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ヒューマン・エボリューション  作者: 足立 和哉
1/3

前篇 ペアの出現

-プロローグ-

「これは大きいな」と白髪がまぶしいほどに残った老人はつぶやいた。

「みんな、テーブルの下に入りなさい」老人が家族に叫んだ時には、古い木造建ての床は歩けないほどに大きく揺れ、テーブルの上に用意されていた夕食用の食器が床に落ちて割れ、整理箪笥や本棚が倒れた。さらに天井がミシミシと不気味な音を立てていた。

平穏な日々の生活は夕食前に突然襲ってきた大きな地震で脆くも崩れ去り、山深い森の中に一軒だけ残っていた木造建ての古家はあっという間に崩壊してしまった。

大きな揺れがおさまり、周囲の森のざわめきも静まった頃に、崩壊した木造二階建ての家の瓦礫の隙間から三つの人影が這い出してきた。

三人とも埃まみれになり、体中に傷を負っているのか所々に血がにじんでいたが、奇跡的に重傷は免れているようだった。倒壊した家から火が出なかったのも幸いしていた。

三人はしばらく呆然としてその場に座り込んでいたが、やがて一番大柄な一人が立ち上がり「パーパ」と崩壊した家に向かって叫んだ。それよりやや小柄な他の二人も怯えた顔をしながら「パーパ」と叫んだ。

しかし、崩壊した家の下からは両親の声は聞こえて来ず、ましてや誰も這い出てくる様子もなかった。

初秋の夕暮れはあっと言う間に周辺に闇をもたらした。冷たい夜気が辺りを覆い始めだしたが、三人は夕闇の中で肩を寄せ合いうずくまり寒さをしのぐしか術を知らなかった。夜明けまでの数時間、これまで体験のしたことの無い寒さと寂しさと恐怖が三人を襲った。


-1-

平成○○年。この年は日本列島への台風の上陸が十二回もあり、過去最高を記録する年となった。それも大型の台風が多く、各地に風雨による被害をもたらし、度重なる被害は人間生活に大いなる影響を与え、今更ながら自然の驚異と恐ろしさを感じさせられた年になった。

連続して上陸した台風は人間生活ばかりでなく、日本の自然環境にも大きな傷跡を残していた。それは山の荒廃である。夏から秋にかけての台風の襲来で、山々に生育しつつあった木の実類や果実がことごとく落下してしまい動物達にとって食料不足の事態を招いてしまったのである。また、豪雨や暴風による土砂崩れで実のなる木自体が全滅した地域もあった。

そのような状況であったから山の動物達の食料難は深刻だった。特に中部山岳地帯での影響は大きく草食動物は餓死寸前状態となり、雑食性の動物は瀕死の草食動物を餌として生きながらえるしかなかった。それまで人間社会とは隔絶した生活をしていた山の動物達が餌を求めて人里に下りてくるまでには大した時間を要さなかった。


「恐ろしやあ。またペアが出たがだと。地震も怖い、ペアも恐ろしや」

野村キクエはテレビの昼のワイドショーを見ながら身震いした。十月中旬に入ってから毎日のようにペアが人里に出没し、庭にある柿の木の実を食べたり、農作物を食い散らかしたりしており、人に出会うといきなり襲い掛かってきて怪我をさせられる住民が後を絶たなかった。

つい二週間ほど前には、岐阜県北部の山間部を震源地とする近年には珍しく大きな揺れの地震もあったが、この村では大きな被害を受けていなかったので住民たちの話題はもっぱらペア出没の話になっていた。

「キクエさんはわしがペアから守ってやるで大丈夫だで」と今年丁度七十歳になったばかりの杉田栄作が言った。

「おうおう、お熱いことやね。しかし、キクちゃんはわしらのマドンナやから一人占めはいかんぜ」横から口出しをしてきたのは六十六歳になる馬場恵一郎である。

 三人の住む村は石川県との県境に近い富山県の山あいにあった。周りには家が数軒立ち並ぶだけであったが、国道が村の前を通っていたので人気の無い村という印象は無かった。秋口になってペア出没のニュースが出だすようになってから杉田と馬場は一人暮らしをしている野村キクエの家を毎日最低二回は訪れて警戒にあたっていた。

二人は猟友会の会員で、既に農家の家業は息子に譲っていたが、狩猟解禁になった時期には狩りを楽しみ、また害獣が出没した際には害獣駆除にも当っていた。猟友会が駆除するからと言って、必ずしも猟銃で害獣を射殺するだけではなく、罠をしかけて生け捕りにし奥山に放獣する仕事もしていた。

