09.チャレンジは成功です。
できないことを挙げてもきりがない。
私は今のこの体でできることから始めることにした。
まずは、歩けるようになること。
部屋から部屋への移動も、まだケインや母さんの手がないと心許ない現状は問題だ。自由に歩けるようになれば、ケインが学校から戻ってくるのを待たなくても一階に下りることができる。
もちろん、まだ赤ん坊に近い年齢の私ができることなんてないけど、情報収集として店にいることは大事だと思う。
そうと決めた私は、さっそく翌日から実行することにした。
「ん……しょ」
午前中は母さんに背負ってもらって店に出て、今は昼食後のお昼寝から目覚めたばかりだ。
私は体を何度も揺らしてうつ伏せの体勢になると、そこからゆっくりと体を起こした。仰向けからよりも、こっちの方が体を持ち上げやすい。
幼児の頭は想像以上に重いのだ。
「あ~と」
靴は……無理だな。裸足で我慢することに決め、今度は後ろ向きのまま、足からずりずりとベッドから下りていく。
ベットの高さはちょうど私の顔くらい。怖いから目を強く閉じて、支える腕に力を込めた。
「うぎゃっ」
ゴンッ
……1歳って、こんなにも腕力がないのね。
腕の力で体を支えるつもりが、身体の大部分がベッドから下りた途端手が離れてしまい、そのまま尻もちをついて後頭部を床にぶつけてしまった。
「ぅ……」
痛い。絶対タンコブできてるよ……。
しばらくは痛みを逃すために、そのままの姿勢で床に転がっていた。さっき私がベッドから落ちた音が下に響いていないか心配にもなったが、階段を上がってくる音は聞こえてこない。
ようやく痛みが薄れてきて、私はベッドに摑まるようにして立ち上がった。こうやって立ち上がることは完璧なのだ。
(いくぞ、階段!)
意を決して動き出したものの、私はすぐに大きな問題に直面した。なんと、廊下に続くドアが閉まっているのだ。
(嘘でしょ……)
ドアノブは私が手を伸ばしても届かない高い位置にある。食事の時に座る椅子を使えば届くだろうが、その椅子に私はまだ一人で座れないのだ。
それからしばらく部屋の中をうろうろとしながら試行錯誤してみたが、結局私の力でドアを開けることはできなかった。
せっかく決意したのに出鼻を挫かれた形になった私は、そのままいじけて床に寝転がり、唸っている間に眠ってしまっていて……帰ってきたケインに危うく踏まれそうになった。
それから毎日、私はチャレンジを続けた。
失敗は成功のもと! やってみなければわからない!
そんなふうに自分自身を奮い立たせて頑張ったよ。
初日は、途中で諦めてしまい、床に寝ているところをケインに見つかって、その後やってきた母さんにやんわりと叱られてしまった。家族の誰かが側にいないと、ベッドから下りちゃ駄目よって。
違うのよ、母さん。みんながいないからこそ、自分の力でやってみようと頑張れるの。
そんな私の内心の叫びを知ってか知らずか、その後しばらくは母さんの抜き打ち監視があった。
私がそろそろ動き出そうかって時に、いきなり部屋に入られるのは心臓に悪いよ……。
でも、私は空気を読んでおとなしくした。いつか監視の目が緩むと信じて。
そして、その日は案外早くやってきた。
「……?」
(母さん?)
お昼寝の途中、私は珍しく意識が浮上した。
「良く寝てるわね。この分なら、ケインが帰ってくるまで寝てくれそうだわ」
安心したような母さんの声がして、ガサゴソと何か片付けている気配がする。
すると、
「アンジェッ、客が立て込んでる!」
父さんの大きな声が聞こえてきて、慌てたように足音が遠ざかった。
(今の……夢……?)
その一連の声や音が夢か現実か判断がつかなくて、私はしばらくぼんやりとしていた。
いつもなら、そのまま眠ってしまうことが多かったけど……今日は違った。霞が掛かったような意識は徐々に浮上して、いきなりパチッと目が覚める。
「……か~ちゃ?」
呟くように言っても、部屋の中に母さんはいなかった。
私はくるりと辺りを見回して……ふと違和感を感じて首を傾げる。
(何が違うんだろう?)
いつものベッドに、いつものカーテン。そして、見上げるほどに高い部屋のドア……!
「あぁっ!」
(開いてる!)
いつもなら完全に閉まっている寝室のドアが、今は少しだけ開いているのだ。
(どうして? え? 母さんが閉め忘れたの?)
