33.菌には危険なものもあります。
父さんは初め匂いを嗅ぎ、目の高さまで持ち上げていろんな角度から見た。
「少し、酸っぱい匂いがするな。……リモンの匂いか?」
呟くように言ったかと思うと、ゆっくりそれを口に入れる。そして、
「……っ」
その目が大きく見開かれ、喉が大きく鳴るのが聞こえた。
「なんだ……これは……」
すごい衝撃を覚えたような声に、今までこんな調味料はなかったんだとわかった。確かに、私が母乳から卒業して食べるようになった食事の味付けは、ほとんど塩かバターだったもんね。
マヨネーズは材料も揃えやすいし、作り方も簡単だ。酸味を調整すれば、味も安定してできると思う。
(マヨネーズパンとか美味しいし、サンドイッチにも使えるし)
ツナマヨパンとか、ベーコンエッグパンとか。一気に広がった料理の幅に満足していると、父さんはもう一口マヨネーズを口にしながらしみじみと呟く。
「卵を生で使うなんてなぁ。こんなソース、誰も思いつかないぞ」
え? 卵、生で食べないの? まあ、パンが主食みたいだし、今までお米を見たことがないから、きっと卵かけご飯とか食べたことないんだろうな。
(……ん?)
そこまで考えた私は、ふと何かが頭を過った気がした。
生卵っていうキーワード……あ!
「ちゃりゅもにぇりゃきん!」
「リナ?」
入院中、食中毒で入院してきた人たちがいた。その原因がサルモネラ菌で、旅館の朝食に出た生卵が原因だって言ってたはずだ。
それに、マヨネーズを手作りした時、ハウスキーパーの殿村さんが、手作りのマヨネーズはその日のうちに食べきらないと駄目だって言ってたじゃん!
「えぇぇぇぇぇ~!」
(せっかく作ったのにぃ~)
このままじゃこれは売り物にならないよ。パン屋から食中毒患者が出るなんてありえないし。
「おい、リナ?」
私が悶えていると、父さんは匙を置いて抱き上げてくれた。
「リナ、どうした? これは失敗なのか? 父さん、すごく美味いと思うぞ?」
「と~しゃん……」
その言葉が胸に染みるよ、父さん……。味はね、私もまあまあだと思うんだよ? でも、食中毒が……それが怖くて、でも、作ったからには食べたくて、どうしようもない気持ちが行ったり来たりしちゃうんだ。
私は半泣きの状態で、一生懸命父さんに説明した。この世界に食中毒って言う病気があるのかどうかはわからないけど、ばい菌が体の中に入ってしまう可能性があるって訴えた。
すると、
「ああ……体の中に魔物が入るのか」
「ま、まもにょ?」
ばい菌と魔物って違い過ぎない? 私はとても同じものとは思えなかったけど、父さんにとって健康を害する=魔物ってことらしい。
「光の女神アルベルティナ様の加護があればな」
「ひきゃり?」
「光の加護の中には、無害化っていうものがあるはずなんだ。魔物や毒草の毒や魔素を解毒できるんだ。でも、光の加護を持つ者はかなり少ないし、そのほとんどは貴族だしな」
なに、それ、すごい! 光の加護ってそんな力があるんだ。
(あ、そういえばヴィンセントも持ってたっけ)
彼は加護は小さいとか言ってたけど、持ってるだけですごいんだな。
できれば私もその力が欲しいけど、無い物ねだりをしてもしかたがない。
父さんと話して、マヨネーズは一日で使い切ること。家以外の人間には食べさせないことを決めた。医療が発展しているかどうかもわからない世界だ、不安なことはしない方が良い。
私にとっては天国から地獄へと、忙しく感情が上下したその日の夕方、店を閉める準備をしていると、グランベルさんがやってきた。
「やあ、少し早かったか」
いよいよ白パンの作り方がわかるせいか、グランベルさんは上機嫌だった。店内をぐるりと見回し、厨房にいた父さんに軽く手を上げると、その目が母さんの後ろに引っ付いていた私を捉える。
「リナ、だったかな?」
うえっ、私の名前、知ってるんだ。
私は内心戸惑いながら、にっこりと笑って挨拶をする。
「こんちは」
すると、近づいてきたグランベルさんはその場に身を屈め、私と視線を合わせた。
すぐに父さんと出かけると思っていたのにわざわざ私に話しかけるなんて……少し警戒しながらじっとその目を見ていると、彼は目じりに笑みを湛えたまま言った。
「君の助言のおかげで、ジャックが白パンのレシピを公開してくれることになった。感謝する」
「うぇ……?」
私、助言ってしたっけ? 思い当たらなくて首を傾げると、グランベルさんの笑みが深まる。
「考慮するって、言っただろう?」
「……あ」
言われて、思い出した。グランベルさんが初めてうちの店に来た時、父さんを勧誘したんだっけ。あの時は父さんと内緒話をしたつもりだったけど、ガッツリバレていたんだ。
グランベルさんは私のおかげって言ったけど、私はただの幼児で、決めたのは全部父さんです。
ごまかす様に笑うと、髪をクシャっと撫でられた。
「お礼がしたいと思っていたんだ。何か欲しいものはないかな?」
