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第5話

「これは、思ったよりやばいな。気をつけないと迷子になりそうだ」


 森へ足を踏み入れてから、ほんの数分が経った頃。高志が後ろを振り返りながら言った。

 無数の木々やツタの繋がりが視界を覆い、大きな起伏がそこら中にあり、草原は水平線方向に見える明るい斑点といった状態でしか確認できなくなっていた。周囲は徐々に薄暗くなっていっており、一歩足を進めるごとにより暗闇へ近付いているような気がした。


「なんか目印とかつけといたほがいいのかな?」


 背中のリーベルが言った。彼女の声を除くと、周囲には風と木の葉が奏でるさざ波のような音と、恐らく虫か何かだろう何かの生き物による聞き覚えのない泣き声だけが存在していた。

 高志は「そうだな」と同意すると、落ちていた適当な石を拾い上げ、そのあたりで最も目立つ木の幹に、ぐるりと一周する傷を2つつけた。


「…………ほとんど気休め程度だな。日が落ちたら効果はゼロだ」


 高志はそう呟くと、足を進め始めた。傷はそれなりに目立つようにつけたはずだったが、やはり数十メートルも進めばすぐに見えなくなってしまった。視界を遮る障害物が多く、そしてあたりは薄暗い。


「もう少し開けた場所を探して、見つからないようなら引き返そう。この状況はちょっと手に負えん」


 足元の土は、枯れた草や何かで作られた腐葉土なのだろう、柔らかく、足を踏み出す度に沈み、歩きにくい事この上なかった。さらには無数に這った木の根が自然の罠を作り出しており、高志は地雷原を歩くかのように、足元に細心の注意を払わねばならなかった。


「そうだね。僕としてもさっきから小枝がっ、にゃああ!!」


 木の枝に擦られたのだろう、頬を押さえたリーベルが、過ぎ去った枝に怒りを向けている。高志は「すまんすまん」と軽く言ったが、逆に「むしろこっちがごめんね」と謝られてしまった。


「完全に足手まといだよねぇ……この仮は必ず返すからさ。体で」


「いらん。それに大して重くはないし、話し相手になってくれるだけでも助かる」


 高志は出来るだけ樹木の密度が低く、空間が見える方を目指し、さらに足を進めた。森は疲労の溜まり方が早いのか、5分おきに出る疲労の文字と、その度にいちいち座って休まねばならない事がわずらわしかったが、しかし現実世界で山歩きをする事に比べれば楽そうだった。高志にその経験はほとんどなかったが。


「そういえば、徒歩と運搬のスキルが上昇しなくなってきたな」


 ふとその事実に気づき、高志が発した。するとリーベルが「確かに」とそれに同意した。


「あちきの方も、森に入ってから騎乗スキル上昇のアナウンスが流れてないよ」


「そうか。となると、上昇の判定は距離に応じてされてるのかもな。森に入ってからは極端に速度が落ちてる」


「あー、あるかも。タカシ頭いいな」


「伊達に30年近く生きてねぇからな」


 先輩風を吹かせ、得意げに言った高志だったが、しかし彼の考えが間違っていた事がすぐに判明する事になった。


 ――スキルが上昇しました 徒歩0.50――


 高志の視界に現れる表示。高志はばつが悪そうに「あー」と前置きをすると、その事実をリーベルに伝えた。


「にゃるほど。単にしきい値が変わったって事っすね。前は0.1上がれば表示されたけど、今は0.5刻みになったとか、そういう」


「だろうな。むしろ時間効率で言うと、草原の時より早い感じだ。判定は距離じゃなく、難易度や何かっぽいな」


 高志はしばらくして現れた運搬スキルの上昇表示を特に感慨もなく眺めると、さらに前を目指して歩き続けた。視界左上にある渇きと飢えの表示が妙なプレッシャーを与えてくるため、そろそろ現実世界で休憩をするかという考えはいつの間にか忘れ去られていた。また、歩けないリーベルを森の中に放り出すわけにもいかない。


