中編 ペアの正体
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十二月に入ってからもペア居留地域周辺でのペアによる被害は後を絶たなかった。機動隊員一名がペアによって射殺されるという前代未聞の衝撃的な事件があった田野倉村でもペアの村への侵入は収まる気配は無かった。あたかも何者かが指揮を執り、わざとペアをけし掛けているような雰囲気さえもあり、村民達は不気味な気持ちを味合わされていた。
保科は機動隊隊長の森川岳志からの報告の中でいくつか興味をもった点があった。
一.ペアが銃を構え、更に引き金を引き、発砲できたこと。
二.単なる発砲ではなく正確に標的に狙いを付け、命中させられる技術を有していたこと。
三.人間の言葉とも思われる声を発すること。
更に射殺した二頭のペアの容貌や体格は今まで捕獲したり射殺したどのペアとも異なっていた。通常のペアの体長は精々で百五十から百六十センチ、小柄ではあるが、がっちりとした筋肉質で体重は平均して九十キロ前後あり体毛は毛深かった。身長の割に体重が重いせいか足の長さは短く、ずんぐりむっくりとした印象であった。性格は臆病で人間を襲うなどまずありえなかった。
それに対して今回の二頭のペアは体長が百七十センチはあり、体重は七十から七十五キログラムの間で従来のペアと比べても細身で均整がとれていた。更に足は長めで全身の体毛は薄かった。保科が今回のペアに対して感じていた違和感はそのような容貌にもあった。
そんな折り、保科は獣医の森野有三の訪問をうけた。森野は隣接する城山市内で自ら動物病院を開院する傍ら、田野倉村役場の嘱託獣医も兼任しており、今回は射殺した二頭のペアの解剖やDNA分析も行っていた。
聡明な顔立ちに似合わず敬語とは無縁の話し方をする森野が口を開いた。
「この報告書に詳細は書いたけど、要点は今回の二頭のペアは従来のペアとは遺伝子レベルで違いがあったという点だね。通称ペアと言っている生物の学名は君も知っての通り、ホモ・ネアンデルタレンシス・ヤポニカと言って、ホモ・ネアンデルタレンシス、いわゆるネアンデルタール人の変種だ。ネアンデルタール人は我々ホモ・サピエンスの祖先によって二万八千年前に殺戮殲滅されたとも言われていたが、この変種が日本の山奥深く人知れず生き延びていたのを発見されたのが昭和の時代に入ってからだった。古来、野人とか天狗とか言われてきた存在が彼等だったとも言われているし、古をたどれば魏志倭人伝に『女王国の東、海を渡る千余里、また国あり、皆倭種なり。また侏儒国あり、その南にあり。人の長三、四尺、女王国を去る四千里』とある。この小柄な人種が集まる侏儒国はホモ・ネアンデルターレンシス・ヤポニカの集団がいた地域だという説もある。ともあれ彼等と我々人類はこれまで互いの領域を侵すことなく共存してきていたわけだ」と一気に喋ってから森野は出された緑茶を飲んで一息おいた。
「最近の化石分子生物学の研究結果からネアンデルタール人と我々ホモ・サピエンスの間には交配の事実が確認されていて我々のDNAの一部にはネアンデルタール人のDNAが混じっている。そしてホモ・ネアンデルタレンシス・ヤポニカのDNAにはより多くのホモ・サピエンスのDNAが組み込まれているが、今回捕獲したペアのDNAは従来以上にホモ・サピエンスとの相同性が高い。ごく近い時代にホモ・サピエンスとの交配を繰り返していた結果なのか、それとも」と森野は一呼吸置いた。
「どうしたのですか」保科は黙り込んだ森野を促した。
「そう、誰かが故意に遺伝子操作をして作り出したものかもしれない。いろいろな進化があまりに急なのだ。人類の進化は共通の祖先をもった人類が隔絶された地域に分断された時に、その地の特性に合わせてゆっくりと変化して最終的には新規の人類が出現するわけだ。現代のように交通の便が良く、世界中と交流できる状態だと隔絶された地域でできにくい。つまりホモ・サピエンスから新たな人類への進化は起こりにくいはずだ。ホモ・ネアンデルタレンシス・ヤポニカにしたところで限定された居住地に住んでいるに過ぎないから進化のテンポはゆるやかなはずだ。ところがさっきも言ったように今回の二頭のサンプルは急激なDNAの変異をとげている」そこまで言って森野はもう一度緑茶を口に含ませた。
「たとえば従来型のペアの声帯は喉までの位置が近すぎて母音の単純な組合せの音声しか出せなかったのだが、今回の二頭のペアの声帯は従来型よりも低い位置にあった。つまりだ。我々人間と同じような言葉を出せる機能が備わっていた可能性を否定できないな。大脳の発達具合も現代人とほとんど変わらない。相当な知能を持っていたとしても不思議ではない。そうだ、絶対何者かが遺伝子操作を施したに違いない。無論、従来のペアとホモ・サピエンスが交配を繰り返しても同様の現象が起こり得るが、現在までの研究成果ではホモ・ネアンデルタレンシス・ヤポニカとホモ・サピエンスの交配は成立しないとされている。受精卵ができてもプログラミングされた死、つまりアポトーシスが作用してしまう」森野は自分なりの結論を導き出したようだ。
保科は今の話を聞いて遺伝子操作の話は意外ではあったが「やはり」という気持ちが強かった。
「では、銃で狙った目標に撃ったり、人の言葉を喋ったり、器用な手の動きをしたりするのも十分可能なのですね」と保科は疑問に思っていたことを再度確認するために森野に尋ねた。
「可能だねえ」と森野は即答した。
「腕から指にかけての筋肉の付き具合は我々ホモ・サピエンスと遜色の無いものだったな。これはね、保科君。驚くべき発見だぜ。早速、私は稀少動物学会に報告するよ。いいね」と森野は保科の顔を威圧的な表情で見つめた。今回の新発見を発表すると自分の実績になり名誉となるはずなのだ。
「ええ別にそれは構いませんが。それにしてもこれが遺伝子操作によるものとすると一体誰がそのようなことをやったのでしょう」保科は森野の遺伝子操作説が気になっていた。
「やろうと思えばどこの研究所でも可能だ。しかし実際やるとなると変人学者の北嶋元教授かな。かなりの高齢だから、どこまでできるかは分からんがね」自分の変人ぶりをよそに森野は即座に答えた。
「北嶋元教授ですか」保科はその名前には聞き覚えはなかったが、その時、保科には別の発想が浮かんだ。
森野と別れた後、保科は県警機動隊の森川隊長に電話をした。
「忙しい所、申し訳ありません。用件だけ言います。この前、ペアを射殺した三村隊員の話を聞きたいのですが」保科ははやる心を押さえながら尋ねた。
その日の夕刻に保科は三村隊員と会い、二頭目のペアが射殺される前に見せた手の動きを教えてもらいたいと頼んだ。三村もうろ覚え状態であったが、なんとか保科にペアの動きを再現してみせた。
午後六時を少し回った頃に保科哲哉は自宅に戻った。哲哉にしては、いつに無く早い帰宅であった。玄関、廊下と明かりが点いていたが、母屋に人の気配は無かった。
「誰もいないのか?」と呼びかけながら哲哉は離れにある妹親子が住んでいる部屋に足を運んだ。
「日登美、翔太いるかい?」哲哉は部屋の前で声をかけて、中からの反応を待った。
内側からごそごそという音が聞こえてすぐにドアが開き、翔太が驚いたような目で哲哉を見上げた。
「やあ、ママはいないのか?」と哲哉は手話を使えなかったので翔太に声を出して聞いた。
翔太も伯父の哲哉が手話を使えないと知っていたので手に持った小さなホワイトボードに“まだかえってない”と書いた。
「帰ってないか。婆ちゃんの姿も見えないけど、どこか行ったか?」
“みそをかりに、でていった”と翔太は前の文字を消してホワイトボードに書き直した。
「ありがとうよ。お腹すいたよな。もうちょっと待ってろよ。あれ、それは僕の載っている新聞じゃないの」
哲哉は部屋の床に先月の機動隊員が殺され、二頭のペアが射殺された新聞を見て言った。それには二頭の射殺されたペアのモザイク写真と哲哉の記者会見風景の写真が掲載されていた。
“おじさんわえらいとしんぶんみてた”と翔太はすばやくホワイトボードに書き直した。
「別におじさんが偉いわけじゃないさ。みんなが協力しあっての話だよ」と哲哉は翔太の頭を撫でながら言った。翔太が軽くうなずくと哲哉は部屋を出て行った。
翔太は伯父の哲哉が母屋へ戻ったのを確認するとドアを閉めて、部屋の押入れの戸を叩いた。押入れの中からは以前自らを「太郎」と名乗った男が長身の体を伸ばすようにして出てきた。
