不文律
以前に投稿した同タイトルの小説を書き直してます。
プロット的に書いていたのを、本腰入れて書き始めました〜。
ご迷惑をおかけしております。
噎せ返る薔薇の匂いと、茨の檻に囲まれて、私は今日もまた死者の吐息を感じてる。
「いやぁぁああ」
それは断末魔だった。
その叫びを聞いた時、大きな声を上げる行為はみっともないとして、父親からの耐え難い暴力に咽び泣いていた私を三日三晩、明かりのない冷たい蔵の中に閉じ込めた母親の蔑視を思い出した。
淑やかに、と呪文を唱えながら、逃げ出そうとした私の足を火炙りにして、一生消えない火傷を負わせ、これでお前も立派なレディだと走り回ることのできなくなった私に満足していた母親は今、裾が捲り上がるのも気に留めず必死に地べたを駆けずり回っている。
「許して、もう許して、神様、お願いよ!」と今まで散々神を詰り、人の信仰心に漬け込んだ汚い商売をしていたその口で、過去の冒涜などなかったかのように天に助けを求めている。
ああ、それの何と滑稽なことか、自分のことではないのに羞恥で死んでしまいたくなった。
死を覚悟し達観した人間は、死を恐れ逃げ惑う人間よりも少しばかり視野が広く、冷静に状況を判断するのに長けているのかもしれない。
私は父や母が混乱の最中、溺れる鳥のように羽をばたつかせる様子を尻目に、私たち家族を襲った惨劇――それを与えた、たった一人の男について考察した。
鮮血に似た赤い瞳と、暗闇に溶け込む漆黒の髪色の、人間離れした美しさを兼ね備えた若い男。
悠揚迫らぬ様子で庭に佇む男は、気息奄々と横たわる父や理解不能な言語を口走り始めた母にはまるで目もくれず、冷ややかに、気のせいでないのなら、その視線は私を射抜いていた。
男はきっと、人間ではないのだろう。
現れた一瞬で父を半死半生の堺に打ちのめし、使用人たちを虐殺し、母の精神を崩壊させるほどの衝撃を与えて、血の海と化した庭先に凝然と立つ男が、私と同じ人間であるはずがない。
私たちの日常を阿鼻叫喚の地獄絵図に書き換えた男は、何処からともなく突如この邸に現れ、目に付いた人間を赤子の手を捻るように易々と殺してしまった。
その所業は、まるで、死に神の如く――。
いつの間にか父が事切れ、しぶとく生き残っていた母が殺された時、私はようやく自分の死を悟ることができた。
走馬灯なぞ駆け巡る訳もなく、ああいまわの際ですら「最もらしく」できない私はやはり欠陥品なのだと、両親が常に口にしていた意味をここで理解した。
何も、何も無かった、ただ堕ちてゆくためだけに息をして、絶えず終りを渇望していた空っぽな人生が、一瞬にして閉幕しようとしている。
私は解放されるのだ。
化け物の手で、何とも呆気ない、けれど僥倖な結末をようやく迎えることができる。
「小汚い鼠が、まだ隠れていたか」
いつの間にか目前にやって来た男が、侮蔑を隠しもしないおざなりな口調で呟いた。
返事を必要としないことは明確で、これが私に向けられた最期の言葉かと思えば、しかし違った。
男は考えるように黙り込み、次いで私の腕を乱暴に掴んだのだ。
明らかに死んでいった父や母とは違う男の対応に訳が分からず戸惑っていると、男は感情の一切を吐き捨てた瞳をこちらに向けて、ニヒルな笑みを浮かべる。