 この日も二人はペア警戒のために、野村キクエの家を訪ね庭先の縁側に腰掛けて、奥にあるテレビを見ながらお茶と菓子を御馳走になっていた。

「わしもまんざら捨てたもんじゃあないがね」キクエはカラカラと明るく笑った。

キクエは六十五歳で昨年四十年間連れ添った夫を膵臓癌で亡くしていた。四十年前に富山の町なかから嫁いできたキクエは村で評判の美人妻だった。

「本当に山にはペアの食べ物は無いがだろうか?」キクエは話を元に戻した。

「今年は異常だな。こんなに台風が山を襲ったらペアや他の動物たちの餌が落ちて無くなっちまうのは当り前だ」

杉田は煙草で黄色くヤニだらけになった歯をむき出しにして言った。

「山の中じゃあ、ペア同士が生き残りをかけて戦いをおっぱじめているかもしれんね。それに負けはしたが生き残ったペアが食料を求めて山里に下りてきているんだろう」

そう言ってから馬場は煙草の煙を旨そうに肺に吸い込んだ。

「そう言やあ、この前射殺したペアは体中傷だらけだったな。ペアにしては大物で体長は二メートル近くあったけんどな。仲間のペアに傷つけられたのだろう」

「怖い話ね。弱ったペアが人里に下りてくる間はまだ良いけど、元気なペアが下りて来て人を襲うようになったらと思うとぞっとするわ」キクエは恐ろしそうに顔を曇らせた。

 その時、台所の方から冷蔵庫の扉を開ける音がした。そして中を物色するような音が聞こえだした。この家にはキクエ一人しか住んでいない。

「タマかい?」キクエは唯一の同居人である飼い猫の名前を呼んだ。

頭が良く手先の器用なタマは時々冷蔵庫の扉を開けてはキクエを困らせていた。しかし、キクエの呼びかけを無視するかのように台所からの音は止むことはなかった。タマならキクエが呼びかけた時に大抵ニャーと返事をするはずであった。

「スギさん」表情を固くした馬場が猟銃を持ち替えながら杉田に声をかけた。

「どれ、行ってみっかのう」既に吸いかけの煙草を足で踏み消していた杉田も猟銃を持ち替え、緊張した面持ちで馬場を見ながら立ち上がった。

 二人はキクエに庭先の方に出て待っているように指示を出し、部屋の奥の台所に向かって猟銃を構えながら、ゆっくりと歩みだした。

「逃げるなら今のうちだぞ~」杉田が台所に向かって大きな声をかけた。

台所からは相変わらず物音が聞こえている。どうやら食料を喰い散らかしているらしい。杉田の二度に渡る呼びかけは全く無視されていた。二人はいつでも発砲できる体勢になった。

 その時、二人の背後からキクエの悲鳴が聞こえた。二人が振り返ると庭先でキクエが沈み込んでいく姿が見えた。その背後には一頭のペアが立ち上がって、充血で赤みを帯びた両眼で杉田と馬場の二人をじっと睨み付けていた。

「キクちゃん」と馬場が叫びながら猟銃をそのペアに向けて発砲しようとした時、馬場は後頭部を激しい力で殴られるのを感じた。そして、そのまま前のめりに倒れこんでしまった。

 杉田は馬場の背後にもう一頭のペアがいるのが目に入った。恐らく直前まで台所で物音を立てていたペアなのであろう。しかし杉田は猟銃を構え直す間もなく顔面を激しい力で殴られ、そのまま仰向けに倒れてしまった。


-2-

 保科哲哉は母親の作った昼食のホットケーキを食べながら朝刊を読んでいた。哲哉は今年二十八歳の独身で、現在は石川県の山あいにある田野倉村の役場に勤務していた。職場が自宅から歩いて五分の距離にあったので、彼はしばしば昼食を自宅まで戻って食べていた。両親と同居しており、父は五十五歳で家業である農業を続けている。母も同じ歳で専業主婦の傍ら農業の手伝いをして生活を送っていた。さらに哲哉の家には昨年から結婚して村の外へ出ていた妹とその息子が同居していた。協議の上での離婚だったが、哲哉は詳しい事情を聞かされていなかった。

「富山県で、またペアの被害だ。今度は民家に侵入して老人三人が殺されているよ。死者が出たのは何年かぶりだね。冷蔵庫の中を物色して食べ散らかした跡があったらしい。よほど食い物に困っていたかな」哲哉は新聞を読みながら母映子に声をかけた。

「テレビでも丁度やっているわよ」と映子はテレビの画面に釘付けになっていた。

 今の話題が昼のワイドショーで特集されていたのである。テレビには富山の山間部の静かな村の風景が映し出されていた。惨劇のあった民家の回りには立ち入り禁止の黄色いテープが張り巡らされていた。ワイドショーのレポーターは、折からの雨もいとわず、そのテープの前で盛んに状況の解説をしていた。

 二名の猟友会の男性が猟銃を持ったままで被害にあっていることも事件の衝撃度を増した。十メートルほど離れた場所にある隣家住む77歳男性の高橋政信の目撃談によると野村キクエの声と思われる悲鳴が聞こえたかと思うと何か倒れるような音や叩きつけるような音が聞こえたそうである。しばらくして静かになったので、高橋が様子を見に行った時、丁度二頭のペアが足早やに野村キクエの家の玄関から飛び出したところであった。二頭は高橋の顔を睨み付けるように数秒間立ち止まったが、そのまま山の方に向かって走り去って行ったという。

 ペアは多くの場合、二頭ずつ連れ立って行動する。それは雌雄のつがいであったり、兄弟姉妹だったり形態は様々である。ペアという通称の由来も一対ペアで行動するところから来ていた。

今回の二頭は体型も顔つきも非常によく似ており、おそらく双子ではないかと高橋は恐怖でまだ青ざめた表情のまま証言した。十月現在で今年に入って指定されたペアの居住地域周辺で五百件を超える人とペアの接近事案があり、その内で人に危害が加えられたのは半数以上に上った。

