遮蔽
悪夢のようだった。
吸血鬼に会ったその日から、随分と長い夢を見ているような気がしていたが、ツヴァイに与えられた痛みは比べようがない程の悪夢だった。
何故、と。
生への執着を捨てた訳ではないが、生きるために、何故こんな地獄を味わなければならないのかと、しばらく続いた塗炭の苦しみに、私は世界を呪った。
「きみは強情だね、グローリア。こんな時でも涙一つ零さない」
頭を蝕む激痛が止んだ。
見えない涙を辿るようにツヴァイが頬に触れた刹那、ああようやく解放されるのかと気が緩み、そのまま意識を手放した私は、気がつけば自室のベッドの上にいた。
近くにツヴァイの姿は見当たらず、兎にも角にもこの命がまだ繋がれている事に安堵の息を漏らす。
足の感覚はよく分からなかった。
「きみの足を使い物にさせないようにする」と言ったツヴァイの言葉が頭から離れず、確かめることの怖さから、私はベッドから起き上がることも出来なかった。
その時ふと、視線を感じて窓の外を見る。
そこには墨汁を垂らしたような色をした、一羽のカラスがいた。
私に存在を認識されたカラスはこてんと首を傾げ、時折その鋭い嘴で毛ずくろいをしながら羽を休めていたが、視線は相変わらずこちらを向いたままだった。
やがて部屋の扉がノックされたと同時に枝葉を揺らしながら飛び立ってゆく姿は、何人にも囚われることのない、自由という二文字をまざまざと見せつけられたよう。
「………あの」
部屋に現れたのは、先日ツヴァイが連れてきた内の一人、マレの名を与えられた少女だった。
「あの、だ、大丈夫?わ、わたし、少し前にあなたがあいつに抱えられて、この部屋に入っていくのを見て……あなただけが、いつまでも出てこないから、心配になって……」
近くに寄ってもいい?と聞かれたので、私は「ええ」と頷いた。
マレ——海を意味する名前だと、ソールが言っていた。
「調子、良くないの?顔が真っ青だよ」
「大丈夫よ。ただ、起き上がる気分になれないの」
「………わたし、ここに、いてもいい?」
「ええ」
マレは私の様子を窺いながら、この屋敷のことや吸血鬼のことを知りたがり、一緒に連れてこられた他の子たちについては分からないが、自分は闇市場で売られそうになったところをツヴァイに目をつけられたのだと語った。
あいつは嫌い、人を人と思っていない残忍なところもそうだけど、何より気に食わないのは人の悲劇を養分にでもしているような腐った性根だ、そうマレは悪態をつく。
まだ、この屋敷に染まっていない、吸血鬼を恐れぬ発言だった。
皆、そうだ。
初めはこの異様な空間に戸惑いながらも、年齢の近い子供たちがたくさんいることを知って人心地がつくのか、それまで溜まっていた鬱憤を晴らすように吸血鬼を誹謗する。
けれど私たちが一つも頷かないのを見て、違和感を覚えながら、吸血鬼が身勝手に子供たちの命を摘む姿を目の当たりにし、今度は一様に口を噤むのだ。
吸血鬼という名の不文律を、その身に刻んで———。
5
ソールから聞いた海の話の中に、溺れた人を助けることもあるとても賢い生き物の話題があった。
溺れた人間の前に現れ、岸まで導いてくれるという逸話は多くの人々の支持を得ているらしい。
また、その賢い生き物は傷ついた人を見かけると、その傷を癒そうとするのか、なかなか傍を離れようとしないそうだ。
セイレーンの話の後にソールが紡いだ優しい話、それを思い出したのは、あれから私の傍を片時も離れようとしないマレがいたからだ。
ソールが訪ねて来た時、マレは私のベッドに顔を埋め、すやすやと寝息を立てていた。
マレが私の部屋にいることに驚いたソールだったが、「仲良くなったんだね。彼女、他の誰とも話そうとしなかったから心配してたんだ」と表情を和らげ、彼女を起こさないように気をつけながら私の枕元までやって来た。
「………グローリア、大丈夫だよ。どうか絶望しないで」
私の身に何が起きたのか知らないはずなのに、視線を合わせただけで察したのか、ソールは優しく私を包み込む。
