10.伝えられないのがもどかしいです。
「うわぁ……」
初めて見る厨房の中は雑然とした印象だった。
日本風に言えば、ん~、六畳くらいの部屋かな。その中に木製の大きな作業台とオーブンがあり、反対側に竈があるのがアンバランスな感じがした。
竈の横には、石でできた流し台のようなものもある。でも、やっぱり水道はないな。その代わりのように大きな水瓶が置かれてあった。
(オーブンがあるんなら、コンロがあってもおかしくないのに)
うちはパン屋をしているので、店の厨房がそのまま家の台所になる。だから、フライパンや鍋も並べられていた。
(あれ? 冷蔵庫がない……?)
ぐるりと回りを見ても、冷蔵庫らしいものがない。二種類しかないパンに生ものは使わないけど、それでも家の料理に使う肉や野菜はどうしているんだろう?
「と~ちゃ」
「ん?」
「ないない、ど~こ?」
「ないない?」
「ないない、よ」
……ないないじゃわかんないよね。私だってそう思うけど、娘愛で見当がつかない? 父さん。
私がじっと父さんの顔を見つめても、父さんはにこにこと嬉しそうに笑っているばかりだ。
(これ、全然意味わかってないよ)
冷蔵庫の謎は諦めるしかないようだ。
私は愛想笑いを浮かべて、父さんの肩をポンポンっと叩いた。
「ほら、リナはここだ」
私が興味津々で辺りを見回している間に、どこからか母さんが持ってきた椅子を火元から一番遠くに置いて、父さんがそこに下ろしてくれる。
「ジャック、本当に大丈夫なの?」
「ああ」
肩を竦めた母さんは売り場の方に戻る。私もつられて視線を向けたが、今は客もいないので父さんも多少余裕があるのだろう。
(本当は、私もエプロンとか帽子とかかぶった方がいいんだろうけど)
そういえば、父さんも帽子、かぶってないな。
エプロンもちょっと汚れている。共働きのせいか、うちでは毎日洗濯しないもんね……っていうか、お風呂だってないし。
うちが貧乏なのか、それともこれが庶民仕様なのかはわからないけど。
三日に一度、湧かした湯で体を拭ってもらっているけど、ちゃんとしたお風呂に入りたいよ……あ、今はお風呂のことは考えないようにしないと。これはパン作りと違って、簡単に叶うことじゃないもん。
でも、こんなふうに食品を扱う時は衛生的にと思うのは、日本人だったからなのだろうか。
「ここでおとなしくしているんだぞ?」
「あい!」
(いよいよパン作りが見れるんだ!)
今は衛生観念は横に置いて、謎のパン作りを観察しなくちゃ!
部屋の隅に置いてある麻袋の中に、父さんが木の器を入れて取り出したのは白い粉だ。
小麦粉……パンを作るんなら強力粉? かな。じゃあ、隣にある袋が薄力粉?
私はわくわくとした気持ちで父さんを見たが、父さんは最初の粉だけを作業台の上に置いた大きな木の器に入れ、そこに水瓶から柄杓のようなもので水をすくって、躊躇いなく粉の中へと流し入れた。
(……え?)
父さんは粉を煉り始める。さすがに力があるのか生地はちゃんと固まってきたが、私はあまりにも大雑把な手順に半ば呆れていた。
(これ……本当にパン作りの工程なの?)
佳奈だったころ、私の体を心配した両親は、食事もできる限り無農薬や手作りといったものを用意してくれていた。その中にはパン作りもあって、私のあんドーナツ好きはここで培われたと言ってもいいくらいだ。
うちには住み込みのハウスキーパーがいたけど、その人はとても料理上手で、普通の食事だけでなく、パンもお菓子もいろんなものを作ってくれた。その時に、作っている工程も見せてくれたのだ。
お菓子作りほどでなくても、パンも細かな手順が必要な食べ物だ。それなのに、どう見たって父さんは目分量で作っているとしか思えない。もちろん、長く作業をしていれば体で覚えるということもありうるけど……。
それに、もう一つ。
パンを作るのに大切な材料が足りない。
(ドライイースト……入れてないよね)
パンを発酵させるために必要なもの。日本では手軽なドライイーストというものがあった。
アレがないとうまく膨らまないし、パサパサした触感になると思うんだけど……。
「……」
もしかしたら、煉った後に加えるかもと思って見ていたが、結局父さんはそのまま生地をフランスパンの形と丸い形に成型してしまった。
(うわ……二つとも同じ生地でできてたんだ……)
私は溜め息をつく。
すごく楽しみにしていたのに、結局パン作りは私の想像以上に単純なものだった。ううん、単純っていうのは良く言い過ぎかもしれない。もう、色んな前提が抜けてるし!