多くは軽傷で済んでいたが、人が死亡に至ったのは今回が初めてだった。人を襲ったペアの多くは射殺されており、その数は既に三百頭を超えていた。

「新聞の読者欄にはいろいろな意見があるね。動物愛護団体は勿論だが、一般の人にもペアとの共存を積極的に図るべきだという意見が多い。しかし実際にペアと生活圏が隣接している所に住んでいる人たちにとっては生死にかかわる問題だから、共存すべしと言っている人たちを許せないだろうしね」

哲哉はどちらが正しい意見か判断が付かなかった。それぞれの立場になれば、それぞれの意見が正しくなるのだろうと思った。

「ある種の動物が絶滅する時って、意外と今年みたいな条件の時かもしれないわね。その動物が生き継いでいける個体の絶対数というのがあるのでしょう?地球規模の火山活動やら巨大隕石の衝突みたいな衝撃的な出来事ではなくて、今年みたいに台風で山の木の実が落ち過ぎて腐ったり、実に成らないうちに落下したりするだけで、食糧難になったペア達が次々と餌を求めて山里に下りてきて、その度に射殺されて個体数を減らしていって、自然増加ができなくなる迄になって、その結果、絶滅しても不思議ではないわ」映子は感慨深げにテレビを見ながら言った。

「もっと人工的な原因なら、最近大陸の半島の国でも水爆実験が盛んに行なわれていることよね。きな臭い雰囲気だわね。それを欧米諸国の軍事衛星が監視して、いつか意地と意地のぶつかり合いが起きて、地球上が放射能汚染されてすべての動物が滅亡するかもしれないわ」映子の話は突拍子のない所へと飛んでいた。

「そこまでは・・・考えすぎでしょ。でも空からの監視ってのはいいかもしれんね。最近はドローンを上空からの監視に利用するケースもあるし、ちょっと考えてみるか。さて、もう行くわ。これ以上ゆっくりしているとまた課長に怒鳴られるしな」哲哉は慌てて立ち上がり、村役場に出かけた。

 この田野倉村でも十月に入ってから村の奥の山で数回ペアが目撃されていたが、人間への危害例は無かった。しかし、それでも猟友会の会員が危険と判断して村の周辺に近づいてきた数頭のペアを射殺していた。哲哉は役場の山林保安課に所属していたので何度も射殺現場にも立ちあったが、ペアの死骸を見るのは気持ちの良いものではなかった。散弾銃で射殺されたものは何箇所も弾痕が出来て、それこそ血海の中に横たわる死骸となっていた。腹を打ち抜かれて内蔵が飛び出しているペアの死骸もあった。ペア特有の臭いも哲哉を悩ませた。死骸を見た日は家に戻っても食欲が湧かず、トイレでよく吐いていた。


「どうも今年のペアは凶暴化しているようだ」山林保安課課長の吉田聡介が昼休みを終えた午後一番の打ち合わせ時間に言った。

吉田聡介は五十歳になったばかりの男で若い頃は中央省庁の色々な部門を渡り歩いていたが、五十になるのを機に故郷である田野倉村役場への転職を希望してつい先月着任したばかりだった。

「村民の安全を第一に、ペアの発見通報があった場合は速やかに私に連絡を取ると共に猟友会の連絡員にも通報するように徹底しよう」と朝礼時にも言った言葉を再度復唱した。

「富山で起きたペアによる老人殺害事件が起きた場所は、この村から山を隔てて直ぐの所だから逃亡したペアがこっちの方面へくる可能性もありますよね。定期的な見回りも必要かもしれませんね」と保科哲哉は言った。

 田野倉村は事件のあった富山県境の村から山越えをして車で二十分程度しか離れていない場所だった。

「よく言った。保科君、早速見回りの段取りを取ってくれ。猟友会もそれを危惧していたから」と吉田は保科に命じた。

 山林保安課と言っても、吉田課長の他には保科と中堅職員である中塚信雄の三人だけの職場であったので、村役場の中でも一番の若手である保科はどんな仕事でもやらされた。

 保科は村の少ない予算の中から捻出して設置した監視カメラの位置をまず見直すことから始めた。これまでペアの出没回数の多い地域から村へ入る場所も見直し、更にペアによる殺人事件のあった富山県の山里から通じる林道に向けても一台設置することにした。さらに村の青年団や中高年者にも志願者を募り、交代で村内の巡回警戒にあたることにした。

「富山で事件を起こしたペアが、この村にくる可能性はあるがか?」青年団長の三十二歳になる森尾久司が保科に尋ねた。

「富山では今回の殺害事件を非常に重く見ており、希少価値数の許容範囲縮小申請までして大掃討作戦を展開しています。その結果、かなりの数のペアが駆除されているという報告が入っています。掃討作戦で山奥に逃げ延びたペアの一部が山を幾つか越えて、この村に達する可能性は否定できないのも事実ですね」と保科は答えた。

「そうなると元々この村の奥にいるペアとの縄張り争いが始まるかあ。そいつらが一緒になって里に下りてきたらどうなる?おら達の持っとる銃の数だけじゃあ足りなくなるんでねえか。動物愛護かなんだか知らねども、おら達の命はどうしてくれるんだって」と森尾は日焼けした顔を怒らせて保科に詰め寄った。