『狭かったでしょう。ごめんなさい』と翔太は太郎に手話で話しかけた。
『見つかると大騒ぎになるからね』と太郎は笑いながら答えた。
『今の人は君の伯父さんかな?』太郎が問いかけた。太郎は押入れの襖の破れた穴から翔太と哲哉の二人を見ていたのである。
『うん。役場で働いているんだよ。今は悪いペアをやっつけているんだって』翔太は無邪気な顔で答えた。
『そうか。君のママももう直ぐ帰ってくるから、そろそろ僕は出ていくよ』と太郎は少し戸惑った表情をして言った。
翔太は時々太郎の訪問を受けて、そのたびに色々な話を聞いた。太郎の手話は翔太にとって母や祖母のどの手話よりも分かりやすかったし、太郎は翔太の意図する手話の意味を即座に感じ取ってくれたため、翔太は太郎と会うのが楽しくて仕方が無かったのだ。
太郎は音も立てずに窓から出て行った。
哲哉が母屋に戻ると妹の日登美が丁度帰宅していた。
「あら兄さん珍しく早いのね。夕飯はこれから作るのよね」と買ってきた食材を冷蔵庫などに入れながら日登美は言った。
「いや、帰ってきたわけじゃなくて、また役場に戻らないといけないんだが、どうしても君に確かめておきたいことがあってね」と哲哉は妹に言った。
「え、一体なんなの?」日登美は手を動かしながら聞いた。
「手話の意味が知りたいんだよ。この手の動きの意味は何かな?手話じゃないかと思ったのだけど。もし手話だとしたらどういう意味になるかな?」
哲哉は三村隊員から聞いたペアの動作を再現して見せた。一回目の動作だけでは日登美には通じなかった。手話としてはどうも不完全なものであるらしい。更に繰り返し哲哉はその動作を日登美にしてみせた。結局、五回ほど動作をしてから日登美は大体こういう意味ではないかという意見を言った。
「中指を上に上げるのは、“兄さん”だけど。もう一つは親指と人差し指を拡げたのを体の前で交差させながら閉じる形という風に見ると“憎む”という意味になるわね」
「“兄を憎む”か」と哲哉は言った。
「それは違うと思うわ。途中で意味不明な動きもあるから、恐らく“私の兄はあなたを憎む”という感じの方が当たっているような気がするわ」と日登美は答えた。
「そうか。奴等には兄がいるのか!」哲哉はそう言うと直ぐに役場に戻らねばと言いおいてバタバタと音を立てて家を飛び出していった。
日登美は何がなんだか分からないという表情で夕飯の支度にかかり始めた。
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田野倉村役場山林保安課課長の吉田聡介は保科からの報告を受けて戸惑っていた。保科の調査結果から見て現代人と同程度の知能、体力を有するペアという類人猿(と吉田は偏見をもっているが正確には旧人類である)の進化系がペアの中に混じっているという。
典型的な例が、先日機動隊隊員の一人を射殺したペアである。そして岐阜県の山あいの部落で老人三人を殺害したペアも今回の事件を引き起こしたのと同じ個体であろうと結論付けられている。おまけに片言だが人の言葉も話せ、さらに手話までできるというのだ。
そのような優れた知能を備えた双子のペアを射殺して、これから始まるであろう人への大きな危害を未然に防いだと思った矢先に、その二頭のペアには兄に当たる個体がいるというのだ。更にその兄は憎しみの感情も持っているらしいのだ。これまでの常識からは考えられない類人猿の行動だと吉田は思った。
課長のように旧人類を猿や類人猿の仲間と誤解している人がいる限り、住民の安全は確保できないと保科は思った。人類は常に知的な進化を求める生物である。そしてそれは不幸なことに戦いを通して急激な進化を遂げるのが常だった。
何故戦いをきっかけに進化するのか?それは死にたくない、相手から殺されたくないと思うからこそ、必死に自分に害する相手を駆逐する手段を考えるからだと保科は思う。
我々新人類にしろペアにしろ人類の一つの形態であることには違いない。つまり戦いを通じて知的な進化をしうる生物なのだ。
獣医森野の報告を受けた時、森野はこうも言っていた。新人類は問題解決の手段として慈愛と殺戮を用いることができるが、旧人類は殺戮行為しか解決手段を知らないというのだ。さらに旧人類は自然と共存して生きていく術しか知らないが、新人類は自然を破壊して進化する術を身につけてしまったと。そして、さらに複雑になった新人類の思考能力と行動力がその後の彼らの繁栄をもたらしたのだと。
今回、遺伝子操作か突然変異かは分からないが急に出現した双子のペアは限りなく新人類に近い存在で、中間型人類だと森野は指摘していた。旧人類と新人類の中間に位置する人類は未だ知られていない。中間型人類が存在する事実は旧人類から新人類への連続した進化系を証明するための貴重な資料となるという。たとえそれが遺伝子操作の産物であったとしてもその遺伝子操作技術の解明は人類の未来に何らかの警鐘を鳴らすはずだとも森野は言っていた。
保科は人類の進化の証明資料云々という話には興味が無かった。とにかく、その双子には優秀な兄が確実に存在していて、その優秀な兄が従来型のペアをそそのかして我々の居住地区に侵入せしめていると思った。
本来なら冬眠生活に入っているはずのペアであったが、年が明けて一月になっても相変わらず里山を徘徊し、倉庫や蔵、鶏小屋や豚小屋などを襲い、食料となるものを略奪しているのである。他県では例年通り、冬に合わせたようにペアの騒動が鎮静化しているにも関わらず、ここ田野倉村周辺では状況が変わっていない事実が双子の兄の煽動説を証明していると保科は思っていた。
ペア騒動が起こる度に保科達は狩り出されペアの駆逐に当たる。立場上、保科はペア掃討作戦の先頭に立ち活躍した。自らが銃でペアを射殺することはなかったが、新聞報道では必ず保科の名前が出てきていた。
いつしか保科はペア駆除の第一人者という称号さえ与えられるような存在になってしまっていた。そして保科哲哉は多忙を極め家で寛げる時間も無くなっていた。
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「翔太!」日登美は道路を横切ろうとしている息子が見通しの悪い道の角から飛び出してきた軽自動車とぶつかろうとする瞬間を眼の前にして叫んだ。路面も冬の寒さで凍結し、その車も急には止まれそうになかった。
次の瞬間に白いガードレールの後ろから黒い影が飛び出し、目にも止まらぬ速さで息子が抱きかかえられ道路のこちら側の歩道に飛び込んでくる男の姿を日登美は見た。
翔太は自分を抱いて母親の近くまで届けてくれた男が「太郎」だと知った。
『危ないよ。車にぶつかる所だったよ』太郎は翔太を歩道に下ろすと、にこやかに手話で翔太に言った。
「大丈夫、翔太、怪我なかった?」日登美は翔太を抱きかかえるように全身の様子を見たがかすり傷一つなかった。
「大丈夫でしたか?」あやうく翔太を引きそうになった軽自動車を運転していた頭の禿げ上がった老人が心配そうな顔をして近づいてきた。
「ごめんなさい。息子が急に飛び出して、かえってびっくりさせてしまって」と日登美はその老人に言った。
「それにしても、あんた。人間技とは思えない位にすばやい人やね」その老人は翔太の無事を確認するとそばで黙って立ち尽くしていた長身の太郎に声をかけた。
「ボク、ウマクハナセナイ」と太郎は申し訳なさそうな顔で老人に搾り出すような声で答えた。
「喉に障害でもおありなさるんか。いずれにせよ、危ないところを助けてもらってありがとう」と声をかけて老人は自分の車に戻っていった。
『おじさんは手話が得意なんだよ』と翔太は日登美に手話で伝えた。
突然のことで呆然としていた日登美は一番の命の恩人である太郎に礼を言っていないことに気がついた。
『息子の危ないところを助けて頂いてありがとうございました。怪我はありませんでしたか?』日登美は自分にできる精一杯の手話で太郎に答えた。
『少し手をすりむきました。でも全く問題ありません』太郎は他の男性よりは毛深い顔ににこやかな表情を浮かべて手話で答えた。
日登美は息子を救ってくれた男性の毛深さには違和感を持ったが、均整のとれた体つきや端整な顔立ちの太郎に好印象を持った。
この頃の太郎は、翔太と初めて出会った頃のような肌身の上に直接黒い背広の上下を着ているような服装ではなく20代の男性が一般に着ているような服装で上は黄土色の生地のダウンジャケットを着て、下はデニムのズボンで決めていた。靴は雪でも対応できる通称スノトレと呼ばれるズック系の靴を履いていた。
