24.美味しいパンが出来ました。
前回忘れてしまった二次発酵。
これも、たぶんパンの大きさや材料で時間が変わるんだろうけど、一応三十分くらい待ったら良いかな?
待ち遠しくてたまらないが、今日は絶対失敗したくない。
私は父さんを見上げる。
「ひ、だいじょぶ?」
「ああ、いつもと同じ勢いだ」
あ、ここは温度って言わないんだ。
(オーブンも違う言葉で言ってたし……色々常識が違うなぁ)
この後上手く発酵したとしても、次はオーブンの火力と時間だ。全部が感覚だけというのはとても心許ないけど、この世界では普通なんだよね。
(今から思えば、日本って凄かったんだな……)
ボタン一つで、簡単に、失敗なくパンを作ることが出来た。それを特別なこととは思わなかったけど、今この立場になってみるとしみじみ感じてしまう。
昨日も、火加減はすごく難しかった。一番火に近い下の鉄板にのせたパンは少し焼き色が濃かったし……今日は一番下にはパンを入れないようにした方がいいかもしれない。
でも、あの空間は勿体ないよね……ん~、クッキーでも焼こうかな。あ、駄目だ、温度が違ったはずだ。
「もう終わったっ?」
焦ったようにケインが店に飛び込んできた。お使いで外に出ていたのだ。
「まぁだ」
「良かったぁ~」
厨房に入ってきたケインは、汗びっしょりだ。そんなに慌てなくってもいいのに。
「俺、昨日みたいな美味しいパン、初めて食べただろ? パンがあんなに柔らかくって甘いなんて初めて知って、それを父さんが作ったってことが、もう、すごくて!」
ケインはキラキラした目で父さんを見ている。ケインにとって父さんは憧れの存在なんだろうな。昔から、父さんみたいなパン職人になりたいって、よく言ってたし。
ケインなら、きっとなれると思う。結構器用だし、美味しいものに対する情熱は凄いし。
(今日のパンは、もっとずっと、美味しいんだよ)
昨日の改善点をちゃんと踏まえて、ここまでは完璧だと思う。手を洗いに行くケインを見送り、私は二次発酵をしているパンをじっと見下ろした。
頻繁に覗きたくなるのを我慢して我慢して。
「……ん」
……そして、約三十分。
ちらりと見た生地はさらに膨らんでいた。どうやらちゃんと二次発酵が出来たようだ。
「と~しゃん」
父さんは頷き、オーブンを開けて鉄板を入れる。三段目にも鉄板を入れようとしたが止め、私はじっと年季の入ったオーブンを見つめた。
(神様、お願いしますっ)
パンを入れてからは、父さんの独壇場だった。
真剣な眼差しで竈の火加減を見、焼き上がりを図っていた。
そして。
「よし!」
私は数を数えるのも忘れていたけど、父さんは確信をもってオーブンを開けた。
そして、一瞬中のパンの様子を見て、さっと鉄板を引き出す。
「わぁ……」
作業台の上に出された鉄板の上のパンは、うっすらと焼き目がついていた。でも、白パンって言ってもいいくらい、今までのパンの色とは全然違う。
今回は一番上も真ん中も、どちらも同じような焼き具合だった。ちゃんと火加減を調整していたらしい父さんを尊敬の目で見上げると、父さんは焼き立てのパンを一つ手に取った。
「……あちぃ?」
父さんはいろんな角度からパンを見ている。ねえ、私にも早くちょうだい!
「ほら、エプロンを出せ」
「あい」
もしかしたら、私の心の声が聞こえたんだろうか。
まだ熱いらしいパンを、私が広げたエプロンの上に置いてくれる。布越しでもその熱さを感じたが、私はまだ緊張を崩せなかった。
(問題は、味と柔らかさ……)
「……」
パンは私の指を柔らかく受け止めてくれる。昨日よりも確実に柔らかい。
(中は……)
私の両手ほどもある大きなパンを、ゆっくり……二つに割った。その途端湯気がほわっと出て、甘い匂いが鼻をくすぐる。
見た感じ、生地もきめ細かいようだ。ちゃんと空気の層もあって、捏ねが十分だとわかる。
私はじっとその白い生地を見ていたが、思い切ってはむっと口に含んだ。
(う……ん)
「ん……やら、かぁ……ぃ」
昔は、美味しいパンをいっぱい食べた。でも、今この瞬間に食べた白パンは、私が今まで食べたことがないほど甘くて、柔らかくて……美味しかった。
「ぅ……ぐ……あ……む」
やだ。お腹いっぱいこのパンを食べたいのに、息が上がってなかなか食べられない。
エプロンに水滴が落ちて、私はようやく、自分が泣いていることに気づいた。パンくらいで泣くなんて情けないけど、本当に美味しくて、幸せで、この1年間求めていたものがようやく手に入った幸せに、涙が止まらなかった。
「うわ! 何だよ、これ! 昨日のより柔らかい!」
隣でパンをほおばったケインが、興奮して叫んでいる。
