閑話.ある少年のお忍び。
面白い幼子がいる。
あいつからそんな話を聞いたのは、去年の春の洗礼式が終わって間もなくのころだった。
私たちは親同士の繋がりから、幼いころから共にいる時間が多かった。
私より一つ年上のあいつは勉学はもとより、武術にも秀で、何より魔力は王家の人間を凌駕するほど膨大なものだった。
中には私たちを敵対させようとする者たちもいたが、私はあいつのことを嫌いではなかった。冷静沈着で、女のように綺麗な顔をしているというのに、排他的な雰囲気を人形のような無表情で隠す腹黒さが好ましかった。
あいつは俺より一つ上で、本来なら去年の秋から高等貴族院に進むはずだった。
しかし、親同士の思惑で、あいつは私の進級を待って、今年の秋から共に高等貴族院の一年に進学する。
私は、親の勝手で人生を左右されたあいつに申し訳なく思ったが、あいつ自身は進学が一年遅れになることをあまり気にしていない様子だった。
むしろ、一年間いろんなことができると、中等貴族院の進級試験に臨む私を置いて何やら内密に動いていたようだ。
そんな中での、あいつの話。
子供好きでもないあいつから幼子の話が出るなんて不思議で、私は詳しい話を強請った。
だが、自分から言い出した割には、それ以上のことは何も言わなかった。そればかりか、魔力研究と称して屋敷に閉じこもってしまうという暴挙に出た。
私はしかたなく、自分の側近を動かして奴の話の真意を探ってみた。
時間はかかったが、奴が王都ベルトナールの平民の洗礼式に行ったことはわかった。
そこからは簡単だと思ったのだが、意外にも神殿の者たちの口は重かった。常に感情を表に出さないようにしている神官たちの真意を探るのはかなり困難だったらしく、さすがに私も途方に暮れた。
だが、諦める直前に、同じ洗礼式に出た親子の中から証言が取れた。
何やらその洗礼式のおり、神官たちともめた親子がいるらしい。
そこまでわかると、後は容易だった。
洗礼式を迎えた幼子の親が、ベルトナールの下町でパン屋を営んでいること。
洗礼式を受けた幼子が、珍しい黒髪だったこと。
その情報から側近が調べ、目当ての者がジャックとアンジェという夫婦の娘、リナだと判明した。
「あ、あの、このような場所に来られるなど……」
「うるさい」
「ですが、護衛の騎士様方も撒かれたなんて……」
「お前も共犯だからな」
「えぇっ」
私は今、ジャックのパン屋が見える路地に身を潜めている。
共は一人で、今回ジャックの店を突き止めた側近見習い候補だ。下級貴族のこの者が私の側近になるのはほぼ不可能だが、使い勝手がいいので身近に置いている。
本人は私に振り回されて胃が痛いと友に訴えているようだが、それも私の耳に入っているということを気づいてもいないだろうな。あいつのような腹黒さのない、ただ人の好さだけが取り柄の男だが。
「お、あれか?」
パン屋の扉が開いたかと思うと、小さな幼子が出てきた。
報告であった通り、その髪は珍しい黒い色だった。いや、珍しいというよりも、奇異に思える色だ。私はこれまでこのような髪の色の者には会ったことがないし、他国でも話を聞いた記憶がない。
突然変異なのかもしれないが……姿形は私と同じ人のようだ。
私の半分にも満たないような身長の、小さな体。足取りはゆっくりで、見ているとハラハラとしてしまう。
と、言うより、こんな幼子を一人で外に出すとは何事だ! 虐待ではないのかっ?
咄嗟に路地から出ようとする私と、
「お待ちくださいっ」
焦って私を止めようとする側近見習い候補がもつれるように道に出た時、目当ての幼子は店のすぐ横にある使徒像の前で立ち止まった。
ん?
相当信心深いな。
我が国コールドウェルは、国内の領地の各所にこうした使徒像を建てている。幼子を模した像は案外可愛らしいものだ。
名目は国を支えてくださる七神を常に崇めるためとのことだが、実際には他の目的もあった。それは、像の中に埋め込まれた魔石が、国に対する反逆の意志を持った者に反応し、それを王にお知らせするというものだ。国の転覆を防ぐ目的だが、国民を監視していると捉えられかねないので、このことを知っているのは極僅かなものだけだった。
私がそんなことを考えていると、幼子は使徒像の前で手を合わせた。
(……あれは……)
幼子に視線を合わせたせいか、その使徒像が私の正面にくる。すると、私は見慣れたはずの像に違和感を覚えた。その理由は、考えなくてもすぐにわかる。
「……襟巻き?」
使徒像は、まるで人間のように赤い襟巻きを巻いていた。私たちが使っているような上等な毛皮のものではなく、ただの布切れのように見えるが、まるで人間のような姿が面白い。
「……さい」
(ん?)
幼子が何か言っている。聞き取りたくて、もう少し近づいた。
「……ま、しゃとーくらさい」
(何を言っているんだ?)