『おじさん。消毒して絆創膏貼った方がいいよ。うちへおいでよ。ママもいいでしょう』と翔太は日登美を見上げた。
『是非、傷の手当させてください。うちに来てください』と日登美も太郎に伝えた。
日登美たちが家に戻ると、両親の保科克一と映子が母屋にいた。二人は孫の翔太が危うく交通事故で死ぬかもしれない所だったことを知り、驚いて翔太を抱きかかえるようにして様子をみた。
「本当に危ないところを助けて頂き、ありがとうございました」少し落ち着きを取り戻した克一は娘の日登美から紹介された太郎に向かって礼を述べた。
「お父さん、この人は聾唖なのよ。手話でしか話できないの」日登美は太郎の澄んだ目を見ながら答えた。
「スコシナラ、ダイジョウブデス」と太郎は喋ろうとしたが、日登美が『私が通訳しますから』と手話をかって出るのであった。
「失礼ですが、お名前を聞かせてくれんやろうかね?」克一は日に焼けた顔に笑顔を浮かべながら尋ねた。
『北嶋太郎といいます。仕事で富山からきています』と太郎は手話で日登美に答え、日登美は、それを口に出して両親に伝えた。
「北嶋さんけ、いや~有りがたいことや。翔太は家に1人しかおらん孫でしてな。言葉がでないで可哀そうなんだが、賢い子でね。わし等には宝物のような存在ですわ」克一は翔太が感じたのと同様に口の利けない太郎に親近感を抱くのだった。何より素直で賢そうな顔立ちが克一の印象を良くしていた。
「今夜はどこにお泊まりかな。もしよければ今日はうちでゆっくり泊まっていきなさい」
『今日はこのまま富山に帰る予定でした』と太郎は少し困惑したような顔で日登美に答えた。
祖父の克一の言葉に翔太がまず反応した。『そうだよ、泊まっていきなよ』と目を輝かせて手話を太郎に送るのだった。
ささやかではあったが克一の上機嫌な振る舞いで夕食は終わった。太郎は酒が強く、克一の勧める酒をすべて飲み干したが、克一や映子からの質問には全て答えていた。その都度、日登美が間に入って手話による通訳をした。
翔太は気持ちも高ぶっていたのか太郎の膝に上に乗ったり、祖父と母と太郎の間を行きつ戻りつしながらはしゃいでいた。午後十一時、既に翔太は離れの部屋で寝息を立て眠っていた。酔い潰れた克一は映子に促されて寝室に入った。太郎の一夜の宿は二階にある保科哲哉の部屋の隣の和室があてがわれた。
太郎は窓を開けて、冬の空に浮かぶ満月を見ていた。
「まあ、寒い部屋にしているのね」兄の古いパジャマを持ってきた日登美が声をかけた。
「ヨッテシマイマシタ」手話と言葉を交えながら太郎は振り向いて答えた。
「兄のお古のパジャマですけど、とりあえずこれを着てくださいね」日登美は太郎のそばに来てパジャマが体にあうか合わせようとした。
最初、会った時に太郎から感じた妙に生臭い匂いは、夕食前に入った風呂で消えていたのか今はさわやかな石鹸の香りと吐く息から匂うアルコール臭に変わっていた。
パジャマをあてがった太郎の肩は逞しい筋肉質であった。瞬時に駆けつけ翔太を救った動きも納得できるのだった。
「少し、窮屈かもしれないかな。でも袖を通してみて」日登美は半ば強引に太郎の上着を脱がせ、パジャマの袖を通させてみた。日登美も今日は酔っていたのかもしれない。すぐ目の前に現れた太郎の唇に自分の唇をあてがうのだった。そして太郎の逞しい体に自らすっと抱き付いていくのだった。
太郎は突然の日登美の行動に驚きの目をしたものの、日登美のなすがままになりながら次第に彼女の背中に手を回し両手で背中から臀部をやさしく愛撫した。しかし、その時間は長くは続かなかった。仕事を終えた哲哉の帰る音が下から聞こえてきたのだった。
「ごめんなさい。兄が帰ってきたわ。遅いけど、挨拶して頂けるかしら」日登美は潤んだ瞳で太郎に言った。
二人が階下に行くと、母の映子が哲哉のために遅い夕食を用意していた。
「兄さん、この人が北嶋太郎さんと言って、翔太を助けてくれた命の恩人なのよ。太郎さん、こちらが兄の哲哉です」と日登美は二人を引き合わした。
「そうなのよ、お父さんがえらくこの人を気にいってしまって、引き止めて泊まって頂いたのよ」と母の映子も哲哉に言った。
哲哉は日登美の後ろに控えている太郎を見た。太郎の顔に翳りがあるように感じたが、「これはこれは、翔太の危ない所をありがとうございました。おまけに父が強引に引き止めて反って迷惑だったのではないですか?」哲哉は気さくに太郎に声をかけた。
『とんでもない。大したこともしていないのに返って私も恐縮です』太郎は手話で日登美を介して哲哉に返事をした時には爽やかな笑顔に戻っていた。
『手話なのか?』と一瞬、哲哉は違和感を覚えるのだった。
午前3時になった頃だった。太郎は尿意をもよおし目が醒めた。閉めた窓ガラスからは西の空に傾いた満月が見えた。外は冷え冷えとした二月の夜の風景であった。音も立てず静かに布団から出て、そっと襖を開けて廊下に出た。隣の部屋からは哲哉の鼾が聞こえていた。ミシミシと軽い音を立てながらも、家の誰も起こさないように太郎は階段を静かに降りた。トイレに立ち用を足していると、アルコール臭の混じったような奇妙な匂いが湯気と共に上がってきた。
『酔ってないつもりが、酔ってしまったのかもしれない。それにしても日登美のあの行動は何だったのだろう』不思議な気持ちが太郎の心の中に渦巻くのだった。この年になるまで太郎は女性を知らなかった。
柔らかな唇の感触、そして抱きつかれた時の胸の膨らみの弾力感は、これまでに感じたことのない欲望を芽生えさせるのに十分な刺激だった。太郎は再び静かに二階に上がっていた。隣の部屋からはまだ哲哉の鼾が聞こえていた。
太郎は哲哉の仕事を以前翔太の住まう部屋にあった新聞記事で見て知っていた。太郎は哲哉の部屋の前で立ち止まった。そして、ゆっくりと部屋の襖の戸を開き始めた。襖戸は音も立てず確実に広く開いていった。
人一人がようやく入れそうなくらいに襖戸が開いた時に哲哉の鼾が一時静まった。太郎は手を動かすのを止めて部屋の中央にある布団の動きを見た。ナツメ電燈の弱い光の中で呼吸に合わせた軽い上下の動きは規則正しかった。直ぐにまた鼾は始まった。太郎は襖に再び手をかけたが、それ以上開けることはしなかった。
『今日はしない。翔太のため、日登美のため。君は弟たちの敵だ。しかし、その命は春までには無いと思え』太郎は廊下から寝ている哲哉に向かって手話で思いを伝えた。
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翌朝、遅く起きた哲哉は急ぎ役場へ向かった。哲哉が起きた頃には太郎の姿は無かった。朝一番のバスを利用して富山に戻ったという。役場の自分の机の上にあるパソコンの電源を入れ、立ち上がりを待っている間に昨夜の夢とも現実ともつかない現象を哲哉は思い出していた。
昨夜も遅く家に帰って北嶋太郎という男性を紹介され軽くあいさつを交わしてから食事を早めに済ませ風呂に入ってから寝床に直行した途端、朝まで起きないような深い眠りについたはずだった。
何か寝苦しい圧力を無意識に感じ取り哲哉は覚醒したと思った。呼吸のリズムはそのままに哲哉はじっと布団の中で周囲を観察しようとした。部屋の中に異変は無いようだったが、廊下からの冷気を感じ取った。廊下への襖は閉めた記憶がある。言い知れぬ圧迫感が布団の中にいる哲哉を襲っていた。冷や汗とも脂汗ともつかない汗が全身から吹き出してきた。ペアを駆逐しに行った時に感じる緊張感と共通していると思った。
体を動かさず布団の端から薄目を開けながら廊下の方をうかがうと大きな人影のようなシルエットが見えた。『誰かいる』というより『何かいる』という感じだった。哲哉は静かにしている方が安全だと判断して廊下の方向に注意しながら、鼾をかく真似をして熟睡している自分を演技した。やがて静かに襖戸は閉じて廊下の冷気も入ってこなくなった。
「誰だ、一体あいつは?」哲哉は独りでつぶやいた。同じ部屋にいた山林保安課課長の吉田聡介が声をかけた。
「どうした保科君。浮かぬ顔して今日もペア出没で忙しくなるというのに」
「疲れ過ぎですかね。変な夢をみて寝覚めが悪いですよ」と哲哉が答える。
「それで遅刻かい。まあ連日のペア騒動で最近は寝る間も無いくらいだからな。お互い寝られる時には寝ておこうぜ」笑いながら吉田は部屋を出て行った。
