深すぎて甘すぎる
アイスクリームに添えられたウエハースは、どうしてこんなにおいしくないのだろう。
幸喜君がわたしに笑顔で分けてくれたお菓子を口に運んで、わたしはほほ笑んだ。幸喜君はわたしの目をじっと見つめている。
その目は、豊に似ている。
「幸喜は遊園地に行きたいらしいんだ」
豊は伝票を手に立ち上がり、行こう、と言ってわたしの荷物を肩にかけてレジへ向かった。
豊とその後を追う幸喜君の後ろ姿を見つめると、歩き方がそっくりで切なくなってしまう。
間違いなく、幸喜君は豊の子供なのだ。
遊園地で幸喜君はメリーゴーラウンドの馬に跨った。手綱を持って、王子様のように姿勢を良くして回転するのを待ち構えている。
脇のベンチに腰掛 けたわたしと豊は、そんな姿を見つめてほほ笑んだ。
「ひかるさん、お元気?」
「あぁ、なんか強くなったよ。母になると女性って、怖いなぁ」
豊は手を振る幸喜君に右手で答えながらため息交じりに答えた。
けたたましいブザーが鳴り、メリーゴーラウンドが回転を始めた。幸喜君は手綱をしっかりと掴み、目を瞑ってスピードに耐えている。
豊とわたしは、回転中の音楽が鳴っている間中、キスを繰り返した。
「ずっと独りでいるの?」
唇を離し豊は悲しそうな声を出した。
「どうかしら。まだ、わからない」
わたしは幸喜君を見つめながら、なるだけそっけなく答えた。
好きな人の子供を見られる楽しみはこんなにも深く、明るいものだったなんて、あの頃は思いもし なかった。
「ゆりこは、変わらないね」
豊はうれしそうに二回も同じ言葉を繰り返した。
ふふっと声に出して笑うと、口の中にウエハースの薄ぼんやりした甘さが蘇った。やっぱり美味しくない。
幸喜君が興奮した様子で小走りにこちらにやってきた。豊は両手を広げて幸喜君を受け止める準備をしている。
あの両手のなかに、わたしもかつては守られていたのだった。
お風呂が好きで何度でも、暇さえあれば入る。
夜は時間さえあれば、豊と一緒にバスタブに浸かり、長話をする。
新しく買おうと思っているカーテンの色の話や、ご近所の男の子とボールを蹴りっこした話、豊に内緒で食べた新作のアイスクリームがとてもおいしかったこと。
黙って豊は頷きながら 、時おりわたしの体を触り、髪を撫でて、首筋に冷たい唇を這わす。
どんなわたしの報告にも「よかったね」と「それは大変だ」で返してくる。
オウムみたい、と文句を言うと「それは大変だ」と笑う。
わたしと豊の間の会話が、内容のないものばかりなのは仕方がないことなのかもしれない。
子供でもいれば、成長の話とか、その時々に生まれるであろう「報告すべきこと」が山ほどあって、きっとそんな会話で世の中の夫婦はうまくいっているのだ。
わたしたちの間には「すべきこと」が何一つとしてない。
「してはいけないこと」も何一つとしてない。
「今度、浮気してきてちょうだい」
豊は、わたしを抱きしめて「はい、はい」と答える。
「してくれないと、わたしが するわよ」
「それは大変だ」と豊はわたしを抱く両手に力を込める。
「できるなら、どうぞ。僕のところへ帰ってきてくれるならいくらでもどうぞ」 と囁きながら、豊はわたしを抱く。
わたしは、豊の体に歯を立てる。
水音が浴槽内に響き、わたしの声が漏れる。響くと嫌だから、わたしは彼の体にさらに歯を立てて、声を押し殺す。
アポなしで突然やってくるのだけは止めてほしいのだが、お姑さんは、どうせわたしが一日中家の中でゴロゴロと過ごしていると思い込んでいるので、お構いなしだ。
在宅で外構デザインの仕事をしているので、暇を持て余しているわけではないのに、何度説明しても「でも、家にはいるのよね」と片づけられてしまう。
わたしは根負けして「 はい」とほほ笑む。
「子供が出来ないのはね、ゆりこさんが望まないからじゃないかしら」
結婚して五年も経つと、さすがにお姑さんからの風当たりも強くなってくる。
プライベートな問題に口出しする気はないけれど、という前置きを忘れたかのようなストレートな物言いに、わたしは可笑しくて吹き出しそうになる。
お茶のお代わりを淹れながら、わたしはただ、すみませんと小さく呟いた。
「跡取りがほしいとか、そういうことではないの。でもね、子は鎹っていうでしょう。長く夫婦生活を送ってきたわたしはね、それがよくわかるのよ」
お姑さんはわたしに同情するような声色で続ける。
鎹がない夫婦が、この先どうなるのか。ゆりこさんがもしも豊かに浮気されたとしても 、それは仕方のないことかもしれないわよ、というのがお姑さんの言い分、もしくは脅しなのだった。
わたしは、黙って頷き、テーブルの上でお茶碗をくるくると回した。
まだ話し足りなそうなお姑さんを、仕事があるからと説得し玄関まで送り出した。肩がこる。右手で左肩を抑えながらリビングに戻ると、テーブルの上に病院のパンフレットが残されていた。
