薔薇園
誰かの悲鳴が聞こえた気がして、私の意識が浮上する。
酷い汗だった。
まるで川で水浴びをしたように全身が濡れていて、肌に張り付く服の感触が何とも気持ち悪い。
そして私は気がつくのだ。
聞こえた気がした悲鳴は、他の誰でもない、自分自身が発していたものなのだと……。
「目が覚めた?グローリア」
微かに荒い呼吸を整えるため、胸に手を当て深呼吸を繰り返していた私は、その声に振り返る。
ツヴァイだ。
何食わぬ顔で私の肩を抱き「辛かったでしょう」と宣うそいつは、諸悪の根源であるにも拘らず、いたわる様に優しく触れてくる。
「一瞬だけ、意識を失ってたんだよ。襲い掛かる激痛に耐え切れなかったのかな?グローリアに限った事ではないけれど、人間はとても脆弱な生き物だから仕方が無いね」
「………」
「さぁ再開しようか。大切なお薬の時間だ。大丈夫、痛みは後には残らない、きみの足の神経を完全に麻痺させる事こそが、僕が兄さんに与えられた役目だからね」
ゾッとする、屋敷の主であるあの化け物とは違う、猟奇的な二つの眼差しに私は慄然とした。
「———可哀想なグローリア。兄さんに気に入られたばかりに、きみは不幸になる」
足首を掴まれ、脹脛に牙が突き立てられる。
それは何度経験しても、おぞましい行為に他ならず、刹那、まるで劫火に焼かれたような激痛が迸り、命が削られる感覚というものを直に味わう痛癢に、続けられたツヴァイの言葉に耳を傾けることは困難を極めた。
「ソールとルーナだっけ?先日、対の名を与えられた男女が、兄さんに殺されたんだってね。特にソールという少年、死に様の惨憺たるや、業の深さが見て取れる」
熱い。痛い。
喉を劈く勢いの裂帛の声は、それでも私ではない誰かが叫んでいるように遠く聞こえていた。
どうしてこんな目に遭わなきゃいけないの、私が何をしたと言うの。
積もりに積もった怨嗟は、今にも爆発してしまいそうな程、既に限界というものを超えているにも拘らず、それでも唯々諾々と、この男に爪を立てない私はまるで、糸を垂らされた傀儡のようである。
「まあ、然もありなん、だって彼は、最大の禁忌を犯そうとした。兄さんの怒りを買ったんだ、きみはもう解っているだろう?ソールが殺された理由を、ねえ、グローリア」
「———っ」
そうして私はまた、意識を手放した。
ソール。
正義感が強く、面倒見のいい、絶望に塞がれたこの屋敷においては特異な存在だった。
『こんなの間違ってる。ただ死を待つだけの毎日なんて、“生きてる”ことにはならない』
真っ直ぐな性根と果敢な勇気、何もかもが他の子供たちとは違う、一線を画す有り様は私たちに希望の光を見せた。
もしかしたら、もしかしたらだ、ソールは私たちを救ってくれるのではないかと、あの絶対的な捕食者である化け物から逃れられるのではないかと、一縷の望みが差し込んだ気がした。
ソールは私によく、外の世界の話をしてくれた。
吸血鬼にこの屋敷に連れられる以前より、両親の手によって外界との繋がりを一切遮断されていた私は、ソールが話す、私の知らない外の世界の話が好きだった。
『いつかここを出て、みんなで幸せに暮らそう。大丈夫、きっと、明るい未来は失われない、だって俺たちは———』
『生きている、から』
あの晩、ソールが行おうとしていた一挙を罪と呼ぶなら、私たちを閉じ込める吸血鬼の所業こそ真っ当であるというのか。
ソールは罪人ではない、もし咎があるならば、私が一手に引き受けよう。
彼の答えは、決して誤りではないのだから。
高熱に魘されながら、三日三晩、夢と現をさ迷っていた私は、熱が引いた四日目の朝に、マレと共に薔薇園に向かった。
足の感覚は以前にも増して鈍くなっていた。
懇切丁寧に行われたマレのマッサージを受けても、決して万全とは言えず、杖が無ければ立ち上がることすらままならない。
タイムリミットは何時になるだろうか、きっとそう長くはない、あと一月もあるかどうかといったところだろう。
「本当に大丈夫?グローリア」
「ええ」
「……怖いよ。私が目を離した隙に、いつもあなたは」
伏せられた長い睫毛が震えていることに気がついた私は、彼女の瞼に唇を触れ、続く言葉を遮った。
ソールに依存していたルーナのように、マレもまた、私に依存している。
ここに収容される子供たちは皆そうだ、何か一つ縋るものがなければ、心を壊し、やがて吸血鬼の餌食となってしまう。
だから各々、心の拠り所を見つける。
「死」への恐怖を真っ直ぐに見つめなくて済むように、それ以上に傾注できる「何か」を探すのだ。
「お願い、グローリア。死なないで、私を置いていかないで。あなたが生死の堺をさ迷ったこの三日間、私は生きた心地がしなかった。魘されるあなたを見て、次の瞬間に息が止まってしまったらどうしようと、あなたが苦しんでるのに、あなたの呻き声にまだ生きてるんだって安堵した。あなたを看病しながら、私、ずっとナイフを握りしめていたんだ。グローリアが息絶えてしまったら、すぐに後を追えるように……」
他人の死に追随するなど、正気の沙汰ではない。
どこまでも歪な環境は、真っ当であったはずの子供たちさえ変えてしまう。
思えばソール、あなただけだった、変わらず正しい姿で在れたのは。
