26.ダンディなおじさまの来店です。
私は目の前の人物をじっと見る。
彼はそんな私を見て一瞬だけ目を細めたが、すぐに父さんに視線を向けた。
「白パンは売り切れたのかな?」
「はい。申し訳ありません、今日はもう作らない予定です」
「なるほど。一日50個というところか」
小さく頷きながら言う言葉に、私は驚いてその顔を見上げる。
(すごい、当たってる……)
当初、白パンは一日20個だけの販売だった。最初は高額で売れなくて、残ったとしても家族で消費できる範囲にしようと父さんが考えたからだ。
その後、口コミで徐々に買う人が増えてきて、白パンはすぐに売り切れるようになった。
私は単純にどんどん焼く数を増やせばいいと思っていたけど、父さんは砂糖の残量を考えて50個が限度だと言った。
その50個も、今では少なすぎるよと文句を言われる。お金持ちの人は加減を知らないから……まあ、それはどこでも同じだろうけど。
ただ、それを客には伝えていない。時間を計算されて買い占められても困るからだ。
(このおじさん……誰だろう?)
いつも来るような大店の使用人とはとても思えない、堂々とした佇まいに、私は少し警戒をした。
「もうここで、店を出して七年目だろう。十三歳からカサックのパン屋で下働きから始めて、二十歳で独立出来たのは君が勤勉だからかな」
つらつらと話す彼の言葉に私は驚いた。
最初は、どうしてこの人が父さんのことをそこまで知っているのかという驚きだったけど、次に父さんがそんなにも早く独立したことにびっくりした。
白パンを出す前も、うちの店はパンが美味しいって常連さんは言ってたけど、その話って単なるお世辞じゃなかったんだ。
(……あれ?)
独立したのが二十歳で、店を出してから七年ってことは……父さんって二十七歳ってことっ?
(さ、詐欺だよ……)
外見を見ただけでは四十近くと思ってた……。
どうでもいいことで混乱していたけど、次の彼の言葉に私はまたびっくりした。
「うちで働かないか?」
「え……」
父さんが、ううん、父さんだけじゃなくて私もケインも、驚いて目を丸くする。
今まで、白パンのレシピを教えてほしいという申し出はあったけど、父さんを勧誘する人は今までいなかった。
「私は北の広場前で店を出しているグランベルという。同じパン屋なら、名前くらいは知っているんじゃないか?」
「……はい」
えぇっ、父さん、この人知ってるの? 初対面みたいな顔してたから全然わからなかった。……あ、もしかして、パン職人関係でってこと?
それにしても、北の広場前に店を持ってるって、この人かなり大店の主人なんだ。
少し顔が強張った父さんの手を、私はギュッと握りしめた。
私にとっていつだって強い父さんが、誰かに対して卑下する姿なんて見たくない。
父さんは私を見下ろし、小さく笑ってくれた。相変わらず厳つい顔だけど、落ち着いてくれたみたいだから安心した。
「ありがたい話ですが、私はこの店を守らなければいけませんから」
きっぱりと言い切った父さんに、目の前の彼……グランベルさんは大げさに肩を竦めてみせる。
「そちらにとっても悪い話じゃないと思うがな。この店で売るには、あの白パンは美味過ぎる」
おぉっ、美味いだって! 大きなパン屋の主人にも認められたって、すごいよ、父さん!
「あのパンを使用人が買ってきてね。彼らがかなり騒いでいたから、私も譲ってもらって食べてみたんだ。……いやぁ、パンがあんなにも柔らかく、甘いなんてね。一口口にしただけで、私はこれが宝石よりも価値があると思ったよ。それで、たまたまいらした取引先の男爵家の方も興味を引かれて、失礼ながら食べていただいた。かなりお気に召していただいてね。恐れ多くも、王族の方々も口にしたことがない味だと大いに褒めていただいたよ。だが、そこで問題だ」
芝居げたっぷりに、グランベルさんはウインクをしてみせる。結構ダンディなおじ様だから、まるで外国人俳優みたいに見えた。
「お前のところでは作っていないのかと言われてね。貴族とも取引がある大店が、下町のパン屋に味で負けるとは情けなくないのか、と」
(うわ……やなお客さん……)
リナとして生活する中で、貴族となんてまったく関わってきていないから、その傲慢な態度に嫌な気持ちになってしまう。権力をかさに着るなんて最低だけど、ここはそういう世界なのかと改めて思った。
父さんも思うところがあるのか、グランベルさんに対して何も言わない。きっと、私以上にその言葉の重みがわかっているはずだ。
「うちでも、いろいろと調べてみた。だが、恥ずかしいことに、どうしてあんな白パンが出来るのか思いつかない」
そう言いながら、視線が厨房の方へと向けられる。
よ、良かった。中が見えるわけじゃないけど、酵母はいつもその日使う分しか持ち込まないので、見えたとしてもガラス瓶だけだ。
「その貴族の話は置いておいても、あの白パンを大銅貨9枚とは安過ぎる。下町相手の商売だからとその価格にしたんだろうが、これはもっと価値が高いはずだ。そうは思わないかね?」
「それは……」
「私なら、このパンに正当な価格を付けられる。相手は裕福な大店や貴族だ、どんなに高額でも買ってくれるだろう」
父さん、黙って考え込んでる。
(この人の言うことは正しいけど……)
でも、父さんは下町で売ることに意味があるって思ってるはずだ。
(お金があるところから取るって言うのは正しいことだけど……)
私は腕を組んで考える。
今まで通りにうちでもパンを売れて、でも他でも売ることが出来たら?
