第31話
「…………ぐっ、がっ、あっ」
口から漏れる声にならない声。全身を痛みが走るが、それはどこか遠く、他人事のようにも感じる。
何故生きているのだろう。高志がまず考えたのは、それだった。
自分はトロールを巻き込んで崖から落下し、そして地面まで到達したはずだった。実際に視線の先には切り立った岸壁が見えており、崖下である事は間違いないはずだった。そして崖はちょっとしたビル程の高さはあり、とても助かるとは思えなかった。
「う、ぎっ…………」
体を動かそうと試みるも、せいぜい地面で芋虫の物まねをするのがせいぜいだった。高志は、きっと運良くというか運悪くというか、何かの偶然で死亡までは至らなかったのだろうと想像した。
きっともうじき死を迎えるのだろうと考え、彼は体を動かそうとするのを諦めた。死んでしまえば村へ戻る事が出来るわけで、それも悪くないなと思えた。いつかリーベルには偉そうな事を言ったが、結局自分も同じような思考をしている事に、高志は自嘲気味に笑った。
「……………………」
無言で死を待つ高志。しかし待つといっても意識がはっきりとしている今、それはあまりに暇だった。彼は目を閉じて浅く息を吐くと、なぜ自分が生きているのかを再び考え始めた。
可能性としてはいくつかあった。途中で枝や岸壁でバウンドして速度が落ちたとか、それとも何かがクッションのようにでもなったか――
「…………とろ、る」
クッションと頭に思い浮かんだ所で、それに該当しそうなものがひとつしかなく、しかしその姿が見えない事に高志は気付いた。彼は目を見開くと、再度体を動かせないものかと試みた。
しかし手足は痺れたようにまったく感覚がなく、ようやく動くのは首を肩だけといった具合だった。高志はなんとか地面に顔を擦りつけつつも体の向きを変える事に成功すると、先程まで背中側だった方向を見る事ができた。
「あ…………」
思わず声が出た。目の前には、緑の皮膚の、汚らしい毛の生えた、異常に大きな足があった。足の持ち主が何者かは考えるまでもなく、高志は瞬時に自分がどのような状況にあるかを理解した。
「…………く、しょ」
悪態をつこうと試みたが、うまくいかなかった。彼に出来るのはトロールの足先から脛にかけてをにらみ付ける事だけで、それだけだった。
「………………」
ただ無言で、高志は死を待った。何も出来ることはなく、悔しさに歯をかみ締めた。視線を移してみると、恐らくトロールが足を引きずった跡だろうえぐれた地面が見え、それに沿って多量の血だまりが出来ているのが見えた。おそらくこいつは弱っていて、しかし歩く事が出来る程度には元気らしかった。
「ぐっ!」
視界に影がかかり、そして首が何かによって締め付けられる。高志は目を閉じてそれを甘んじて受け入れたが、普段であれば細い枝でも折るかのように破壊されていた頚椎が今も無事でいるあたり、相手も相当に弱っていたのだろうと確信できた。
だが、それゆえに悔しかった。
少し離れた場所には彼の弓と、そして破壊された矢筒から落ちた矢がばらばらに散らばっており、今であれば簡単に憎き敵を蜂の巣にできそうだった。足を引きずらねば動けないような相手であれば、それは難しい事でもなんでもない。
そして高志の知る限り、トロールと言えば魔法じみた肉体の再生能力を持つ化け物というものであり、その努力が無駄になる恐れがあった。本当に知恵の無い動物であれば同じ手も通じるだろうが、しかしこの化け物がそうであるかはわからなかった。
「ぉ…………」
肺の中の酸素が底をついたらしく、視界が歪み、暗く沈んでいく。薄れ行く意識の中で、高志はウィリーやリーベルに詫びた。
――スキルが上昇しました 大成功 不死4.00――
――イモータルが発動しました――
暗闇の中を流れるアナウンス。
そして体が浮き上がるような、ふわりとした感覚。
高志はぱちりと目を開くと、混乱の中で地面に手をつき、体を起こした。目の前には知らない誰かの後頭部と、それに手をかける巨大な緑の手。
「…………なっ、え? これは、俺か!? 幽霊!?」
自分の手が透けている事に気付き、狼狽する高志。状況を察するに、どうやら目の前の後頭部は自分自身のものらしかった。彼は反射的に手を伸ばして自分の体に触れようとしたが、その手はするりと体を素通りし、しかしなぜか地面へは触れる事が出来るのだった。
「こんなんで、何を…………っ!!」
再び自分の透き通る手を見て、高志は思わず息を飲んだ。先程まで形ある水のように向こう側が透けて見えていた手が、今は曇ったすりガラスのようになっている。そして逆に倒れ伏す高志の体が透け初めており、もはや消えてなくならんばかりとなっていた。
何が起こっているのかを理解した瞬間、高志は走りだした。
彼は飛びつくように弓を手にすると、外れていた弦を素早く張り、そして矢を拾い集めた。彼は矢じりが皮膚を突き刺すのに構わず矢をズボンの間へと挟みこむと、一本を弓につがえ、力の限りに引き絞った。
眼前には、何がなにやらわからないといった様子でうろたえる一匹の化け物。
「悪いな、化け物。ちょっとばかり俺は、ツイてたらしい」
高志は一本目の矢を撃ち放つと、後は敵が動かなくなるまで同じ事を繰り返した。
――宝石(中)を手に入れた――
体中から矢を生やし倒れ付す化け物は、しばらくしてその姿を消し去った。