「……おい」
「は、はい」
「あの子は何を言っている?」
私は背後に控える側近見習い候補に振り向かないまま尋ねる。
「え、え~と」
目の前で、幼子はまだ祈っている。その言葉を聞き逃すまいと、私も側近見習い候補も身を乗り出した。
「かみしゃま、しゃとーくらさい」
しゃとー……砂糖、か?
「……どうしてあのような幼子が砂糖を欲しているのだ?」
「わ、私にはわかりかねます」
「私がわからないのだ、お前にわからないのも当然だが」
私は考える。
砂糖は確かに高級素材で、平民にはなかなか手が届かないものだ。幼子が甘いものを欲するのは理解できるが、そこは手の届かない砂糖よりも、果物の名前を言うのが妥当ではないか?
私はどうしてその幼子が砂糖を欲しているのかわからなかった。ただ、使徒像にまで願っているのだ、相当強い欲求があるに違いない。
それから日を置いて何度か下町を訪れたが、あの幼子はほぼ決まった時刻に店から一人で出てきて、あの使徒像に砂糖が欲しいと願っている。
驚いたことに、側近見習い候補が周辺に聞き込むと、使徒像がしている赤い襟巻きはあの幼子が着けたらしい。
冬、雪が降ると《おじぞー》が寒いから、だと言っていたようだ。
どうして使徒像を《おじぞー》と呼ぶのかはわからないが、私は少し悪戯心が湧いた。あれほど願っている砂糖を与えたら……あの幼子はどんな反応をするだろうか。
「またですか……」
「お前では私を止められぬだろう。黙ってついてこい」
それからしばらく経って、私は砂糖を一袋持って下町にやってきた。
厨房からこっそり持ってくるのは苦労したが、この後の幼子の反応を想像すればこの苦労などたいしたものではなくなるはずだ。
「……そろそろだな」
幼子が店から出てくるいつもの時間になり、私は側近見習い候補に命じて、使徒像の足元に袋を置いた。
(さて、どんな反応を見せてくれるかな)
最近、あまり感じない高揚感を抑えながらじっと観察していると、幼子が店の中から現れた。
最初見た時よりも薄着になっている。そろそろ春の声が聞こえてくるころだからか。
相変わらずのぽてぽてとした足取りで店の横にある使徒像の前にやってきた幼子は、すぐにその足元にある袋に気づいたらしい。
「?」
首を傾げ、きょろきょろと周りを見ている。
(違う、それはお前にやったものだ)
私が内心でそう言うと、まるでその声が聞こえていたかのように幼子がその場にしゃがみ込み、小さな手でその袋の口を縛っている紐を解き始めた。
「……」
「……」
「……」
「……馬鹿者、幼き者も解けるように、口元の紐は緩くするものだろう」
「も、申し訳ありませんっ」
今さら謝られても遅い。
私は遅々とする幼子の手の動きに苛つきが沸き上がるのを抑えながら辛抱強く待った。移り気の傾向があると言っていた貴族院の先生が見れば、私は今恐ろしいほどの我慢をしているはずだ。
その最中にも、道には多くの平民が行き交っている。
その者たちはしゃがみ込んでいる幼子に目をやるものの、どうやら遊んでいると思っているらしく微笑まし気に見ているだけだ。
それにしても、この辺りの者は、あの幼子の珍しい黒髪を奇異に思わないのだろうか?
少なくとも、私は初めて見た時驚いた。それが生まれた時に持っていた色だとしても、そこに神が意味を与えたのではないかと勘繰った。
しかし、私が見ている限り、幼子に国に対する反意はない。少なくとも、今あの幼子がいる使徒像は何の反応も示していない。
「あっ」
その時、側近見習い候補が小さく叫んだのと、
「きゃぁ!!」
幼子のあげた悲鳴のような歓声が重なった。
「しゃとー! しゃとーよ! おじぞーしゃん、ありあと!!」
たどたどしい言葉でも、幼子がとても喜んでいるのがわかる。艶やかな黒髪を跳ねさせ、黒い瞳を歓喜に輝かせて使徒像の周りを跳ねるように回っているのが可愛らしい。
「……喜んでおりますね」
「ああ。……良いことをすると気分が良いものだな」
あの幼子が砂糖をどうするのか見てみたい。
しかし、私の身分のことを考えると、完全なお忍びを決行するのはなかなかに難しい。
(あいつにも内密にしなければならないからな)
人間に興味のないあいつが、最初に見つけた黒髪の幼子。
始めはどうしてあいつが興味を持ったのか知りたかっただけだが、しばらく観察するうちに私も興味をひかれた。それが同じ理由かどうかはわからないが、もうあいつの独り占めにはさせないつもりだ。
(よし、近いうちに)
忍びで出歩くのは得意だ。
私は直接顔を合わせた時の幼子の反応を想像しながら、喜び勇んで店に駆けこんでいく小さな背中を見送った。
この後11話より、また少し時間軸が進みますので、ここで閑話を。
本編も夜に更新します。