「クロノス」
そっと目を開ける。眩しさに怯えて、でもその眩しさを見るために目を開ける。
「ミハヤ」
目の前に、微笑む彼女が居た。
真っ直ぐ伸びたセミロングの黒い髪も。人懐っこそうな大きな金色の瞳も。思ったより筋肉質な肌も。そのすべてが幻覚だ。彼女は僕が殺したのだから。
君を殺したのは間違いなく、僕なのに。それなのに、君は僕に微笑みばかりを与える。
「陽灯。」
名を呼ぶ。ただそれだけで君は嬉しそうに笑ってくれる。
憎むべきなのに、恨むべきなのに、軽蔑すべきなのに、君がそんな顔を浮かべることはない。
(だって僕が君の怖い顔を知らないから。)
憎しみで歪む顔を、怒鳴り付ける様を、僕は見なかった。理解できなかった。あの日の夜に僕は君と向き合わなかった。また次の日も、僕の心は凍り付いていた。
「僕ってば本当にお花畑だね。」
アヤメに幻覚を見せられているんじゃない。アヤメの力でミハヤ自身が幻覚を見ている。都合の良い夢を。これは彼の脳で起きていること。だからミハヤは永遠にこの世界で違和感を覚えない。綻びを見つけられない。彼自身がこの世界を生み出したのだから。
「あら、私の自慢の人に何を言うんですの?」
この言葉も、怒ったように頬を膨らませおどける顔も、すべて、ミハヤだけが知ってること。
(最初のクローン体からか…、もっと前から浸蝕されてたか。)
どちらにせよ、これで術式が辿れないことに説明は着く。
それなら簡単だ。
「僕の頭をイジればいい。」
術式を思い浮かべる。目を閉じる。ただそれだけで無限に式は広がっていく。どんな書き方だっていい。最短だけが答えではないから。複雑に編めばそれだけ術の強度は増し、妨害のリスクを抑えられる。
何より、
「達成感が違うんだよね!」
そうミハヤは笑った。幼い言葉で、幼い声で、幼い姿で。
幼くなった体で一つ瞬きをすれば世界は慌てて動き始める。見えていた景色はもっと遠かったことに。香っていたはずの匂いはただの通り風に。そして音は…
「はぁ?」
なんかすっごい攻撃的な声に。
「…ノワールじゃん。」
同じく少し若くなった己の使い魔に、ミハヤは何の遠慮もなく溜め息を吐く。
「は…?…き、きみなっ、人のツラ見てそれは…!」
ミハヤは思いっきり顰めっ面をして、ついでに舌まで出してシッシッと手首を振った。
「マジでぶっ――」
また世界は切り替わる。瞬きをして世界の辻褄を合わせる。もう幼くもない背丈。考え方。
鼻を突く、この世でもっとも嫌いな匂い。その匂いに香辛料が何となく近い気がしてしまって、どうも好きになれないんだとミハヤは思い出す。
左手には重苦しい剣が赤を纏って握られている。右手で何かに凭れるように、それにぴったり体を寄せていた。
「どうして?」
問おてくるその男と、ミハヤは目を合わせる。あの日と同じようにその場から微動だにせず。
青い目、灰色の目。ミハヤと…前皇帝ユウヤ。血縁者であるはずの二人は、最初から最後まで同じ眼の色にはならなかった。
でも、あの日のような動揺は今のミハヤにない。
「こっちの台詞だよ…、全く。」
だけどあの日と同じような意味を、ミハヤは繰り返し吐いた。でも真意は少しだけ違う。同じ意味もあったが…どちらかと言えば、何でここに流れ着いたんだと言う悪態だった。
「君は、もう解ってしまったんだろう?」
苦しそうな、悲しそうな顔をする男に、ミハヤは力一杯大きな溜め息を吐いた。
「被害者面しないでくれよ。」
どうせなら、あと一秒前に流れ着きたかった。あなたを刺した後じゃなく、刺すその瞬間が良かった。もう既に治癒魔法で消えた消えたその痛みを、今の、この手で、思い知らせたかった。
「怪物は生きられないんだ…!」
「怪物はアンタの方だ!!!」
あの日叫んだ言葉は、今度は明確な意味をもった。理解が出来なかった。恐れていた。正気を失ったんだと思った。
でも今なら違う。
ミハヤは恐れてなどいない。前皇帝の言う意味を解らない訳じゃない。ただその上で微塵も理解できない。共感が出来ないのだ。
「貴方は節穴だ!数百年も僕の何を見たんだ!
『互いに多くの勘違い?』
違う!貴方は自分の都合の良いものしか見てないだけだ!」
あの日…、否、あの日に至るまでのずっと、言いたくても言えなかった。言い表せなかった。何と言えば届くのか。届けたところで変わることなんてあるのかと、怯え、怠けて、一つも伝えられなかった言葉を、今のミハヤが力一杯に叫んだ。
ユウヤの悪夢を見たことはない。その亡霊に恨み言を吐かれたこともない。命日を悼んだりもしなかった。でもふと思い出す度に、ああ言ってやれば良かった。こう言ってやれば良かったと、この日の復習は何千回もした!
この感情だけ、ずっと渦巻いていた。
「勝手に満足して逝くな!僕自身を見てよ!
僕は――」
ハッと我に返り、ミハヤは言葉を飲み込んだ。頭に台本は揃ってる。誤字脱字も確認済み。あとは音にするだけの言葉を、やっぱり飲み込んだ。
言わなかった。言えなかった訳じゃない。自分の意思でこの先の台本は読み飛ばした。
けれど、もう、さっきまでの渦巻きはない。
「神なんて要らないよ。
だって、僕が出来るもん。」
ドヤ顔で言ってやった。
あの日の僕は取り乱して、きっともっと支離滅裂だった。それでもその時の想いをかき集めて殴り付けた。
なのに、ユウヤは他人事みたいに笑う。
「あは…、確かに。君は僕なんかに似ず優秀だもんねぇ………」
殴りたくなる程、呑気に。
…でも、暴力はいけない。そう。…さっき言いかけた言葉は、単なる暴力だった。今さら死人のユウヤに、この言葉が届くことはない。でも、暴力はきっと誰に対しても…例え…、自分自身にも見せちゃいけない。
それを、教えて貰っていた。
「任せたよ、みはや。」
勝手に一人で満足して逝った男に、ミハヤは溜め息を吐く。最後まで一度も息子とは呼ばず…、違う方だけを向いてた男に。
握っていた剣を手放せば、凭れていた感触も消える。
後ろを振り替えることはない。
もう思い出したから。
ユウヤは、ミハヤを見くびって等いなかった。ちゃんと冥闇魔法も全力で使っていた。
そしてユウヤを…、前皇帝を…、かつて父と呼んだその人を殺したのは間違いなく自分自身だ。
(そうだった。)
清々しく、それ以上に心地がいい。春一番のような風が、また世界を拐っていく。今度は切り替わる訳じゃない。辻褄を合わせることもない。
この五感が、魂が、四肢が正しくある世界に。
ミハヤは目を見開く。自分が望む世界に閉じ籠る必要なんてない。ただそこにある姿をこの頭に受け入れるために。
「ユウヤ…、貴方は僕の父ではなかった。」
それをやっと受け入れられた。