少し離れた場所にある不妊治療で人気のクリニックのものだった。
不妊治療に通うつもりは毛頭なかった。痛いと聞くし、お金もかかる。なによりも「治療の効果がでてしまったらどうしよう」という不安で、息が止まりそうになるのだった。
帰宅した豊はクリニックのパンフレットを見ると、パラパラと捲り、それから「しょう がないな」と独り言を呟いてから、丸めてゴミ箱に捨てた。
そして「お風呂に入ろう」とわたしの手をとった。
夜眠れないわたしの頭を抱いて「大丈夫だよ」と呟く。
「何が大丈夫なの?」
と苛立った声を立てると「ぜんぶ、すべて、だいじょうぶ」と彼は眼を閉じたまま答える。
「治療は、いや」
それだけ言って、わたしは彼の胸に顔を埋めた。
どうしても、子供を産むのは怖い。自分の体に、何かが宿る恐怖でわたしは、朝まで眠れずにため息を繰り返した。
豊は時おり寝息を立てたり、時々わたしの髪を撫でたりしていた。お互いが寝不足のまま、豊は出勤し、わたしはCADを立ち上げた。
「夫婦、子供二人、子供用の自転車を二台置スペースと、駐車スペースは 普通車一台、軽自動車一台。シンボルツリーは南側に」という注文通りに、図面を引く。
住宅の外観と合わせたタイルの色を選び、玄関までのアプローチを緩やかなカーブのデザインにしてみる。
シンボルツリーはひめしゃらにしよう。手入れが楽だし、強い。
自転車の色は銀色と赤。
どこから見ても、幸せそうな一家の、新築住宅が完成した。
目薬をさしてから、コーヒーを入れる。ネットに接続し、最近導入したスカイプで友人に連絡を取った。
マイクの向こうに入る彼女は、最近生まれたばかりの赤ちゃんを抱いているのか、会話の途中に時おり「あっくん、えっくん」と声が入る。その都度、彼女は「ごめんね。この子ったら、一丁前に会話に参加したがっているみたいで」と 嬉しそうに謝った。
「ううん。かわいいわね」
わたしは、努めて明るい声を出した。
「子供産むとき、痛くなかった?」
そう聞くと彼女は「またその質問~? 痛いわよ。でも忘れちゃう痛みなのよ。今となっては『あぁ、あの時は痛かったな』って思い出す程度。じゃなきゃ二人、三人って産む人いないわよぅ」と豪快に笑った。そして声のトーンを落として「好い病院紹介しよっか?」と言いにくそうに付け足した。
「ううん。いいの。ありがとう」
わたしはスカイプを切った。
学生時代の彼女はあんな豪快な笑い声を立てる人じゃなかったのにな、と淋しくなった。
人は、変わって生きていくものなのだ。
会う人会う人に言われる「ゆりこは変わらないね」という言葉は 「ゆりこは変われないのね」という嘲笑なのだ。
パソコン脇に置いておいた携帯電話が鳴った。豊からだった。忘れ物をしたので、対処してほしいとの連絡だった。用意周到な性格なのに、珍しい。
昨日の寝不足で、頭が少しぼんやりしているのかもしれない。
だとすれば、わたしの席にでもあるのだろう。パソコンの電源を落とし、ため息をついた。
ひかるさんに会った瞬間、わたしはこの人は豊のことが好きなのだとすぐに分かった。
会議で使う重要書類をわたしは最寄り駅まで持って行った。会社まで届けると言うと、それよりも社内の子が車で近くまで出ているから寄って行ったほうが早いということなのだった。
マンションから駅へ続く緩やかで退屈なほどまっすぐな坂 道を、気持ち急ぎ足で歩いた。社名の入った白いセダンが駅前のローターリーに止まっていた。
助手席側のガラス窓を軽くノックすると、運転席にいたひかるさんは一瞬鋭い、それでいておびえたような眼でわたしを見つめた。
その目に、心当たりがあった。
昔、わたしが豊を誰かから奪いたいと思った瞬間、わたしはその目で、同じ眼光で相手の女性を見つめたのではなかったか。
頭の先からつま先まで、値踏みするように相手の女性の全てを一瞬で理解しようと、躍起になったのではなかったか。
その視線を、わたしはいま感じたのだった。
あの時、相手の女性はわたしにどんな顔を見せてくれたのか。ほほ笑んだのか、憎悪を隠そうとしなかったのか、今となっては思い出せない 。
ひかるさんは、一瞬の間をおいて、満面の笑みを浮かべてドアを開けてくれた。
「はじめまして。いつもお世話になっております」
名刺を差し出しながら、わたしを助手席に座るように促す。
「書類の確認をさせてもらいたいので」
ひかるさんは、茶封筒からたくさんの書類を取り出すと、一枚一枚確認をした。わたしには何がどんな書類なのかは一切わからない。
そのわからない書類を、豊とひかるさんは共有している。
わたしの知らない豊をひかるさんは知っている。
その知っているという優越感を無意識のうちに妻であるわたしのまえで滲み出しながらひかるさんは紙を捲る。
