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第二回化学部ディスカッション~っ゜~

非常にどうでもいいことこの上ない話の2回目です。

時系列は1話より前、視点は化学部顧問です。


繰り返しになりますが、この上なく下らない話です。

ですが、もしかしたら人生が変な方向に多少豊かになるかもしれません。ご注意ください。

「これはどのように発音すればよいのでしょう。これが今日の議題です」

 社長が話す傍ら、鳥海が黒板にチョークで文字を書く。

 カツカツ、と良い音をさせながらでっかく書かれた文字は、こうだ。

『おっ゜て』。

 悲劇はここから始まった。




 ……いや、確かにさあ、言ったよ。

「お前ら、前回のディスカッションはかなりその場で調べてたじゃん。今度はもうちょっと、各自が調べてからそれぞれの意見を持ち寄ってやってみ?ほら、過去にあったニュースとかいいんでない?」

 と。

 前回のフライパンの是非については言うだけ無駄だと思ったから、まあ、折角ディスカッションやるんだったら少しでもこいつらの為になりそうな土台の上でやってもらった方がいいかなー、って思って、そういう口を挟んだんだよね。

 だってさ。普通さ、化学部でなんかディスカッションを『予め調べてから』『過去のできごとについて』するとしたら化学関連の話題出してくると思うじゃん。今度こそ。しかもそれ僕が言った時、連中は公害について話してたからね。そういうの来ると思ったんだよ。

 思ったんだけどさ、やっぱこれだよ。『おっ゜て』。

 絶対これ、こいつらの世代より前のゲームだし。なんでこんなの持ってくるのよこいつらは。

 ……いや、もう僕は生徒の自主性のすばらしさを感じてぐうの音も出ないし、面白そうだから止めないけどさ。




「……読めね」

「角三君、それは早計というものです。いいですか、確かにこの『おっ゜て』という文字列は現代の標準語に使用されている50音表記からは逸脱しています。しかし、それは現代日本語の標準語で、という括りの中の話でしかありません」

 角三が言った正論は、またしてもあっという間に社長に撃墜された。社長に角三撃墜王の称号をプレゼントしたいね、ぼかあ。

「社長の言う通りだ。文字は時代と共に変遷している。ほら、これを見ろ」

 鈴本が学ランの内側から取り出したのは花札だ。そしてその中から1枚を引き抜いて机に置いた。置かれたのはアカタンね。やっぱし。

「あのよろし?」

「あーのよろし……?」

 針生と角三が首を捻っているが、そうじゃないぞ。

「あかよろし、だ。この、ひらがなの『の』の上に横棒一本の『か』は明治時代の教育改革まで使われていたんだが、ひらがなを1音1文字に統一した時に消えた。ちなみに、『お』と『を』は統一の時に統一されきらずにずるずる生きのこった稀有な例だな」

「あー、割と『ゐ』と『ゑ』も生き残ってるよね?」

 鈴本は調べてきたんだろうね。えらいえらい。そして恐らくこれについてはノー勉であろう鳥海が机の上に指で『ゐ』と『ゑ』を書いた。

「今も時々見るじゃん。『ゐ』と『ゑ』」

「えびすびーるの『ヱ』は『ゑ』だよね」

「もしかしたら今の子だと読めない子も居るのかなあ……」

 あー、もしかしたらそうかもね。加鳥がしんみりしてるけど、確かに今の小学生とか読めない子いそうね。『ゑ』とか『ゐ』とか。

「……ということで、『おっ゜て』の表記も、昔は十分にあり得たんだ」

 話が脱線しかけたところで、鈴本が身を乗り出した。

「時代は更に遡るが、日本には本来、半濁点の発音は存在していなかった。いや、発音としては言葉の訛りや活用の変形であったんだろうが、表記が無かった。それは濁点についても同様だった」

 ほうほう。

「よって、こういう表記があった」

 鈴本が黒板に書いたのは、『け゜し』だ。

「ここでの半濁点は、『濁点ではない』という意味になる。つまりこれは、『夏至』ではなく『芥子』なのだ、という」

「わけわかんね……」

 角三が放り投げかけているが、もうちょっと頑張ろうよ。

「……つまり、だ」

 鈴本は続けて、黒板に、微妙に格好つけつつこう書いた。

『おって』と。

「ここでの半濁点は、『おっ゛て』ではない、という意味だ。だから、読みは『おって』でいい。Q.E.D」

 鈴本がチョークを置いて大仰な一例をすると、他の部員から笑いと拍手が巻き起こった。

 うん、まあ、良く調べてきたね。僕としてはもうちょっと違う方向に向かう努力を想定してたんだけどね。


「いや、それさ、こうじゃないの?」

 が、鈴本の隣にずかずか歩いていった羽ヶ崎が鈴本からチョークを受け取ると、『おって』の隣に『おつて』と書いた。

「……つまり?」

「これは、『濁点ではない』っていう表記じゃなくて、『撥音じゃない』っていう表記だともとれるんじゃない?当時って小さい文字も無かったでしょ」

 あー、そうね。例えば『チェックのシャツ』は『チエツクノシヤツ』だったわな。きっと。

「だからこれは『おつて』」

「……いや、羽ヶ崎君、待ってくれ。だとしても、『おって』である可能性は残る」

 あーあー、教壇の上で2人対戦が始まってるよ。ディスカッションと言えばそうなんだけどさー。

「これは『おつて』ではない、『おって』である、という意味での半濁点、『おっ゜て』なのだとは考えられないか?敢えて、『゜』によって、『っ』が『つ』ではないことを強調した、と」

