第18話
「おぉーい! こっちだー! 聞こえるかー!」
「おーい! お、は、な、し、だよー!」
対岸へ向かい、リーベルと共に声を上げる高志。しかし距離は遠く、谷は風の音を響かせている。とても声が届くとは思えず、高志は歯がゆさから舌打ちをした。
「駄目だ。遠すぎる…………ちなみに関係ないが、お前関東育ちなんだな」
「なななな、何故それを。はっ、もしや貴様も……」
高志は驚愕するリーベルをよそに、せめて眼で見てわかるようにとその場で大きく手を振った。すると対岸でも同じように手を振り返してくれ、どうやら向こうにも意図が伝わっているようだった。
「6人か…………やっぱ、向こう側に人の生活圏があるっぽいな」
高志は対岸に見える人影を数えてそう呟くと、しかしどうやって向こう側へ行ったものかと途方にくれた。崖は鋭く切り立っていて、とてもそのまま登れるようには見えない。
「あっち行けーとか、こっち行けーとか、そういう風な感じでもないね!」
高志の背中で、リーベルは伸び上がるようにして手を振っている。高志はどうしたものかと迷ったが、しかし解答は対岸の人々からもたらされる事となった。
「あれは…………ロープか? それっぽい何かを下ろしてるぞ!」
遠目に見える彼らは、紐状の何かを崖下へ向かって下ろしている。高志はそれに気付くと、慌てて周囲の森を伺った。少なくとも高志は今、崖を降りれるような長さのツタは手にしていなかった。
「これだけの高さ…………どうなんだ。ツタ程度で重さを支えきれるか?」
自問自答する高志。彼はしばらくその場で唸っていたが、やがて思い付いてリーベルの方を見ると、彼女の両肩をがっしと掴み、そして言った。
「そうだよリーベル。10秒もありゃあ、十分じゃないか」
村の若い衆を率いる男として、今年26になるウィリーは常々冷静であるべきだと心がけていた。皆がそうであるべきだとは思わないし、彼自身冷たい人間だと言われる損な立場だと感じる事もあったが、しかしリーダーとはそうあるべきだと思っていた。
狩人を生業としていればそういった技術は身に付いたし、今もこうして野営キャンプに参加する面々が無事でいられるのも、そんな冷静さがもたらした成果のひとつだと考えていた。彼は誰もが慌てるような場面でも冷静に対処してこれたし、むしろそういった場面ほど心を落ち着かせるべきだという確固たる信念を持っていた。
しかしそんな彼は今、だらしなく口をあんぐりと開け、皆と同じように驚愕していた。
「…………飛んでる」
彼の傍で誰かが言った。それは6人いる野営メンバーのうちの誰かだろうが、それが誰だかはどうでも良かった。問題はそいつが言った言葉が真実であり、今目の前で起こっている奇跡的な何かだという事だった。
人が飛ぶ。それは有能な魔法使いであれば可能だろうが、しかし輝く翼を羽ばたかせてとなると話は別だった。
渓谷向こうの岸壁から降り立った2名の何者かは地上へ向かい、しかし非常にゆっくりとした速度で下りていっている。ひとりは光の翼を携え、もうひとりを優しく抱え込むようにしていた。
「プレイヤだ。間違いない。あんなのは見たことがないぞ!」
誰かが興奮して叫んだ。ウィリーの理性はその言葉を否定しようとしたが、出来なかった。もしこれが誰かから聞かされた話であれば鼻で笑って終わりだったろうが、しかしこれは自分の目で見ている現実だった。そうであるなら、否定のしようがない。
「だから言っただろう。マリーは嘘をつくような子じゃないって」
数日前にプレイヤの存在を見つけた少女の名を出し、誰かが嬉しそうに言った。少女は村にプレイヤの事を報告してから今日に至るまで、心無い者達から嘘つき呼ばわりされる事態となっていたが、しかしそれも今日までとなりそうだった。
「クルード、急いで村に知らせに行くんだ。お前が一番早い」
ウィリーは不整地踏破の技術を持つ村の足自慢を呼ぶと、そう命令して村に向かわせた。お祭り事が好きなクルードはいくらか渋ったが、しかしいつものように一番早いというひと事を追加したので、結局は意気揚々と走っていった。
「いいか、お前ら。言い伝えの通りにするんだ。彼らは我らとは違うが、しかし同じでもある。彼らは人として生き、人として暮らす事を望む。我々はそれを邪魔してはならない」
事ある毎に年寄り衆から聞かされ続けてきた言い伝えを思い返しながら、ウィリーはすらすらとそう言った。
東の森から現れる、人ならざる人。すなわちプレイヤ。
渓谷向こうに立ち込める瘴気は人を惑わせ、狂わし、死に至らしめる。巨大な獣や化け物が闊歩し、そこに人は人のままでは立ち入れない。かつて血気盛んな何人もの若者が向こう側へ足を踏み入れたが、しかし帰ってきた者は誰もいない。今でも何年かに一度はそういった者が現れ、そして消えていくのが常だった。ウィリーと若い衆頭を競い合った今は亡き力自慢のハロンも、もちろん帰ってこなかった。
プレイヤはそんな死の森からふらりと現れ、何かを残して去っていく。恵みを、時には災厄を。
彼はつい先程までプレイヤの存在など空想の産物でしかないと思い続けてきたが、しかしもはや違っていた。彼はうんざりとした表情で話を聞く若者の姿に憤りを感じたに違いない年寄り衆の事を思うと、申し訳ない気持ちで一杯になった。何もかもが、彼らの言った通りだった。
「母なるレイヤよ。父なるアルバスよ。どうかあれらが我等の恵みたらんことを」