たぶん、父さんの声に驚いた母さんが、ドアを完全に閉めることを忘れてしまったのだろう。母さんらしくないミスだが、私にとってはまたとないチャンスだ。
「んっ」
私は気合を込めて手を握り、さっそく後ろを向いてベッドの下へ足を下ろす。
これでも学習したんだよ。握力に頼るのは無謀過ぎると反省したので、私はベッドに肘をひっかけるようにして、落下の衝撃を最小限に抑えることにした。
「……った」
やっぱり尻もちをついたし、痛みはあったけど、そのまま動けないほどの衝撃じゃなかった。
起き上がった私は、少しだけ隙間の空いたドアへとぽてぽてと近づく。
ギギー
そっと押せば、木が軋む小さな音がした。
私はびくっと手を引いたが、耳を澄ませても駆け上がってくる足音は聞こえてこない。
(……そっか)
人の気配がない部屋の中にいる私は、小さな音でも驚くほど大きく響いて聞こえるけど、一階は店をしているのでそれこそ雑多な音が響いているはずだ。二階の多少の音は聞こえないだろう。
そう予想した私は、少しだけ大胆になった。
「い~ぞ!」
(行くぞ!)
廊下に出た私は、壁に手を当てながら自分のペースで歩く。すぐに階段が見え、私はこくんと唾を飲み込んだ。
(……高い……)
木でできている階段は、思っていたよりも急みたい。
一番上の段に座った私は、覗き込もうとして頭を下げた時、頭の重さでそのまま前のめりになりそうな気がして慌てて姿勢を正した。
私の作戦では、座った状況でずるずると下へ降りていこうと思っていたが、何かの拍子でつんのめったら最後、下まで転げ落ちてしまうだろう。
(前座りが危険だよね……)
私は後ろ向きになった。
行儀が悪いが、腹這いの状態で下に下りていくのが一番安全だ。
「ん……しょ、……しょ」
一歩、一歩、片足を下の段に伸ばし、ずりっと身体全体を下ろしていく。それは考えた以上に途方もない作業だった。
「……っしょ」
(い、今、どのくらいだろ)
上を向いたり、下を向いたりと体勢を変えたくないので、私はさっきから目の前の階段しか見ていない。だから、どのくらい下りているのかまったくわからないのだ。
(もうだいぶ下りたと思うんだけど……)
「……う?」
規則正しく下ろしていた足が、次伸ばそうとして全然動かなくなった。
私はそっと体を浮かして下を見る。すると、私の片足は一階の店へと続く廊下に着いていた。
「きゃぁ!」
(すごい、私! 頑張った!)
自分の足で階段を下りようと決めてどのくらい経っていたか。それが、ようやく今日達成できたのだ。
私は階段にくっつけるようにしていた身体を起こす。そして、満面の笑みでその場で両手を上げた。
「ば~い!」
一人万歳をして、意気揚々と店へと向かう。ここからは何度もケインに手を引かれて歩いているので慣れたものだ。
「ありがとうございました」
店に続くドアは半分開いていて、向こうからは母さんの声が聞こえてくる。
「か~ちゃ!」
私が声を掛けると、ぱっとこっちを向いた母さんの目が丸く大きくなった。あ、びっくりしてる。
母さんのその表情がおかしい。
「リナ?」
「あい!」
「え……ケインはまだ帰っていないはずだけど……」
そう言いながら近づいてきた母さんは、何かに気づいたのか私の前で屈んだ。……あれ? 顔が怖いよ、母さん?
「……これ」
手を伸ばした母さんが掴んだのは、私の部屋着のワンピースだ。
(これがどうしたって……)
「汚れているわ」
……まずい。
達成感に満ち溢れていた私は、母さんの凄みのある笑顔に顔が引き攣った気がした。
「……か~ちゃ?」
「リナはどんなに危ないことをしたのか、ちゃんと話して聞かせないとね」
ち、違うの、母さん! 私は危ないことをするつもりじゃなくて、一日でも早く一人で階段を下りられるように練習しただけなの!
流暢に話すことができればいろいろ言い訳もできただろうけど、今の私は単語も満足に話せない1歳児だ。
どうしたらこの場を逃れることができるのかと内心焦っていると、
「一人で階段を下りてこられるなんてすごいじゃないか!」
救世主が現れた!
「ジャック、ここはちゃんと怒らないと」
立ち上がった母さんが腰に手を当てて言うが、厨房から出てきた父さんは豪快に笑いながら私を抱き上げてくれた。白い作業着姿の父さんは、今日もパンの良い匂いをさせている。
「元気でいいじゃないか」
「元気って、リナは女の子よ?」
「女の子でも、元気が一番だ。それに、リナはこの国で一番可愛いもんな?」
「な!」
髭の残る頬にじょりっと頬ずりをされながら言われると、さっきまで母さんが怖いと思っていた気持ちがたちまち消えていくのがわかる。父さんの娘愛はすごいよ!
「部屋に一人でいるのが寂しかったんだろう? そうだ、リナ。おとなしくしているって約束するなら、厨房で父さんの仕事を見ているか?」
嘘! 本当にいいのっ?
どんなふうにパン作りをしているのか見たかった私は、父さんの提案に即座に元気よく手を上げる。
「あい!」
「はは、よし」
「ちょっと、ジャック」
母さん、ごめんなさい。
後でたっぷり叱られるから、今は父さんの作業を見させてください。




