『わかってあげたい。』
僕は兄さんとは違う。
「遼二くんは本当に愛想の良い子ね。」
小さい頃から、よく褒められた。
愛想が良い、容姿が良い、要領が良い。
周りの子が出来て、僕に出来ないことなんてなかったし、僕に出来て、周りの子に出来ないことはたくさんあった。
それが当たり前で、それが普通。
「遼一くんは…、その、穏やかな子よね?」
兄は喋らないし。笑わないし。なにもしない。
…意味が解らない。
本当に一言も兄は話さないんだ、兄は。
いただきますも、美味しいも、ごちそうさまも、大好きだよも、おやすみも、おはようも、何一つ。
「……………」
母が泣いても、父が怒っても、一切表情を崩さない。
ただ笑うだけで、その場は丸く収まるのに、何故か、しない。
何で当たり前のこともしないのか。
僕だけが気遣って、頭を回して、無理をしている事実に、…物凄く腹が立つ。
でも、僕は良い子だから
「兄さん。
一緒に行こう?」
いつだって笑って、兄さんを部屋から連れ出すんだ。
兄さんに、当たり前を教えてあげる。
本当は嫌だけど。そんな時間があるくらいなら、ゲームとかしたいけど。
そういう、嫌な顔もせず兄を甲斐甲斐しく世話する弟が、一番褒められるから、僕は頑張る。
「お願いみんな、兄さんも仲間に入れてあげて?」
優しくて、献身的で、兄想い。
「………………」
相変わらず、兄は沈黙を崩さない。
崩さないんだけど、最近は僕の方が察せられるようになってきた。
「じゃあ鬼ごっこ…」
また兄さんは誰とも視線を合わせない。目を合わせればそれだけでみんな僕の話を聞いてくれるのに。
「…………」
少し苛立って、敢えてその視線を追ってみる。すると意外なことにその視線の先にはちゃんと物があった。
「…やっぱ砂場遊びにしよう!」
たぶん聞いても答えないだろうし、面倒臭いし、たまには変わり種もやりたいから、そうみんなに言った。
「…………」
「なぁに、兄さん?」
突然振り向く兄に、正直ギョッとしたけど僕は努めて笑いかけた。
そうしておけば会話にならなくても端からは成立する。
「…………………」
案の定、兄からの言葉はない。
この頃には兄は言語を持たない大きめの何かとしか思ってなかったから、別に何もない。
「…あれ」
だから、気付いたのは家に帰ったあとだった。兄から僕に視線を合わせたのは初めてだと。
正直期待感ないし、どっちでも良いけど。治せるなら試してみよう。
その晩に早速、兄さんの症状っぽいものを調べてみた。
「…え~……、わかんないよ………」
読めない漢字が多すぎる………。
えぇぇ…。辞めようかな…?そもそも僕がすべきことじゃないよ、これたぶん…。
漢字が多いし、親へとか、大人へ、みたいなことが書いてあるってことはたぶん、っていうか、どう考えても低学年がすることじゃない。
「……漢字辞書、持ってこよう……。」
物凄く億劫ではあるけど、だからこそやってみようと思った。やってみるだけで褒められると思ったから。
めんどくさいけど!
「兄さん!」
僕がいつも以上のウッキウキで話し掛けても、兄さんは目を合わさない。
あれから数日かけて、当てはまりそうなものは複数見つけた。たぶん併発してる。あと、どうやら僕の家庭はやばい。さっき気付いた。
「兄さん。」
兄さんの視線に入りそうな位置で、もう一度呼び掛ける。この接し方は完全に犬相手のもの。
犬ならここで見てくれるけど、兄さんは見ない。
「兄さん、今日は本を読もう!」
そう言いながら勝手に兄さんの足と腕を移動させる。抵抗しないけど、察してもくれないので物凄く重い。
もうこれだけで今日は良いんじゃないかと思えてくる。
「……」
気付いたら兄さんはこっちを見てた。
「絵本持ってきたんだ。」
これは僥倖と思って、床に置いた本を持って兄に見せる。
なるべく柔らかいタッチの、なるべく教訓めいたもののない、なるべく面白いものを選んだ。
最後のは僕のため。
「僕、そこに座るね」
僕は兄さんの足の間に座った。座ってから、ちょっと手とか邪魔だなと思って再度調整をする。
ついでに足曲げてくれた方が、肘掛けに出来るんだけど…、まあこれは明日で良いか。
「よし。読むね。」
兄さんに文字が見えるよう腕を伸ばして、僕はゆっくり読み始めた。
むかし、むかし。
あるひのことです。
まよなか、まっくらなじかん。
めをさまして。
わたしは、はな。ごさいよ。
ぐぅ~。おなかがすいたなぁ。
ぼくはむし。
けんちゃんはないていました。
きょうのおやつは、なにかな?
何十冊も読んだ。読みまくった。最初はめんどくさかったし、中盤は意地になってたし、最近はちょっと楽しくなってる。
「兄さん!今日はね、隣の図書館から仕入れてきたんだ!」
僕が呼び掛ければ、兄さんは僕専用の肘掛けになってくれる。
何より、僕が何を読んでも兄さんは気にしない。
兄さんのためという言い訳で、何でも読めることに最近気付いた。
「ところがあにはおとうとをしなせてしまいました。
死なせてしまいました?!