「あの化け物に刃を向けたルーナの気持ちがよく分かった。唯一無二の存在を失って、正気を保っていられるはずがない。何も出来ない無力な自分と、理不尽な摂理のこの世界を呪って、憎んでっ。そして死にたくなったんだ!」
「あなたがいないこの世に意味はないから、だから、あの化け物に立ち向かった。あなたと共に死ぬことが叶わなかったのならいっそ、あなたを殺した相手に、同じように息の根を止めてもらいたい。そう思って、最初からルーナは、復讐なんて考えていなかった」
「グローリア、私は、あなたが好き。だから死なないで。あなたが望めば、きっと———」
それきりマレは黙り込んだ。
マレに何か声を掛けてあげなければ、そう思えば思うほどに、何と言えばいいのか分からなくなる。
『あなたが望めば、きっと』
その先の言葉を、私は知っているからだ。
死者の眠る薔薇園に吹き抜ける風が、私の頬を撫で、それはまるで、死者の吐息のようで。
『どうして?グローリア……』
糾弾か、慨嘆か、最後に私に向けられた感情を推し量ることは難しい。
けれどあの時、ソールが口にした科白は、酷く私の夢見を悪くさせた。
ソールは私のせいで死に至り、凄惨な最期を迎えることになった。
ツヴァイの言葉を借りて言うのなら、全ては私が、あの吸血鬼の「お気に入り」であるがためである。
3
己の存在を主張するように香気を散らす艶やかな薔薇の花は、色褪せることなく、私がこの屋敷にやって来た当初から変わらずそこにある。
気を利かせてくれたらしいマレが薔薇園から立ち去った後、私は車椅子を降りて、地面にそっと寝そべった。
この下には、ソールやルーナ、ラクリマ、そしてウィクトリア、吸血鬼の犠牲となった多くの子供たちが眠っている。
みんな、みんな私を残して死んでしまった。
いつまでそうしていたことだろう、ふと視線をさ迷わせると、生い茂る茨の真ん中に、先程までは確かに存在していなかった道が出来ていることに気がついた。
ゴクリ、と生唾を飲み込み、逸る心音を抑え平静を装う。
間違いない。
……あの化け物が、やって来る。
「グローリア」
拓かれた道から現れたのは、想像に違わぬ人物で、幽暗に浮かぶ美しいシルエットは私を心の底から恐々とさせた。
そこにいるのは、鮮やかに庭園を彩る薔薇の花が似合いな、絶対的な支配者、艶麗な化け物———。
粗相のないように、と体を起こそうとしたが、反応の鈍い足は上手く動いてくれず、もたついてしまう。
そうこうしている内に吸血鬼は私のもとまでやって来て、悠揚たる動作で私を抱き上げた。
「目覚めたか。二番目が少し無理をさせた」
「………」
冷たい手は、血の通っていない、人間を捕食する化け物の証だ。
吸血鬼がこうして私の前に姿を現すのは、何も今回ばかりが初めてではない。
薔薇園に赴く度、私が一人きりになるタイミングを見計らったように、この化け物は現れる。
私の目をジッと見つめ、次いで肩、腰、足———と徐々に視線を下げ、何を考えているのか分からない、人智を超えた真紅の瞳は、衣服の上からでは不可視であるはずの足の傷痕を凝視した。
「……随分と、醜怪な痕だ」
数年前、母親によって奪われた足、その際に出来た、一生消えることのない醜い痕が、吸血鬼に布越しに触れられただけで、火で炙られたような鈍痛を発し始める。
痛みに顔を歪ませた私を一瞥し、吸血鬼はどこか法悦に浸った目をゆるゆると細め、私を抱いたまま、拓かれた道を戻る。
そこは、決して一人では辿り着けない薔薇園の最奥部であり、吸血鬼がいなければ立ち入ることのできない、秘匿された空間。
特別な薔薇が飾られた、場所である。
そうして、どちらも口を開かない、静かな静かな二人きりの茶会が始まるのだ。
きっかけは分からない。
しかし吸血鬼と二人で会うことを許された私は、吸血鬼の「お気に入り」として扱われている事実に相違なく、また吸血鬼がわざわざ触れるのも、抱き上げるのも、子供たちの中では私のみに限られることだった。
だからと言って、私が吸血鬼に殺されない、全くの安全な立場かと言えば、そうではないものの、少なくとも他の子供たちよりは「特別」な待遇にある。
例えば、ツヴァイにこの足を使い物にさせないようにと、命じる程には———。
以前、ツヴァイが言っていた。
「兄さんはああ見えて豪気な質でね、人間の繊細さをまるで理解していない。まあ、拘らないと言えばいいのか、換えの効く消耗品だと思ってる。最近ではその消耗品をわざわざ外から持ってくるのも億劫に感じているみたいで、だからメンテナンスを得意とする僕が屋敷に喚ばれた訳だけどね、うん、実を言えばグローリア、それはついでに過ぎないんだ。僕はきみのためにここにいるんだよ。こときみに関しては、凡そ兄さんらしくない、きみの足の神経を麻痺させるなんて面倒この上ない指示を僕にするなんて、細事に拘らない兄さんらしくないでしょう。きみを消耗品ではなく、愛い小鳥として飼おうとしている顕れなのかな」と。
ギニー・ピッグではなく、愛玩用のペットだと、そう言われたようだった。
私が少しでも「特別」でなければ、ソールは、あんなにも凄惨な最期を迎えることはなかっただろう。
『グローリア、一緒に、』
あの晩、ソールは選択し、答えを導き出してしまった。
『———二人で一緒に、逃げよう』
化け物の逆鱗に触れる、答えを。