第26話
「鈴木さん、最近ぼーっとしてる事多いっすね。なんかあったんすか」
午前の勤務を終え、昼休みが終わるまでの時間をデスクでぼうっと過ごしていた高志は、そんな同僚の声にはっと振り返った。
「いや、そういうわけじゃ…………すまん、何か進捗に支障が出てたか?」
「いえいえ、別にそういうわけじゃないっすけど。でもその質問が出る事自体、鈴木さんらしくないっすね」
「そうか…………まぁ、そうなんだろうな」
「寝不足っすか? 昨日も天辺回ってましたし。体壊したんじゃ元も子もないっすよ」
軽い口調だが、同僚のその表情から心配してくれているのだとわかる。高志は「そうだな」とそれに笑って返したが、しかし別に体調が悪いわけではなかった。
ゲーム内で睡眠がとれる事が判明して以来、高志は毎日十分な睡眠時間を確保する事ができるようになっていた。ファンタジアの方で8時間をぐっすり寝たとしても、現実世界ではせいぜいが2時間といったところ。睡眠不足にはなりようがないし、体を動かしているためか、体調もすこぶる調子が良かった。
問題があるとすれば、それは心の方だった。
「なぁ、柳田…………働くって、何なんだろな」
隣のビルが見えるだけの窓向こうを眺め、そう同僚に問いかける。振られた同僚は顔を引きつらせると、「さぁ」と苦い顔で発した。
生きるために、人は働く。
もちろんそれだけではないし、それこそ人の数だけ様々な働く理由があろうが、しかし根底にあるのは間違いなくそれだった。人は働かねば食べて行けず、もしくはその人が人間として最低限必要だと思う生活を手に入れる事ができない。もちろん例外もいるだろうが、しかしそれは限られた小数の人間に過ぎなかった。
しかし究極的に分業が進み、複雑化した現代社会において、少なくとも高志はそれをなかなか実感できずにいた。給金が食料であればいくらかマシかもしれないが、しかし実際には金をもらい、しかもそれは銀行振り込みという電子的な処理が成されるだけに過ぎない。毎日くたびれるまで働いて、その対価がメモリー上の微細な電圧の変化だけというのは、当然現代に生きる者として当たり前の事だし、頭ではそれが最も効率的だと理解はしていたが、しかし納得できるかというと話は別だった。
それに比べ、やっとの思いで手にしたネズミの肉の、なんたる重さだろうか。
「…………あんなんが当たり前の世界になったら、人類はあり方を変える必要があるだろうな」
技術が進み、いつか訪れるだろう未来を想像すると、高志は皮肉気に笑った。機械生命体によって肉体を管理され、ただ夢の世界の中だけ生きる人類を題材にした、そんなSF映画を思い出したからだった。
「おっすタカチン。今日は随分遅めっすねぇ。飲みにでも行ってたのかな? かな?」
「タカシ、おはよう。今日も良い天気だよ」
ファンタジアへとログインし、村に間借りしている建物に下り立った高志は、外へ出るなりそんな声をかけられた。現実世界における夜の世界に慣れきった目が太陽の光に負け、激しくハレーションを起こす。
「リーベルと、マリーか。最近お前らいつも一緒だな」
光が落ち着くと、松葉杖を使って歩み寄ってくるリーベルと、その後ろをちょこちょことついてくるマリーの姿が見えてきた。いつも通りの素朴な格好の彼女らは、東京のどんな貧相な生活をする者達よりも少ない数の服しか持っていないだろうが、しかしそこの誰よりも楽しそうに見えた。
「ぬふふー、マリーちゃん可愛いからねぇ。わっちはお気に入りなのですよ。このくりくりお目目に、すっと通った鼻。この娘は美人に育つでぇ~」
「リーベル、おもしろいから好き。でも、タカシも好きよ。今日はふたりで朝からお花を摘んだの。これ、あげる」
リーベルからは妙な熱弁をされ、マリーからは花の冠を渡される。高志は冠を自分の頭に乗せると、「どうだ?」と片眉を上げて聞いてみた。
「うーん、微妙。基本君は地味顔だからねぇ」
「えぇー、かわいいよー。ポグモタみたい」