やはりソールの言葉は魔法のようだった。
ツヴァイに与えられた痛みも、告げられた絶望も、ソールの「大丈夫」という一言で簡単に解けてしまう。
「きみだけは、どんな手を使ってでも助けてみせるから……安心して、眠りについていいよ」
その言葉に、私は温もりに包まれながら、微睡みへと落ちていった。
車椅子が用意されたことを知ったのは翌日の朝だった。
あたかも今後の人生において、死ぬまで自分の足で歩くことはないだろうという死刑宣告に聞こえ、天地がひっくり返るような目眩がした。
ツヴァイはそれを「兄さんに選ばれた栄誉」だと口にしたが、吸血鬼の花嫁なる存在のために実験体として飼われる私たちは、花嫁が現れるのと同時に存在意義を無くしてしまう、いずれ泡沫の如く消えゆく命だ。
今だけ露命を繋いだとしても、未来を望むことはきっとどんな願いを叶えることより難しい。
それなのに、そのたった“今”ですら限りある自由を奪われようとしている、そんなことを認められるだろうか。
いいや、認めざるを得ない。
でなければただ、己が死期が早まるだけだということを、私たちは嫌という程心得ているのだから。
吸血鬼に片足を差し出せと言われたのなら、喜び勇んで両の足を差し上げなければならない——それが私の知る、賢い生き方だった。
結局、移動の際はマレに手伝ってもらい車椅子を利用することにしたが、部屋の外へ出るのは極力控えた。
どうせ屋敷の外、庭より先には出られないのだから、薔薇園に向かう他に、わざわざ車椅子に乗ってまで行きたい所など思いつくはずもない。
そうして、一つの季節が過ぎてゆく。
子供たちの入れ替わりは多少なりあったが、私が屋敷にやって来た頃に比べれば変動する数も減り、随分と落ち着いたように思う。
変化があるとすれば、マレは一入私の世話を焼きたがり、泣いてばかりいたラクリマはソールに感化されて自発的にドロルの面倒を見るようになった。
死への恐怖を真っ直ぐ見つめなくて済むように、それぞれが傾注できる何かを模索した。
そして、私の足は、時間が経つほどに着実にその機能を失いつつあった。
いつか完全に動かなくなる。
そこに在るのに生きていない、いつか両親のもとで漠然と終わりを願っていた私と同じものに成り果ててしまう。
無常に過ぎてゆく時の流れは、特別な救済もなく、不条理な世界の理を説くだけだった。
そんなある日、部屋の窓辺から外の様子を眺めていた私は、白昼夢を見た。
美しい薔薇に囲まれた庭で、絵に書いたような美貌の男がテーブルを挟んだ向かい側に座っていた。
カチャ、と音が鳴り、カップがソーサーの上に戻される様子をぼんやりと眺めていた私は、目の前の男が吸血鬼であることを認識し、慌てて惚けていた自分を叱咤する。
「外の世界が知りたいか」と吸血鬼は言った。
耳を疑うような問い掛けに何と答えればいいのか分からず、しばらく逡巡した私は、しかし心のままに「はい」と答えた。
外の世界、それはまさしく私にとって自由の象徴であった。
吸血鬼の意に沿わない回答をしてしまったのか、吸血鬼はそのまま黙り込み、草木のそよぐ音だけが私たちの間を吹き抜ける。
彼が口を開いたのは、長い沈黙の末だった。
「………本をやろう。お前が知らない、外の世界に関するありとあらゆる本を。そしていずれ、お前たちが私のもとから逃げ出さないと確証を得た後ならば、私とて吝かではない」
赤い瞳がこちらを向いた時、思わず心臓が竦みそうになる。
私は、その瞳が怖かった。
「私が問いかけるのは、人間に限って言えばお前のみだ、グローリア。そしてその逆もまた然り」
質問を許そう、と吸血鬼は続けた。
「———グローリア、何か、言いたいことは?」
額に汗が滲み、頬が引き攣る。
口の中は乾きに飢え、否定の言葉を絞り出しすのがやっとだった。
「いいえ。何も、何も———…」
何も無い、何も言ってはいけない。
私は怖かった。
