34.次の商品を考え中です。
何回かの応酬の後、ようやく《マヨネーズ》という言葉が通じた。……良かった。
考えたら、日本じゃないので別にマヨネーズって言わなくてもいいんだろうけど、私の認識だとこれはマヨネーズ以外の何物でもないし。
とにかく、名前を知り、味を知ったグランベルさんは、晴れやかに笑いながら言う。
「今日、ここにきて良かったな。こんなに良いものに出会えるとは思わなかった」
「グランベルさん、本当にこれも登録を?」
「もちろんだ。ジャック、これはパンを革命的に美味しくできるはずだ。それならば、ちゃんとした権利を持っておいた方が良い」
グランベルさんは、白パンのレシピと共にマヨネーズのレシピも登録するべきだと言った。
私たちが心配した卵の菌のことも、ちゃんと対処できる方法があるんだからと。もちろん、自分の商売上の利益も考えた上でのことだろうけど、こんなふうに父さんに助言してくれるって言うのは本当に良い人なんだな。
(最初の、ダンディだっていう印象、間違えてなかったみたい)
私は二人の会話を聞きながら、自分はまったく関係ないって思ってた。商売のことはわからないし、子供の私が口を挟める話じゃないって。
でも。
「……リナ」
不意に、グランベルさんが私を振り返った。父さんから離れ、椅子に座って足をぶらつかせていた私は、いきなり名前を呼ばれて慌てて顔を上げる。
「マヨネーズと白パン……他に、何か考えているんじゃないか?」
げ。さすが商売人、二つとも父さんが考えたって言ったはずなのに、そこに私が絡んでいると直感で感付いたのかもしれない。普通なら2歳児がこんなことを思いつくなんて考えられないと思うはずなのに、そこは利に敏いと言うべきなのか。
でも、ここで認めるわけにはいかなかった。どんなにバレバレでも、父さんが私の存在を隠すって、守ってくれるって決めてくれたんだから、私も当然口を噤むよ。
「リナ、ちらにゃい」
「……」
「と~しゃんが、おいちーの、ちゅくりゅ」
私がそう言うと、グランベルさんは一瞬だけ複雑な表情をした後、そうかと言って笑った。
父さんとグランベルさんが連れ立って店を出ていくと、私は母さんを手伝って店の掃除だ。
もっとも、私が出来ることは限られていて、机を拭くのがせいぜいだった。
すると、しばらくして店のドアが開く。中に入ってきたのはカシミロ君だった。
「こんにちは」
相変わらずビクビクとした雰囲気は持ちつつ、それでもだいぶ打ち解けた控えめな笑みを浮かべている。
「……えっと……」
カシミロ君は店の中を見渡し、既に閉店準備を終えているのに気づいて困惑したように視線を彷徨わせた。
そういえば、昨日はパン屋の会合があるから昼から休みだとあらかじめ伝えていたけど、今日のことは昨日決まったから言っていなかったんだっけ。
「か~しゃん」
どうしようかと母さんを見上げると、母さんは厨房の中に入り、籠の中に入れたパンを持ってくる。
「ちゃんと用意しているわよ。今日もご苦労様」
「あ、ありがとうございます」
カシミロ君は、ちゃんと白パンを持って帰れることに安心したんだろう。わかりやすいほど安堵した表情になった。
(……あ、カシミロ君に教えてあげた方が良いんじゃないかな)
たぶん、上流階級であろうカシミロ君が下町のうちの店に来るのは、あの我が儘な少年の我が儘な言葉からだ。
そんなカシミロ君なら、下町のうちよりも北の広場に店のあるグランベルさんのところに買いに行く方が気が楽なんじゃないかな。白パンを売り出すまではまだ少し時間が掛かるだろうけど、情報として知らせておくのは悪いことじゃないはずだ。
そう思った私が口を開きかけた時、カシミロ君があのと話し始めた。
「しばらく、来られないと思うので……」
「え?」
母さんも私も驚いて声を上げる。
「うちのパンが何か……」
私はカシミロ君に何かあったのかと思ったけど、母さんはうちの方の問題を考えたらしい。すると、カシミロ君は慌てたように首を振った。
「王……主が、この秋に高等貴族院に入学されるんです」
ちょ、ちょっと、情報出し過ぎなんじゃない?
高等貴族院なんて、あの我が儘美少年が貴族だって言ってるも同然だよ?