「そちらの方も県警に要請して警戒にあたる準備をしていますから、まもなく万全の体制が整いますよ。それにこちらの体制を察知したらペアだって馬鹿じゃないから闇雲に押し寄せたりはしませんよ」保科は穏やかに年上の森尾の言葉を受け流した。


-3-

 監視カメラのモニターは村役場の一室にあった。全職員が交代で監視にあたり、なにか異変があれば山林保安課に通報がはいり、善後策を諮る手はずになっていた。そして緊急を要する場合にはペア警報のサイレンが村内中に鳴り響く段取りになっていた。

 富山でのペアによる三老人の殺害事件から1カ月ほど経った11月中ごろだった。保科が監視カメラのモニター当番の日、丸山地区の監視カメラが二つの動く物体を映し出した。既に夕刻に近くその二つの物体も最初は風に揺れる木の姿にも見えた。丸山地区はペアによる例の殺害事件のあった富山県の山村に通じる林道のある村はずれの地区である。

 映像の中の動きを見た保科はそれが確実にペアであると断定した。保科はまず上司の吉田課長に電話をかけ指示を受けた。まず巡回当番をしている猟友会と県警の担当者に連絡し、警備体制を整え始めた。緊急性はないものの警報サイレンを鳴らすことになった。

保科は今晩の巡回当番である猟友会の笹山良太の携帯電話に連絡を入れた。

「笹山さん、ペアが現れました。丸山地区の監視カメラに映っています。まだゆっくりとした歩みですが、この村の方向に来ています。警戒体制で臨んでください」

「分かったよ。今、三人集まったところや。村に入って来られんよう脅しかけたるわいね」と電話の向こうで笹山は豪快に笑った。

笹山良太は今年五十六歳になる男で、ずっと山に入って仕事をしている男であったが、既に六ヶ月になる初孫がいた。彼に連絡をとれば猟友会のメンバーには情報が伝わり、直ぐに出動する手はずになっていた。

「深追いはしないように。県警にも連絡はとりますから」と言ってから直ぐに県警の担当者に電話を入れた。まもなく山あいの村にサイレンが鳴り響いた。

大きく長く続くサイレンの音を聞いて驚いたのか、二頭のペアは丸山地区の監視カメラからは外れて見えなくなった。

 保科は他の監視カメラにもペアが映らないか目を凝らしてみた。富山県からの情報によると今回老人三人を殺したペアは二頭とも体長が170cm以上あり、体型も細身であるという。確かに丸山地区の監視カメラに映った映像でも、二頭にはその特徴が見て取れた。通常、ペアは体長が150から160cm前後で、骨格はがっちりとしており、ずんぐりとした短足胴長の体型をしているのだが、今回の二頭は全身が体毛で薄く覆われてはいるもののペア特有の体型的な特徴が希薄であった。ペアに変種があるとは思えなかったが、不思議な気持ちで保科はその二頭を見ていた。

 最初の監視カメラから二頭のペアの映像が消えてから十五分ほど経った時に、別の監視カメラにその二頭のペアが映った。それは丸山地区から更に村の中心部に向かった所に設置してある滝巻地区のカメラであった。滝巻地区には民家が三軒あったが、いずれも空き家になっており人は住んでいなかった。巡回当番の連中や猟友会や警察からの連絡はまだ無かった。保科は猟友会の笹山にペアの現在位置を知らせた。

「滝巻か、意外と移動速度が速いのう。丸山から滝巻が約六キロだから自転車なみか」驚きの声が携帯電話の向こうから聞こえてきた。

「笹山さん、今回のペアは二頭ともスマートな体型をしている。今までのペアとは違う。早く走れそうな感じだから充分警戒しないとだめだよ」保科はモニターに映るペアを見ながら言った。

「何がスマートじゃ。ろくな物を喰っていないから痩せ細っとるがだろう」と笹山の小馬鹿にしたような声が返って来た。

食料不足で痩せているとしたら体力も失われているはずで、映像に映った素早いペアの動きは説明がつかないと保科は思った。さらに県警の担当者にも連絡を入れた。笹山ら猟友会のメンバーも県警のメンバーも滝巻地区の近くに待機した。

 二頭のペアは動きを止めていたのでカメラの視界からは未だ外れていなかった。二頭は顔を見合わせて何やら会話をしている様子にも見えた。通常ペアは母音の組合せで意志を通じ合わせる程度なので、その二頭のいかにも複雑な会話をしているかの様子は奇異に感じた。その時、笹山の携帯電話から連絡があった。

「滝巻地区の手前の民家から双眼鏡で二頭のペアを確認した。生け捕りは困難かもしれんが」と笹山は声を止めた。

 保科はモニター画面から二頭のペアが左方向に消えていくのを確認した。既に晩秋の闇が村を包み始めていた。

「こっちへ来るぞ。わしらが見えてないのか。危険を察知したら射殺するのでよろしく。一旦、切る」と笹山は声を潜めてそう言うと携帯電話の通話ボタンを切った。さらに県警機動隊隊長の森川岳志からもペア確認の連絡が入った。森川の報告からすると滝巻地区の民家の一つに二頭のペアが入りこんだ様子だった。

