96.おうちに帰りましょう。
薬草園のガラス窓の外の空が明るくなってきた。もうそろそろ戻らないと父さん、心配するかもしれない。
(本当に……今日でお別れなんだ……)
私にとってこの薬草園は、ううん、この貴族院自体が、本当に夢の世界のようだった。豊富な食材も、お湯がたっぷりのお風呂も、毎日会えたエルさんも。王都に戻ったら、全部が夢だったと思うくらい、普通の暮らしに戻るんだろうな。
でも、それが私の現実だ。私は深く頭を下げた。
「ほんとーに、ありがと……ございました」
「……だから、何度も……」
「いっぱい、いいたいから。ありがと、エルさん」
「……そろそろ時間だろう」
……うん。もう、本当に戻らないと。私の躊躇いを感じ取ったのか、エルさんが先に歩き出す。まあ、カードを持った人がいないとここから出られないんだけど。
(エルさんも、寂しいって思ってくれてるかな)
それとも、面倒を見なければならない子供がいなくなって気が楽になるかな。そう考えて、私は首を横に振る。エルさんがそんなふうに思う人じゃないってこと、私わかっているもん。
もうちょっと一緒にいたいなって思いながら、無情にもドアが開いてしまう。私はそのまま外に出たけど、エルさんは薬草園の中に立ったままだ。ここで別れるんだとわかり、私は手を振って歩き出した。
「……」
(い、一度だけ)
「……」
(一度くらい……)
必要以上にゆっくり歩いていた足を止めて振り返った私は、エルさんがまだそこに立っていてくれたことにちょっとびっくりした。薬草園のドアは閉まっただろうと思ったからだ。
私が振り向くと思わなかったのか、目が合ったエルさんの眉間には皺ができてる。でも、それが彼の照れ隠しだと何となく感じるので、私はさっきよりも大きく手を振った。
「さよなら!」
それに、エルさんが何か言ったようだけど、私の耳には届かなかった。
薬草園が見えなくなってからは走って、私はそのまま食堂に向かった。
「リナッ!」
入口では父さんが待っていて、私を見ると駆け寄ってきて抱き上げられた。何も言わなくても心配してくれていたことが丸わかりで、私は何も言わずに太い首に抱きつく。
「ちゃんと、お礼とさよなら言ってきたから」
「……そうか」
誰にとは言わなくても、きっと父さんは相手が誰かは想像がついていたのだろう。何度も頷いた後一度強く抱きしめて、そのまま下に下ろしてくれた。
「さあ、こっちもみんなにお別れだ。仕事中だから手早くな」
「うん」
厨房は既に朝食の準備に追われている時間だったけど、私たちの別れの挨拶にはみんなちゃんと向き合ってくれた。挨拶をしていくたびにこれでお別れなんだと思うと悲しくなってきて、だんだん私は泣きそうな顔になってしまう。
リアムとジャスパーのところに行った時は、涙を流すのを必死に我慢している状態だった。
「リアムさん、ジャスパーさん……さ、さよな……ら」
「泣くな。……休みの時は、今度は俺たちがお前の店に行くから」
思いがけないリアムの言葉に目を瞠ると、少々乱暴な手つきで頭を撫でられる。
「ほ、ほんと?」
「美味しいパンを食べに行くからね」
ジャスパーの言葉に笑い、絶対に来てねと約束した。
そして、最後に料理長だ。
「りょーりちょー……」
「元気でな」
その言葉を聞いちゃったら……駄目だった。ポロポロと涙が零れてしまい、あの料理長が慌てた。
「ジャ、ジャック!」
焦って父さんを呼びながら、どう私に接していいのかわからないふうな料理長を見ていると面白くて、でも、今日で別れてしまうのはやっぱり寂しくて、私は笑いながら泣くという器用なことをしてしまう。
「リナ」
すぐに来てくれた父さんは、私の顔を見て、私の感情をちゃんと理解してくれたみたい。
料理長の目線に合うように抱き上げてくれたので、私は手の甲で涙を拭ってちゃんと挨拶をする。
「おせわになりました。さようなら」
「おう、またな」
またな、か。次を約束してくれる言葉がくすぐったい。
私も同じ気持ちで強く頷いた。
厨房の料理人たちと別れた後は給仕のお兄さんたちにも挨拶をした。最初の何日かはホールを手伝ったのでお世話になったし。
そして、今後も残るダナムたちと挨拶をした後、グランベルさんと共に彼が乗ってきた馬車がある通用門に向かう。そこには、職員専用棟の管理人、イシュメルさんがいた。
「君たちのおかげで、食堂のメニューがずいぶん変化した。本当にありがとう」
相変わらず優しい眼差しのお爺ちゃんは、私とケインの頭を撫でてくれる。そこに労わりと感謝の思いがちゃんとあって、私とケインは顔を見合わせて笑った。
「リナ」
「はい」
イシュメルさんは腰を曲げると、私にだけ聞こえるように囁く。
「彼女が厳しいことを言ったようだけれど、あまり気にすることはないよ」