哲哉が『一体あいつは誰だ』と思ったのは、夢の中に出てきたシルエットではなく、昨夜初めて会った北嶋太郎と名乗る男だ。
身長は百八十センチくらいあり、大柄で筋肉質の体で均整は取れていた。容貌も精悍さもあるが柔和でいわゆるイケメン風だが、やや毛深い印象のある男だった。確かに好感の持てる印象はあったが、哲哉はその中に違和感を感じていた。家族の者に紹介される際にいだいた第一印象は獣であった。それはペアと遭遇した時に感じる雰囲気に似ていたのである。そして北嶋太郎は言葉を上手に発することができず伝達手段を主に手話に頼っていたというのも気になった。『彼はペアではないのか』という疑念を哲哉の脳の一部が叫んでいた。
11月に哲哉らが駆除した二頭のペアはこれまでのペアとは体型が著しく異なっていた。身長が高く均整が取れていた。銃を扱うことができ、しかも正確な射撃の腕ももっていた。そして手話ができた。しかし、昨夜目の前に現れた北嶋太郎は彼らより更に人間に近い印象だった。駆除した二頭のペアの体毛は、従来からのペアと比べて薄いとはいえ毛深かったが、北嶋太郎の体毛はさらに薄く普通の毛深い人間と遜色はなかった。
妹の日登美からの手話の解説では『駆除したペア二頭には兄がいる。そしてその兄は人間に恨みをもっている可能性がある』という。もしも北嶋太郎がペアであれば、弟達の復讐のために人間社会に深く入りこみ始めたということになる。
「一体、あいつは何者だ」と哲哉は再び声を上げた。
午後の打ち合わせ会議の時に哲哉は上司の山林に北嶋太郎の話をした。そして警察にも連絡して北嶋太郎の身元調査を開始した。
この日は珍しく新たなペアによる被害報告がなかったため哲哉は早めに帰宅した。既に日登美も帰宅していたので、昨夜の北嶋太郎について何か詳しく知らないかと訊ねた。
「昨日の食事の時の話では富山の会社からこちらの方に出張に来ていると言っていたわ。もちろん手話でだけどね」と日登美は軽くウインクをしながら答えた。
「食料品関係の営業をしているらしいけど手話だけでそんなこと可能なのかしらね。でもかなり頭の良い人みたいだから何とかなるのよね」日登美は太郎の姿を思い浮かべるだけで気持ちが高揚していた。
「日登美、実は俺は彼がペアじゃないかと思っている」日登美の高ぶる気持ちに水を差すように哲哉は言った。
日登美は一瞬呆けたような顔をしたが「何馬鹿なこと言ってるのよ」と笑い転げだした。
「マジでそう思っているんだ、日登美」哲哉は去年の十一月に起きたペアによる発砲事件の話をした。
「兎に角、俺たちが射殺したその双子のペアは従来のペアと比べて骨格がより人間に近いこと、銃まで扱えるほど器用なこと。それに手話も使えた」哲哉は最後の言葉を強調した。
「手話?本当なのそれ?信じられないわ」日登美は哲哉の言葉を全く信じないようだ。
「本当だよ。手話の使える新種のペアだったんだ。そして太郎が彼らの兄だと思っている」哲哉は断言した。
「それは兄さんの想像でしかないわ。あの人が人間じゃないなんて考えられないわ」日登美は険しい表情をした。
翌日、日登美は職場の臨時休業に伴う休みの日で、翔太と両親を連れて車で30分ほどの場所にある郊外型の大型ショッピングセンターへ買い物に来ていた。翔太を両親と一緒にゲームコーナーで遊ばせておき日登美は婦人服売り場で最近流行の服を見ていた。平日の午前中のため店内に客は少なかった。
日登美はそばに人の気配を感じてふと眼を上げるとそこに北嶋太郎が立っていた。口元に笑みを浮かべ、優しい表情で太郎は日登美を見下ろしていた。
「あら」日登美は小さな声を上げた。
『偶然ですね。翔太君も一緒ですか?』と太郎は手話で話しかけた。
『翔太は両親と一緒にゲームコーナーで遊ばせているのよ。太郎さんはお仕事ですか?』日登美はスーツ姿に身を包んだ太郎を見つめた。
『ここの食料品部に来ていました。仕事も終わり店内を見ていました』
日登美は昨夜の哲哉の言葉が気になっていたが、ちゃんと仕事もしているし、この人がペアであるはずはないわと改めて思うのだった。
『ちょっと歩きませんか?』太郎は日登美を誘った。
太郎は洋服売り場の店員通路へつながる廊下に入った。バックヤードには商品ケースが乱雑に積まれていたが、人の気配はなかった。そして、ロッカーの陰に隠れるように日登美を壁に押し当てるようにして日登美の唇に自分の唇を重ねた。日登美は何の抵抗をすることもなく太郎のされるがままにしていた。やがて自ら太郎の背中に腕を回した。太郎は唇を離さずに日登美の胸や尻に手を回し、そのやわらかさを楽しんでいた。
「アナタニアイタカッタ」太郎は唇を少し離すとたどたどしい言葉で日登美に話しかけた。
「私もよ」日登美は太郎の瞳の奥にやさしい光を感じた。
「翔太と両親が待ってるかもしれないからもう行かないと。今度のお休みの日にでも会ってくださる?」
この時には日登美は太郎が人の言葉を十分に理解できることが分かっていた。
「ワカリマシタ」太郎はにこやかに日登美に返事をした。
それから日登美は仕事の空き時間を利用して、幾度か太郎との逢瀬を重ね、やがて体を許し合う仲になっていった。
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二月になってもペアとの小規模な小競り合いが続き、射殺を第一選択とする駆除作戦が展開されていた。それに伴いペアの個体数もかなり減少しているはずであった。そして田野倉役場には、連日のように動物愛護団体や稀少動物保護団体からの猛烈な抗議が届いていた。
しかし村民からはペア駆逐の手を絶対に緩めるなという必死の要望もあり、事実上のペア掃討作戦の責任者となっていた保科哲哉の精神的な重圧は相当なものになってきていた。
日を追うごとに保科は痩せ、うつ状態に陥ることも多くなってきていた。
「先導者のペアを抹殺しなければ、無益なペアの殺生を繰り返すばかりだ」保科はいつしかそう思うようになった。警察に調査させていた北嶋太郎と名乗る男は消息も身元も全く不明だった。
そんなある日、保科は猟友会の笹山良太の自宅を訪ねた。笹山は五十六歳になるが元気に山野を闊歩している男である。昨年、進化系ペア駆除の際にも積極的に行動に加わってくれた一人でもある。
「笹山さん。あなたは山に詳しいから、私の頼みを聞いてもらえんだろうか」と保科は笹山に話しかけた。
「この村のペア騒動の裏には、去年殺した双子のペアの兄が絶対関係していると思っています。優れた知能を持っている奴が自分の手を汚さずに無能なペアを操って無益な殺生を起させているんじゃないかと私は思っているのです」と保科は続けた。
「じゃが、一体何のためにそんな仲間を殺すようなマネをするんじゃ」笹山が聞いた。
「弟達を殺した我々への憎しみから来ているのではないでしょうか。ペアにしては執念深い個体ですが、その執念深さは人類が共通して持っている本能的な部分なのかもしれません。みんな戦争を嫌がっているのにどうして戦争は無くならないのでしょうか?戦争で殺される仲間への復讐心が新たな憎しみを生み、執念深い復讐心へと変わっていくからじゃないでしょうか。私は原始的なペアを煽動している奴が憎いのではないのですよ。無益な戦い、無益な死を恐れているのです。彼に無益な煽動を止めさせたいのです。そのためにはペアの集団生活をしている場所に行く必要があります」頬がこけてきた保科の顔には鬼気迫るものがあった。
人類はペアという旧人類、学名ホモ・ネアンデルタレンシス・ヤポニカとある意味共存していた。ある意味というのは彼らが限定された区域に追いやられた不公平な形であったからだ。そして笹山たち一部の猟友会のメンバーのみが山深い地にある旧人類の住み家への道筋を知っていた。
「難しい話は分からんが承知した。仲間集めるわな。煽動している“あんま”を山探しして殺るんだな」笹山は真面目な顔をして答えた。(“あんま”:北陸地方の方言で長男の意味)
打ち合わせの後で保科は笹山の家で日本酒を御馳走になった。ほろ酔い気分で哲哉は自宅に戻った。今日は笹山に会って話をしてから非常に気分的に楽になっていた。ましてや久しぶりに飲んだ日本酒が哲哉の心地をよくさせていた。
「あら、珍しい。飲んできたの。でも、久しぶりね。飲んでる兄さんを見るのって。食事はしてきたの?一応用意は母さんがしてくれていたけど?」と翔太を寝かしつけたばかりの妹の日登美が哲哉に声をかけた。