「……まあ、あり得ない話じゃないけどね。でも、半濁点が『アンチ・濁点』として使われていた歴史背景を鑑みるなら、『おつて』の方がそれらしいと思うけど」

「いや、結局半濁点は、『何かではない』という意味で使われていたのだと思う。だとすれば『おっ゜て』の『っ』が『つ゜』ではなく『っ゜』と表記されている以上、『っ』であることを強調したかったんじゃないか?」

 議論が謎の白熱してるなー。こいつらの弁の立ち方って一体何なんだろうね。面白いからいいけど。




「よーし、じゃあ二番槍は俺が頂いちゃうんだぜ!」

 膠着状態の羽ヶ崎と鈴本の間に出ていったのは妙にハイテンションな鳥海である。教壇に上がって黒板の前を陣取りつつ、チョーク片手にまた書き始めた。もうこれディスカッションじゃないな。発表会だわ。あー、反省事項だなー、こりゃ。

「俺の結論は『おんづて』だ!」

 こういうプレゼンが上手い鳥海、結論から最初に言った。うんうん、結論が先に見えてるってのはいいね。

「なぜならばー!」

 そして、続けて書いたのは、『鑑みる』。

「これ!」

「……かんがみる?」

「そ!この『かんがみる』が根拠なんだなーこれが!」

 かんがみる、かんがみる、と、皆が口の中でもにょもにょ言っているのがなんとなく面白い。

「……あ、もしかして『んが』ですか?」

 刈谷がなんかピンと来たらしいけど僕は分からん。こいつらの知識の幅はすごいなー。

「ザッツライ!『鑑みる』は昔はこう表記してたんだなーこれが!」

 鳥海が黒板に書いたのは……『かか゜みる』。ええー、これにも半濁点付くの?

「『か゜』は発音としては『んンが』みたいなかんじらしいよ」

 あー、鼻に掛かったかんじの。へー。

「でも『か゜』の発音って、今は全部『んが』で統一されちゃってるから、表記どころか発音自体が失われた言葉なんだなー」

「確かに言わないよねえ、『んンが』みたいなかんじの発音」

「英語の先生の中にはこういう発音する人居ない?居ないかなー、いや、俺の記憶が正しければ1人くらい居た気がする!多分!」

「いや居ないでしょ」

「ところがどっこい、倫理の先生がなんかこんなかんじの発音してる」

 僕も思い当たる節があったりなかったりするけど、こいつらの先生談義は聞くと胃がよじれそうなんでやめてほしいね。




「ま、とにかくそういうわけで『おっ゜て』は『おんづて』と発音する、っていうのが俺の推理でした!以上!」

 ということで鳥海のプレゼンも終了。オーディエンスは審議に入ってるけど、これは結構有力なんでないかなあ。よく調べてきたよね、『か゜』なんて。

「異議あり!」

 が、ここで手を挙げたのは舞戸。こいつもこいつで化学部文系代表なんで、こういうのは得意みたいね。期待してます。

「それだと、『おつ゜て』の説明にはなっても、『おっ゜て』の説明にはならないと思います!」

「ぎくーっ、あー、そこ、痛いところなんだよなー、んー、それはまあ、『おンヅて』みたいな……」

 鳥海が場所を譲ると、教壇の上に舞戸が立つ。

「さて、諸君!私の持ってきた意見に驚きたまえ!そしてひれ伏したまえ!」

「やってみろよ」

「そーだそーだー」

 野次を飛ばされる中、舞戸が黒板に書いたのは、こうだった。

『お、て』




「私達の目の前にある『おっ゜て』は古典でもなく、今目の前にある表記です!ということは、私達はこれを素直に発音すればよろしい!『おっ゜て』と!」

「それがどうして『お、て』になるわけ?」

 羽ヶ崎が頬杖を突きながら横槍なのか助け舟なのかよく分からない口を挟むと、舞戸は満面の笑みで羽ヶ崎を指さした。

「はい、羽ヶ崎君!りぴーとあふたーみー、『あえいうえおあお』」

「……は?」

「あえいうえおあお」

「……あえいうえおあお」

 ついでに何人か後から、『あえいうえおあお』を発音している。僕もした。あえいうえおあお。

「じゃあ続きまして、『かけきくけこかこ』」

「……かけきくけこかこ」

「このまま全部やってもいいんだけど、まあいいや。じゃあ『ぱぺぴぷぺぽぱぽ』」

「ぱぺぴぷぺぽぱぽ……で、これが何なの?」

 皆でぱぺぱぺ言いながら首を傾げる中、色々と発音していた鈴本が、ふと気づいたように手を挙げた。

「口か。口を閉じるんだな。半濁点だと」

「正解!」

 お?そうなの?

