13.共犯者に兄を選びました。
店のドアが開いて、待ちかねた姿が飛び込んできた。
「ただいまっ」
「か~り!」
元気にお迎えの言葉を告げた私は、勢いよくケインの腰に抱き着く。
私が2歳になるので、ケインも今年8歳。体格の良いケインの胸にも届かない身長の私が抱き着いても、ケインはふらつくこともなく受け止めてくれた。でも、こんなふうに私が迎えに出るのはなかったので、驚いたように目を丸くしている。
「リナだけ? 母さんは?」
今日、会合で店が休みだと知っているケインは、母さんの姿を探してキョロキョロと辺りを見回している。
「か~しゃん、あかちゃ」
「あかちゃ?」
「ま~しゃ、あかちゃ、おねがいって」
あぁ~、もどかしい。母さんはマーサのお嫁さんの出産を助けに行ってるんだって、たったこれだけ言えば意味は通じるのに。
でも、妹愛が強いケインは、こんな短い単語でもちゃんと意味を悟ってくれた。
「ヘンリク兄ちゃんのお嫁さんが、確かもうすぐ赤ちゃんが生まれるって言ってたっけ。母さん、手伝いに行ってるのか?」
すごい! そのものズバリの答えに私は大きく頷いた。
「でも、リナを一人にするなんて……」
父さん似の心配性を発症したらしいケインがブツブツ言っているが、違うよ、ケイン、今がチャンスなんだよ。子供だけで厨房に入れるなんて、父さんと母さんの不在の時しかないんだから!
私はケインの手を両手で掴み、グイグイ店の奥へ歩いていく。
「リナ?」
始め、私が何をするのかまったくわからないふうだったケインも、向かっている先が厨房だとわかると焦ったように足を止めた。体格差のせいで動けなくなった私は、ムッとしてケインを振り返る。
「に~ちゃ、はやくっ」
「勝手に厨房に入ったら怒られるぞ? ……リナは怒られないかもしれないけど、俺は絶対拳骨を食らう」
拳骨くらいで諦めちゃ駄目だよ! 私はケインにその気になってもらうため、一人で厨房のドアを開ける。
「ん……しょっ」
重いけど、身体全体を使えば開けられないことはない。
「リナッ」
すると、都合の良いことにケインが後を追ってきた。ふふ、一歩入ってしまえばこっちのものだ。
私は上機嫌でぽてぽてと歩き、パンの粉が置いてある麻袋の前に立つ。そこには普段置いてある麻袋とは明らかに違う、肌理の細かい綺麗な麻袋が並べてあった。
これは、例の砂糖が入っている麻袋だ。父さんは私のものだと言ってくれたけど、部屋に置くわけにはいかないので、厨房で保管することになったのだ。
「それ……」
ケインは不思議そうに見慣れない麻袋を見ている。初めて見るんだもん、不思議だよね。
砂糖を手に入れたことはケインには言っていない。内緒にするつもりはなくて、単に切っ掛けがなかっただけだ。
「に~ちゃ、おねあい」
口を縛っている紐を解いてほしいとお願いすると、ケインは少し迷った様子だが手を伸ばしてくれた。見慣れぬ麻袋の中身が気になったんだろう。
「え……白い?」
パンの粉も白いけど、砂糖の白さはまったく別だ。
目を瞠るケインを見て笑い、私は人差し指を少しだけ舐め、そのまま砂糖に突っ込んだ。うん、あまり褒められた行為じゃないけど、この甘さを早くケインに知ってもらいたいんだもん。
ケインは私の行動を見、また麻袋を見るということを何回か経て、恐る恐るといったふうに砂糖に指をつけた。少しだけ指についたものを躊躇いながらも口の中に入れて……次の瞬間大きく目を瞠る。
「……!」
今度は躊躇う様子もなく砂糖を指につけて舐め、またつけて舐め、またつけて……って、何回繰り返すの、ケイン……。
私はまた指をつけようとしたケインの手を掴んだ。
「……リナ?」
ようやく、ケインは私の存在を思い出したらしい。
「これ、何だ? こんなに甘いの、初めて食べた……」
果物ともハチミツとも違うよね? うん、わかるよ。これ使って、美味しいもの食べようね?
私はケインに言った。
「に~ちゃ、しゃとー」
「しゃとー?」
「おいちー、しよ?」
時間はない。父さんはまだ帰らないだろうけど、母さんは産婆さんがきたら一度は絶対戻ってくるだろう。その間にフレンチトーストを作らないと、私の美味しい食生活も、父さんと母さんへのサプライズも遠のいちゃうよ。
一度だけしか見なかったが、父さんがどこから何を取っていたのかは知ってる。
私は作業台の横にある棚から木の器を取ると、それを麻袋の置いてあるところまで持ってきて床に置いた。そして、次は砂糖を片手にすくってそれに入れる。
「お、おいっ、勝手に使ったら怒られるぞっ?」
砂糖が何かはわからなくても、本能的に高価なものだと悟ったのだろう。
ケインはすぐに止めようとしたが、これは私の砂糖だ。私は気にせず器を運ぼうとした。
(お……重い……)
粉って、見た目より重いんだね。持ち上げることはできそうだけど、それを作業台に乗せようとしたところで絶対に落としてしまう。
私はちらりとケインを見上げた。
「に~ちゃ、おねあい」
「お、お願いって、でも、父さんが……」
「おいしーの、ね?」
「うぅ……」
ケインは、父さんに怒られるかもしれない恐怖と、私が砂糖を使って何かしようとしていることへの期待の狭間で揺れている。
ここはもう一押しだ。
「ほっぺ、おいちーよ。しゃとー、あまーいの」
頬っぺた落ちるほど美味しいものが食べられるよ?
