魔王の西洋将棋盤
時系列は1話の100年位前です。
視点は魔王です。
時々魔王の夢(過去)が混じります。
「立て」
立て、と言われても、最早立つための足も、体を起こすための腕も無い。
一瞬で吹き飛ばされた俺の体はとっくに『立つ』ことなんてできなくなっている。
「……ふむ、回復もままならぬのか。やはり脆いな」
それはそう言って、非情にも俺に回復魔法をかける。
「久方ぶりの客だ。もう少し楽しませてくれ」
その美しい笑顔は、俺にとって恐怖そのものだった。
……懐かしい夢を見て目が覚めた。
今でこそ懐かしい、で済むが、当時は悪夢だった。
これに魘されて飛び起きた回数は数えきれない。
今でこそ懐かしいと感じるだけだが、敵対した時はこの世で最も恐ろしいものに感じられたものだ。
寝床を抜け出て、朝食の準備をする。
本来なら私には、睡眠も食事も必要ない。
それでも3食に間食までしっかり摂り、睡眠も摂るような生活をしているのは、人間だったころの事を懐かしんでいる訳では無い。
単純に、そうでもしないとあまりに長すぎる時間を持て余す、というだけの事だ。
この食事も、本来の意味の食事としては全く意味を成していない。
ただ、私の魔力を食べ物の形に作り、それを食って元に戻しているだけだ。
考えてみれば相当空しい事をしているものだ。
……私はこの世界に来て、永らく生きてきた。
これからも永く生きる事になる。
永い時間は牢獄だ。
……勿論、これも自分で選んだ道だ。その牢獄に閉じ込められたことを今更悔やみはしないが。
さて。
朝食を摂ったらいつものように、1人でチェス盤に向かう。
最初、フィアナにチェスを教えた時は酷かった。
駒の動かし方こそ一往復の会話だけで覚えたものの、戦略というものがまるで分かっていないようだった。
それでも幾度か戦ったら、それでそこそこには戦えるようになったのだから、やはり全知全能の女神というのは本当なのだと思う。
……このチェス盤と駒は、フィアナが作ったものだ。
この世界に魔法を与える前に、『餞別だ』と言って、残していった。
これは勝手に相手の駒が動くチェス盤で、1人であっても自分以外の頭脳と対局できるという代物だった。
動き方は正にフィアナと戦っている時のそれで、もしかしたらフィアナの一部がこの中にあるのかもしれない。
だから、私はこれに関して飽きることは無い。
毎日毎日、同じように駒を動かしていても、相手の駒は変化に富んだ動き方をする。
それはフィアナの打ち筋によく似ていた。
一局終わった所で外に出る。
この奈落から出る事は叶わないが、こうして自宅の側をうろつく程度なら許されている。
……奈落はこの世界の自浄施設だ。
ただし、今や『碧空の花』による魔力や、奈落に漂う魔力のみで完全に回らなくなっている。
量だけならなんとかならなくもないのだろうが、それを集めるのは骨だった。
よって今は自宅に魔力を吸うごく簡単な機構を設けて、それに私の魔力を提供してなんとかやっている状態だ。
私があまり自宅を離れていると淀みが浄化されなくなる為、私は自宅から、ないしは奈落から離れることができない。
……フィアナが魔法をこの世界に与えてから、この世界には淀みが増えた。
それと同時に、同じぐらい幸福も増えたのだろうが、それは奈落からは窺い知れない。
果たして、この世界の人間はフィアナ自身を滅ぼしてまで守る価値があったのだろうか。
或いは、もっと言うならば、この世界は。
……幾度となく繰り返した問答だが、結論はいつも決まっている。
『フィアナはそうした』。それだけだ。それだけで私は納得せざるを得ない。
彼女はこの世界を、この世界の人間を愛した。
私にはその結果しか残されていないのだから。
門の辺りまで行くと、ケルベロスが尾を振って私に近寄ってくる。
別にどこへでも行けばいいものを、わざわざ門番をかって出て、これはずっとここに居る。
……フィアナが居なくなって少しした頃、戯れに1つ作ってみたのだが、やはりどうも魔力の消費が大きすぎた。
私の元で飼っていては、私の魔力を消費する。
……これは、生まれてすぐに私の魔力を無駄に貪り食った。遠慮というものを知らなかったらしい。
そしてそれは淀みの浄化に著しく影響する為、私はこいつがある程度大きくなった時に外へ放した。
これが奈落の生物から魔力を得て生きる分には、私の魔力を使う事も無い。