「どうした? 父さんが相手をしないから寂しいか?」
私が口をへの字にしているのを見た父さんは、勝手な妄想をしてデレっと顔を緩めている。そしてそのまま私を抱き上げてくれたが、手に粉がついたままなので私の服が粉だらけになった。
「と~ちゃ、め!」
「あ、悪い悪い」
父さんは慌てて私を下ろし、軽く服についた粉を払ってくれる。
「よし、可愛くなったぞ!」
「……」
頭をクシャクシャに撫でられてしまった。今度は髪が白くなってしまったに違いない。
父さんの……と、いうか、この世界のパン作りを見た。
私が知っているパン作りとは全然違ったことにも驚いて、あの日は本当にショックで夜も寝れなかった……気がしたけど、赤ん坊だからね、寝ちゃったけど。
それで、もうあんドーナツも食べられないって落ち込んだ私だったけど、ふと思いついた。
足りないだけなら、足したらいいんじゃない?
うん、そうだよ!
父さんのパン作りの工程は、余計な工程は一切なかった! それどころか、大事な工程もなかったけど、引き算より足し算の方が受け入れやすいんじゃない?
パン作りにはパン酵母が必要だけど、ここにはイースト菌はないけど、その代替え案はちゃんとある。ふふふ、唸っている間に思い出したの。
(自家製酵母! 自分で酵母を作ればいいのよ!)
ハウスキーパーの酒井さんに教えてもらったんだ、酵母の作り方。酒井さんは、確かリンゴとヨーグルトで作っていたはず。この世界にヨーグルトがあるのかはわからないけど、牛乳があるんなら作ることはできるし、リンゴは絶対にありそう。
それがあれば、後は水と砂糖だけ。
うん、できそう、自家製酵母!
私は張り切って、朝父さんに訴えた。
「と~ちゃ、ぼ!」
「ぼ?」
朝食のパンを齧っていた父さんは、私の言葉に首を傾げる。
「ぼって何だ?」
「ぼ! ぼーよ!」
(あぁん、違うんだってば!)
私は自分でちゃんと話しているつもりだけど、ようやく話ができるようになった1歳児の言語能力は想像以上に低かった。
(このままじゃ、ちゃんとしたパンが食べられるのは相当先になっちゃうよ~)
焦る私を置いて、さっさと食事を終えた父さんは店へと向かう。
「お昼休みに遊んでやるからな。父さんといっぱいおしゃべりしような~」
すごく楽しそうにしていたけど、私は父さんと単に話がしたいだけじゃないんだよ。美味しいパンを作るための話し合いをしたいの!
最後まで訴えたけど、結局父さんに無理やり頬にキスされて終わった。
残された私は、今度は母さんに訴えた。
「か~ちゃ、ぼ、ぼーよ!」
「棒が欲しいの?」
「ない!」
(違うってば!)
私は何度も口の中で繰り返してみた。天然酵母、天然酵母、酵母、酵母……。
「ぼー!」
「棒でしょ?」
ちが~う!
私は何度も首を横に振る。母さんも私が何かを伝えたいというのはわかってくれているが、さすがに《ぼー》では通じない。
「ほら、後で棒はあげるから、ちゃんとご飯を食べて」
「う~」
出されたのは、相変わらずのパン粥。薄い塩味の、ひどく不味いわけじゃないけど、かといってとても美味しいとは言えないもの。
母さんは野菜スープとパンだ。硬い丸パンをスープにつけて、普通の表情で食べている。
母さん、ご飯はもっと美味しいものなんだよ? 食べたらにこにこ笑っていられるし、ちゃんと体の栄養にだってなるものなの。
私は、その美味しいパンの作り方を知っているよ。材料があればちゃんと作れるのに、それを伝える手段がないのが悔しくてしかたがない。
「リナ?」
「……」
せっかく、何でも食べられるのに。
「リナ、どうしたの? どこか痛いの?」
食べたら、ちゃんと栄養を作ることができる、健康な体になっているのに。
「リナッ」
不意に抱き上げられ、私は母さんの腕の中にいた。
「リナ」
心配そうな顔の母さんをじっと見ていると、伸びてきた細い指が目元に触れる。離れたそれが濡れているのを見て、私は自分が泣いたことにようやく気づいた。
(こんなことで……?)
美味しいパンが食べられないくらいで泣いちゃったの? 私?
前は、生きるか死ぬか、深刻な生死の問題で泣くことはあったけど……馬鹿みたいだ、私。
「リナ、大丈夫?」
「……か~ちゃ」
変な娘でごめんなさい、母さん。