「うーん、食事は止しておこう。それより冷たい水くれないかな」
日登美が水を持ってきてすぐ立ち去ろうとしたので哲哉は妹の背中に声をかけた。
「そう言えば翔太を助けてくれた太郎という男は最近見かけるかな?食品関係の仕事をしていると言っていたようだが」
日登美は内心の驚きを隠せなかったようだ。返事の声が妙に上ずっていた。
「見ていないわよ。どうして私にそんなこと聞くの?そう言えば兄さんは彼のことをペアって疑っていたわね。私にはどうしてもそうは思えないわ」日登美は振り返って哲哉を見つめた。
なんだか思いつめた目をしていると哲哉は感じた。
「確かに見た目は我々と変わらないが、状況証拠がそれを示している。それに北嶋という名字の由来も怪しい。獣医の森野さんが言っていたが、昨年の岐阜の大地震のあおりを受けて倒壊した建物の下敷きになった男性が北嶋元教授だったが、彼はペアの研究を長年やってきていた男だ。ひょっとしたら北嶋元教授がペアに遺伝子操作をして人工的に生まれてきた改良型ペアがあの太郎かもしれないんだ」哲哉はここまで話をしてよいかどうか迷ったが、自分自身の思いを確信にするためにも妹の日登美に打ち明けた。
「私には分からないわ」そう言い残して日登美は別室へと向かった。日登美はすでに北嶋太郎とは男女の関係を持っていた。日登美は一番密着している私が太郎はペアではないと断言するのだから信じてと言いたかったが兄の立場を考えると打ち明けられなかった。
-11-
暖冬とは言え、二月の福井県の奥山の雪は深かった。保科たち“あんまペア”狩りの一行二十名の行く手は自然の猛威に阻まれる形になっていた。
「こんな雪じゃあ、ペアも動きが取れまいに。足跡もなんも見えんよ」年長の笹山良太が保科に言った。
「この雪だと到着までにどれくらいかかりますか」歩くうちに暑くなりダウンジャケットのチャックを下ろしながら保科が笹山に聞いた。結構体力を使う雪中行軍であった。
「ここから住み家までは1日ほどかかるわいや。今日はどこか適当なところで野営をせにゃならん」笹山は後に付いてくる仲間に聞こえるように言った。
「竜平!」と笹山が十名ほど後からくる一人の若者に声をかけた。
「おうよ」とその若者が答えた。
「ここらで、ペアの鳴き真似やってみられま」笹山が竜平に命じた。
竜平は息を大きく吸い込み、母音中心の犬の遠吠えのような声を張り上げた。それは保科が普段から聞いているペアの鳴き声と違う不思議な声だった。しかし、それは保科が少年時代に山で迷った時に聞いた音声でもあった。
「そうか、あれはペアの呼び声だったのか」と今になって納得した。
竜平は数回、その鳴き声をしてみせた。薄暗く深い谷間は静寂以外の何物でもなかった。
「聞こえたじゃ」笹山は竜平の顔を見た。
しかし、保科には何も聞こえてこなかった。日に焼けた竜平の顔がうなずいた。笹山ら猟友会のメンバーは音がしたらしい方角を一斉に見た。木の葉を落とした木々の向こうに雪で覆われた深い谷が見通せた。
「意外と近いところに一部の群れが移動してきとるわ。おそらく見張り役じゃ。もう1日は必要じゃと思っておったに」笹山は保科哲哉に静かに声をかけた。
その時、保科は一計を案じた。
「みんな伏せてください。なるべく岩や木の陰に隠れていて下さい」
保科一人だけがわざと目立つように立った。遥か遠くの岩の陰で何かが動いたような気がした。
「竜平さん。もう一回呼びかけてくれませんか」と保科が頼んだ。
竜平は笹山良太の顔をうかがった。笹山はうなずいた。そして、竜平は再び不思議な遠吠えをした。すると遠くの岩陰から二頭のペアがゆっくりと保科のいる方向へ下りてくるのが見えた。
「どうする。保科さん。どうやら二頭だけで見張り役のようだが」と笹山が低い声で尋ねた。
「引き付けるだけ引き付けて、できれば捕獲しましょう。もし途中でこちらに気がついて彼らが逃げる事態になったら、住み家に戻れないように撃ってください」と保科は言った。
「でも臆病なペアがなぜ近づいてこようとしている?」竜平が笹山に聞いた。竜平にとってはわざわざ人間に近づいてくるペアという経験がなかったため恐怖を感じていた。
「あいつら保科さんを“あんまペア”と間違えて近づいてくるんだな」ぺっと唾を吐きながら笹山は言った。
そして、後方にいる仲間に向かって銃を構えるよう命令を下した。
「後はあいつらが着けた足跡を追っていけば自然に彼らの住み家まで案内してくれるって寸法さ」とにやりと笑って笹山は竜平の肩を叩いた。
保科が二頭のペアの顔を確認する前に、ペアが先に保科の姿が仲間ではないことに気がついたのか予想以上に早い段階で方向転換をした。ペアの視力は保科たちより格段に良いらしい。
ペアの予想以上の早い動きに動転した保科が「撃て、撃て!」と思わず叫ぶと同時に、すさまじい銃音が暗い谷間にこだました。
保科達は倒れた二頭のペアの傍らを通り過ぎ、彼らが雪の上に残した足跡の先を急いだ。彼らが保科を“あんまペア”と間違えて降りてきたのだとしたら、これから行く先に“あんまペア”は今日はいないという訳だが、少なくとも“あんまペア”の立ち寄り先の一つを確認できるという意味ではこの先の探索も非常に重要だと保科は考えた。
その頃、日登美は太郎を自分の黄色い軽自動車に乗せて、田野倉村から車で小一時間ほどの距離にある城山市内のブテッィクホテルにいた。今日は平日だったが休暇をとり、両親と翔太にはいつも通り仕事だと嘘をついて太郎と過ごすことにしたのだ。太郎には最近哲哉が着なくなったお古を着せたり、新しく買ったジャージを着せたりしていたので太郎の服装はバラエティに富むようになってきた。
ベッドの上で何度も愛し合った後、汗を流すために日登美は太郎と風呂に入った。明るい風呂場の中で日登美は自分の肢体をさらけ出すのは恥ずかしかったが、それ以上に太郎の全身を覆う体毛の思いのほかの濃さに内心驚いていた。『太郎は新種のペアで人間そっくりだ』という兄の言葉がにわかに蘇ってきた。
『まさかね』日登美は即座に自分の思いを否定した。
日登美は互いに体を洗った後、太郎の顔の体毛を剃って上げましょうと言った。太郎は不思議そうに日登美が取り出したホテルに備え付けのシェイビングクリームや髭剃りを見ていた。
「パーパ、コレデソル」太郎は懐かしそうな顔をして言った。
「お父さんもこれで剃ってたの?」日登美は不思議そうに尋ねた。そう言えばこれまで太郎の家族の話は不思議としたことはない。太郎自身も話をしないし、日登美自身も聞き出してはいなかった。
「お父さんって、どんな人だったの」日登美は胸騒ぎを感じつつも聞かざるを得ない気持ちに駆られていた。言葉として出すには苦労するのか手話を交えながら太郎は話し出した。
『僕のパーパとマーマは二人とも偉い科学者でした。動物の研究で有名だったけど、途中で大学を辞めて、二人で山にこもって研究してました。特にペアの研究では第一人者だと自分で言ってました』
「初めて聞いたわ」日登美は驚いた。そして目の前にいる太郎が、実は兄哲哉が疑っていた新型ペアだという思いに至るのには対して時間はかからなかった。
『どんな研究だったの』いつしか日登美も手話を交えながら聞いていた。
『ペアを人間にする研究。僕もパーパによって人間にしてもらった。僕もパーパの研究手伝ってペアを何人も人間にした』太郎は目の前にいる日登美が喜ぶだろうと思って自慢気に伝えた。
日登美は背中にぞくぞくと寒気が走るのを感じた。自然に顔が強ばってきていたのかもしれなかった。
「ドウシタノ」太郎は素直な顔で聞いてきた。
「なんでもないのよ」と答えた瞬間、あっと言う間もなく日登美は太郎の逞しい腕に抱きかかえらえて浴室からベッドルームへと移動させられていた。そして太郎は日登美の豊かな乳房を両手で揉みしだきながら乳首を激しく吸い始めたのだった。日登美は陶酔の中へと引きずりこまれた。
『これって畜生道になるかしら』薄れゆく正気の中で日登美は思うのだった。
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保科哲哉たちが日中に雪の後に残されたペアの足跡を追跡した結果、奥山深くにペアの生活する場所を発見した。遠くから望遠鏡で確認したところ、岩の隙間にできた何カ所かの洞穴を利用しているペアの家族が3組ほど確認された。また手前には単純ではあったが木造の小屋があり、そこを出入りしている個体も確認できた。全部で十数頭の集団のようだ。