高志はそいつの死体があった場所へ歩み寄ると、残された小さな石ころを手にとった。アナウンスでは宝石となっていたが、どう見てもただの石ころにしか見えなかった。
「…………お前を墓に入れてやる気には、さすがになれないな」
高志は石を懐にしまい込むと、ひとつ息を吐いてからその場に座り込んだ。体は先程まで死にかけていたのが嘘のように元気だったが、精神的にはほとほと疲れきっていた。
「疲れたな…………なぁ、マリー。仇はとったぞ。ついでに村も無事だ」
高志はそう呟くと、しばらくの間をその場でじっとしていた。いくらかの達成感はあったが、しかし死者が戻ってくるわけではなく、胸のしこりが消え去ったりはしなかった。
――英雄的な行動 テイクアウトアイテムに1を追加――
――好きな物を追加でひとつ、持ち帰れます――
視界上に現れるアナウンス。それをぽかんと見つめる高志。
「………………」
高志はしばらくそうしていたが、やがて眉をひそめると、地面の砂を掴み、それを空へ向かって思い切り投げつけた。
「ふざけんなよちくしょう! 何が英雄的な行動だ! 子供ひとり助けられてねぇぞ!」
アナウンスを流している何かに向かい、高志は叫んだ。神と呼ぶのかシステムと呼ぶのかは知らないが、そういった存在に向かい、彼は憤りをぶつけた。
「そういうのを未然に防いだり、危険から遠ざけたり、とにかく、英雄ってのは、そういう人の事だ! 親だったりとか、くそっ、俺は、違う! こんなの…………」
高志はその場に膝をつくと、地面を拳で殴りつけた。村の事を思えば、彼は自分がそれなりの事を成し遂げたのだろうと思うし、きっと周りの人々もそう言ってくれるだろうが、しかし英雄と呼ばれる何かになったとは思っていなかった。
彼の中でトロールの討伐は、もちろん村の為でもあったし、マリーの復讐でもある事は間違いなかったが、しかし彼自身の贖罪でもあった。それはごく個人的な事であり、決して英雄的などとは思えなかった。
「本当は――」
高志は空を見上げると、存在感のない圧倒的存在に向け、マリーが死んだ時からずっと考えていた可能性についてを口にした。
「本当は、俺らのせいなんじゃないのか? 俺らがここへ来たから、お前はゲームのイベントのように、俺らに試練やら何やらを課そうと、そういう事なんじゃないのか?」
ゲームの登場人物は、特に主人公と呼ばれる存在であれば、そいつは世界中の不運をぶち込まれたかのような人生を歩む者が多い。もちろん自分からそういった環境へ身を置く者もいるだろうが、しかし大抵の場合、何かの不幸や不運に巻き込まれる者がほとんどだ。
普通の人生を送っていれば、そういった人々が味わうような不幸や不運など、人生を通して数える程あるかないかといった程度だろう。身近な誰かが死んだという人は多くても、殺されたという人は少ない。それに自らの手で復讐となると、少なくとも現代の日本においては、まず考えられない。仮に現代でなくても、自然死に比べれば微々たる量だろう。
ひと言で言えばマリーは、自分達の持ついわば主人公補正的な何かに、ただ巻き込まれただけなのではないかと、そう高志は疑っていた。
「何がテイクアウトシステムだ! くそっ! 願い事のひとつやふたつ、そんなのを叶えるくらいの事をしてみやがれ!」
高志はそう全力で叫ぶと、しばらく乱れた息を整え、その後ため息を吐いた。叫んだ事でいくらか気分は落ち着き、怒りは疲れへと取って代わった。存在しない何かに対する八つ当たりは誰にも迷惑をかけずに済む最も良い方法だなと、彼は冷静になった頭で考えていた。
「何でもっつーんなら、あの子の命でも持ち帰らせてみやがれ。レイヤ様よ」
気だるくなった高志はそう皮肉気にぼやくと、その場に仰向けになった。達成感は既に倦怠感となっており、しばらく何もしたくなかった。
「今日はもう、やめよう」
高志は現実世界の方でVRデバイスに手をかけると、それを取り外した。
「…………ゲームの世界ってのは、思う程には楽じゃないな」
アパートの一室に戻った高志は、ため息と共にそう呟いた。
のどかで平和だった村は、今はその姿を取り戻せたのかもしれないが、しかしたった1匹の魔物が近くに現れただけで、あっという間に崩壊寸前にまで行ってしまった。
永遠に続いていくのではと錯覚するようなあの牧歌的な雰囲気は、いつ壊れてもおかしくないまるで薄氷のようなものだったのだろうかと、高志はひとりそんな事を考えた。
「明日は、遠慮しとくか」
翌日は日曜日だったが、しかし楽しくゲームをやる気分ではなかった。高志はそうぼやくと、時間的には早かったが、もう寝てしまおうと考えた。
いつも通り椅子から立ち上がり、体の向きを変え、たった二歩歩いた先にある布団へ向かう。一歩目で地面に置かれた雑誌の束を乗り越え、二歩目を踏み出そうとする。
そこまではいつも通りだった。
何も問題はなく、そもそも問題などが起こるはずがなかった。
「……………………」
たった2歩を歩くだけで、そこはもう布団の上のはずだった。
しかし高志は、その2歩目を踏み出す事ができなかった。
「…………こんばんは、タカシ。ここって、レイア様のいる所?」
布団の上には、ぺたりと座り込む、ひとりの少女の姿。
それは見間違えようのない、トロールによって殺された、あのマリーの姿だった。
――テイクアウトアイテム 残り1/4個――




