蛇足B
『蛇足』の続き
ではありませんが、これも蛇足です。
分岐です。ある意味ではIFです。ご注意ください。
視点は鈴本です。
傘を忘れた日に降る雨はそこまで冷たくなかった。
コートを忘れた日に吹く木枯らしは妙に柔らかく俺に当たった。
俺の時間を止めているのはそういうものだ。
あいつが消えて3年になる。
最初こそ、俺達は相当色々やった。
この世界に戻ってからあの世界でできたことが一切できなくなっていたが、それでもまだどこかにあの世界との繋がりがあるんじゃないかと、ひたすら馬鹿みたいに探した。
マンホールに落ちる馬鹿が出てきたり、夜の校舎に忍び込む馬鹿が出てきたりしたが、俺が輪を掛けて馬鹿だっただろう。
学校の帰り道、家からそう遠くない道。信号無視してやってくるトラックに気付いて。
何を考えていたのか、俺は構わず横断歩道を渡った。
……その結果を端的に言うなら、不謹慎かもしれないが、割といい臨時収入になってしまった、とでも言えばいいのか。
殆どありえないことに、あのトラックと衝突して、ただ肋骨が数本折れただけだった。
見舞金と保険料で微妙に儲かってしまったような、そんな程度の物だった。
俺がとった行動のツケは、泣く母親との対面と、折れた肋骨の痛みと、入院による暇と焦燥感だけだった。
……つまり、酷くぬるい結果になってしまった、と。そういう事だ。
「お前、まだあの世界気分な訳?」
見舞いに来て俺の軽傷ぶりに呆れ返った羽ヶ崎君が冷蔵庫に入っていたお高めな水羊羹を勝手に出す。普段だったら許可位は取るだろうから、今日はわざと傍若無人な振る舞いをしたい気分なんだろう。
……心配をかけた俺に対して苛立ってるんだろうな。きっと。
「いや、自分でもよく覚えてなくてな」
「嘘ばっかり」
水羊羹をスプーンで掬って羽ヶ崎君が俺を睨む。
「あのさ、僕、お前がこういう事するとは思ってなかったんだけど。一番まともだと思ってた」
「俺もそう思ってたさ」
そう返すと、また俺を一睨みしてから、掬った水羊羹を口に入れる。割と美味い水羊羹のはずなんだが、全く表情が変わらないのが羽ヶ崎君らしい。
羽ヶ崎君が水羊羹を嚥下するのを只眺めるだけの時間が過ぎる。
やがて水羊羹を食べ終わった羽ヶ崎君は、容器をゴミ箱に捨て、スプーンを流しで洗ってから戻ってきて、そしてこう言った。
「僕、そろそろ諦めがついてきたんだけど」
そう言う横顔は表情こそ変わらないものの、声が微妙に上擦る。
こいつもまた、時間が止まっているんだろう。
只、俺と違うのは、羽ヶ崎君はそこから脱しようとしているという事だ。
「それはいいことじゃないか」
「本気で、そう思ってる訳?」
やっと表情が変わる。それは怒っているような、悲しんでいるような。
いつもの羽ヶ崎君だ。
「本気だとも。狂人は俺だけでいい」
別に、トラックに撥ねられたらあいつに会えるとか、本気でそう考えてる訳じゃ無い。
只……なんだろうな。俺自身、良く分からない。
「本気で……僕は、忘れようとしてる、って、そう言ってるんだけど」
「それでいいだろう。……羨ましいな。俺はまだそこまで行けてない」
それでいい。それで正常だ。
学校はもう殆ど正常に戻っていたし、いつまでもあの世界に未練があるのは俺達だけだった。
異常なのは俺達だけで、その異常な俺達が正常になるなら、それはいい事だろう。
「……そう。なら早く来てよ。じゃないとお前、死にそう、だし」
……なんとなく、もう分かってる。
俺達があいつに会う事はもう二度とないんだろうと、そんな気がしている。
ただ、それを受け入れるには俺は……幼いんだろうか、未熟なんだろうか。それとも、単純に頭が悪いのか、未練がましいのか。
とにかく、俺は未だに……帰ってこれなかった友人を、探している。
それから何事も無く受験シーズンに突入して、そちらに没頭せざるを得なくなった。
切り替えの下手な針生あたりは苦戦していたが。
鳥海が推薦で有名私立に合格した事を皮切りに、それぞれがそれぞれの進路を決めた。
俺も呆気なく進路を決めた。未だに実感が無い。