「あの木造の小屋はなんじゃい」笹山良太は望遠鏡から目を外すと保科に目配せした。
「何頭かが出入りしてますね」保科は望遠鏡を覗いたまま返事をした。
「半年に一回はここに来ているが、前回はあの小屋はなかったじゃ。あれは人間が作ったものだろう」再び笹山は望遠鏡を覗き直した。
「それこそ人間並みに知能や能力を持った“あんまペア”のなせる業だ」保科はますます北嶋太郎が主犯であると確信した。
「待てよ。毛深いペアの中に人間が二、三人いるじゃあ。男一人に女が二人小屋からでてきたじゃ」笹山は驚きを隠せずに叫んだ。
保科は笹山が言った個体を確認した。確かに人間の形をしている。他のペアが裸体に毛皮を利用した衣類を身に着けているのに対して、彼らは人間の衣類を身に着けていた。保科たちが来ている服と全く遜色のないポロシャツにGパンというスタイルだ。そして三人が三人とも身長が他のペアと比べて抜きんでているという特徴もあった。
「どこかの研究者があそこで研究しているんじゃないけ」そばで若い竜平が笹山に声をかけた。
「この冬の季節にポロシャツ姿だ、あの女性はTシャツだ。なんだか変だが、人間だとすりゃ、うかつに銃撃はできんわ」笹山は保科を見た。確かに冬場にあの薄着は異常と言えた。
「もう日も暮れかかってきたから、一旦ベースキャンプに引き返しましょう。とりあえず望遠レンズのついた夜間用の暗視カメラと日中用の通常カメラの二台を設置していきましょう」保科は手早くバッグから装置を取り出し、都合良く観察できる場所にカメラ二台を設置した。
ベースキャンプにはテントを5張用意して、総勢20名が中に入って休んだ。いつペアの襲撃があるかもしれないので用心のため2人ずつ交代で見張りをするようにした。保科も例外ではなく最初の見張りをした。もう一人は若い竜平である。
「あの人間は本当に人間なんでしょうか?」竜平は猟銃を小脇に抱えながら不安そうに聞いた。
「ペアの研究者が実際にペアと共同生活をしている話は一つの例以外は聞いていないから、ひょっとしたら新種のペアの可能性も否定できませんね」保科は前に揺れる焚火の炎を見つめながら答えた。
「一度、北嶋元教授に会う必要があるな」保科は以前、獣医の森野から聞いたペアの研究者の名前を持ち出した。
その夜は三交代で見張りを替わったが、特に変った事態は起きなかった。翌朝は少し小雪がちらつく様に降っていたが、行動を制限するほどではなかった。新たな雪は積もっておらず保科達は昨日戻ってきた道を辿り、ペアの住み家近くの観察場へと向かった。
「いねえみたいだな」リーダー格の笹山が望遠鏡を見ながら言った。保科も確認したが確かにペアたちの姿が見えない。午前7時過ぎであればペアたちも活動を始めている時間だった。日中用のカメラと暗視カメラの映像を保科は確認した。日中用のカメラには昨日保科たちが去ってからのペアたちの行動風景が映っていた。数頭が何度か小屋や洞穴を行き来している姿が映る。長身の極めて人間らしい三人も薄着のままで何かを小屋に運びいれている様子も見える。やがて小屋の窓を通して明りが見えて数頭のペアが次々と小屋の中に入ってくる。そこから暗視カメラの映像に目を移す。どうも小屋の中で食事をしているような雰囲気がある。三十分近くを早送りにするとペアたちが三々五々と小屋を後にして洞穴に消えて行く姿が見えた。やがて小屋の明りも消えて周囲に静寂が漂う。午前2時を過ぎた頃、カメラの再生スピーカからぎゅぎゅという雪を踏みしめる音が聞こえてきた。
「おや、映像がここで止っている。そして再開されたのが午前6時過ぎだ」保科は顔を上げた。
「誰かがカメラのスイッチを午前2時に切って、午前6時にまた入れたってことけ」笹山が保科に同意を得るように聞いた。
「このカメラに正面から近づいてきた奴はいなかった」竜平は笹山に言った。
「そう、恐らく後ろから近付いてきてスイッチを切ったのだろう。そして誰かが早朝出かける時に後ろからスイッチを入れたんだ」保科は廻りを見渡した。
「わしらのベースキャンプ付近を迂回してここに来たってわけか」笹山が驚いたような顔をした。
「午前2時付近はわしが見張りをしていたが、周囲に物音はなかった。ペアの匂いはわしは嗅ぎ分けられるからの」笹山は少し慌ていた。
「午前6時と言えば、我々はすでに起きて行動準備をしていた時間だ」保科は唸った。
「あんまペアの仕業け。わしらをおちょくっとるんか」笹山は苛立った。
「みなさん、猟銃の準備をして、あの小屋付近まで進みましょう」保科は提案した。今回の雪中軍の目的はあんまペアの駆除なのである。その目的を見失ってはいけない。
20人の編成隊は10人の2組に分かれて昨日ペアが出入りしていた小屋に徐々に近づいた。相変わらず近くにペアのいる気配はない。雲の切れ目から青空がのぞきだしていた。今日の天気予報は晴れのはずだった。先鋒を務めていた笹山らのグループがまず小屋にたどり着いた。小屋の窓は凍てつき、霜が張り中は全く見えなかった。小屋の扉は単純な造りで、鍵もないようすだ。
『ペア研究者が研究のために作った小屋なのだろうか』不思議な思いで保科は小屋を観察した。
バーンという扉を蹴り開く音がした。笹山ともう一人が猟銃を構え、中の反応を確かめたが、物音一つしなかった。十人が小屋の周りを見張り、保科を含めた10人が小屋の中に入った。
小屋の中は6畳ほどの広さの1部屋だ。中央に長い板に短い脚を取り付けたテーブルが備え付けてある。これを囲んでペアたちは食事をしていたのだろうか。部屋の片隅には竈のようなものが設置されており火をつけると煙が外に誘導されるような筒状の煙突がついている。我々が火を扱えるのと同様にペアらも当然のように火を扱う能力を持っている。しかし調理道具を駆使するとは保科は聞いたことがない。十人が十人とも不思議な感覚で部屋を見ていた。
「しかしペア特有の臭いが籠って、我慢ならんわい」やがて笹山が言い出すと、これまで黙っていた連中もあれやこれやと感想を言い出すようになった。
「まずは写真と体毛の採取だ」保科は何人かにその作業を命じて外にでた。外には猟友会のサブリーダー格の馬島亘がペアの雪上の足跡を調べていた。
「保科さん。ペアの足跡はさらに奥の谷の方へ続いとる。今朝がた着いた新しいやつだ」笹山と同様日に焼けた黒い顔の表情をほとんど動かさず馬島が報告した。
保科は馬島が指差す方向を見た。福井県を流れる大河の源流の支流にあたる目の前の川の先は滝がいくつも続く難所となる。奥へ奥へと彼らは逃げて行ったのだろうか?それともこの足跡はカモフラージュで実は里の方へ下りて行ったのか、保科は分からなくなった。
「保科さん。ペアにはこの奥地にも住み家があるというのがわしの死んだ祖父さんの口癖だった。ペアにとっての桃源郷があるらしい。多くを話してくれんかったが、祖父さんはどうも1度はそこへ行ったらしい」今年46歳になる馬島が保科に言った。
「そこへ行くにはこれから続く何カ所もの滝を乗り越えていくわけか」
「そう。通常の人間では無理だちゃね。それこそ猿のような身軽さがないと」
周囲にペアがいない以上、この地に留まる理由はなかった。あんまペアの駆除の目的が達せられないまま保科は一旦田野倉村に帰る決断をした。
-13-
保科はペアが出入りしていた小屋で採取した体毛のいくつかのサンプルの分析を獣医の森野に依頼した。しばらくして森野が保科のいる部屋にやってきた。
「驚くなよ」開口一番、森野は保科を脅すような口調で言った。
「体毛からは2系統のDNAの種類が見つかった。一つは従来のペア、ホモ・ネアンデルタレンシス・ヤポニカのもの、今一つは以前の双子の新型ペアのDNAと同系統のものだ。おまけに雄と雌の二種類があった。それも双子の新型よりもよりホモ・サピエンスとのDNAの相同性が高い。よりホモ・サピエンス型と言ってよいだろう。しかし明らかなホモ・サピエンスのDNAは見つからなかったから、小屋に出入りしていた者の中にホモ・サピエンス、つまり人はいないと結論づけられるね」森野は興奮していた。
「以前も言ったが、これは通常の進化ではない。人為的な進化の促進効果だ。つまり遺伝子操作の産物だ」森野獣医の興奮は収まりそうになかった。
「一度、北嶋元教授を訪ねてみようと思うのですが、どこに住んでいるか分かりますか?」保科は森野の報告書を見ながら尋ねた。
「北嶋教授は死んだよ」