「豎子。お前は自分の幸運に感謝するといい」
豎子――つまり、子供であることに感謝しろと、そう言っているのか。
まさかと思い男の動向を探っていれば、男は私を手に掛ける様子もなく、物を扱うように強引に引っ張って何処かへ連れてゆこうとする。
脚がもつれ、倒れそうになる私に舌打ちし、億劫な様子を隠しもせず、男は私の体を小脇に抱えた。
「お前の名は、今日から“グローリア”だ」
辿り着いた丘の上、薔薇に囲まれた広い屋敷の門前で、男は事も無げに言った。
訳も分からず呆然としてしまうのはもはや自明の理で、これから男が為そうとしている行いなぞ、想像すらつかないでいた。
そうだ、理解できようものか。
男は自らを「吸血鬼」と名乗り、人里離れた僻地にある屋敷には、私と同じように男に連れられてきた子供たちが暮らしていて、いいや、飼われていると言っても過言ではない、そんな概況なんて。
名を与えられた刹那、まだ殺されはしないのだと知った私は、そう、死期が僅かに遠のいただけの皮相なものではあるけれど、胸の中で小さな風船が弾けるような、妙な感覚を覚えた。
父や母が目の前で血祭りに上げられていても、何の感情すら湧き上がってこなかった私が感じた、小さな光。
死ぬことで柵からの解放を願っていた私は、父や母が死に絶え、自分だけがもう少しばかり生かされるのだと知って、生まれて初めて生への執着を手にしたのだ。
「生きたい」と思った。
何をしてでも、何を犠牲にしても、私は生きていたい。
これは私が「グローリア」として、吸血鬼と、攫われた子供たちと、浮世で最も死が間近に存在するであろう屋敷で過ごす、奇妙な話である。
1
はっと目が覚めた。
額には脂汗が滲み、覚醒したと同時に、まるで見計らっていたかのようなタイミングでズキズキと頭が痛み出す。
随分と夢見が悪いものだ。
あれから一年が経つというのに、吸血鬼と出会った当初のことを夢に見てしまうなんて、不吉なことが起きる前触れにしか思えない。
そうだ、あれから、一年もの月日が経ったというのに、私は未だ生きている。
血濡れの父と母、怨嗟の篭った瞳、何故私だけが、という絶望感。
薄れるはずの記憶は、体験した時よりも色濃く、より生々しく、夢という形で私に忘却を許さない。
そしてふと気がついた。
———足の感覚が、ない。
ゆっくりと上半身を起こし、震える手で毛布を捲った私は、そこにきちんと自分の足があったことにまず安堵した。
意識を集中し、立ち上がるためにカーペットの上へと移動を試みるも、正常な伝達を神経が放棄しているのか、私の足は微動だにしない。
言う事を聞かない自分の体に苛立って、無理に立ち上がろうとすれば、雪崩のようにベッドから転がり落ちてしまう。
自力で立つことも出来ないなんて、なんて、無様なのだろう。
「グローリア!」
ベッドから落ちた盛大な音を聞いたらしい隣人が、慌ただしく部屋にやって来た。
私の姿を視界に入れると、顔を真っ青にさせて、この世の終わりのような表情をする。
「グローリア、大丈夫?怪我はない?お願いだから、無理だけはしないで」
『マレ』の名を与えられた少女は、私が無事だと分かると大袈裟に喜び、二度とこんな真似はしないでと懇願してきた。
こんな真似?