ウィリーは小さく口の中でそう呟くと、渓谷の底を歩くふたつの人影を見つめ、そしてもっと縄はしごを長く伸ばすようにと仲間に指示をした。
「見ろ、はしごだ。ロープか何かを編んだやつだな」
渓谷の底となる森の中を歩く高志が、多い茂る葉の間から見える対岸を指差して言った。岸壁の上には5名程の人影があり、彼らは手を振ったり何かを呼びかけてきたりと、一様に友好的と思われる振る舞いを見せていた。
「登ってる途中でドーン、とか無いかな。罠だったりしない?」
背中のリーベルが少しだるそうに言った。何でも邪気眼の連続使用は極度の疲労を伴うらしく、先程からずっとぐったりとしていた。
「盗賊ってか? どこをどう見ても立派な原始人な俺らを罠にかけてどうすんだよ。俺だったらもうちっとはマシな格好の奴を狙うぞ」
くたびれ、土に汚れた簡素ないでたちのふたり。そして手には木の槍を持ち、高志に至っては熊の毛皮を腰蓑のように巻きつけてすらいる。葉で包んだ熊の生肉は見えないにしても、少なくとも金を持ってそうな容貌とは真反対と言えそうだった。
高志ははやる気持ちを押さえつけながら慎重に足を進めると、しかしそれでもわずかな時間で対岸へと到達した。目の前には縄を編んだらしきはしごと、そして上には崖下を覗き込むようにしている5つの顔が並んでいた。
「おぉー、完全に外人フェイスなのに、おもいっきり日本語喋ってんな」
並んでいるのはあえて言うのであれば中東風といったところの、日本人に比べればかなり濃い顔立ち。髪は全体的に黒から茶色といったところだが、ひとりは金に近い色合いだった。
それぞれが思い思いに何かしら声をかけてきており、しかし言葉はなまりのない日本語で、その風貌からするとかなりの違和感を感じる状況だった。内容自体は「大丈夫か?」だの「登れるか?」だのといった、こちらを気遣う内容が主となっていた。
「まぁ、英語で話しかけられても困るけどね。僕英語はさっぱりだから」
学校での授業や試験でも思い出したのか、先程よりさらにうんざり顔のリーベル。しかし自分達以外の誰かがいるという状況に興奮もしているようで、上を伺いつつずっとそわそわとしているようだった。
「とにかくご好意に甘えよう。どうせ途中で落ちたとしても…………まぁ、あれだからな」
大丈夫、と言い掛けた言葉を誤魔化す高志。
彼は今でも死を警戒してはいたが、度重なる暗転の末に鈍感になりはじめている自分にも気付いていた。それは言うなれば、何か普段はまったく車のいない交差点を赤信号で渡っている時のような、もはやそんな感覚だった。
「どうも、どうも。ありがとうございます。はい、登りますんで。大丈夫です。慣れてますから」
高志は「気をつけて」や「背負ったままかい?」といった言葉に適当に相槌を打ちながら縄梯子に手をかけると、一段一段慎重に手をかけていった。縄梯子を上るのはコツがいる上に、背中にはリーベルもいる事から、かなり難航するのではと覚悟していた高志だったが、しかし予想とは反してするすると登っていった。それは恐らく、不整地踏破か登攀のスキルのおかげだろうと彼は考えた。
「よいっしょっと。あ、どうも。すみません」
天辺まで登り終えると、差し出された手をとる高志。彼はちらりと後ろを振り返ると、その高さにぞっとし、途中で下を見なくて良かったと胸をなでおろした。
「………………」
先程までとは打って変わり、無言の視線を送ってくる5人。
それぞれは高志達と同じようにさして特徴のないシャツと短めのズボン、そしてサンダルといった出で立ちで、しかし汚れにまみれた高志達と違い、清潔感のあるこざっぱりとした様子だった。
「あー、どうも。ほんとに、その、助かりました。どうやってこっち側に行ったものかと、丁度悩んでた所でして…………」
沈黙に耐え切れず、おずおずとどうでも良い事を発する高志。しかし5人の反応はなく、その視線はどこか冷たいものを感じた。
「失礼を承知で、単刀直入に聞く。あなた方は…………プレイヤか?」
5人の中でも一歩前に出た、恐らくはリーダー格なのだろうと思われる青年が尋ねてきた。高志は一瞬ぽかんとして首を傾げたが、しかしリーベルと視線を合わせ、その後「まぁ、そうですが」と素直に答えた。ゲームをプレイする者なのだから、プレイヤーに決まっていた。
「そ、そうか…………いや、わかってはいたんだ。それはそうだ。向こうの森から来たのだから…………」
少し動揺した様子で、青年が視線を惑わせる。高志はプレイヤーという単語が普通に使われている事にシュールさと違和感を感じつつも、「はぁ」と力ない返答をした。
「とにかく、村へ、村へ来てもらおう。少し歩いた所にあるんです。いい所ですよ!」
いつの間にか先程までの冷たい視線が消え、変わっていくらか緊張した様子をした後ろのひとりが、森の方を手であおぎながら発した。それに高志は待ってましたとばかりに喜びと安堵の気持ちを膨らませると、「ぜひ!」と満面の笑みで答えた。
「そうだな。そうしよう…………あぁ、キャンプの片づけをするので、少しばかり待っていただきたい」
リーダー格の男はそう言うと、野営に使ったのだろう敷布や火の後片付けを始めた。高志はその様子を黙って見つめると、リーベルの方へ親指を立ててみせ、そして返ってきた笑顔と合わせて笑うのだった。
18話めにして、ようやく3人目以降の登場人物。どうなってんだ