95.エルさんともお別れです。
いったい、私に何の用なんだろう?
じっとベアトリス先生を見ていると、赤い唇がにっこりと笑んだ。
「あの後のこと、エーベルハルド様に尋ねても答えてくださらないから、直接あなたに尋ねようと思って。少しは魔力の扱い方を覚えることができたかしら?」
えっと、それ、言ってもいいのかな。エルさんが言わなかったってことは、言わない方が良いってことだよね? そこで私が口を滑らせてしまったら、エルさんの迷惑にもなるかもしれない。
でも、目の前の大人の女の人に、私、無言を貫くのは無理そうな気がする。
「リナ、はい」
不意に、ベアトリス先生が両手を上向きに差し出してきた。私は反射的にその手に自分の手をのせる。
すると、その手を軽く握られた。
「……ん、流れがだいぶ均一になったわね」
「えっ?」
手を握っただけでわかるのっ? 私が焦って手を引き抜くと、その慌てぶりがおかしかったのか、ベアトリス先生が蠱惑的に笑んだ。う……これが、大人の魅力ってやつかもしれない。
「心配しないで……って、言っても、信じられないかもしれないけれど。私はエーベルハルド様に敵対する気はないから、あなたのことも口外するつもりはないわ」
ほら、もう一度手を出してと言われ、私はおずおずと両手を差し出す。またさっきみたいに握られたけど、今度はそこから温かなものが流れ込んできた。
(何? これ……)
まるで温泉につかっているような、まったりとした、温かな空気。母さんに抱っこされているような雰囲気に、私は思わず安堵の息をついた。
「……このくらいにしておこうかしら」
それは、あまり長い時間じゃなかったと思う。不意にベアトリス先生から手を離された。
「あまり多く私の魔力を注ぐと、かえって毒になりかねないし」
「え……っ」
毒と聞いて、私は思わず自分の体を見下ろす。……変わらずぺったんこな幼児体形だけど、特に変わったところはないみたい。
「リナ、一つ忠告しておくわ。今の生活を守り、この先貴族と関わらないつもりなら、絶対にあなたの魔力のことを知られないようになさい。あなたの魔力は貴族たちにとってとても魅力的だから」
ベアトリス先生はそう言った後、私の体を洗ってくれた。髪も丁寧に洗ってくれて、私は身体的にはさっぱりと、心の中はとても複雑な思いのままお風呂から出た。
入口で待っていてくれた父さんは、私以外がお風呂に入っているとは思わなかったみたいで、ベアトリス先生の姿を見てちょっと驚いている。
ベアトリス先生はちらっと父さんを見て、艶やかな笑みを浮かべた。綺麗な人の魅力的な笑みに、父さんが焦ったように挙動不審になるのがわかる。いくら母さん命の父さんでも、美人相手だと弱いみたい。
「元気で」
「は、はいっ」
さよなら、とも、また、とも言わず、ベアトリス先生は去って行った。
「今の人……前会ったよな?」
父さんは薬草園で一度だけ会ったベアトリス先生のことを覚えていたみたい。何かあったのかと心配そうに見下ろされ、私は首を横に振る。
「いっしょに、お風呂入っただけ」
(もう、会わないんだろうな)
実際に話した時間は少ないけど、彼女が私のことをちゃんと考えてくれていたというのはわかる。二度と会えないのは寂しいけど、私は貴族と関わりを持つ気なんてなくて、今の家族と幸せに楽しく暮らすつもりだ。
(ありがとう……先生……)
翌朝。
もうじき夜が明けるという時間に私は起きた。父さんとケインはまだ眠ってる。2人を起こさないようにそろそろと着替え……用意されたものではなく、ここに来る時に着ていたものだ……、私はそっとドアを開けて廊下に出た。
まだ早い時間のせいか、人影はない。それを確かめてから、私は胸に下げているペンダントを握りしめ、教わった通り自分の魔力を流してみた。
「エルさん、おきてますか?」
まだ、眠っているかもしれない。でも、この後は帰る準備で忙しくなると思うので、自由になる時間は今しかなかった。
【どうした】
それほど待つこともなく、淡々としたエルさんの声が返ってきた。何の約束もしていないのに、こんなにも早い時間にちゃんと返事をしてくれるエルさんの律義さに思わず笑みが漏れる。
【……笑っていないで用件を言うように】
うわっ、見えていないはずなのに、笑っているのバレちゃってる。
私は慌てて言葉を告げた。
「帰るまえに、会えますか?」
出来ればちゃんと顔を見てお礼を言いたい。
【……わかった】
「いいんですか?」
【薬草園で】
「はいっ」
即答した私はペンダントから手を離し、そのまま薬草園に行こうとした。でも、すぐに思い直して部屋に戻った。何も言わないでいると、父さんに心配かけるとわかっていたから。
部屋に戻っても、父さんはまだ寝ていた。私はその大きな体を揺さぶりながら言う。
「父さん、私、やくそうえんに行ってくるね」
「……ん……? 薬草、園?」