たかだか立とうとしただけの行為なのに、人間が無意識にやってのける一般的な行動なのに、私にとっては「こんな真似」だと、当たり前ではないと、そう言うのか。
マレは私をベッドに戻すと、枕元にある水差しを手に取り、恭しく差し出してきた。
「すごい汗。喉が乾いてるよね、さぁ飲んで」
「……」
渡された水を素直に口に含み、そこでようやく、私は喉の乾きを自覚した。
水を飲み終えた私の足に触れ、丹念にマッサージを施してゆくマレをぼんやりと眺めながら、ふと視線を窓の先に送る。
カラスがいた。
まるで私たちを監視するように鋭い瞳を向け、静かに枝に止まっている、恐ろしいまでに暗色なその生き物。
この屋敷に来てから、ずっとだ、いつも私は誰かの視線を感じている。
「マレ」
足の指先を丁寧に撫でていたマレは、私の声に顔を上げ、その頭に手を置いてやると、面映ゆそうに破顔する。
「……外に出たいわ」
この屋敷の外に。
叶わぬ願いを、口にした。
吸血鬼に連れられやって来た屋敷には、私と同じような歳の子供たちがたくさんいた。
何れも吸血鬼に無理やり連れてこられた子供で、何故あの男が人間の子供を集めるのか当初はまったくの謎だったが、半月ほど経ったある日、とある少女が教えてくれた。
「近いうちに、人間の女性から吸血鬼の“花嫁”が選ばれるらしいの」
それは極上の血を持った女で、その女のために、私たちは屋敷に収容される形になったのだと。
云わば私たちは実験体。
花嫁なる女のために、吸血鬼が人間に対する理解を深めようとした結果が、人間の子供を集めて生態を観察するというものだった。
まるでモルモットのようだ、と強い憤りを覚えたが、そんなくだらない理由で生かされる私たちは、真実吸血鬼にとって家畜以下の存在なのだろう。
なんとも矮小な己の存在に、いっそ笑いが込み上げてくる。
屋敷での待遇は、結論から言えば悪いものではない。
豪華な食事に、清潔な部屋、奢侈な家具、新調されたばかりの洋服……むしろ両親のもとで暮らしていた当時よりも、ずっと贅沢なものである。
そう、たった二つ、何よりも恐ろしい吸血鬼の存在と、決して屋敷の外には出られないことを除けば、誰もが羨む生活を送ることが出来ていた。
———ふぅ。
小さく溜息を吐いた私を見逃さず、私を乗せた車椅子を引いていたマレが「気分でも悪い?足が痛むの?」と優しく気遣ってくれる。
マレが施してくれたマッサージのおかげで、辛うじて足の感覚を取り戻していた私は、違うの、そう答え、ゆっくりと辺りを見回した。
誰が手入れしているのか分からない、常に整えられた美しい庭園にはこの世のものとは思えない幻想的な花花が咲き誇り、足を運ぶ度に私は思うのだ。
ここはまさしく、楽園の檻ね、と。
「ねぇ見て、グローリア。暁の空がとても綺麗だよ」
薄暗い庭先に光が射し込む。
夜が明ける刹那というのは、いつ見ても美しく、きっとこの瞬間に勝るものは、世界中を探したってどこにも在りはしないだろう。
———朝になる。
闇夜に隠されていたものが、暴かれる時刻になる、動き出してしまう。
「グローリア!!大変よ、ソールが、ソールが……っ」
吸血鬼を滅ぼしてくれない陽の光は、大嫌いだ。
———『ソールが死んだ』
その一報は子供たちの中では最年長にあたる、今年16歳になるという少女「ラクリマ」によって齎された。
彼女自身、ソールの死を受け入れられなかったのだろう、ひどく困惑している様子が見て取れた。
屋敷の子供が死ぬのは、そう珍しいことではない。
確かに吸血鬼は私たちに裕福な生活を保障してくれるけど、それは未来永劫のものでなく、極めて一時的な、吸血鬼が否と唱えれば簡単に崩れ去ってしまう、そんな非日常なのである。
吸血鬼の不興を買って、命を絶たれた子供たちは少なくなく、私たちはいつも粛々と子供たちの死を受け入れていた。
仕方がないことなのだと、いつかはこうなる運命なのだと、甘受していた。
だがソールは、ソールだけは別なのだ。
真っ赤な薔薇が咲き誇る園。
そこに横たわる少年の至る所には切り傷が目立ち、顔だけ見ては彼が誰なのか判別できないほど、惨たらしい状態だった。
「ソール」