軽過ぎない?!」
なんだこれ、面白すぎる。行間のぎょの字もない。議事録だってもっとある。
「………」
「捧げ物って何のため?二人で食べれば良いのにね!」
貰い物に対してケチをつける方がどう考えても可笑しい。
でもそれを正当化してる辺りが、本当に面白い。
すると、ノックの音が響いた。母さんだ。
「遼二、遼一、ご飯よ。」
穏やかな…、いな、若干だけ緊張した笑みを浮かべる母。僕は必要以上に笑顔を帰して、大袈裟に立ち上がる。
「やった~!もうお腹ペコペコ~!
兄さん、行こう?」
言いながら兄さんの腕を付かんで、ぐっと引き寄せる。
…たぶん、兄さんの好物を作ったんだろう。何かの反応を未だに期待してたらしい。
「…………ぃ…」
箸を落っことしてしまった。
「あら…。遼二、珍しい。」
兄さんが喋った。何て言ったかまでは解らないけど、意思のある音だった。
驚いた。
兄さんには意思があったんだ。
「どうした、遼二。」
少し、間を空けて、僕はグッと息を飲み込んだ。
「あはは。ごめん。
あんまりも美味しくてビックリしちゃった!」
「あらあら、遼二ったら。」
ここで騒ぐのは可笑しいと思った。意外に思うのも、不義理だと思った。
表に出すのは違うと、僕は思ったんだ。
それから兄さんは少しずつ話した。僕にしか聞こえない声で、僕の後ろでだけで、話した。
兄さんは、饒舌で、色んな言葉を知ってて、大きな感情を秘めてて…、物凄く善人だった。
「あ、あ、りがとう。遼二。」
兄さんは善人だけど、無垢じゃないから僕の魂胆なんて全部解ってた。
その上で、心底から僕を真人間だと信じてたんだと思う。
…………。
「お前は何がしたいんだよ。」
『………』
言われて、答えられなくて、僕は微笑んだ。
微笑めど、微笑めども、その子は寸分も変わらないまま僕を見つめ返すだけだった。
「……」
この時間は何なんだろう。彼女は誰なんだろう。答えることに、考えることに、何の意味があるんだろう。
ああ、そういえば、そういえば
こういう風に黙ってると僕は兄さんそっくりだな。
「私の舞台、観る?
父様は来ないから家族席が余ってる。」
「遼二」
…誰、だっけ
「私の踊り、綺麗らしいから。」
知ってる。君が高く飛ぶこと、柔らかく動くこと、ピタって止まること。
小さい頃から、人より手足が長くて、それで、君は白い髪と肌と、それから
「遼二!!!!」
『っ…?』
眩しいのに、暗い。眼を見開いてるつもりなのに、何も見えない。何も感じない。
今は何時なんだろう。ここはどこで、今はいつなんだろう。
夢を見ていた?
何が現実で、あと僕は誰なんだろう。
「聴こえるか?
聴こえてるな、遼二。」
触覚も、視覚も、たぶん嗅覚もないけど聴覚はある。
この声は…、僕の友達の声だ。
うん。それはわかる。
僕の友達は、ジゼルとフリッツと、それから永徳と、陽灯ちゃんと、優希と、ブラッドと、
「頼むから正気のままでいろ…っ。
指先一つすら動かすな。俺も、もう動かせない…。」
清彦。
「…口はセーフだ。
なんか言え、不安になる。」
許可が出たので口を開こうとして、自分の口に何か甘いものが含まれてるのを知る。
甘くて、新鮮で、鉄っぽい…。
『っ…。』
気付いて吐き気を催したけど、動揺したからと動くわけにいかないことも理解した。
『君、生きてる?』
「…死ぬかよ…。
神結様を置いて、…くわけねぇ。」
いつも変わらない調子の清彦に、少し安心した。
相変わらず自分が何者かは思い出せないけど、それを聞いたところで友を不安にさせるだけなのはわかる。
『僕のGEMがあるはずだ。』
清彦が能力者だという記憶はないけど、でもたぶんそうなんだろう。
なら、きっと扱える。
洗脳か?改造か?とにかく僕は友を傷つけた。
今の状況は、ただ死を待つだけ。
「2つあんなら…、良かったんだがな。」
察するに僕は清彦以上に致命的な状況らしい。
アンゲルス隊員としても、彼の友としても、僕個人としても、置いていって欲しいけれど…。
「大丈夫だ。
俺の心臓が動いてる限り、お前を地上に縛り付けるし、誰にも近寄らせねぇ。」
君は頑固だ。
遠くで兄の言葉が聴こえる気がする。遠くで永徳の怒ってる声が聴こえる。遠くで陽灯ちゃんが笑って、それで泣いてるのがわかる。
『止まる前に、ちゃんと君の優先順位を守ってね。』
ジゼルは…、今も、人として戦ってる。
僕はただ、
『…ふ』
開いてるか解らない眼を閉じようとして、思い出す。
そういえば伝えたかったんだった。踊りじゃなくて、君自身が綺麗だって。