満面の笑みで誘惑すると、ケインがこくんと唾を飲み込んだ。
自分がしてほしいことを、的確に説明するのは本当に難しい。
でも、そこはケインの妹愛と、私の美味しいものが食べたい欲求の強さで乗り越えるんだ!
「たまも」
フレンチトーストに必要なのは、パンと卵にバター、そして牛乳と砂糖だ。パンは棚に今日食べる分があるけど、牛乳と卵がどこにあるのか私は知らない。
「たまも?」
「こっこの、たまも」
「あ、卵か。それならこっちにある」
どうやら美味しいものへの好奇心が勝ったケインは、振り切ったように軽い足取りで戸棚の真ん中の扉を開く。そこには食卓で見慣れたケトルがあった。中身は牛乳だ。
冷蔵庫のないこの世界では、食材を腐らせないために毎日買い物をするしかないらしい。だから、パン屋に来るお客も毎日結構な人数いる。
その横には、籠に入った卵が四個あった。この卵は、近所の人からパンと交換で貰ってくるんだって。物々交換がまかり通っているのも不思議な感じがするけど。
牛乳が入っているケトルは、見た目はブリキでできているみたいだけど……何製なんだろ? っていうか、こんなとこに牛乳とか卵とか入れて、本当に大丈夫なんだろうか?
おっと、今考えるべきはこんなことじゃない。
「リナ?」
「パンも」
「パンもいるのか?」
「こえくりゃい」
私は親指と人差し指で1センチくらいを示した。本当はもっと厚くてもいいかもしれないけど、この世界のパンの硬さがどれくらいで柔らかくなるかわからないし、最初は少し薄めくらいがいいと思う。
私用に2切れ、ケインは3切れ、フランスパンもどきを切る。
(よし、後は全部混ぜて……)
私は大きめの木の器に牛乳を流し込み、そこに卵を入れるようにお願いした。
「……食べられないぞ?」
こんなふうな食べ方が初めてのケインは、そこで完全に手が止まってしまう。初めての方法は戸惑ってもしかたないけど、頑張れ、ケイン。すぐそこに美味しいパンが待っているんだよ?
「ぐ~るぐ~る」
「リナ……」
「に~ちゃ、ぐ~るぐ~る」
信じて、ケイン。絶対美味しいから。
両手を握りしめてじっとケインを見上げていると、ケインは諦めたような溜め息をついて牛乳の中に卵を二つ、割り入れた。そして、木べらでグルグルかき混ぜる。
(そっか、泡だて器も菜箸もないんだっけ)
泡だて器はもしかしたら売っているかもしれないけど、箸は作った方が早いかもしれない。食事は基本的にフォークとスプーンだけなので、この世界の人はきっと馴染みがないだろう。
何か一つ新しいことをしようとしても、まずその前の準備段階が大変だ。
(フレンチトーストは結構簡単に作れるけど……)
私がこの先の食生活改善を考えている間も、ケインは律義に卵と牛乳を混ぜてくれていた。
(そろそろいいかも)
私は背伸びをして器を覗き込もうとしたが、あいにくこの身長では作業台の上を見ることもできない。
作業をしているケインに抱っこは頼めないので、私は以前一度だけ座らせてもらった椅子を探して引きずってきた。
「大丈夫か、リナ」
「あい」
このくらいは平気。だって、私は健康な幼児だから。
作業台を支えにしながら椅子に乗り上げ、膝立ちをして器の中を見た。うん、もう砂糖を入れなくちゃ。
私は砂糖を入れてあった器の中に手を突っ込んだ。
(え~と、どのくらい入れたらいいかな)
牛乳の量を見て考えたけど、今日は記念すべき美味しいパン料理の第一弾だ。この先ケインにいろいろ協力してもらうためにも、少し甘いくらいの味付けの方がインパクトがあるはずだ。
器の中には、私が片手ですくった量の砂糖。思い切って全部入れた。
「えっ? そ、それ、入れちゃったのか?」
ケインは甘い砂糖を全部わけのわからない液体に入れられ、半泣きの表情になった。
せっかくの甘味が駄目になったと思い込んでいるみたいだけど……私って信用無いのね。
「に~ちゃ、パン」
固まっているケインに言ったが、なかなか動く気配がない。しかたなく私が、切り分けていたパンを卵液の中に入れた。
「ああぁぁぁぁぁ!」
うるさいよ、ケイン。