ふたりから異なる感想がもたらされる。高志はポグモタという、恐らく何かの生き物の名前と思われるそれが気になったが、それはあえて聞かない事にした。聞いてショックを受ける可能性が、十分にあった。
「ありがとな。でも仕事にはつけていけないから…………そうだな。こうしよう」
高志は自分らが借りている家の入り口まで戻ると、引き戸を少し探り、見つけたささくれに花の輪を引っ掛けた。
「あ、いいねそれ。クリスマスリースみたい」
「くりすますりーす?」
何かお気に召したらしく目を輝かせるリーベルと、何の話だろうと首を傾げるマリー。リーベルが「お祭りの時の飾りだね」と説明すると、マリーは何やら納得したようだった。
「さて、それじゃ俺らは仕事に行くから、また夕方にな。兄さんによろしく言っといてくれよ」
タカシはマリーの頭を軽く撫でると、次いで彼女の家の方へと背中を押してやった。マリーは少しばかり足を進めると、振り返り、「またあとで!」と元気良く発した。そして途中途中で何度か振り返りながら、やがて見えなくなるまで同じ事を繰り返していた。
「元気だなぁ…………しっかしお前、随分と懐かれたな」
リーベルの方へ背中を向け、高志が言った。近頃リーベルは松葉杖を使ってひとりで動けるようになっていたが、しかしそれなりにしんどいらしく、それに背負った方がずっと早く動ける為、今でも前と変わらず高志の背中が定位置だった。
「んー? あいや、あれは違うと思うよ。僕じゃなくて、君なんじゃないかな?」
高志の背中に乗りつつ、リーベルがそんな事を言った。高志が「俺?」と尋ねると、リーベルは「ありゃあホの字ですぜ旦那ぁ」と悪巧みをした悪役のような顔をした。
「いや、どこをどう見ればそうなるんだ。ほとんど接点なんかないぞ?」
「そーんなの関係ないよ。ホレる時はそれこそ、目をみただけでコロッといっちまうもんさぁ。あの娘のタカシを見る目。あれは恋する乙女だよぉ」
「あの歳でひと目ぼれってか? 冗談きついぜ」
「年齢は関係ないよー。初恋があのくらいの歳の娘って、結構多いよ?」
「そうなのか…………うーん、女子の事は良くわからんな。あの年頃は特にだ」
「まぁまぁ、いいじゃーないか。好意を向けらるってのは良い事だよ」
「そりゃそうだが、まだ12かそこらだろ? 俺の半分も生きてねぇ」
「もう結婚できる歳らしいよ?」
「まじかよ…………って、別に珍しくもないか」
ふたりは歩みを進めると、いつも通りの道を通り、いつも通りの縄梯子を使い、そしていつもの狩場へと向かった。既に村へ来てからひと月程が経過しており、現実世界ではせいぜい1週間といった所だが、しかし既に慣れ親しんだ場所となりつつあった。
――スキルが上昇しました 危険感知1.00――
十分な収穫を手にし、そろそろ狩りを切り上げようかという頃。荷物を運びやすいようにとまとめていた高志の視界に、そんなアナウンスが踊った。
「危険感知? おいおい、何だ? 何が来るんだ? リーベル、良くわからんが気をつけろ!」
「ぼ、僕の方にも来たよ! タカシ、背中乗るね!」
文字通りであるなら危険が迫っているのだろうと、荷物がこぼれるがままにその場で立ち上がり、リーベルの足をしっかりと掴む高志。彼は耳をすまし、周囲をきょろきょろと伺った。
「ふぅ………………何も起きないな。いったい何だったんだ?」
数分を待ち、しかし何事も起きず、高志が緊張から浅くなっていた息をゆっくりと吐き出した。
「わかんないけど、注意しようず。落とし穴とかあるかもよ?」
リーベルがささやくような声で、地面を指差しながら言った。高志はそんな馬鹿なとは思ったが、しかしファンタジアの特異な性質の事を考えると、あながち絶対にないとも言い切れなかった。
「爆発が大好きなこの世界の事だ。地雷のひとつやふたつがあっても今更…………おい、今の聞こえたか?」
かすかに耳に残った、何かが擦れるような音。高志は素早く姿勢を低くすると、注意深く耳をすました。
そして再び聞こえる、何かの物音。
「何か…………嫌な予感がする」