「え、いつのことですか」
「ほら、去年の9月末に岐阜の山を震源地とした大きな地震があったろう。あれのとばっちりさ」
「確か、津竜村が震源地で、大きな地震の割には被害は少ないと聞いていたが、その時に死んだのが北嶋元教授だったのか」保科は自分の運の悪さを呪った。
「実は北嶋教授の次男坊がいてね。彼が北嶋教授の遺品を現地で整理をした時のものをいくつか持って帰ったらしいから、今度彼に会ってそれを見せてもらうことになっている。君も行くか?北九州市でちょっと遠いがね」森野は出された緑茶を少し口に運びながらにやりと笑った。
「北九州だって!今の僕には時間を割いている余裕はないな。森野先生、役場から出張扱いにするから是非行って役立ちそうなものがあれば持ち帰ってきてください」
「そう言ってくれるのを期待してたんだよ」森野は立ち上がりながら指でVサインをした。
「それともう一つ、お願いがあります。これの毛髪のDNA鑑定をお願いしたい」そう言いながら保科はフィルムケースに入れた二本の毛髪を森野に手渡した。小さなケースに巻かれたテープの上には“北嶋太郎毛髪”とサインペンで書かれていた。
「これは君が新型ペアの双子の兄だと思っている毛髪だね」森野の目が輝いた。
森野が後日、保科に報告した内容によると、北嶋太郎のDNAの型ははやり新型ペアのDNA型と一致したという。但し、双子の兄弟のDNAではなく、よりホモ・サピエンスに近い福井県の山奥の小屋で発見された三頭の新型ペアのDNA型だったという。
「要するにね。あんまペアと君たちが呼んでいるタイプの新型ペアが遺伝子組換えによってある数以上存在している可能性があるってことさ。そして高い知能をもった複数の新型ペアが旧型ペアをそそのかして、射殺された双子の兄弟ペアの復讐をし始めているのかもしれんね。特に保科君はペア掃討作戦の責任者だから周囲には注意しろよ。新型ペアは我々人間の中に紛れ込んでしまうと区別がつかないようだからな」そう言い残して森野は北九州へと旅立って行った。時節は3月に入っていた。
獣医森野有三は新型ペアを確認して以来、各地での講演を頼まれ、全国を回っていた。新型のペアの発見は田野倉地区と福井県の深山地域以外ではまだ報告がなかった。しかし、人為的に遺伝子操作されて生まれた個体は何頭いても不思議ではなく、どこかに潜んでいる可能性を森野はさまざまな講演会で指摘した。そのような講演を通じて森野はペアの研究に一生を捧げていた北嶋邦康志賀大学理学部元教授の存在を知った。更にその元教授が昨年九月の地震で倒壊した自宅の下敷きとなり死亡し、その研究記録を北九州市に住む次男康和が所有している事実も突き止めた。そして今、森野はその記録を目の当たりにしていた。学術的にも非常に有用な知見であると森野は目を輝かせた。
森野はかつて母校の獣医学部では有望な研究者と目され様々な研究発表をしていた。一方で森野の研究の腕をゴールドフィンガーと揶揄する研究者達もいた。こうあって欲しいという結果を彼はいとも簡単に実験で証明して見せていたのである。ゴールドフィンガーとは華々しい結果を生み出す技術を持っているという意味であり、裏を返せば望む結果を出すために一見矛盾のないような誤魔化しができる技術を持っているという意味なのである。日本の有名な考古学者や韓国のノーベル賞候補研究者のデータ捏造事件は記憶に新しいところである。
森野は当時三十歳前のバイタリティ溢れる若者であったが、行き過ぎた行動も多かった。結局、ある論文が捏造であると指摘を受けたのを機に学会からは身を引いた。
しかし四十歳を目前に控えた現在の森野が再起を期して学会復帰するのに格好の材料となったのが今回の新型ペアの存在である。
森野は北嶋元教授の書いた手記から自身が解剖した二頭のペアの兄弟が北嶋の研究対象としていたペアと同じ個体だと知った。そして、今回の新型ペアの誕生が自然界の大きな力によるものではなく、遺伝子操作という人の手を使った人為的な進化促進ともいうべきものだと理解した。そして人工的な進化はどんなに崇高な目的があっても人間のエゴイズムによって出来た産物そのものだと思った。森野は自分もその同じ系統の研究者であるかもしれないと自嘲した。ともかく北嶋邦康という男は変人・奇人という称号に相応しい人物だった。
北嶋は膨大な研究記録の他に雑誌や商業誌用の原稿もUSBメモリーの中に残していた。その商業雑誌用の未公開原稿が森野の目を引いた。北嶋が行ってきた実験の要約と心の機微を端的に表現している内容だった。「旧人類の幸福のために」と題されたその原稿の内容は次のようなものだった。
『旧人類の幸福のために-旧人類の現生人類化-』北嶋邦康
私は自身の研究に専念すべく、大学教授という地位を投げうって、当地つまり廃村になった福井県大野郡津竜村地区奥村において一軒の家屋を譲り受け、ペアの研究にとりかかった。妻は同じ大学で私の部下だった女性でよく気が合った。新天地でのペア研究に対して諸手で賛成してくれたのである。
ペアはホモ・サピエンス・ネアンデルタレンシス・ヤポニカという学名をもっているが、DNAレベルでのわずかな相違はあるものの歴史上名高いホモ・ネアンデルタレンシス(通称ネアンデルタール人)の変種である。
現生人類に最も近いとされる類人猿チンパンジーと人類の系統が進化の過程で分岐したのが約700万年前になる。化石の分類から現在人類と整理されている化石は約23種類になった。最も古い人類は600万年から700万年前に中央アフリカに生存していたサヘラントロプス・チャデンシスだが、より詳細な情報のある450万年から430万年前に生存していたアルディピテクス・ラミダスを最初の人類とする説もある。しかし、私にとってどちらでも良いことだ。ホモ・ネアンデルタレンシスはヨーロッパに移動していたホモ・ハイデルベルゲンシスからの進化系とされ今から35万年から2万8000年前まで生存していた。我々ホモ・サピエンスはアフリカに残っていたホモ・ハイデルベルゲンシスの進化系で今から20万年前にアフリカで出現して今では全世界に拡散している。
ホモ・ネアンデルタレンシスとホモ・サピエンスは一部地域で共存(交配もしていたという事実がある)か闘争をしていたようだが、2万8000年前におそらくホモ・サピエンスに対抗できなくなり絶滅してしまった。そして人類はホモ・サピエンスだけとなった。
以来、絶滅していたかに見えたホモ・ネアンデルタレンシスだったが、昭和期に日本アルプス山岳の未開拓地域で絶滅に瀕した状態で棲息していた旧人類が発見された。それらの個体はレントゲンによる骨格分析などによりホモ・ネアンデルタレンシスの変種であった。当時の世界人類進化学会は日本独自で若干の進化をみたというので、それらをホモ・ネアンデルタレンシス・ヤポニカと名付けた。その後も日本全国の未開拓山岳地帯で同じ種類の旧人類の発見が相次いだが、国際的な保護協定に基づき絶滅危惧種と位置づけられ、現在は福井県と岐阜県境の深山地域と富山県と長野県境に拡がる深山地域の二カ所に強制的に移住させて我々と共存化が図られている。
しかし、これが本当に共存と言えるのだろうか?今、彼らは不当に深山地帯に押し込められ、非人間的な生活を余儀なくされている。これは現生人類のエゴイズム、支配、人種差別に他ならない。現在も世界的にはびこっている白人優位の人権差別となんら変わる所がない。
そのような差別を私は認めるわけにはいかなかった。彼らに通常の人間と同様の平等な生活をさせるために私は旧人類の現生人類化を試みたのである。私の究極の目的は遺伝子工学を駆使して旧人類を現生人類に変化させて一般社会生活を送らせることである。
とりあえず雄と雌のペアを1組確保する必要があった。稀少動物保護法下にある動物であるため、むやみに捕獲することは許可されなかった。ましてや非合法的な私の研究のために捕獲許可が下りるとは思えなかった。その意味でも津竜村地区での研究は好都合であった。
私は福井県と岐阜県の県境の山中で幸運にもペアのつがいを捕獲できた。そして当地において古い民家の中にいわば座敷牢のような檻を作ってそこでペアを飼育した。そのペアの名前をありきたりではあったが雄は「アダム」、雌は「イブ」と名づけた。
