02.現状把握します。
「……けふ」
満足した。母乳がどれだけ身体にいいのか、ちょっと誤解が生まれそうな言い方だけど、私の体中に力が漲るのが実感できる。
「もういいの?」
「あ~」
いいよ、満足だよ。
私が満面の笑みで答えているのを感じるのか、目の前の女の人も嬉しそうに笑うのが見え、胸の中がほっこり温かくなった。
さて、お腹がいっぱいになった今、私はすぐにでも眠りたい。優しく背中を叩かれていると睡魔に襲われそうになってしまったが、このまま寝てしまうと非常にまずいだろう。だって私は、《ここ》のことを何も知らない。少しでも情報を集めて、考えなければならないことはたくさんあった。
まずは、私が誰で、ここがどこかという問題だ。
死ぬ前の私の名前は『南 佳奈』。《南かな?》なんて、からかわれることもしょっちゅうだった名前だ。
歳は二十歳で、大学には行っていなかった。本当は行きたかったけれど、センター試験期間中はずっと入院中で、そもそも高校だって出席日数がギリギリだった私に浪人生活を送る気力も体力もなかった。
容姿は、たぶん平凡。家族からは可愛いって言われていたけれど、人から美人だって言われたことはない。あ。可愛いっていうのは何度かあったけれど、私だって社交辞令というのは知っている。
染めることもできなかった髪は黒くて、目の色も黒。太れなかったので身体はガリガリ、胸も……なかった。
そんな私にとって、目の前の女の人の容姿は慣れない。明らかに染めてるって感じじゃなくて、本当に自然の色合いだから。
女の人の容姿から考えても日本でないのはわかるけど、だからと言ってここが地球上の、どこかの国だって言われても違うんじゃないかと思う。
それは、現代人としてはあまりに古めかしい服装から考えてのことだ。
(……どう考えたって、《今》じゃないし)
どちらかと言えば、歴史の教科書の中で見る中世ヨーロッパという雰囲気だ。
もちろん、私の知識がないだけで現代でもこんなドレスを着て生活する国があるのかもしれないけど。
私が少しでも話せれば尋ねることができたのに。
どう悔やんでも現状は変わらないと内心溜め息をついた時、新たな靴の音が聞こえてきた。目の前の女の人の時よりも大きく、どこかせっかちな感じの速足だ。
(誰だろ?)
他にもここに誰かいたのかと私が視線を移したのと、
「アンジェ、リナの様子はどうだ?」
そう言いながらドアが開くのは同時だった。
「あぅ……」
(誰?)
入ってきたのは、とても大柄な男の人だった。目測でしかわからないが、たぶん身長も2メートル近いんじゃないだろうか。
その身長に見合って体格も良く、袖をまくって見えている腕は丸太のように太い。
服は……あれ? 上半身から膝近くまで覆っている白いエプロンでよくわからない。でも、一見してシャツと長ズボンらしいのは見えた。
短く刈り上げた髪の色はくすんだ金色。目の色は緑色だ。
女の人の茶色い髪や瞳と違い、明らかに外国人だとわかる色。意識するとぞわぞわとして、私は温かな胸の中に抱かれているというのに少し不安になった。
「あら、ジャック、店の方はいいの?」
「今客が途切れたからな。ようやく熱が下がったばかりのリナが気になって様子を見に来た」
「元気よ。ちゃんとお乳も飲んでくれたし、ほら、顔の赤みも減っているでしょう?」
そう言いながら、女の人は私を男の人に見えるように抱きなおした。
「おぉ、元気そうだ」
見知らぬ大人の男の人に顔を覗き込まれ、私はさっきまで女の人に感じたことのない恐怖を覚えた。
女の人は《お母さん》って感じたけど、この人は誰?