「奇遇だね…………僕もだよ」
どうやらリーベルにも聞こえていたらしく、ふたりは小さな声でそう発し、そして視線をゆっくりと上へとあげた。
「………………」
視線の先。すなわち彼らの真上にあたる高い木の幹には、ふたつの赤く光る目があった。それの持ち主は銀の毛皮に覆われた巨大な体を呼吸に合わせて上下にさせ、その体重を支えるに余裕のあるだろう分厚い鍵爪を幹に食い込ませている。もし100分の1のサイズであればいくらかは愛嬌があったかもしれない尻尾が幹より力なく垂れ下がり、ゆっくりと左右へと揺れていた。
それは悪夢を具現化させたような、しかし太陽の光を受けて神秘的に輝く、一匹の、巨大な獣だった。そしてその獣は、狼の姿をしていた。
「…………トーラウルフ」
誰かに説明されるまでもなく、高志にはそれがわかった。その狼は高志の知るそれとは全く異なり、あまりに異質だった。巨大で、力強く、そして何より知性を感じさせる、独特な目をしていた。戦おうなどという気は全く起こらず、きっとこいつがやる気になったら、自分達など何をするでもなく殺されるのだろうと、高志はそんな事をどこか冷静に考えていた。
「いかにも」
低く、地鳴りのするような声。高志は初めそれが声だとは気付かず、ただ獣が唸ったのだと思った程だった。
「し、喋った!」
半分悲鳴のような声で、リーベルが発した。高志は獣の声よりも、むしろそんなリーベルの声に驚き、びくりと体を震わせた。
「お主らも言葉を解するであろう。何が不思議なものか」
空気が振るえ、木の葉がひらりひらりと舞い降りてくる。気付けば森の喧騒は止み、周囲にはただ風の音だけが響いていた。
「あぁ、あの、えぇ、ごもっとも、です。えぇと、生意気言って申し訳ありません」
恐怖と驚きに支配され、自分でも何を言っているのか良くわからないまま喋る高志。獣はそんな高志を上から覗き込むと、不思議そうに首を傾げた。
「まだ、赤子か」
裂けた口を小さく開け、狼がそう呟いた。高志は意味がわからず、ただ「赤子?」と鸚鵡返しに言った。
「ぐっ、ぐっ、これは貴重なものを見つけたものだ。ふむ。どうしてやろう。お主らレイヤの使いも、獣と同様、赤子であればその身も柔らかろうか」
恐らく笑っているのだろう、獣が小刻みに息を吐き出す。高志は何をどうすれば良いのかわからず、とりあえず引きつった顔で愛想笑いを返しておいた。
「冗談だ、レイヤの子よ。お主らを食っても腹は膨れぬ」
獣がそう言って、再び笑う。高志は引きつった顔のまま、モンスタージョークは難しいなと心の中で呟いた。
「同じ人外のよしみとして教えてやろう。今お主らのねぐらに、危険が迫っている。避けられぬ定めだが、あがく事はできよう」
狼はそう発すると、幹の上で立ち上がった。そいつは一度空を見ると、次いで幹を蹴り、あっという間にどこかへ跳び去っていってしまった。それはあまりに一瞬で、あっけなく、残されたふたりはぽかんとした顔でただ立っている事しかできなかった。
「…………行った……のか…………あれが人を襲わない理由は、仕返しが怖いとか、そういうんじゃないな」
呆然としたままの顔で、高志が言った。それにリーベルが「うん」と頷く。
「村人全員でかかったって、絶対無理だよねあれ」
「無理無理。5秒で10人は死ぬわ…………あんのビスケットばばぁ、こんな化け物だってひと言も言ってなかったじゃねぇか。賢い狼のひと言で済ませていい相手じゃねぇだろ」
「ビスケットばばぁて…………あ、でもちょっとかわいいな。ビスケットおばあちゃん。叩いたら増えるかな?」
「知るか。ばばあが増えても寿命で一斉に死ぬだけだ。それより村に急ごう。あれが嘘を言うキャラには見えん」
「あ、そだね。行こうか…………ちなみにタカシ、おばあちゃんに何か恨みでもあるの?」
「ない。完全に八つ当たりだ」
ふたりは手早く荷物をまとめると、村へ向かって急いで引き返し始めた。
村までの距離はいつもと変わらないはずだが、しかし妙に長く感じた。