その時の虚しさを味わうのは御免だったので、それ以降生命体を作ることもしていない。
……かなり昔の事、元の世界に居た頃のことだが、飼っていた金魚が死んだことがあった。
その時も同様に、二度と生き物を飼う事などしない、と思ったのだったか。
私もつくづく学習しない。
昼食をとったらまた一人でチェス盤に向かう。
今やこの奈落で新しさを提供してくれる数少ないものの1つがこのチェス盤だった。
この奈落には昼も夜も無い。
正確な時間は時計を使って知ることができるが、そんなものは役に立ちはしない。
奈落にも生命は一応あるものの、この辺りには近寄ろうともしない。
私が出会える範囲にある生命は、自ら生み出したケルベロスと、奈落に自生する植物だけだ。
それらは私が手を加えるまでも無く勝手に生きる。世話をする必要も無い。
世話をしなくてはならないようなものがあれば少しは違ったのだろうか。
……ケルベロスの二の舞になるのが目に見えているな。
夕食を摂って、入浴する。
代謝しない体には必要のない行為であるし、元々そんなに入浴を好む性質でも無かったのだが、今や少ない娯楽の一つだ。
入浴剤等に凝れば食事同様、十分娯楽の一環になり得る。
自らの魔力で作り出した湯に浸かるだけと言ってしまうと味気ないが、自分の物では無い温度に抱かれるのは心地よかった。
奈落には熱が少ない。
基本的には生物も冷血だ。
私が作りだしたケルベロスは例外の中の1つだ。
例外はケルベロスと私と……ああ、それで打ち止めか。
光源になる植物や鉱石も、光こそ放つものの、熱を発するわけでは無い。
1つ断っておくが、私はこの奈落が嫌いな訳では無い。むしろ好ましいと思っている。
短調な生活も嫌いでは無い。飽きたとしても、そこまで苦にはならない。人から逸脱した所為なのだろうか。
只、時々無性に寂しくはなる。
就寝する。
眠る時に見る夢は楽しみの一つでもある。
今日は何を見るだろうか。
……叩き殺される夢でも、捻り潰される夢でもいいから、彼女の夢を見たいものだ。
「……愚かな事をしたものだな」
「俺はそうは思わない」
彼女が嬉しそうな、怒っているような、曖昧な表情で俺を見る。
俺の風貌は著しく変わった。
黒かった髪は銀に変わり、やはり黒かった瞳も赤く変わった。
人より魔物に近づいた結果だった。そして、人より魔物の方が神に近い。
これで幾千年かは生き永らえるだろうが、それでも神たる彼女の生きる時間とは釣り合わないのだろう。
近づいても近づいても、彼女は酷く遠い存在だった。
「分かっているのか。永遠の時間は牢獄だぞ」
その牢獄に閉じ込められた者としての忠告はもう幾度となく聞いていた。
それでも俺はやはりこうしようと思った。
彼女を置いて死んでいくのが、否、『彼女を置いて死んでいった内の1人』になるのが我慢ならなかったからだ。
「1人でいるよりはマシじゃないのか」
そう問うと、彼女は怒りながら笑っているような、泣いているような、曖昧な表情で吐き捨てた。
「やはりお前は愚かだよ」
そう言いながらも彼女の声にはやはり、喜びの色が混じっていた。
「余に付き合う必要などないというのに」
「俺がそうしたいからそうしただけだ」
彼女は瞑目してから、顔を上げた。
いつもの、自信に溢れた表情だった。
「そうは言っても、その原因の一端は余であろう。何、その分の責任はとる。精々お前が永い時を退屈せぬよう尽力しようではないか」
その笑顔は、恐怖からは遠いものだった。
……結局、あの約束は反故にされた訳だが。
否、その結果がこのチェス盤なのか。
彼女は私より長い時を生きている。
神の時間など、あくまで生命である私には到底理解できない領域なのだろう。
元々、彼女との感覚の差を感じる事は多かった。
彼女は300年程度ならチェス盤一つで私が退屈せずに済むとでも思ったのかもしれない。
……いや、或いは、私を『保護する対象』から、『身内』に変えてくれていたのか。
この世界の一端を担うように仕向けたのは、そういう事だったのか。
これを彼女なりの愛だと考えるのは、烏滸がましいだろうか。
彼女は神で、この世界を等しく愛しているのだから。
……それでも、多少自分が優遇されていると思いあがるのは許されるだろうか。
チェスの駒は動きさえするが、答える事は無い。