 猟友会や県警機動隊の総勢五十名近くが、滝巻地区のその民家を包囲した頃には時刻は夜の七時近くになり周囲はすっかり暗くなっていた。

 先鋒隊として五名の機動隊員が盾で防御しながら民家に近づいていった。先鋒隊隊員の中で一番の若手の寺本雄介が、民家の一室に明かりが灯っているのを発見した。民家には住人はいないはずだったが、寺本は「誰か住民が戻って来ているかもしれない」と後方にいた先鋒隊リーダーの三村智康に伝えた。三村はすぐに事実関係を確認するために無線機で民家に明かりが灯っている状況を後方に伝えた。その時だった。

“パーン”という闇夜をつんざく銃声が聞こえた。そして三村のすぐ前に立っていた寺本の体が崩れ落ちた。

「伏せろ」と三村は残りの三人に叫んだ。

寺本の同僚の沢村忠と三村は直ぐ前に倒れている寺本を守るべく盾を前にかざすようにして伏せた。

「寺本しっかりしろ」と沢村が叫んだ時、二発目の銃声が聞こえた。

今回の銃弾は三村のかざす楯をかすって焦げ臭い臭いを残して流れていった。

「状況を説明しろ」無線機からただならぬ気配を察した機動隊隊長森川の声が聞こえた。

「寺本が撃たれました。意識はありません。出血がひどいです」三村が無線機を手にしながら銃声のした民家の方向を見ると猟銃を構えて立っているペアがいた。三村は眼を見張って一瞬言葉を失った。時間にして五秒ほどの沈黙があったが三村は無線機に叫んだ。

「ペアが猟銃を持ってこちらに発砲しています」

更に三度目の銃声が周囲を揺るがした。

「馬鹿な」と隊長の森川岳志がつぶやいた。ペアが猟銃を扱えるなどという話はこれまで聞いたことがなかった。いくら器用なペアがいてもせいぜいで木の枝や棒を持って振り回すくらいだ。

怪我人を回収すべく一台の頑強な装甲をしたワゴン車が民家の近くまで近づき、重傷を負っている寺本雄介を乗せ病院に急行した。

 森川は岐阜の事件の折に殺害された二人の猟師のうち、一人分の猟銃が紛失しているという報告を受けていた。今、目の前で発砲された銃がまさかその銃とは思えなかったが背筋が寒くなるような戦慄を森川は覚えた。

 すでに富山で三人の老人が殺害され、今また目の前で一人の隊員が銃撃された以上、森川のとる行動は一つだった。森川は無線機の相手の三村に命令した。

「三村!恐らく銃は一丁だけだ。狙撃しろ」

 その直後、一発の別の銃声が闇をつんざいた。三村は民家の軒先で一頭のペアが崩れ落ちていくのを確認した。この隊一番の射撃の名手である三村の腕はこの場に及んでも確かであった。

「全員、慎重に包囲網を狭めていけ」森川隊長は三村リーダーの報告を受けてからそう言った。

 先鋒隊の四人はいち早く民家にたどり着いた。軒先で一頭のペアが額を撃ち抜かれて倒れていた。おびただしい量の血が周囲に飛び散っていた。その死骸の傍らには猟銃が一丁転がっていた。

 三村はついさっきまで一頭のペアがこの猟銃を使っていた事実を信じられないでいた。その時、隊員の川崎修治が「動くな!」と叫んだ。

 三村が川崎が向けた銃口の先を見ると、蛍光灯の点いた和室の奥にもう一頭のペアがうずくまって川崎を凝視していた。明らかに怯えた表情をしていた。仲間のペアが目の前で無残にも射殺された事実を十分に理解しているような表情だった。

その時、ペアがかすかに唸るような声を出したのが「ウタナイデ」と言ったように三村には聞こえた。

三村も銃口をペアに向けた。もう猟銃は持っていないであろうが射殺命令は既に下りている。ペアは表情を変えずに片方の手の中指だけを上に突き出し、両手の親指と人差し指を拡げて体の前で交差させながら指を閉じた。

「薄気味悪いペアめ」仲間が撃たれた仕返しとばかりに三村は引き金を引いた。


 その夜中、役場に詰めていた保科は機動隊隊長の森川岳志の報告を受けた。ペアに撃たれた寺本隊員は病院に搬送される途中に息を引き取っていた。

「隊員が死亡までしたのですから、ペアのことは仕方ないでしょうなあ」

保科は民家に侵入した二頭のペアを射殺駆除したことを了解した。

 それにしても従来のペアにしては器用すぎる行動だと保科は思った。ドアを開けたり、物をつかんで投げたり、棒を使って何かを引き寄せたりするような動作は当り前のようにできるペアだが、今回のように猟銃を扱えるというのは初めてだった。保科は異常な気象に加えて、なにやら不思議な力が自然界に働きかけているような気持ちになるのだった。


-4-

 新聞各紙は地方紙、全国紙を問わず、更にテレビ報道でも石川県田野倉村で起こったペアによる機動隊隊員の射殺事件を報じた。富山県の場合は撲殺という素手による手段であったが、石川県の場合は猟銃を使うというセンセーショナルな事件であった。それは通常のペアには認められない行動であった。そして、短期間に同じペアによって四人の人間が殺害されたのであるから事態は重大であった。

 保科は決してペア駆除作戦の中心人物ではなかったが、いつの間にかペア駆除の先駆的役割を担わされ、一部動物愛護団体や稀少動物保護団体から猛烈な抗議を受ける対象にもなっていた。