(私は、美味しいパンがたくさん食べられた方が嬉しいけど……)
でも、今の白パンは父さんが一生懸命試行錯誤して作り出したものだし、それをそのままポンって渡してしまうのは嫌だ。
父さんの権利をちゃんと保証してくれるって確約が取れる方法ってないのかな。
……ん?
この世界、特許ってないのかな?
特許を取れれば、特許の使用料も貰えるし……。
(どうなんだろ……。父さんは知らなそうだけど……この人は知ってるんじゃない?)
大店の主人なら、そのあたりの権利のこととかには詳しそう。でも、それを2歳の私が尋ねるのもおかしいよね。
酵母のことは、しばらくはわからないはずだ。でも、時間が経てば……甘さとか、ランゴの風味とかで、もしかしたら気づく人もいるかもしれない。
その前に、うちもちゃんと対策を取らないと。
「と~しゃん」
「リナ?」
私は父さんのズボンを引っ張る。それが屈んでほしいという合図だと気づいてくれたのか、父さんは大きな体を屈めてくれた。私はその耳に口を寄せる。
「こうりょ、しましゅ」
「ん?」
「こうりょ、しゅる、いって」
とりあえず一度、時間をおいてもらった方がいい。この場で答えを出すことはないはずだ。
私の言うことがわかったのか、父さんは数度目を瞬いて体を起こした。
「考えさせて、ください」
「考えてくれるのか」
グランベルさんの視線が、ちらっと私の方へ向けられる。私はできるだけ無邪気に見えるようにっこり笑ってみせた。
「わかった。良い返事を期待している」
グランベルさんが出て行って、自然と私と父さん、そしてケインの口から深い息が漏れた。
「き、緊張した」
うんうん、ケイン、その気持ちわかるよ。私も平静を保っていたつもりだったけど、今身体がバリバリとするもん。知らない間に力が入ってたってことだよ。
「ジャック……」
不意に、二階に続くドアから母さんが顔を出した。今の話は聞いていたのか、その表情はどこか不安そうだ。
ようやく白パンの販売が軌道に乗ったところで、妙な横やりが入ったと思っているのかもしれない。
それも、相手はうちよりずっと大きな店の主だし、本当なら勝負にならないよ。
「大丈夫だ」
母さんにそう言って見せる父さんだけど、その顔はやはり浮かないままだ。
大店が出てきたことで、結局レシピを取られるのだろうと諦めているようだ。ちょっと、父さん、今から戦わなくちゃいけないんだよ?
有利なのはうちなんだもん。
昨日は、結局遅くまで父さんと母さんは話し合っていたみたい。
翌日、私が起きた時も、二人は何となく硬い表情をしていた。
最近の日課で、私は朝父さんと一緒に厨房に入る。私自身は作業を何もしないけど、その日最初に焼く白パンの味見係だ。
なぜか、父さんは私の味覚に信頼を置いてくれているので、私も美味しいか不味いかをちゃんと伝えている。
「と~しゃん」
二次発酵を待つ時、私は切り出した。
「きのーの、おじしゃん」
「……リナは何も心配しなくていい」
私が最後まで言う前に、父さんは被せるように告げてきた。
「お前が考えてくれた調理方法だ、絶対に他の誰にも教えないからな」
「……」
何だか、すごい決意をしているみたいなんだけど……。
「ちあうの」
「違う? 何がだ?」
「リナ、じょーけん、ありゅ」
「条件?」
「しょう」
私は頷く。何事も初めが大切なんだよ。しっかり条件を付けて、こっちの得になるようにしたら、今回のことはそんなに悪い話じゃないと思う。
(大きな店なら、砂糖だって簡単に手に入るかもしれないし)
砂糖が無理ならサトウキビだって甜菜だって、伝手を辿って手に入れることができるかもしれない。
それだけじゃなくて、目的のあんドーナツを作るための小豆も手に入るかもしれない。
(パンパラダイスも夢じゃないかも……)
もちろん、父さんの気持ちだって大事だから、ちゃんとお互いの気持ちを話すことから始めよう?