「グランベルさん、娘にそんなことを……」
「これは私の気持ちだ」
父さんは遠慮しようとしたけど、グランベルさんはにこやかな笑顔ながら引かない。もしかしたら将を射んと欲すればってやつかもしれないけど、本気で私に何かくれようとしているみたいだ。
(ここで遠慮するのも子供らしくないかも……)
無邪気に安い菓子でもねだったら終わるだろうと思ったが、私はふと昼間の出来事を思い出した。
そう、マヨネーズのこと。菌の無い卵じゃないと……せめて殺菌してからじゃないと安心できないんだけど、それって、もしかしたらグランベルさんの店にはあるんじゃないかな。
貴族とも取引があるって言ってたし、大店なら店員に光の加護を持ってる人もいるかもしれないし。
「……たまお、ありゅ?」
考えたままするりと口を開いてしまった私に、父さんが慌てて厨房から出てきた。
「リナッ、あれはちゃんと話しただろう?」
口を閉じておけって無言の圧力を感じて、私は慌てて両手で口を覆う。
でも、こんな私たちのやり取りに何か感じたのか、グランベルさんは父さんじゃなく私に向かって話しかけてきた。
「卵のことだね? うちの店では卵や牛乳も扱っている。貴族向けのものもあるし、菓子も売っているからな」
「おかち!」
嘘っ、お菓子作ってるんだ! じゃあ、本当に菌を無効化できる人、雇ってるかも!
「おい、リナ」
父さんの声を聴きながら、私は必死に考えてみた。
父さんとも話したように、食中毒を起こしかねないマヨネーズをお客に食べさせるわけにはいかない。でも、殺菌が出来た上で作ったものなら、安心して商品にできるはずだ。
仮に、マヨネーズの作り方をグランベルさんに教えたとしたら? 大店なので量産できるかもしれないけど、マヨネーズを使ったレシピなら私の方が知っている。
私としては、マヨネーズは誰かに作ってほしい。日本でスーパーとかで簡単に買えたように、こっちでもどこかの店が調味料として売ってくれてもいい。それをどんなふうにして使うのかは、それぞれの腕の見せどころじゃない?
「と~しゃん」
父さんは私が何を言おうとしているのか見当がついているのだろう、難しい顔をして腕を組んでいる。
(でも、父さん。相手がグランベルさんで良かったと思うよ?)
同じパン屋とはいえ、うちとグランベルさんの店では客層が全然違う。お互いが売り上げを食い合うことはほとんどないと思うんだけど……。
私がじっと父さんを見上げると、視線を彷徨わせた後……大きな溜め息をつかれた。何だかすごく呆れられたみたい。
「……」
父さんは厨房に引き返し、すぐに木の器と匙を持ってきた。器の中には昼間作り、残ったマヨネーズがある。
「グランベルさん」
「……これは?」
グランベルさんは立ち上がり、父さんの持っている器を覗き込んだ。さっきまでの穏やかな雰囲気が一変したのが肌でわかる。マヨネーズのことは知らなくても、ううん、知らないからこそ、新しいものへの興奮と興味に目が輝いていた。
「……新しいソースです」
「新しい……」
躊躇うことなく匙を取ろうとしたグランベルさんを、父さんは咄嗟に止めた。
「先に言っておきます。これには生の卵を使ってます。でも、俺たちに卵の無害化はできないんで、もしかしたら腹を壊す可能性もあります」
「……ああ、だからか」
グランベルさんは納得がいったかのように私を見下ろす。
「うちで、無害化した卵を扱っているかどうか、知りたかったんだな?」
さすがだ。私は頷いた。
「構わない。食べさせてもらえないだろうか」
商人らしく、腹を壊す可能性より、新しいものを知りたい欲求の方が大きいのだろう。
父さんは私を見、その後黙ってグランベルさんに器を渡す。
私は父さんの足を掴んだ。
「と~しゃん、ごめんしゃい……」
いきなりとんでもないことを言い出した自覚はある。でも、安全に作れる可能性があるならって思ったの。
(それに、安全なマヨネーズが出来たら、こっちのものだよ。だって、父さん以上にすごいパン職人はいないし!)
「……これは……」
頭上で感嘆の声がする。
父さんが食べた時と同じような反応に、私は思わす笑ってしまった。すぐに、口を引き結んだけど。
「ジャック、これも君が考えたのか?」
父さんは一瞬だけ言葉に詰まった後、すぐにええと返事をした。
「これは、何というソースだ?」
「これは……」
また、父さんが口籠った。そして、その視線は私へと向けられている。
(……あ! 言ってなかったっけ)
マヨネーズって名前を言わないままだったことを思い出し、どんな名前が適当だろうかって考えてみる。でも、考えている時間はないし、私としては区別がちゃんとつくから、その名前を言おう。
「まにょねーじゅ」
「まにょ?」
えぇい! まにょじゃないから! 私の発音がおかしいって言うの? ……ちゃんと聞き取ってください。