 人間達のそんな喧騒を余所に、ペア達は相変わらず食料を求めて里山まで降りてきて、住民と小さな小競り合いを繰り返していた。本格的な冬が始まりペア達が冬ごもりをするまで、それは続くだろうと思われた。

 機動隊隊員の射殺事件以来、保科は自分本来の仕事に加えて、マスコミ対策や不本意な動物愛護団体からの抗議運動にも対応せねばならない日々が続き、ほとんど役場に詰めるような生活になっていた。昼食も役場で軽く済ませられれば良い日が多くなった。

 そんな息子を見かねて、母親の映子は昼の弁当を村役場まで届ける日もしばしばあった。

「兄さんは今夜も泊り込みなのかしら?」遅い夕飯を取りながら日登美は母親に問いかけた。

「さっきそう連絡あったわよ。体壊さなきゃいいんだけどね。いつまでこのペア騒動は続くのかしら。お前も帰りが遅くなると危ないよ。もうちょっと早く帰れないのかい?」映子は娘を気遣った。

「そうね。町から途中の道は街灯も無いところがあるから、薄気味悪いわね。店長に事情を話してペア騒動の期間だけでも早く帰してもらうようにするわ」

 日登美は今年二十七歳になるが、二十歳の時にこの村で電気設備の工事にやってきた若者と恋に落ちて早々に結婚し、村を出ていったのである。やがて長男が誕生したが、翔太と名づけられたその男の子は生まれつき言葉を発することができなかった。夫婦仲は悪くなかったが、子供を巡って二人の間には埋められない溝が出来てしまった。夫は我が子を愛していたし決して疎んじるような態度は取らなかったが、仕事中心の生活にいつしか夫婦の仲は冷めていき、昨年、離婚して翔太を連れて実家に戻ってきた。六歳になる翔太は言葉こそ口からはでなかったが聡明な男の子だった。

 祖母の映子は手話を使うことができたので孫とのコミュニケーションをはかるために、手話を翔太に教えはじめた。日中、町の方へ飲食店のアルバイト店員として働いている翔太の母親に代わって、映子は翔太の面倒をみていたが、手話のおかげで中々楽しい日々を過ごせていた。

「日登美も手話を大分使えるようになってきたわね」映子は食器洗いを始めた娘に声をかけた。

「ここへ戻る前に、私も少し翔太と手話の練習していたからね。でもお母さんのおかげで随分、翔太と話せるようになったわ」

「翔太はね。賢いわよ。私に似たのかしらね」と映子は笑った。

「そうね。素直に育ってくれているわ。でも、これから学校に行くようになって・・ちょっと気が滅入ってくるわ」

「大丈夫だよ。あの子ならね。私たちも元気だからね」そう言うと映子は、既に日本酒の酔いが回り、コタツ布団の下でぐっすりと寝入った夫の慶介の腰をパンと叩いた。


 そんなある夜、翔太は母屋から短い渡り廊下を隔てた別室で寝ていた。祖父母や伯父とは別棟の部屋に母子の寝所はあった。もう何分くらい前になるだろう。翔太は寝ていたはずの自分が何故今眼を覚ましているのか分からなかった。晩秋の夜風が窓ガラスを震わせる音以外の不自然な音を確かに聞いたのだ。

『窓の鍵はかけてあったっけ?』翔太は思い出そうとした。

 顔を覆う掛け布団を少しずつ翔太は下へずらしていった。視界に入ってこない足元の方向にある窓ガラスを見てみたいと思ったのだ。なにやら先ほどより部屋の中に新しい空気が流れ始めているようだ。薄目を開けた翔太の視界に足元の方にある窓ガラスが見えてきた。そしてその窓ガラスは半分ほど開いていた。翔太が寝始めの頃は閉まっていた窓である。『誰かいるの?』翔太は心の中で叫んだ。急に背筋に冷たいものが流れた。

 そして、翔太はまだ半分開いていない側の窓下の手前に黒い影を認めた。その黒い影は翔太のゆっくりとした掛け布団の動きをじっと見ていたようだった。

どれくらい時間が立っただろうか。せいぜいで二、三分程度だろうが、随分と長い時間が立ったように翔太は思った。その黒い影が全く動かないので、翔太は枕元においてある母屋に通じる呼び鈴のスイッチに手を伸ばそうとした。

 その時、その黒い影は翔太が今までに見たことのないような速さで翔太の上に覆いかぶさり、翔太の伸ばした手を押さえ、そしてもう一つの手で翔太の口を押さえた。びっくりした翔太は体をうごめかせ手足をばたつかせた。しかし悲鳴を上げようにも声帯が使えない状態の翔太はかすかに唸るしかできなかった。

 翔太の口を押さえていた手はゆっくりと離れた。そして翔太の顔の真上から「コンバンワ」とたどたどしい声が聞こえ、手を交差させて両手の指を動かした。

翔太は手の動きを察した。それは手話であった。翔太は眼でうなづいた。翔太の上に覆いかぶさっているのは大柄な男であった。

『何もしない』とさらに男は手話で続けた。男は翔太の上から離れ、傍らに座りなおして、翔太にも座るように促した。

『おじさんは誰?』と翔太は手話で聞いた。

『やはり、君も手話ができるのだね。僕は太郎と言います。人に追われていて隠れる所を探していました。暗くて窓も開いたので入らせてもらったのです』その男はやさしく微笑みかけるように伝えた。

