22.理想と現実は違います。
もう少しで、柔らかいパンができる。
あ~、ドキドキしてきたよ。新しいものを作る時って、こんなにも胸が高鳴るものなのかな。
私は父さんを見上げる。父さんは最初こそすごくびっくりしてたみたいだけど、その驚きが去った今は真剣な目で生地を睨んでいた。
「これは……どうしてこんなふうに大きくなってるんだ? 量が増えたのか?」
量が増えたっていうか……確か、炭酸ガスを生地の中に閉じ込めて十分に膨らんだ状態、だったっけ。
私は簡単に発酵、発酵って言うけど、いざ言葉で説明しようとしても難しいものだとしみじみ思う。
ただ、この寝かせるという工程はすごく大事だし、意味がわからなくても《しなければいけないこと》だと覚えていてもらえたらいい。
私は父さんに見せつけるように、人差し指で生地に触れる。
「うひゃっ、やらかぁ~い」
俗にいう、耳たぶくらいの柔らかさって、やつ?
(たぶん、これでいいと思うんだけど……)
「と~しゃん、まりゅ、まりゅ」
「あ、ああ、そうだな」
生地の表面が乾いてしまわないうちに成型しなくちゃ。
私が促すと、父さんは我に返ったかのように生地に手を伸ばした。
「!」
その感触に一瞬動きが止まったが、すぐに手は動いて生地を千切っていく。
今回は初めて酵母を使うので、万が一失敗した時のことを考えたのか、父さんはいつものパン作りの三分の一くらいの量で作っているみたい。ちょうど、テニスボールくらいの塊が十個できた。
父さんはそのままそれをフランスパンのように細長く成型しようとしたが、私のイメージではそうじゃない。
「と~しゃん、まりゅ」
「……丸パンにするのか?」
「あい!」
私は塊を一つ手に取り、手の中でくるくる丸める。
(丸い白パン……ふふ、楽しみ~)
私の小さな手では上手く丸まらず、オーブンに入れるための鉄板の上に乗せられたものの中では一番歪な形だった。それでも、私は自分の手でここまでできて大満足だ。
「よし、天火に入れるぞ」
父さんが天火というオーブンは鉄製の箱型で、中は三段になっていて、小さな竈の上に設置してある。そこに火を起こし、箱全体を熱してパンを焼くのだ。
そこで大切なのは火の神の加護で、それがあると上手く炎を調節し、オーブン全体を均等に温めることが出来るらしい。だから、パン屋や食堂など、火を扱う人間は火属性があると良いと言われていた。
そのことを知って、ケインがあれほど火の神の加護があると喜んでいた意味がわかったくらいだ。
「……」
私はじっとオーブンを見つめる。オーブンの扉も鉄製なので、中が見えないのが不安だった。
(タイマーもないし、いくら火加減を調整できるって言っても温度も目に見えるわけじゃないし……)
焼き加減の調整は職人の感覚と言われても、私にはまったくわからない。
200度で、15分……くらいかな。
それだったら、私が900数えればいいってことか。
そこでいったんオーブンを開いてみて、焼き加減が足りなかったらもう少し時間をかけてみたらいいかもしれない。
(1、2,3、……)
(……895,896,897,898,899,900!)
「と~しゃん!」
私はパッと父さんを見上げる。一緒にオーブンを見ていた父さんは私を見下ろし、小さく頷いてからオーブンを開けた。
(白い!)
ちらりと見えるパンは、いつものフランスパンもどきや丸パンとはまるで違う色だ。
私は興奮して身体がウズウズするが、火の側で踊るわけにはいかない。それでも早く早くと急かし、父さんがオーブンの中にある鉄板を鉄鋏で掴んで外に取り出した。
「わぁ……」
取り出された三つの鉄板のうち、火に一番近いものは少し濃いキツネ色になっていた。真ん中の板のものはうっすらと焼き色がついたくらいで、一番上のものは私が知る白パンの色に酷似している。
「できた!」
私は万歳と両手を上げて、我慢できずにその場でくるくると回った。
「パン! パン! おいちーパン!」
思わず節をつけて歌うくらいに浮かれて、私は父さんの足にしがみつく。
「と~しゃん、おいちーの!」
「……ああ、初めて見る色だ……」
父さんにとってもこのパン作りは初めて尽くしのもので、その結果を目の前で見ていろんな感情を噛み締めているようだ。その目がうっすらと潤んでいるのは、私の気のせいじゃないだろう。
「リナ」
ようやく込みあげた感情を抑えたらしい父さんが、真ん中の鉄板のパンを手に取る。
「……熱いから、少し待ってろ」
う~、目の前にあるのに、早く食べたいよ~。
私は始め両手を差し出したが、父さんは熱いからとなかなか手渡してくれない。素手じゃなかったらいいのかも……そう思い、今度はエプロンを掴んで広げた。
「ここ、ここ、おいて」
「……食いしん坊だな」
「だってぇ」
もう1年も待ったんだもん。少しくらい熱くったって全然OKだよ。
父さんは笑いながらエプロンにパンを乗せてくれた。私はウキウキしたままエプロンでパンを掴み、ゆっくりと口を開けた。
……え?