「ふぇ、えっ」
恐怖の感情は、生理的な涙になって溢れる。
「えぐっ、えっ、えっ」
私が大声で泣き始めると、男の人はたちまち焦ったように一歩引きさがった。
「ア、アンジェ、ど、どうしたらいいんだっ?」
「あら、赤ん坊は泣くのが仕事よ」
「し、仕事って、そんなに悲しそうに泣いてるじゃないかっ!」
大声で言う男の人に、私はさらに泣き声を増す。本当は、焦っている男の人の顔を見てるうちに恐怖は小さくなってきたんだけど、いったん溢れてしまった感情はなかなか収まってくれない。
「うおっ」
さらに大きくなった泣き声に、男の人はますます顔を蒼褪めさせる。
……なにこれ、面白い。
「きゃっ、きゃぁ」
ついさっきまで泣いていたくせに、私は楽しくて笑ってしまった。すると、男の人は蒼褪めた顔色から瞬時に喜びに表情を変えていく。
「見たかっ? リナが俺を見て笑ったぞ!」
「はいはい。まったく、ケインの時は泣くのも仕事だと言って平気な顔をしていたくせに、リナの時はこんなにも過保護になるなんて。みんなが男親は娘には甘いって言っていたけど、あなたはそれが特に酷いわね、ジャック」
「リナはこんなにも可愛くて小さいし、アンジェに似て可愛いから当たり前だ。俺に似たケインは病気知らずな奴だし、最近我が儘坊主だろう?」
「あら、ケインだってさっきまでちゃんとリナの面倒を見てくれていた優しくていい子よ」
……さっきまで誰かいたんだ、知らなかった。
アンジェ、ジャック、ケイン。
アンジェがこの女の人、つまり私のお母さんの名前で、ジャックが目の前の男の人の名前ならたぶん、お父さんだ。俺に似たって言うんなら、ケインは兄さんか。
以前は弟がいたけど、お兄さんとかお姉さんが欲しいなって思っていたっけ。
我が儘坊主というのがどれほどのものなのかはわからないが、どんな兄なのか早く見てみたい気がする。
それにしても。
(……何だか、ごついけど)
佳奈だった時のお父さんはもっと細くて、柔らかな雰囲気だった。怒ることも少なかったし、病弱だった私をいつも気にしてくれて、よく本を読んでくれたりもした。
そんなお父さんと違って、ジャック……父さんはどう見たって肉体派だ。私の周りにはあまりいなかったタイプなので、どう付き合っていったらいいのかわからないが、とりあえず私はまだ赤ん坊なので考えなくてもいいだろう。
(でも、ジャックとかケインとか……英語の教科書に出てくる名前みたい)
私がそんなことを考えている間にも、目の前の二人の会話は続いている。
「私もそろそろ店に戻るわ」
「今日は休んでリナの側にいた方がいいんじゃないか? もしもまた熱が出たら大変だし」
「そうだけど……店、あなたとベリンダだけじゃ大変でしょう?」
「今日は雨で客が少ないから大丈夫だ」
(ベリンダ?)
また新しい名前が出てきた。ケインが兄なら、もしかしたらベリンダは姉なのかもしれない。
だけど、店の手伝いができるくらいなら、7、8歳にはなっているはずだし、それにしてはアンジェ母さんは若過ぎる。
(まさか、15歳くらいで出産とか……)
世の中には若くして結婚出産をする人もいるし、ねぇ。
(そういえば、ジャック父さんの仕事って何だろ?)
ジャック父さんだけ見れば肉体労働だろうなと思うんだけど、家族みんなでするのならもっと別な仕事だよね。
その仕事も知りたいし、名前が出ていたケインやベリンダという人たちにも会いたい。
「あぅ~うっ」
ねえ、二人を呼んできてもらうこと、できる?
「見ろ、アンジェ! リナが俺を見て笑っているぞ! はは、リナは本当に俺のことが好きなんだな!」
いやいやいや、違うから。
まだ好きとか嫌いとかの感情はないし、私は他の人に会ってみたいだけだから。
そう言おうにも上機嫌なジャック父さんがアンジェ母さんの手から私を奪う。
「ほら、リナの好きな父さんだぞ~」
「……」
ここは笑うべきか、それとも泣くべきなんだろうか。
泣いたら確実に混乱しそうなので、とりあえず笑っていた方がいいかもしれない。
「きゃっ、きゃぁっ」
「あら、本当に楽しそう。リナはお父さんが好きなのね」
そう言うアンジェ母さんは嬉しそうで、見ているだけで胸の中が温かくなった。
《私》という意識を持つようになって、ただ単に目の前の人たちを両親なんだろうなと認識していたつもりだけど、こんな短い間にまるで本当の家族のような感情が生まれるなんて想像もしていなかった。
(今はまだ、好きとか言えないけど……)
新しい《私》の両親が、こんなに優しくて暖かい人たちで良かった。
私は小さな手を伸ばし、無精髭の残るジャック父さんの頬をペシペシと叩いた。