彼女? イシュメルさんが言う人物にまったく心当たりがないよ? だいたい、ここでは料理人は皆男の人だし、親しくした学生はエルさんたちくらいだし。
私が首を傾げていると、イシュメルさんは悪戯っぽく笑った。
「魔法師の、ベアトリス・フォン・ベサニー」
「あ……」
そっか。職員専用棟の管理人をしているのなら、ベアトリス先生のことを知っていてもおかしくない。ようやくイシュメルさんが言おうとした人のことに思い当たって頷こうとした私は、
「別れたとはいえ、かつては妻だった人だからね。彼女の人となりは良く知っているつもりだから」
「……え?」
さらりと告げられた衝撃の事実に、声も口も固まってしまった。
今聞こえたの……気のせいじゃない、よね。え? だって、ベアトリス先生は三十前後にしか見えなくて、でも、イシュメルさんは60は超えてるよね? 親子以上の歳の差の夫婦がいてもおかしくはないけど、2人の外見の差があまりにもあり過ぎて、なかなかその事実を受け止められない。
アワアワする私を見て、イシュメルさんは気分を害したふうもなく楽し気に笑っている。
「……え、と……」
「苦言は、一応頭の片隅に入れておくくらいでいい。また会えるのを楽しみにしているよ」
「は、はい」
思わず頷いちゃったけど、私はもうこの貴族院に来ることはない。エルさんは特別枠だけど、他の貴族と関わろうとは思わないもの。
でも、さすがにこの場で正直に言うつもりはなかった。そのくらいは、私も大人だもの。
「おせわになりました。さようなら、イシュメルさん」
馬車に乗り込み、イシュメルさんに向かって手を振る。門を出てその姿が見えなくなるまで、イシュメルさんは私たちを見送ってくれていた。
馬車の中では、父さんとグランベルさんがずっと話している。
グランベルさんがいなかった間の事はもちろん、新しいメニューのこと、あ、それに食パンのレシピ登録のこととか、話題は全然尽きないみたい。
私は窓の外からうっそうとした森を見た。貴族院の門から出て間もなく、まるで目隠しをするかのように森の木々が深くなったような気がする。いつ頃西の門に着くんだろう?
(まるで、夢の世界みたいだったなぁ……)
お風呂に、薬草園。立派な校舎に、広い食堂。写真を撮ることができたら、何度も見返せる思い出になったんだけど。
(魔術具でそんなの作れないかな)
「リナ」
ぼんやり考えている時、不意に肩を揺すられ、私はハッと意識を戻した。
「お兄ちゃん?」
「お腹空かないか?」
「え?」
どうやら私が早朝にエルさんと会っている間、父さんに起こされたケインは馬車で食べる軽食を作っていたらしい。持っていけって言ってくれたのは料理長らしいけど、ケインは労働報酬として貰った自分の肉を使ったんだぞって胸を張るのがおかしい。
「リナに食べさせたくってさ」
荷物の中から取り出した竹籠の蓋を開ければ、美味しそうなそぼろ肉を挟んだサンドイッチが入っていた。
「リナは辛いの苦手だろ? だから、少し甘めの味付けにしたからな」
「ありがと、お兄ちゃん」
貴族院にいる時はケインも忙しかったし、私も途中からエルさんの魔力制御の指導を受けたりして、一緒にいる時間はずいぶん少なかった。お風呂は別だったし、疲れたケインはいつもベッドに入ってすぐに寝ちゃってたし。
でも、私のことを気遣ってくれる気持ちは変わらないのは感じていて、私はケインの明るさと前向きさにいつだって助けられている。
「ほら」
差し出されたそれを手に取り、私は一口頬張る。甘辛いお肉が口の中に広がって、もう最高に美味しい。朝ご飯を食べてなかったから、ぺろりと一つ食べてしまった。
「どうだ?」
私の表情を見ていればわかるはずなのに、そう心配そうに聞いてくるケイン。私は満面の笑みを浮かべた。
「すっごく、おいしい!」
「本当に?」
「うん!」
この短期間で、ケインの料理の腕はすごく上がったと思う。見習いたちと一緒に基本的な作業もたくさんしていたし、それぞれ専門分野の人たちがいたので、覚えることはいっぱいあっただろうけど得るものも多かったはずだ。
ケインは将来父さんの跡を継いでパン屋になるって言っているけど、もしかしたらパン以外の料理も武器にできるかもしれない。もちろん、私も手伝うつもりだけど。
「お兄ちゃんも食べて」
私が食べるのをじっと見ていたケインは、ようやく気がついたように自分もサンドイッチを頬張る。輝く目の光が美味しいと言っていた。
「お、美味そうだな。私も貰っていいか?」
話が一段落したのか、グランベルさんがケインの手元を覗き込みながら尋ねている。口いっぱいにパンを頬張ったケインがコクコクと頷いて竹籠を差し出したけど……その後、味に興奮したグランベルさんがケインに詰め寄ったりしたのも傍から見たら面白かった。
(あ~、本当に、うちに帰るんだ)
馬車の揺れと、膨れたお腹に眠気を誘われながら、私はようやく肩から力が抜けていくのを感じた。