……本当に呆気ないものだ。気づいたら進路が決まっていた、というような印象だった。
考える自分と思う自分が乖離してしまっているような印象。
……もしかしたら俺は、自分の中の一部をあの世界に置いてきてしまったのかもしれない。
そして今日、俺達は卒業してしまう。
今度こそ、本当に終わりなんだという気がしていた。
高校は卒業しなければいけない。
それと同時に、俺は狂人を卒業しようじゃないか。
このままじゃいられない、っていうこと位、とっくに分かっていた。もう望みが無いという事も、俺達にはどうすることもできない事も、分かっている。
今日という日はそれに相応しい。
式典の後、後輩達に送別会を簡単に開いてもらい、菓子をつまみながら大富豪に勤しむことになった。
恐らく、こうしてこの面子でゲームに興じるのも今日が最後だろうからな。
「8で切って、上がり、っと。わー、やっと勝てた!」
針生が嬉しそうにカードを机に叩きつける。
くそ、これで俺は都落ちか。
「んー、じゃあ俺は9のダブル。いない?で、2のダブル。いないね?で、5で上がり、っと」
鳥海も無事に上がっていく。
……手札の運が悪かったんだよ。何だこの手札は。大貧民から巻き上げたのに最大がQってどういうことだ。
「じゃあ俺もこれで上がりです」
社長が2を出して9で上がる。
「……イレブンバックで、3、で、4で上がり」
角三君も手札を消費していく。
……次第に人が抜けていき、俺と羽ヶ崎君しか残っていなかった。
「珍しいんじゃないの」
「運が悪いこと位ある」
「へえ。じゃあこれで。出ないでしょ」
羽ヶ崎君が場に出したのはK。
「出ないな」
「じゃあ8で切って6で上がり」
呆気なく羽ヶ崎君も上がっていく。
……ついてないな。
「ほい、お前ら卒業おめでとう、って事で。3年間の写真」
先生から何枚かの写真を渡される。
あいつはどこにも写っていない。
あいつは、存在自体が無かったことになっているらしかった。
「これとか、今こうやって見てみると鈴本、ちょっと幼いよね」
先生が示す写真の1枚を見てみると、確かに、今よりも若干幼いかんじの残る俺が居た。
入学してすぐの、最初の文化祭の写真だ。
……そして、その写真の俺は明後日の方向を向いて写っていた。
まるで、誰かに呼ばれて振り向いたように。
「……写真、大事にします。ありがとうございます」
……やはり俺は狂人を卒業できそうにない。
それから、一回だけ、後輩たちの文化祭を見に、全員で集まったか。
でも結局はそれだけだ。
俺達は特にそれ以降連絡を取り合うでも無く、互いに互いを忘れていった。
そうでなければ、どうしても欠けた1人の事を思い出してしまうから。
……そういう事、だったんだろう。
俺の時間はやはり止まったままだった。
どうしようもなかったはずの事がほんのわずかに好転したり、偶に運が良かったりすると、俺はあいつの存在をなんとなく思い出していた。
幽霊になったわけでもないだろうに。頭では分かっているんだが、その癖は一度ついてしまったらもう治らなかった。
風も無いのに揺れて花弁を零す桜の枝も、俺が建物に入ってから待っていたかのように降り始める初夏の雨も、そういったものが全部。
……俺はこうやって記憶を昇華することで消化していくことしかできないんだろう。
俺は思っていたより不器用だった。
……それとも、俺以外も、皆、こうやって糸の切れた凧のような心境でいるのだろうか。
……連絡を取ると藪蛇になりそうだ。やめよう。
そして、それは唐突に終わった。
「隣、いいですか?」
空きコマを埋めるために授業を1つ、取ろうか悩んで、とりあえずガイダンスには出よう、としたところ、既に席は殆ど埋まっていた。
調べていなかったが人気のある講義らしい。
その為、比較的前の方の空いている席に座るべく、そこの隣に居た人に声を掛けたのだが。
「どうぞ」
……その人が微笑んで、やっと、時間が動き出した気がした。
その日の帰り、やや強いものの暖かい風が俺の髪をやや乱暴に乱し、通り過ぎていった。
それきりだった。