 翔太は薄明かりの中で、その太郎という男の姿をみた。黒っぽいスーツ姿であったが、ワイシャツを着ておらず、胸から首にかけては薄い体毛で覆われており、容貌も一般的な人と比べると毛深かった。ここ何日も髭の手入れはしていない様子であった。肩幅は広くたくましさを感じさせた。頭には古風なハットを被っており、目の付近は目深にかぶったハットではっきりとは見て取れなかったが、翔太を見つめる眼は柔らかに感じられた。

『おじさんは、外国の人?』と翔太は素直に感じたままを手話にした。

「ハッハッハ。ワカル?」とたどたどしく言いながら、手話で『最近、ここへ来ました。今、人に見つかると困るので、しばらくここに居ても良いかな?』と聞いた。

『もうすぐママが来るから、ここも駄目だよ。裏手にほとんど使わない納屋があるからそこに隠れていればいいよ。鍵もかかっていないから』と翔太は答えた。

『そうかママが来るのか。納屋のこと教えてくれてありがとう。そこに行ってみるよ』男はそういうと入ってきた窓から出て行こうとした。

『お腹すいてない?』翔太は出て行こうとするその男の袖を引っ張り、封のあいたスナック菓子の袋を差し出した。

 袋を見た男は優しい笑みをうかべて「アリガトウ」と声と手話の両方で答え、翔太の差し出した袋を抱えるようにして外へ飛びだした。翔太が驚くほどその動作は静かで素早かった。

「翔太、どうしたの?まだ起きてるの?」間も無く何やら物音が聞こえるのを心配した母親の日登美が部屋を覗いた。


-5-

 十二月に入って間もなく、岐阜県神尾郡津竜村地区にある小さな郵便局の局長、小和田直彦は数通たまった郵便物を前にして考え込んでいた。

「どうしたね、局長さん。深刻そうな顔をして!」と甲高い声をかけたのは局長から相談があると言われて立ち寄った金田修だった。

 金田と小和田はこの村出身の同級生で五十三歳になる。

「二十年ほど前からこの山奥に住んでいる元教授のことだよ。一ヶ月に一度は必ず郵便物を取りにここに姿を見せるのに九月以来姿を見せとらんのだ」と小和田は金田を見て言った。

「ああ、例の元大学教授の夫婦か。廃村になった奥山地区の民家で自分の研究生活続けている変人だね。俺も時々村の中で買い出ししている姿を見ていたが・・・」金田は頭の禿げ上がった細身の元教授の笑いを忘れたような顔を思い出していた。

「この奥山でペアの研究に専念するために大学の任期途中で退職してきた頃が五十歳位だったから今じゃ七十歳を越えておろう。奥さんは数年前に亡くなって今は一人暮らしのはず。病気かなんかで倒れているのではないだろうかと思ってね」

「なるほど、それで俺に相談かい」と金田は笑った。

金田修は民主介護連合会という介護を受ける者の立場に立った考え方で介護問題を解決する運動を展開している団体の職員である。高齢者の多い岐阜県山間部の独居老人達を訪問して様子を見てまわるのも彼の重要な仕事の一つだった。

「あの廃村まで行くには軽トラックがかろうじて通れるような林道しかないから、暖冬とは言えいつ雪が降ってきて行けなくなるかもしれんから早めに対応した方が良いんだがな」と小和田は金田をけしかけるかのように言った。

「警察に頼んだ方がよいかもしれないが、兎に角、まず俺が明日にでも行ってみるか」


 翌日、しばらく誰も通ったような様子もない舗装のされていない林道を金田は軽トラックを走らせた。九月にあった地震の影響で所々に落石があり、道路の一部が崩れている場所もあった。かろうじて軽トラックが通れる幅員があったので、金田は不安も感じたが奥へ進んだ。やがて旧奥山地区に着いた。古い民家が数軒見えた。村内の道には夏草のはびこったものがそのまま枯れて残っていた。廃村になって二十数年を経過し、元々家々は荒廃していたが、崩れ落ちてしまった家が数多くみえた。

「これは九月の大地震で崩れてしまったのかな?」

道は更に荒れ始めて軽トラックでも行けそうにない状況になってきたので、金田は車から降りて歩く決心をした。

 元教授の住居は村のはずれにあるという話だった。集落から十五分ほど奥の山に入るように歩いた場所に一軒家があった。正確には一軒家だった言う過去形がふさわしかった。

 木造二階建てだったらしい古い造りの家は無残にも崩壊していた。二階部分の屋根は崩れ二階自体が一階部分にめり込んで一階は見る影も無かった。他の家と違って崩壊した家の隙間から真新しい電気器具や生活用品を覗き見られたので、金田はこの家が北嶋家だと判断した。

「北嶋さーん」と金田は無駄とは思いながら、崩壊した家に呼びかけてみたが、人の声は聞こえず、裏手の森の木の枝の揺れる音が聞こえるばかりだった。

この地を利用してペアの研究を長年やっていたというが、周囲にペアの気配は感じられなかった。

「飼育していたペアはどこへ行ったのだろうか」と思うと十二月という季節以上の寒気を背中に感じた。


 その日の内に金田修の連絡を受けた岐阜県警の捜査員が元志賀大学理学部教授北嶋邦康を倒壊した家の下で発見した。九月末にあった岐阜県の山間地を震源とした地震により家は倒壊したと考えられ、北嶋元教授は倒れてきた柱の下敷きになり、ほぼ即死状態の圧迫死と断定された。