「リナ?」
私を呼ぶ父さんの声が聞こえるけど、すぐに返事をすることができない。
(ちょっと……これ、違うんだけど……)
確かに、柔らかい。この世界で食べたパンに比べたら断然柔らかいが、私の感覚では少し柔らかめのフランスパンくらいだ。ほのかな甘さはあるものの、中は少しパサついている。外見白パンの、中身フランスパンなんて……詐欺だよ。
私は落ち込んだ。てっきり、完璧に想像通りの柔らかな丸パンが食べられると思っていただけに、完全に裏切られた気分で泣きたくなった。
「と~しゃん……」
父さんは私にパンを渡してくれた後に自分も真ん中の鉄板のパンを手に取り、その感触に目を瞠っていた。次にパンを割ってまた手を止め、ゆっくりと口に含んで……目を閉じた。
父さんの表情からは、美味しいとも不味いともわからない。でも、私にとってこのパンは明らかに失敗だった。
(……はぁ)
これが物語なら、一度で美味しいパンを作れるはずなのになぁ。現実はそう上手くいかないのか。
「美味しい!!」
「うひゃっ?」
落ち込んでいた私は、突然上がった声にビクッと肩を震わせた。
「に~ちゃ?」
いつの間にか、ケインはパンを食べていた。割かずに丸ごとかぶりついたパンはもう残りわずかになっていて、目の前で次のパンを掴んでいる。
その目は爛々と輝いていた。
「リナ、これ、すごく美味い! 少しだけ焼き目がついた外側は香ばしいし、焼き立てのパンはいつもいい匂いがするけど、これは甘いランゴの香りがちゃんとしてるよっ。口当たりがよくて、口の中がパサパサしないし! それに、中、すっごく白いよなっ?」
「う、うぅ」
ケインの勢いに押され、私は思わす口元が引き攣る。
「どうしてこんなに柔らかいんだ? リナが作ったあの変な水を入れたから? でも、柔らかいだけじゃないんだよな、ちょっとサクってしてて……」
怒涛の勢いで感想を言われ、私はどうしていいのかわからない。私にとっては失敗にしか思えないパンなのに、ケインにはこれが美味しく思えるってこと?
柔らかさや美味しさの基準がまだよくわからないけど、これで合格なんて悲しすぎる。もっともっと、改良点はあるはずなんだもん。
「ああ、確かに、美味い」
2個めを食べ始めたケインを呆気にとられて見ていた私は、父さんの声に顔を上げた。
父さんは目を閉じて味わっていたみたいだけど、私の視線に気づいたのかこっちを向いてくれる。その目には明らかな興奮の色が見えた。
「お前がわけのわからないものを作って、それが美味しいものだと言っていても、父さん、本当はあまり本気にしていなかった。ただ、頑張るリナが可愛くて、好きなようにさせようと思っていたんだ」
そ、そうだったの。
まあ、確かに2歳の幼児が言うことを真面に捉える方がおかしいけど。
「でも、こうして作ってみて、俺は自分のパン作りを見直さなきゃいけないと思った。リナの言う方法を試せば、もっと美味しいものが作れることがわかった……リナ」
「きゃぁっ」
父さんに抱き上げられた私は慌てて首にしがみ付く。
「お前は俺の女神だ! ありがとうっ、リナ!」
それは褒め過ぎだってば。
実際に酵母を作ったのも、パンを作ったのも父さんだ。私はただ、少しだけ《佳奈》だった時の知識を伝えただけ。……でも、結局、完璧なものじゃなかった。
(また、やり直さないといけないのか……)
今使った酵母は、5本あった瓶の中の真ん中。砂糖と水の割合も真ん中のもの。柔らかさを追求するなら、もう少し砂糖を多く入れた後の2本を試してみないと。
それだけじゃない。パンを捏ねる時に加える酵母の量も変えて試して、あ、オーブンの温度も調整しないといけない。試さないといけないことがたくさんで気が滅入るけど、ここまできて諦めるわけがないでしょ。
絶対に、みんなに柔らかな白パンを食べさせる!
「と~しゃん、ちゅぎ!」
「え?」
「ちゅぎ、こねこね!」
ぼうっとしている時間はないよ、父さん。せっかく酵母が出来たんだし、早くちょうど良い量と火力を探そうよ。
私が酵母の入ったガラス瓶を指さすと、父さんは、ははっと豪快に笑った。
「お前の方が職人みたいだな」
「りな、パンやしゃん!」
後継ぎはケインでも、私だって結婚せずにパン屋で働くんだもん。
「に~ちゃも、おてつらいちて」
「もぉへもぉ?」
口いっぱいパンをほおばっているケインを見て、私は呆れて息をついた。
誤字報告、ありがとうございました。
修正しました。