呼び掛けても反応一つない、当たり前だ、彼は死んだのだから。
ソールの遺体にしがみつき、泣きじゃくるラクリマの肩に手を乗せ、私は告げる。
「残りの子たちを呼んで。いつものを始めましょう」
死者を弔うための、儀式を始めなきゃ。
穴を掘りましょう。
深く、深く、より深く、怖い人に掘り起こされないように深く。
花を贈りましょう。
安らかに、永遠に、眠れよ眠れ、二度と目を覚ましてくれるな。
唄を歌いましょう。
今日死んでしまったあなたに、明日死んでしまうわたしたちの誰かに。
鎮魂歌を、捧げましょう。
ソールの遺体を焼却炉に捧げ、私たちは手を繋いで鎮魂歌を謳った。
燃え盛る炎がソールを包み込んだ時、何処からともなく啜り泣く声が聞こえ、それを皮切りに、そこにいた殆どの子供たちがソールの死を悼んで涙する。
優しくて、正義感の強い、兄のような存在だった。
吸血鬼が気まぐれに付けた「ソール」という名は、しかし彼には似合っていて、まさに太陽のような人、明るい光で私たちを照らしてくれた。
「どうして、ソールが死ななくちゃいけなかったの!どうしてソールなの!」
子供たちの誰よりもソールに近く、何よりもソールの死を悲しんだ「ルーナ」の慟哭が響く。
彼女はソールの姉であり、唯一の肉親だ。
「お前が死ねば良かったのに!そのみっともない足で、意地汚く生きているからソールが死んだ!」
憎しみの篭った二つの目がこちらを向いた時、私は彼女の悲痛な叫びに心から同意したし、同情した。
もうすぐ私の足は、完全に動かなくなる。
人の手を借りなければ生きていけない身体になるというのに、「生」への執着を捨て切れず、何が何でも生きようと這い蹲う私の姿は、実に意地汚く、疎ましいものなのだろう。
現に今朝だって、マレの手を借りなければ立ち上がることすら困難だった。
五体満足の人間が何故死に、瑕疵を抱える厄介者でしかない私がのうのうと生きているのかと、ルーナはそう言っているのだ。
「ルーナ!グローリアに何て事を」
マレが凄んだ表情を見せ、ルーナに突っ掛かろうとしていたのを止めて、私は笑う。
「そうね、ソールは、私のせいで死んだ」
ルーナの言い分は正しく、また、私が否定する理由もない。
だから肯定しただけのこと、すると「グローリア、違うよ、違う、ソールの死は誰のせいでもない……」なんてすかさずマレのフォローが入る。
誰のせいでもないなんて、随分と可笑しな台詞だと笑ってしまう。
ソールを手に掛けたのは紛れもないあの化け物で、あの化け物のせいでソールは死んだのに、ここにいる誰もがそのことを口にしない。
実に異様な光景だと、思う。
「———っ、グローリア、私はなんてことを……。気が動転してしまって、本当に、こんなこと言うつもりじゃなかったの、ごめんなさい」
ハッと我に返った様子で、青褪めた顔のルーナが言葉を紡ぐ。
別に、私は特に気分を害した訳でもないし、それは真実なのだから謝る必要なんて何処にもないとは思うのだが、ルーナは元来とても優しさ溢れる性根であり、いくら双子の弟であるソールの死に衝撃を受けていたとはいえ、私を詰った科白の数々をそのままにしておきたくないのだろう。
「嗚呼、ソール……っ!」
泣き崩れたルーナは、それでも彼の本当の名前を口にしない。
ソール。太陽。
吸血鬼が気侭に付けた称号で名を呼び、こんな事態であるにも関わらず、吸血鬼の用いる規律を破らないのは、痛いくらいに心得ているからだと、私は知っている。
この屋敷において、吸血鬼は絶対的な存在だ。
吸血鬼が定めた掟を守らなかった場合、いっそひと思いに殺してくれたらと、そう懇願してしまうような恐ろしい結末が待っている。
私たちは幾度となく、屋敷における準則を違え、吸血鬼の餌食となった子供たちを見てきたために、『死』への恐怖をよく知っていた。
家畜のように飼い慣らされ、ギニー・ピッグのように生態を監視され、喩え仲間が殺されようとも、私たちに吸血鬼に逆らう術はない。
ルーナにつられるように、やがて皆が声を上げて嗚咽を漏らす。
ソールの死そのものを理解していない最年少の「ドロル」と、唯一私だけが、その場で涙を流していなかった。