第13話
少女は怯えていた。
その必要がない事を彼女は十分に理解していたし、目の前には大きな渓谷があり、彼女が怯えているふたつの人影がこちらへ来る事はきっとないだろうとはわかっていたが、しかしそれでも怯えていた。
「プレイヤだ…………みんなに知らせないと」
少女はそう呟くと、一歩二歩と後ずさった。向こう岸からは何やら叫ぶ声が聞こえてきていたが、距離と木霊によって不明瞭となっており、少女に聞き取ることはできなかった。少女はプレイヤという存在が人の言葉を話すという事を祖父から聞いて知っていたが、しかし実際に聞くのは初めてだった。
「レイア様、アルバス様、お守り下さい。アフラおじい様も」
少女は自らが信じる神の名を口にすると、次いで祖父の名を呼び、跪いた。彼女はほんの数秒だけそうすると、立ち上がり、そしてその場を去ろうとして慌ててたたらを踏んだ。彼女の手には墓に備える為の花束が握られており、そのまま帰るわけにはいかなかった。
「おじい様、ごめんなさい。また来ます」
少女は恐る恐る石の詰まれた墓へ花を添えると、まるで呪詛のように叫ばれる声から逃げるように、祈りの言葉を省略して、そこを足早に去った。
「行っちまった…………」
叫び疲れた高志が、両手両膝を地面に付いたまま呆然と呟いた。横では同じような格好をしたリーベルが、がっくりとうなだれていた。
「聞こえなかったのかなぁ…………あぁ、しんどい。大声出すのって疲れるんだね」
リーベルはそう言うと、そのまま後ろに倒れて寝そべった。高志も同感だったので「だな」と頷くと、だらしなく地面へと寝転んだ。
「あれは、明らかに人だったな。あぁいや、人っぽい何かって言った方がいいのか?」
「そうだねぇ。ゲームの中だから、ゴブリンとかなんか、そんなのがいるかも。小さかったよね」
「あぁ。子供くらいに見えたな…………何か着ているような感じだったが、ゴブリンとかそういうのって裸なんじゃないのか?」
「うーん、イラストとかでは着てるのが多いと思うけど、どうなんだろね。糸巻きゴブリンとか、機織りゴブリンとかもいるのかな。ちょっとかわいいね」
「いや、機織り機とか持ってたら、それもう完全に高度な知的生命体だろ。ゲームみたいにぽんぽん殺しちゃあかんやつだ」
ふたりは息を整えつつそんな話をすると、少し崖から離れた場所に移動し、どうするべきかを話し合った。
「まず言えるのは、向こうがこっちに反応してたのは間違いないだろうってとこだな。声を上げた際に頭を上げたし、その後は逃げるように走り去ってたように見えた」
崖向こうを恨めしく見つめつつ、高志が言った。それにリーベルがうんうんと頷く。
「僕はなんとなく目があった気がしたし、きっとそうだよ。待ってればまた来てくれるかな?」
「わからんが、待ってみる価値はあるだろうな…………あぁいや、待て。敵だった場合も想定しないと危ないか。罠を張るか?」
「罠って、危ないよ。人だったらどうするのさ」
「いや、スパイクやピットじゃなくて、アラームだな。鳴子を作ろう」
「鳴子って、時代劇とかでたまに見るあれ? 木がからんからん鳴るやつ?」
「そうだ。硬い木とツタさえあれば結構簡単に作れるぞ…………って、ふたりじゃちょっと無理か」
改めて周囲を見回すと、高志はそう自分の案を否定した。家屋のように経路が限定されているならまだしも、天然の障害物が崖しかない状態では、カバーしなければならない範囲があまりに広すぎた。
「まずはしばらく待ってみて、何も反応がないようなら向こう側へ渡る方法を探そう。もしあれが人だとすると、橋があるかもしれん」
「おおー、確かにそうだよね! ゲームとかだと、誰が使うのかわかんないような場所にも橋があったりするもんね!」
「だな。それを期待したいとこだ…………ちょっと、あれを登攀するのは無理だからな」
20から30メートルはあるだろう崖を遠めに覗きこみ、首を振る高志。危険を顧みずにツタを使って下りるというのであれば可能かもしれないが、登るとなるとお手上げだった。
「よーっし、そうと決まればのんびりしようず。水はあるし、食べ物だってあるもんね」
リーベルは元気にそう言うと、さっそく森の中へと這っていく。恐らく手ごろな枕代わりになる木でも探しているのだろう、木を拾っては捨て、拾っては捨てとし始めた。