 ……ぱぺぴぷぺぽぱぽ。あえいうえおあお。たてちつてとたと……。

 あー、ほんとだ。ぱ行の時は一音一音全部、一々口を閉じないと発音できない訳ね。はー、成程。

「そういうことなのさ!ということで諸君!ここで私は、『半濁点とは、発音の直前に口を閉じる発音である』という説を提唱したい!よってこれは!」

 舞戸が黒板をばしん、と叩いた。チョークの粉が舞うからやめなさいよ。

「これは!『お、て』と発音するのです!」




「舞戸さん、1ついいですか?」

「よくない」

「舞戸さん」

「よくない」

 社長が手を挙げているが、舞戸は耳を塞いでいる。ディスカッションする気が全くないなー?ディスカッションってのは自分の意見と他人の意見をぶつけてよりよい物を見つける為のものだってのに、人の意見聞かなかったらディスカッションになんないでしょ、ったくもー。

「社長が出てくると間違いなく私の理論が崩される気しかしないからよくない!よくないよ!よくない!」

 社長は舞戸を無視して教壇に上がって、黒板に『おて゜』と書いた。

「これだと思うんですが」


「半濁点が、『発音の直前に口を閉じる発音である』とするならば、『お、て』と発音されるべきなのは『おて゜』なのではありませんか?」

「あああ……やっぱ言われた……これやっぱ言われた……あああああ」

 舞戸が「無念」とか言いながら社長を恨みがまし気に見ているけど、お前、自分で理論に破綻があるって気づいてたんならそこの補填はしてからここに来なさいよ。

「うーん、でもそれって、『表記は違うけれど発音は同じにならざるを得ない』みたいな例だと思えばいいんじゃないかなあ」

 と思ったら、加鳥から助け船が出た。

「ほら、こんなかんじ」

 加鳥が黒板に書いたのは、『しゃああずなぶる』と『しゃーあずなぶる』と『しゃぁあずなぶる』。なんでこのチョイス。

「発音して明確に違いを出すのって難しくないかなあ、これ。だからきっと、『おっ゜て』も『おて゜』も発音は一緒でいいと思うんだ」

 全員が赤い彗星の名前をひたすら連呼しまくってる。こいつらの『とりあえず実験してみよう』精神はいいと思うよ。方向性がイマイチなだけで。

「そっか、そうだよね、うん。加鳥が正しい。よって『おっ゜て』は『お、て』だ!」

「よくねえよ。おい舞戸。お前『っ』の発音できんの?口を一度閉じた後に撥音をどう入れるわけ?『しゃあ』と『しゃー』の違いはともかくとして、理論上だけでも本当に『っ゜』の発音ができるのかは別の問題でしょ」

 まあそうだわなー。『発音できるけれど同じ発音になっちゃう』ってのと、『発音できないから別の発音で代替する』ってのは別の話だ。

「発音できないから別の音で置き換える、ってことなら、ふつーに『おって』でいいんじゃないの?駄目?」

「いや、そうかもしれないけど、そこをなんとか、ってのが今回の議題じゃないかー」

「じゃあ『おぷて』、みたいなかんじじゃ駄目ですかね」

「『ぷ』はどこから出てきたんだどこから」

「……これ、そもそも発音できるの?書き限定の文字、って事じゃ駄目……?」




 ……ちょっと質問に来た別の生徒の対応でこの場を離れちゃったんでしばらく居なかったんだけど、戻って来たらもうワンナイト人狼やってた。

「こら、『おって』の話はどうなったのよ」

「あ、終わりました」

 ああ、やっぱり終わっちゃったらしい。

「結論は?」

「そもそも、文字とは表音するという目的以前に言葉を伝達する手段であり、言葉とは意思を伝達する手段であるはずです。そして言葉とは特に、発信者の意図を超えて意思を伝達する事すらあります。ロラン・バルトは作者は死んだという言葉を残しましたが、それはつまり言葉の示す意思の裁量権は受信側にあるということです。つまり、『おっ゜て』の読み方は俺達の心の中だけにあるのです」

 ……。

 お前らの心の中には一体どういう『おっ゜て』があるんだよ!それを見せてほしいね、僕は!


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― 新着の感想 ―
[気になる点] 旧表記の日本語に撥音が無いとまでは言えない。 従って、おつての『発音』は『おって』が疑われ、おつて派は少なくとも『おって』を併記するべきである。 [一言] とりあえず歌舞伎に撥音の台詞…
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