大学在職当時から北嶋元教授は古代生物学を専門としてペア生態研究界の第一人者として知られていた。そして、この廃村になった奥山地区をペアの生態系を調査する場所として現職時代から他の研究者と共によく奥山に出入りをしていた。

しかし、やがて大学の研究方針と北嶋自身の研究の方向性が食い違うようになり、大学の援助を受けられなくなった北嶋は自分の研究を続けるために大学を辞職した。

大学を中途退職した後、北嶋はこの地に定住して余生をペアの研究に尽くした。北嶋の妻もペアの研究者の一人であったので、二人は全資産を投げ打ってこの地に移り住んでいたのだ。彼らはペアの餌付けにも成功したと伝えられていた。もっともそれが原因でペアとの接触を嫌う地元住民達が元教授夫婦を変人奇人扱いしていたのも事実であった。しかし十年後に妻は心臓発作で急死した。山奥であったため救急車も間に合わなかったのも死因の一つとされた。

確かに夫婦二人だけの生活にしては残された食料や食器類は多く、さらにペアの体毛と思われる体毛が大量に布団や衣類に付着していたので、何らかの形でペアと共同生活をしていたらしい形跡はあった。しかし、遺体は北嶋元教授のみでペアの死骸は見つからなかった。ペアは野生の本能で危険を察知するやいなや屋外に飛び出して逃げたのだろう。北嶋元教授の死は地方新聞のほんの片隅に地震による事故死として小さく掲載されるだけだった。

 北嶋元教授の次男で今年三十九歳になる北嶋康和という男がいた。康和は一家の代表として父親の遺品を整理する係になった。

長男の邦伸は現在、地方銀行の支店長をしており、父親が持っていた古代動物学に対する情熱は全く持っていなかった。それに対して康和は少なからず古代動物学に興味をもっていたために、両親の遺品整理の全権を与えられたのであった。しかし、親子とは言いながら親子関係としての連絡や出会いは十年以上も途絶えた状態が続いていた。


 北嶋康和は、まず津竜村地区郵便局の局長小和田直彦を訪問した。

「郵便物が溜まっているというので引き取りにきました。両親がいつもお世話になっていたそうでありがとうございました」と言う物腰の柔らかな康和の態度に小和田はほっと安堵した。

小和田は息子が父親以上の変人であれば何を言い出すかしれたものではないと半ば心配していたのだ。

「ご愁傷様なことでございました。月一回は必ず郵便物を取りに来られるのに、この二ヶ月近く顔を見ないので心配していたところでした。無論、郵便配達は我々の使命ですが、北嶋さんはどうしても自分が取りに行くからと言われ、私共の方からは届けてくれるなと言われていたんです。どうも餌付けしているペアに刺激を与えたくなかったというのが理由のようでした」と言いながら小和田は小さな菓子箱に入れた封書と葉書を康和に渡した。

「両親は時々買い出しに村に降りてきたと聞きましたが、その時はどのような様子でしたか?」と郵便物を受け取りながら康和は小和田に尋ねた。

「そうですね。物静かなご夫婦でしたよ。軽トラックに積めるだけの食料や日用品を積んで、最後にこの郵便局に寄られて郵便物を持って帰って行かれましたな」

小和田は二人の姿を思い出しながら語ったが、正直言って、その夫婦とはまともに話をした記憶が無かった。小和田が親しげに声をかけても、大抵はイエスかノーの返事ばかりだった。ことに妻は声帯を失ってしまったかのように寡黙で郵便局に来た時は、ほとんど軽トラックの助手席にいるのが常だった。

「大学を途中で辞めて、独自のペア研究を山奥で続けていたので村の人達に何かとご迷惑をかけたとも思うのですが、何かトラブルは無かったですか?」康和は父に対する村人達の評判を聞こうとした。

「うーん。必ずしもお父さんに好意的な人が多いとは言えんかったかもしれんですなあ。特に今年のようにペアによる被害が里山まで拡がって来ている状況ではね。あなたも後始末が済んだら、長居は無用だと思いますよ」郵便局長は正直に康和に忠告した。

 両親はわずかな年金とペアに関する本の著作料だけで細々と生計を立てていたはずであった。着の身着のままの生活であったに違いない。人によっては嫌悪の対象となるペアという研究対象とその普段からの服装からも村民の印象はかなり悪かったのではないかと康和は思っていた。

父は昔からペアの研究になると寝食を忘れて取り組んだものである。康和ら兄弟にとっても、そのような父が変人に映ったのも事実である。そして母はそんな父の行動の犠牲になっていると思い込んでいた。しかし、母の献身的な姿を思い起こすと必ずしも父の犠牲になっていたとは思えなかった。

父の遺品の書籍類やノート類は既に風雨に曝され、見る影もない状態になっていたので、康和はそれらを全て現地で処分し、自然災害の難を免れていそうなフロッピーディスクやUSB式のメモリースティックだけを持ち帰ることにした。倒壊した家屋の下敷きにはなっていたが培養細胞を無菌的に操作する装置のクリーンベンチだけが壊れずにその原型をとどめていた。しかし重量のあるその設備は朽ちるに任せることにした。







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