 ――重口渇――


 切り替わる表示。高志は「ついに来たか」という想いと、「早すぎる」という想いを、「とんだクソゲーだ」というひと言にまとめた。


「うぁ、僕も空腹きた!」


 何が楽しいのか、背中からリーベルのはしゃぐような声。高志は「そいつはまた」と適当に流すと、一度足を止め、リーベルをその場に下ろした。


「俺の方は、重口渇表示になった。疲労の時の事を考えると、多分このままだと死ぬな。普通に考えて、疲労より口渇の方が生命維持についてはダイレクトだ」


 高志はそう言うと、周囲を見回し、手ごろな太い幹を持つ木を探した。やがて十分な重量に耐えそうな、そして登り易そうな形状の樹木を見つけると、それに登り始めた。


「落ちないように気をつけてよー?」


 下から聞こえるリーベルの声。高志は「それは振りか?」と冗談で返すと、慎重に枝を伝って木に登り、そして可能な限り遠くを眺め見た。


「草原は向こうの方角か…………矢印があるから大丈夫だとは思うが」


 高志は草原が広がる方向を確認すると、登る際よりも慎重に木を降りていった。彼は地上に降り立つと、なぜか拍手をしてくるリーベルへの反応に困りつつ、草原の方角を指差した。


「このまま、運良く水源なりなんなりがすんなりと見つかるとは思えん。多分俺は近いうちに死ぬだろうから、出来るだけ再合流がし易い場所に移動しよう」


「なるほど。そりゃぁ名案だぜボス。にしても、内容だけ聞くと凄い台詞だよね」


「おう、俺も言ってて違和感が半端ねぇ。近いうちに死ぬから、なんて台詞を吐くはせめて30年は先だと思ってたぜ」


「30年とは随分と控えめな数字ですなぁ。僕は後50年はみときたいよ」


「健康的な生活とは言い難いからなぁ……それより、1人称は僕にする事にしたのか? さっきから色々変えてただろ」


「そこに気づくとは、やはり天才か…………まぁ、現実の方でも僕が多いし、自然とね」


「僕っ娘か。希少種だな」


「ふへへ、崇め称えよ」


 そしてその五分後、高志は渇きによって死亡した。


 VRデバイスを脱いだ高志は「やっぱりか」とため息を吐くと、先ほどと同じように台所のシンクで顔を洗い、その場にうずくまり、襲い来る無気力感にされるがままにした。


「…………これ、精神的に何か影響が出たりしねぇだろうな」


 いわゆる体育座りの格好で5分が経過した頃、徐々に回復してきた高志がぼそりと言った。彼はついぞ今先程までどうしようもないくらい落ち込んでいたのが自分でも信じられない程に普通の体調だったが、しかし口に出した点についてがいくらか心配だった。


「あー、死んだタイミングで飯休憩にしようって言っとけば良かったな」


 空腹を覚えた高志は、腹をさすりつつ、何気なく時計を見た。壁にかけてある時計は午後1時を示しており、高志はその日まだ何も口にしていない事を今更ながらに気付いた。


「次に合流したら、まずは休憩にするか…………あれ?」


 何か違和感を感じ、高志はもう一度壁掛け時計を見た。そして朝からの記憶を辿ると、今度は携帯電話の時刻表示を確認した。もちろん表示は、壁掛け時計のそれと同じく、午後1時。


「………………」


 高志は無言でしばし熟考すると、やがて思い立ったようにVRデバイスを手にした。そしていつも通りのテイクアウトアナウンスを無視し、草原へと降り立ち、矢印を頼りにリーベルの元へと急いだ。