あの瞳が、あの真紅の瞳が——何か、特別な意味を持ってこちらに向けられることに、筆舌に尽くし難い恐怖を感じていた。
白昼夢はそこで途切れた。
見慣れた室内の窓際に座っていた私はふと、足元に薔薇の花弁が散らばっていることに気がつき、体の芯が冷えてゆくのを感じた。
あれは現実だったのか、はたまた悪夢に魘されていたのか、すべては神のみぞ知る所だったが、数日後に書庫が増設されたことを知り、自ずと答えを得た。
助けて、と呟いた。
彼は少し困ったように笑って、勿論だと言葉を返す。
「ねぇ、グローリア。こんなことに意味はないのかもしれないけれど、きみの本当の名前を教えてくれる?俺の名前はね———」
グローリアと呼ばれることに違和感すら芽生えなくなった頃、ソールは私の手をとって、そこに己の名前を指で書き記した。
ソールの指が手のひらをなぞる度に擽ったさを感じ、何だか面映ゆく思ったのを誤魔化すように、良い名前ね、と私は微笑んだ。
「ソール、私の名前は……」
私を傀儡のように扱う両親に名付けられた、単なる記号に似たものだったけれど、吸血鬼も知らないその名前だけは、唯一外との繋がりを示す特別なものに思えた。
両親がいなくなり、使用人たちも死んでしまった今、新たに私の名を知る者がいるのならそれはソールがいい。
書き終えた後、ソールは感慨無量だと言わんばかりにその手のひらをもう片方の手で包み、「ありがとう」と破顔した。
密かに行った真名の交換は、永遠の愛を誓う際に贈り合う指輪のようで、私たちの絆をより強固に結びつけた。
カラスが鳴く。
私たちを咎めるように、非難するかのように、屋敷中に響き渡る声で警鐘を鳴らす。
そして、あくる晩、ソールが告げた。
「———グローリア、二人で一緒に逃げよう」
あれは何時だったか。
ツヴァイの“治療”に耐え切れなくなり、もう嫌だと音を上げそうになった時、私はソールに助けを求めたことがあった。
吸血鬼から逃れられる術がないことなど分かりきっていたため、ただソールに「大丈夫だよ」と言って抱き締めて欲しかっただけだったけれど、ソールは「勿論だ」と答えた。
「勿論、きみを助けるよ、グローリア」と。
「新月の晩、外への道が開かれる。二人だけなら、吸血鬼に見つからずに抜け出せるはずだ」
「二人だけで……?ルーナや、他の皆はどうするの」
「残念だけど、置いていく。俺が助けられるのはグローリア、きみ一人だけなんだ」
「………!」
違う、ソールがそんなことを口にするはずがない。
双子の姉やマレ、まだ幼いドロルを残し、たった二人で逃げようなどと、他の皆を見捨てる手段を選ぶはずがない。
「本気で、言ってるの?」
相手は人ではない、仮に外へ抜け出せたとしても、きっとすぐに連れ戻されてしまうだろう。
いや、連れ戻されるだけならまだいい。
過去に脱走を試みた子供もいたが、その計画はすぐに明るみになり、見せしめとして惨たらしい死を迎えた。
逃げて殺されるくらいなら、この屋敷に留まって、今日も無事に過ごせるようにと届くはずのない祈りを捧げていた方がマシだ。
ソールがどうしてその様な決断に至ったのか見当もつかなかったが、取捨選択を図るあまりに利己的な判断はひどく人間らしく、陽だまりのような彼も一介の人間に過ぎないことを思い出す。
何を犠牲にしても生きようと誓った私に、彼を責められる道理はなかった。
「本気だよ。俺は、きみを助けたいんだ」
無理だ、と首を横に振る。
私を助けたいと言ってくれたソールと同じように、私もみすみすソールを死なせてしまうような馬鹿な真似はしたくない。
「ソール、私は足が悪いのよ。私を連れて逃げ出すなんて、とても難しい話だわ」
走ることも一人で歩くことも出来ない私を連れて、化生の身である吸血鬼を出し抜くことがどれ程の困難を極める話なのか、ソールもよく分かっていたのだろう。
「どうして?グローリア……」と悲壮な面持ちだったが、頑なに拒絶を重ねる私にやがて言葉を詰まらせた。
「ソール、私は」
まだ、生きていたい———それが答えだった。