは入口の部分にしかない。たぶん、ガラスって高価なものなんだろうな。
「あ~」
私が窓を指さすと、ちょうど台にパンを置きにきたジャック父さんがにこにこと笑いながら頭を撫でてくれる。
「可愛いなぁ、リナは」
近くに来れば、ふんわりと美味しそうなパンの匂いがした。こんなに美味しそうなのに……あんなパンなんて詐欺だよ。
(だからと言って、私が作れるはずがないし……)
簡単なパンの作り方はわかるけど、材料が揃うかどうかわからない。そもそも、赤ん坊である私がパンを作ること自体無理だ。
私にできること。
まずは、寝返りをうつこと。
(うん、一番できそうなことってこれしかないよね)
寝返りができれば、お座りができるようになる。そうしたら、立つことだって……うん、コツコツ積み重ねるのが一番手っ取り早いかも。
アンジェ母さんの背中で、私はふうっと溜め息をついた。
ちなみに、お姉ちゃんだと思っていたベリンダという人は姉ではなく、うちのパン屋で働く豪快で明るい中年の女性だった。