「おっと、危ない危ない」


 視界左上の表示に気付き、足を止め、座って休息をとる。そんな事を何度か繰り返した後、徐々に増えてくる樹木の間を駆け、そしてリーベルの元へと到着した。


「おー、おかえりタカスィ。大人しく待ってたんだぜ。褒めて褒めて」


 座ったままのリーベルが笑顔で出迎えてくれる。高志は彼女の体や服に絡まった落ち葉やら枯れ木に気付いていたが、あえてそれには触れず、ひとつ質問をした。


「俺が死んでから、どれくらいの時間が経った?」


 高志の問いに、リーベルがきょとんとした顔をし、そして考える様子を見せた。


「うーん、1時間くらいじゃないかなぁ。感覚だから良くわからないけど。確認してくる?」


「いや、いい。ちょっと待っててくれ」


 高志はそう言うと、VRデバイスを頭の上にずらし、そして手元の携帯電話で時刻を確認した。


「………………」


 無言で時間表示を見つめる高志。彼は違和感の正体を確信すると、再びVRデバイスを目の位置まで下ろし、リーベルの方を向いた。


「時間の進み方がおかしい。携帯の時計だと、現実世界じゃ15分しか経過してない」


 高志の言葉に、リーベルがぽかんとした表情を見せた。


「や、や、さすがに15分って事はないと思うよ。いくらなんでも」


「だからおかしいんだ。つーか、考えてみりゃ今が1時だってのも変なんだよ。朝9時頃にこの世界に来て、それからひとりで色々と試した。その後リーベルと会ってから草原を歩いてた時間だけでも2、3時間はあったはずで、計算が合わない。もう夕方か夜になっててもおかしくないはずだ」


「はえー…………ってことは、ファンタジアの方では、時間が早く進んでるって事よね?」


「まぁ、そうなるな。ごらんの通り既に日が落ちそうだ。暗くなってたのは森の中にいるのだけが原因じゃなかったんだな」


 木と葉の隙間から見える太陽の方を見て、高志が目を細める。まだ太陽の光はオレンジ色にこそ変わってはいなかったが、きっとそれも時間の問題だと思われた。


「これだけリアルだと、正直夜は怖いな」


 普通のゲームのプレイ中にその世界が夜になったとしても、それがホラーゲームというわけでもなければ、普通は怖いというより、せいぜい面倒だと思う程度の問題しかない。敵の数が増えたり凶暴になったりとそういった変化が起こったりはするが、やはりその程度の認識だ。

 しかし五感全てに究極のリアリティをぶつけられている今、それはそう単純な問題ではなくなっていた。視界が限定されるという事実は、恐らく間違いなく、人が本能的に持っている、原始的な恐怖心を煽られる事になるだろうからだ。


「月があるかもわかんないもんねぇ…………真っ暗になるのかな?」


 リーベルが不安そうに空を見上げながら言った。高志は確かにその通りだと、不安をさらに強くした。新月の夜に森の中となると、もうほとんど完全な暗闇の中と同義となる。


「足元が見えなくなるだけで致命的だろうしな。一度草原の方に――」


 リーベルと同じように空へ視線を上げていた高志が、彼女の方に目を戻しつつ言っていた言葉を、ふいに途切れさせた。


 体が硬直し、目が大きく見開かれる。

 鼓動は急激に早くなり、冷や汗が流れ出し、全身に鳥肌があわ立つ。


 リーベルのすぐ後ろ、わずか1メートル程度といった距離に、茶色く、人の頭程もある太さの、舌を出し、感情の感じられない目をした、一匹の蛇がいた。体のほとんどを木の陰に隠したそれの長さは検討もつかず、鎌首をもたげ、何か品定めをするかのように首をかしげ、リーベルの方へと頭を向けていた。


「………………」


 高志は固まっていた。緊張から喉が渇き、目がちかちかとする。彼はモンスターと呼ばれるゲームの世界にはありふれた敵役の事を確かに想定してはいたが、しかしこんな化け物だとは思っていなかった。


 自分たちはゲームを始めたばかりであり、そうであれば一般的なゲームの常識に従い、せいぜいネズミや何かといった、そんな手ごろの相手が出るものだと高をくくっていた。


 しかし目の前にいる、明らかに話の通じない、食物連鎖ピラミッドのそれなりの高さにいるだろう相手は、テレビ番組のアマゾン川流域特集でしかお見かけしないような、巨大で、危険な、少なくとも素手でどうにかしようなどという考えには間違っても至らないような、そんな存在だった。


 逃げ出したい。


 高志の頭の中にあるのは、そんな単純な感情だけだった。考えなければならない事は山ほどあるかもしれないし、その行動が最善の結果を生むのかどうかなど全くわからなかったが、しかしそんな些細な事はどうでも良かった。雑多な思考など、生存本能という最も強力な原理の前では、何の役にも立たなかった。今彼がいる世界の事についてなど、まったく考える余地がなかった。


 しかし――


「………………だ」


 歩けない少女の存在。それが、高志にほんの少しだけ勇気を与えた。


「…………こっちだ!」


 声を絞り出し、叫ぶ。彼は木に目印を付ける際に使用した石を握り締めると、それを全力で蛇に向かって投げつけた。


「……こっちだ化け物!! ついてきやがれ!!」




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