「とりあえず、日が落ちるまでは待ってみるか」
高志はひとりそう呟くと、彼女と同じように枕を探しにうろつき始めた。ネズミの毛皮は水筒としてだけではなく、枕カバーとしても有用だった。
そして待つ事数時間。しかし残念な事に、昼間見た人影が再び現れる事はなかった。
「うーむ、単に人っぽい生き物だっただけか、もしくは閉鎖的な社会という可能性もあるか」
夕日が差し込む森の中で、崖の近くに寝転んだ高志がぼやいた。
あの人影が人間だという確証はなく、また、人であったとしても、面倒事と捕らえられれば人が来るはずもなかった。高志自身もそうだが、誰だって好き好んでそういった事に関わりたくなどない。
「結局、おしゃべりと昼寝で終わっちゃったね」
何が楽しいのか、リーベルが笑顔でそう言った。残念さばかりが募っていた高志はそんな彼女を羨ましく思うと、素直にそう口にした。
「人をそんなノーテンキな人みたいに言わんといてぇ」
妙なアクセントの方言で、リーベルが眉間にしわを寄せる。それを見た高志は少し噴出すと、ひとつ大きな伸びをし、そして立ち上がった。
「よし、それじゃ休憩がてら解散といくか。日が上がった頃にまた入ろう。向こうの時間で言うと、大体2時間後って所か?」
3倍から4倍あると思われる時間差から、高志がそう提案する。こちらでは日中一杯を過ごした事になるが、しかし現実の方ではまだ昼にさえなっていないはずだった。
「りょーかい。それじゃまた後で…………あー、ごめん。僕ちょっとだけ遅れるかも」
申し訳なさそうにそう言うリーベル。高志は「いや」と首を振ると、好きな時間に来るようにと伝えた。そもそも常にふたり揃ってゲームの世界にいなくてはならない決まりなどなく、むしろ現実の方に用事があるならそちらを優先すべきだと、少なくとも高志はそう考えていた。
「ん、ありがと。それじゃ、お先に失礼しますです!」
なぜかびしりと敬礼をし、そしてそのまま動かなくなるリーベル。高志はそういえば彼女の方がログアウトするのを見るのは初めてだと、黙って見続けていた。
そしてリーベルが動きを止めてから数十秒後。彼女の体が薄らと光り始め、そして徐々に透過していった。それに気付いた高志は彼女に歩み寄ると、黙ってその手に触れた。そして時間と共に透過の具合が強くなり、最終的に完全に消えてなくなったのを見届けた。
「…………約3分か。結構時間がかかるな」
心の中で秒数を数えていた高志は、そう言って苦い顔で腕を組んだ。高志の触れていた手は完全に消えてなくなるまでしっかりとその感触を残しており、そうであるならば、その3分間はほとんど無防備と言って良い状態であると言えたからだ。
もしそこを敵にでも襲われようものなら、抵抗すらできずに死を迎える事になる。ナイフや獣の牙が人体に致命傷を与えるのに、ほんの数秒以上の時間が必要とは思えなかった。
「今後ログアウトする際には、場所は状況に気をつける必要がありそうだな」
高志はそう言って頭の中にメモをとると、自らもログアウトすべく荷物をまとめ始めた。干し肉の入ったバッグをネズミにでもかじられようものなら、死活問題となる。
「よし、これでいい…………え?」
バッグを背負って立ち上がった高志は、目の前に起こっている状況が理解できずに固まった。
太陽を背にした、巨大な影。
耳と、牙と、巨大な爪。
高志は叫び声を上げようとしたが、しかしこちらでは叶わず、結局1DKの部屋の中で大声を上げる事となった。
――致命的な一撃により、タカシは死亡しました――
「うおおおぉおお!? おぉ…………うぅん…………」
叫び声がやがて唸り声に変わり、そしてどうでも良くなった。高志はVRデバイスを取り外すと、よろよろと布団へ向かい、そして倒れこんだ。
「熊…………無理…………」
襲い来る倦怠感に身を委ね、小さく丸まる高志。彼はいつものように5分が過ぎるのを待つと、しかし普段のように起き上がる事はせず、どうしたものかと考え込んだ。
「…………いや、無理だろ。熊だぞ、熊」
先程の死の間際に見たのは、間違いなく熊だった。あまりに一瞬だったので詳しくは見ていないが、黒い体毛の、鼻先だけが明るい、そんな熊だった。見上げた感じからすると恐らく体高2メートル程だろうが、しかし人の身長とは異なり、あまりに巨大だった。
そう、あまりに巨大だった。