そして、目の前では、パンを千切って口にした父さんが、愕然とした表情で手にしたパンを見ていた。
「これは……」
人って、驚き過ぎると言葉が出ないよね。でも、その表情で私にはわかった。父さんは凄く驚いて、そして感動してくれている。パンがこんなにも美味しくできることを知って、興奮しているんだ。
(……良かった……)
家族に美味しいパンを食べさせたいという私の願いは叶った。
実際、材料は人の好意のものだし、作ったのは父さんだけど、私はすごく満足だ。
やっと半分を食べ終え、私は残りの半分を口元に持っていく。
その間、父さんとケインは早くも2個めを食べ始めていた。
自家製酵母を使って作ったパンは大成功だった。
もちろん、この先もっと材料の比率もちゃんと調べて、もっと完璧なパンを作ることもできると思う。
白パンが作れるのなら、今度は食パンとかにも挑戦できるし、生地作りが安定したら総菜パン……私の大好きなあんドーナツだって作れるかもしれない。
叶うかどうかわからなかった夢が、ようやく現実に手が届くほどのものになってきた。人間、努力をしなくちゃいけないね。
あれから、母さんも呼んでパンの試食を続けた。
母さんも、昨日とは段違いに美味しくなったパンに目を瞠り、父さんに抱き着いて頬にキスしていた。
うちの両親、すごく仲良いんだよね。
そして、父さんはもう一度パンを作った。
一度目の手順を忠実になぞって出来たパンは当然成功で、どうやら父さんはコツを掴んだらしい。
発酵の合間に夕食は済ませて、私はパンの焼き上がりまで確認したが、二度目のパンをオーブンから取り出し、その出来上がりを見た父さんは、厨房の椅子に私を座らせた。
「……リナ、これがお前の作りたかったパンだな?」
「あい」
私は強く頷く。すると、父さんは腕を組み、しばらく目を閉じた後、身を乗り出しながら言った。
「これは、俺たちだけの調理法にしたら駄目だ。こんなに美味いもの、俺は……みんなに食べてもらいたい」
父さんらしい。美味しいものを人に食べさせたいなんて、根っからの職人なんだね。私はもう少し俗物的で、売って儲けたいって思うけど。
こんなに美味しいもの、誰だってお金を出してでも食べたいだろうし、食べたい人がいるんなら、それだけ売れるってことだよね。
「……リナ、お前の砂糖、使わせてくれ」
「しゃとー?」
唐突に言われ、その意味がわからなくて首を傾げる。砂糖はお地蔵様に貰ったようなもので、そもそも私のものじゃないし。
(父さんが使った方が絶対に美味しいものが作れるだろうし)
「どーじょ」
私がすぐに頷くと、父さんは眉間に皺を寄せた。
「簡単に頷くな。あれはお前のものだし、お前の財産だ。簡単に人にやるもんじゃない」
人って、父さんだもん。
「すぐには無理だが、儲けて同じ金額か、同じ量の砂糖を返すようにする。まあ、少し時間が掛かるとは思うが……」
……真面目か。
親が子供のものを使うのなんてよくあることでしょ。でも、きっとそう言うことで父さんのプライドが守られるのかもしれない。うちの父さん、子供のものを取るなんて考えもしないんだろうな。
「あい、どーじょ」
「リナ……」
「おいちーの、ちゅくりゅ」
(もちろん、私も手伝うよ)
胸を張って言うと、父さんはふっと表情をやわらげた。元々が厳つい顔だから一見すると怖いけど、どこか力が抜けたような表情だった。
「ありがとな」
「と~しゃん」
「美味いの、作るぞ」
それからは大忙しだった。
量を作るために酵母を増やすことになって、また砂糖とガラス瓶を物々交換した。
ランゴの風味が甘くて良かったし、長い間安定して市場に売られるので、酵母の素の果物はそのままランゴで、砂糖と水の比率は5種類を全部使って比べてみて、二番目に砂糖の量が多い比率で酵母を量産することにした。
日中の店の仕事の後、父さんは何回も新しい手法でパンを作り、それをこっそり知り合いや常連さんに配って意見を募っていた。
当然、みんな初めて食べる白パンの甘さと柔らかさに驚愕し、いつ売り出すのかと騒然となった。
そこで一番困ったのは売値だ。
高価な砂糖で作った酵母菌を使用しているだけに、今まで通りの値段ではとても売れない。今はタダで手に入った砂糖があるが、それがなくなれば自分で購入しなければならないのだ。
ただ、庶民が食べるものを法外な値段で売ることはできない。
父さんと母さんは毎日話し合って、結果的に今のパンの三倍の値段で売ることになったらしい。
値段のことはわからないけど、父さんの知り合いの大店の主人のアドバイスだったって。そのくらいの値段でも、皆買うだろうとのこと。
初めて白パン作りに成功してから三十日後。
うちの店で自家製酵母を使った白パンが発売された。