「お別れを言いに行くの。おわったら、ちゅーぼーに行くね」
「……父さんも……」
「だいじょーぶ。行ってくるね」
父さんはエルさんのことを知っているし、私が彼に魔力の扱い方を習っていることも知っているけど、あえてどんなことをしていたのかとか、魔力量のこととか言っていない。これ以上心配かけたくないし。
エルさんと会うって言えば、父さんも礼を言いたいって言うだろうけど……。本当にさよならを言うだけのつもりなので、父さんがいたらちょっと恥ずかしいもん。
薬草園が見えるところまで行った時、私はあっと足を止めた。そう言えば私、ここに入るカードなんて持っていなかった。
後からエルさんがくればいいけど、先に待っていたらどうしよう。焦りながらもとりあえず足を進めると、ちょうど死角になっていた木陰から人が出てきた。一瞬、シュルさんかと思ったけど、すぐにそれがエルさん本人だとわかる。どうやら私を待ってくれていたみたい。
「エルさんっ」
走って駆け寄ると、エルさんはそのまま背を向け、いつの間にか取り出していたカードで薬草園のドアを開く。
私を待つことなく歩く彼の背中を追うと、すぐに慣れた匂いがして気持ちが落ち着いてきた。食堂の厨房と同じくらい、ここはもう慣れた場所になっている。
しばらく歩くと、いつもの休憩所に着いた。立ち止まったエルさんが振り返り、私をじっと見下ろしてくる。基本無表情な彼が何か言いたげな雰囲気を醸し出していたので首を傾げると、しばらくして彼は服のポケットから何かを取り出し、私に差し出してきた。
「あ……」
それと同じものを、私は今自分のポケットに一つ入れている。一対のものだけど、もう一つはあの時……あの女生徒に取られてしまって、もう戻ってこないと思っていた……はずだった。
でも、シルバーの本体に小さな石が3個飾りに付けられているそれ……ヘアピンは、無くなってしまったものと同じだ。
私はエルさんの手の上にある物と彼の顔を何度も交互に見た。
「これ、あの……返してくれたんですか?」
まさかと思いながらも尋ねると、彼はいやと言った。
「あれは、消滅させた」
「しょ、しょーめつ?」
言葉と意味が結びつかない。更なる説明を求めてじっと見続けると、彼はハァと深く息をついた。
「シュルヴェステルが取りに行ったが、本人は知らぬと言ったらしい」
あ~……まあ、そう言うかも。エルさんが私にくれたっていうのは面白くないだろうけど、エルさんが作ったっていうのは確かなんだし、手元に置いときたい気持ちはわからなくもない。
「あれは私が君のために作った魔術具だ。他の者に扱えるはずもないし、一度他の影響を受けてしまった物の効力に不安があったので、そのまま消滅させた。これは、新たに作った物だから、安心してつけていい」
消滅って、言葉の通り消したってこと? そんなことができるのかって驚くけど、作ったのがエルさんならそれもできるかもしれないと思ってしまう。
何より、私はもう一度戻ってきた……ううん、作り直してもらったヘアピンが嬉しかった。何よりも、エルさんが取られてしまったあの存在を忘れないで、ちゃんと対応してくれたことが嬉しい。
私はポケットの中に入れていたヘアピンを髪につけた。あれ以来、初めて髪につけるから、少しだけ緊張する。そして、もう一つ、対になるヘアピンをエルさんの手から取ろうとしたけど、
「……っ」
その前に動いたエルさんがすっと私の髪にヘアピンをつけてくれた。スマートな仕草だったけど、ヘアピンにきちんと髪が挟まっていないので少し不格好な気がした。多分、エルさんもこういうこと慣れていないんだろうな。わざわざ私につけてくれたエルさんの気持ちを思うと、胸の中が温かくなる。
「ありがと、エルさん」
「……首飾りと共に、それもできるだけ身につけているように」
「でも、こんなにりっぱなの……」
平民なのにこんなに高そうなものを身につけていたら、かえって目立ってしまわないかな。
「心配はいらない。その2つとも、術を掛けている。君と、作成した私以外の者の目には、価値の無い物に見えているはずだ」
「そうなんだ……」
こんなに綺麗な物が、他の人から見たらそうでもなく見えるんだ。勿体ないけど、この先また同じような目に遭うと思えば、そこまでちゃんと考えてくれたエルさんに感謝しなくちゃ。
「私、大事にします!」
「……ああ」
「ほんとーに、ありがとーございますっ」
ここに来て、私エルさんに助けてもらってばかりだ。子供だからっていうのは何の免罪符にもならないし、この先私がエルさんに同じだけのことを返せるとも思えない。だから、せめて感謝の言葉は惜しまないでおこう。この先も、エルさんと会えるために。
「ほんとに、ほんとに、ありがとう!」
「……何度も言わずともいい」
迷惑そうに言いながらも、エルさんの耳が少し赤くなっているのが見えた。