そしてアダムの精子のDNAを取り出し、私自身の精子のDNAを混ぜ合わせ、突然変異を誘発しやすい物質を入れて遺伝子の組み換えを行わせた。つまりペアの代表者であるアダムとホモ・サピエンスの代表者である私の交雑精子DNAを作ったのだ。いわゆる合いの子の精子DNAである。その精子DNAのいくつかをイブから取り出したいくつかの卵子の中に注入し実質上の体外受精をさせた。その中で最も環境に適応しそうな強い受精卵をイブの子宮内に戻して発育させたのだ。
実験は第一回目から成功した。生まれた子供を「太郎」と名づけた。驚いたことに太郎は外観上両親と別種の個体であるかのようであった。ホモ・サピエンスと見まごうばかりである。あまつさえ私の若い頃にも似ている印象があった。私のDNAが計算上4分の1は入っているのだから当然といえば当然だった。
ホモ・ネアンデルタレンシス・ヤポニカの身長はせいぜいで百六十センチ、体重九十キロの胴長短足のずんぐりむっくりで毛深い人類である。しかし、生まれてきた太郎は親の典型的な形質を受け継いではいなかった。私は急速な進化を実現した遺伝子組換えが起きたのだと確信した。これを証明するためにも更に歳月を重ねて彼の成長具合を観察していく必要があるのだ。
私たち夫婦は太郎が生まれて間もなく、昨年と同様に遺伝子操作を行った。今度は私の妻の卵子のDNAとイブの卵子のDNAを交雑したのである。そしてアダムの精子と交雑種の卵子との受精卵を作成し、イブの子宮内に戻して生育させた。そして生まれてきたのが一卵性双生児の雄の兄弟ペアであった。名前を次郎と三郎と名づけた。しかし彼らは太郎と従来型ペアの中間型と言えるような個体となった。ホモ・サピエンスのDNA領域の一部が劣性遺伝子に乗った可能性があった。雄の精子DNAに操作を加える方がより高等な個体を産生できる確率が高そうであった。
その翌年、三度目の実験の時にアダムとイブは、呼吸不全から心不全を引き起こし相次いで死亡した。原因は分からない。恐らく使用した麻酔薬に過剰反応を起こしてしまった可能性があった。そのため数年にわたり研究は中止せざるを得ない状態になってしまった。
両親を失った太郎、次郎、三郎はいつしか私達夫婦を両親と思うようになっていた。五十歳を過ぎた私達であったが、彼らの親役を務めた。私をパーパ、妻をマーマと呼ばせ、飼育という概念から離れ、共同生活という形式での生活が始まった。
私達は彼らを普通の人間のように育てた。学校にこそ行かせられなかったが、私達が教師代わりとなって教育した。
現代人にとって言葉は自然に発せられるが、彼らにとっては難しい問題であった。しかし明らかに彼らの親の個体とは違っていた。親は簡単な母音の連続音しか発生できなかったが、太郎達は子音も含めて話をするようになった。声帯の喉からの位置が親よりも長く、それだけ空気を蓄える容積が増えるという構造上の違いが認められたのである。
ただその能力は太郎が突出していた。次郎、三郎は私が目標とする限りなく人間に近づいたペアというには原始的すぎた。しかし同じ血が流れている兄弟のせいか彼らの仲は非常に良かった。肉親愛は旧人類、新人類に限らず持ち合わせているのだと感じた。体型も明らかに従来型のペアとは異なっていた。まるで現代人のようであった。それは太郎だけで、次郎と三郎は大柄ではあったが全身に生えている体毛はペアそのものという印象を与えた。
太郎が三歳を迎えた時に、私達は彼らに人間と同じ服を着せた。顔面の体毛を除けばほぼ人間の子供と遜色なかった。太郎が八歳になった時、彼らの言葉は片言の域をなかなか出なかったので、私は一計を案じ手話を覚えさせようとした。彼らの知能は高かった。これまで自分の意志をうまく伝えきっていなかったせいもあるのだろうが、短期間で手話を習得した。
私達夫婦も手話を習得しようと一緒に始めたのであるが、彼らの習得能力は私達夫婦のそれより遥かに超えていた。しかし、お互いに手話を覚えたおかげで私達親子の絆はより深まったのである。
太郎が十歳になった時、外に出たまま夕方になっても兄弟そろって帰ってこない事件があった。人里の方に迷い込んでしまったらしい。誰にも会わなかったと言うのでほっと胸をなでおろしたが、もし人前に出ていたら大騒ぎになっていただろう。従来のペアとは違う体型で片言の言葉をしゃべる服を着たペアに似た子供を世間の人は好奇の目で見、マスコミも彼らを見逃さないはずだからだ。
今回は何事も無かったが、成長するに従い彼らの行動範囲は広がり、知識もどんどん深まる。やがて簡単な大人の書籍であれば難なく読みこなせる年齢になった。彼らの意識の中に世界はこの山の中だけではないという感覚が出来つつあった。それは彼らを人間として私達が育ててきたためでもある。今更、山へ返しても自活はできるはずがない。
そこで一計を案じ、奥村地区の里山に降りていく一本道を私は封鎖した。これから先にいくと怖い生き物が待っているから私達大人と一緒でない時は行ってはいけないと厳しく三兄弟に伝えたのである。
それでも彼らの知的欲求を満たしてやるために太郎が十五歳、次郎と三郎が十四歳の時に、車に乗せて男四人で旅をした。次郎と三郎の体毛部分が目立たないように長袖長ズボンが不自然でない季節を選び、顔の体毛も必要な部分を残して剃り上げた。そうすると彼らは一見普通の中学生と変わらなかった。会話はもっぱら手話にして聾唖者として振舞わせた。宿は取らず、河原や橋の下で野宿をした。一週間の修学旅行の雰囲気であった。この時は男四人の珍道中で、非常にスリリングではあったが楽しかった。
私は彼らといるとしばしば旧人類から遺伝子操作によってできた産物であるという意識を忘れさせた。彼らが成長するに従い、私自身の人間的な感性も目覚めだしてきているような気がしている。
やがて太郎には私の想像以上に知能があるのを知った。私が大学時代に購入た専門書類を1つ残らず読破してしまったのである。そして独自の理論体系も構築していった。そんな太郎をみて私は再び遺伝子操作による旧人類の新人類化の研究を再開しようと思い立った。彼を私の研究助手にしたのだ。そして肝炎を患い劇症肝炎で急死した妻の丁度良い後釜になってくれた。
太郎は私の研究の基本理念をよく理解してくれた。太郎の言葉は片言ながら次郎や三郎と比べるとかなりはっきりと聞こえるようになった。手話と片言の言葉で太郎とは研究に差し支えない位に十分なコミュニケーションがとれるようになっていた。
太郎にはペアの血も流れているので、奥山から仲間のペアを呼び出してくるのには何の苦労もいらなかった。彼らの協力も得ながら平成〇年8月末現在、12人の新型ペアを産み出していた。DNA検査から12人の新ペアは太郎と同じ遺伝子レベルの個体であることが確認された。そして男7人、女5人で構成されていたので、いずれは結婚、出産へと進み有能な新型ペアの継体となっていくことだろう。今回は彼らを卵子を提供してくれた母ペアの元で育てさせることにした。
太郎と同様の驚くべき才能がある12人の新型ペアたちにも存在していると時々私の元を訪れてくる彼らを見て確信した。私は彼らとホモ・サピエンスとの平等な生活を望んでいたが、場合によっては太郎が創造していく新型ペアは我々人類を凌駕する存在になるかもしれないという思いに至った。それはホモ・サピエンスが旧人類になることを意味している。
今年は森のペアの様子が少し奇妙である。恐らく、夏の早い時期から引き続く台風の影響で実りだした木の実類がすべて落下して、森の食料が不足している状況なのは明らかであった。こちらから呼び出しもしていない野生型ペアたちが時々我が家の庭先にも出没している。今までなかったことである。
我々が作った作物を勝手に取っていく時もあった。しかし太郎達はペア特有の交信音を発音できたので、野生のペア達ともコミュニケーションがとれた。これは我々と野生のペア達と共に待遇の平等化を求める上での協力体制づくりに役立つはずだ。
太郎の説得で野生のペアがむやみに野菜作物を取っていくことは無くなった。必ず我が家に立ち寄り、数を決めて持っていかせるように仕向けたのであった。その意味では太郎は近隣に住む野生のペア達の取締役のような立場になっているように思う。
台風と言えば実は我が家も古い民家を利用しているのでかなり傷んでいるので、今年の台風の影響でさらに壊れた部分が増えてきている。近いうちに修理をしなければ、次の冬の積雪をこせるかどうか心配だ。
原稿はここで終わっていた。データファイルの日付を見ると平成〇〇年九月二十七日であった。それは地震のあった前日であった。