「それで、寮に入ることになるので……」
「……それは、残念ね」
母さんは笑みを浮かべながらも、硬い口調で答えるという不思議なテクニックを使ってる。
ふ~ん、寮か。高等貴族院がどこにあるのかは知らないけど、全員が寮暮らしなのかな。寮暮らしなんて知らないから、ちょっと興味があるんだけど。
それに、入学式が秋って言うのも違和感。入学式って言えば春のイメージなんだけど、秋入学って欧米みたい。
(容姿も、私から見たら外国人だもんね)
思わず笑ってしまいたくなるのを抑え、私はカシミロ君を見た。
「しゃびちいねぇ」
「……そ、そう?」
「なかよち、ね?」
毎日律義に白パンを買いに来てくれているカシミロ君を、私は、ううん、私だけじゃなく家族も、好感を持って迎えていたんだもん。
少しは仲良くなったと思っているから、しばらく会えないと思うと寂しいんだよ。
(……あ)
カシミロ君のことを考えていたけど、ふと私は考えてしまった。
(学校で習うって言ってたけど……)
術語、高等貴族院ならすごく高度なものも教えてもらえそうな気がする。羨ましくてたまらないけど、無い物ねだりしてもしかたないもんね……。
「冬休みがあるので、また来ると思います」
「身体に気をつけてね」
「ばいばい」
「ありがとう。また、来ます」
カシミロ君は白パンを大事そうに抱えて店を出て行った。
大事なお得意様が1人減っちゃったけど、うちの店は相変わらず絶好調です。
商業ギルドに白パンとマヨネーズのレシピを登録した父さんは、休みの日毎グランベルさんの店に指導しに行っている。
始めはすぐにでも白パンを売り出したかったらしいグランベルさんも、実際に作り方がわかって考えを変えたらしい。酵母の種類や、パン作りも、じっくり腰を据えて勉強するんだって。
うちよりもずっと大店な店だから、使っているパンの粉も、牛乳も、卵も、バターも、全部ランクが上のものばかりだ。だから、きっとうちで作っているよりもずっと、美味しいパンが出来上がると思う。
それに、グランベルさんはレシピの登録時に優先権を獲得したらしい。
紹介者だけが持つその権利の期間は半年、その間はグランベルさんの店がレシピを独占できるんだって。その分、結構割高な契約料をうちにくれることになるんだけどね。
問題は、うちだ。
いくら住み分けができるとはいえ、うち以外にも白パンが作れる店が増えるんだし、次の売り物を考えた方が良い。
そう考えているうちに、待ちかねたものが届いた。
「リナ、出来たぞ」
「きゃあ!」
私は大きな歓声を上げ、店に入ってきた父さんの手に注目する。その手にあるのは二十センチくらいの長さに、十センチくらいの高さのある、長方形の金型だ。
「ちょくぱん! ちょくぱん、つくりゅ!」
そう、以前頼んでいた食パンの金型がようやくできたのだ。
正直に言って忘れかけていたけど、一気に思い出したよ。白パンが作れた以上、食パンを作ることも難しくはないし、白パン以外の武器を早く作ろうと思っていたはずなのに。
「これでパンを作るのか……」
今までは手で成型するだけだったので、父さんはこんな金型をどうやって使うのかまだ想像ができないらしい。
私としては、もう頭の中に山形の食パンが何個もできているよ。
「いまかりゃ?」
「今からは無理だ。グランベルさんのところが落ち着いてからだな」
「え~……」
割高な契約料を貰うからと、父さんは出来るだけグランベルさんに協力をするつもりらしい。
生真面目な父さんらしいけど、それってまさか半年じゃないよね?
とりあえず、しばらくは待たなくちゃいけないのか。
私は口を尖らせるけど、父さんの言っていることがわからなくもない。だって、いまだ白パンの売り上げは好調だから、父さんとしてはできるだけ数を作りたいんだろうし。
その上、グランベルさんの店に行くでしょう? そう考えたら、いくら私が作りたいからって、父さんに無茶は言えないよ。
「リナ」
父さんは不満に思っている私に気づいているらしく、抱き上げて目線を合わせてくる。
「我慢できるな?」
「……」
「リ~ナ」
「……できりゅ」
しかたない。実際に作るまで、作り方のシミュレーションをちゃんとしておこう。
白パンの時は初め二次発酵のことを忘れてたし、マヨネーズの時は卵の菌のことを忘れてた。私って、突っ走るとどこか抜けちゃってしまうみたい。
でも、貴重な砂糖の残りは本当に少なくなってきたし、安易に失敗はできないもんね。
「字を覚えたい?」
「あい!」
私は手を上げて答える。すると、目の前のケインは困ったように腕を組んだ。
「リナ、まだ小さいのに勉強したいのか?」
したいよ! 体が弱くて学校を休みがちだったせいで、私は学生生活に夢や執着がたっぷりある。
部活とか、恋とか、したかったなぁ……もっともっと、思い出が欲しかった。
だから、今勉強できる環境があったらっていつでも思ってる。
それに、今の私は色々書き残したいことがあるのだ。食パンを作るまでに、少しは字を覚えておきたい。
「でも……これ、持てるか?」
ケインが差し出したのは細長いペン……らしきもの。私の記憶にあるペンとはちょっと様式が違うみたいだけど、持つくらいなら全然簡単に……。
「……ありぇ?」
「な?」
「……」
(う……そ)
手が、小さ過ぎるのか、指が短過ぎるのか、ちゃんと持つことができない。これじゃ、文字を書くなんて出来ないよ~。