静かな車内に、紙の擦れる音だけが響き渡っている。
ひかるさんは時おり運転席か ら、わたしを盗み見している。
「ありがとうございました。これから会社に戻ります」
ひかるさんは封筒を後部座席に置いて頭を下げた。
「わざわざありがとうございました。本当なら、わたしが会社までお届けにあがらなくてはいけないのに。どう? 今晩、三人でお食事でもいかが? お礼しなくっちゃ。豊に伝えておきます」
わたしはそう言い残し、ドアを閉めた。
ひかるさんは、何も言わずに車を発進させて、わたしを追い越すとハザードランプを三回点滅させた。
マンションへの帰り道、足取りは軽かった。
豊がもしも、ひかるさんとそういう関係になっても、わたしは後悔しない。むしろ、今、自分から豊を手放さなければ「奪われる時」が本当に訪れてしまう。 その時 、わたしはどうやってやり過ごせばいいのか、考えるだけで胸が痛い。
ひかるさんと豊の間にもしも子供でもできれば、お姑さんも喜ぶだろう。
わたしだって、肩の荷が下りる。そう考えながら、わたしはボロボロと涙をこぼしながら、緩やかな坂道を昇った。
すれ違った人が、わたしの顔を見て驚いた様子で振りかえる。
構わない。
足取り軽やかに、泣き続けた。
三人での食事は楽しく、それでいて静かだった。
豊は食事中ひかるさんの前で何度もわたしの肩を抱いたり、膝に手を載せた。そのたびにひかるさんは「愛妻家で社内でも有名ですもの」とほほ笑んだ。豊は「当然。奥さんがいないと生きていけない」と大げさな声を立てた。
わざとらしいほどわたしに絡 む豊の態度は、ひかるさんの豊への気持ちを彼が理解していることをわたしに伝えていた。
豊はどうなのだろうか。
それは、まだわからない。
三人が三様に酔っていた。お酒にも、レストランの美味しい料理にも、この歪んだトライアングルにも。
わたしは気分が悪くなったふりをして、豊にひかるさんをタクシーで送るように頼んだ。
「わたしは、このお店で待っているから。戻ってきてね」
豊は腕時計を見て「もう、十一時……二十分だよ」と呟いた。そして少し悲しそうな顔をして店を出て行った。
わたしはペリエを一本注文し、ゆっくりと飲み干すと店を後にした。このレストランの閉店時間は十一時三〇分。この店でわたしが豊を待たないことを、豊は理解したのだ。その うえでタクシーへ乗り込んだのだった。
夜中の三時に豊は帰って来た。寝室のドアをそっと開けると、わたしの横に滑り込んで、小さく「待っててくれた?」と声を出した。わたしは黙って頷いて豊のほうへ体を寄せた。
豊の体からはお酒の香りが抜けて、ボディーソープの香りがした。
「どうして、僕を振ろうとするの」
「子供のこと? それとも僕が嫌? 飽きた?」
わたしは、全部に首を振って、全部に頷いた。
「ひどいな。君は、僕にもあの子にも酷い」
「振ったんじゃないわ。好きなのよ。だからあなたの子供を見てみたい。あなたが幸せな父になる姿を見てみたいの」
わたしは、それだけ答えてから、豊の体に馬なりになった。
さっきまで、違う女性と重ねていた肌 の全てを見ておきたかった。いつもより多く求めて、いつもより多く噛みついた。
「痛い」
豊は何度か顔を歪めた。切ない声を時おりあげながら、ひどいな、と繰り返した。
離婚届の保証人欄に、お姑さんの署名がしっかりと力強く書かれている。
お姑さんは、わたしと豊を交互に見て「あら、なんてことに」とか「豊、どうしてこんなことに」など、とにかく「何で」を繰り返した。繰り返しながらも、署名はすぐにした。
ひかるさんに子供が出来たことを、わたしから伝えてあったからだった。
慰謝料の問題などは、考えていなかった。ただ豊が結婚当初に買ったマンションをわたし名義にしてくれるというので、それだけは甘えた。
わたしの両親は「子供が出来ないから って……人の子を何だと思っているのか」と怒り狂ったが、わたしと豊の関係を説明しても、誰にもわかってはもらえないのだ。
「でも、わたしと豊は強く繋がっているのよ」
そんなことを電話口で伝えても、両親の耳には届かない。
そして、だらだらと、わたしの性格や生活について、あれこれと文句を言うのだった。
ひかるさんとは、離婚届を出した日に喫茶店で待ち合わせをした。
「すみません」
ひかるさんは静かに頭を下げた。お腹のあたりに目をやると、少し膨らんでいるようにも見えた。
「本当に、ごめんなさい」
ひかるさんは、わたしの視線に気づいて再び頭を下げた。
黙ってメニューを彼女の前に差し出すと、コーヒーでも紅茶でもなく、オレンジジュー スを彼女は注文した。カフェインを摂らない現実が、わたしの胸を少し締め付けた。
「あの夜。タクシーの中で、わたし告白しました」
ひかるさんはジュースを前に、一口も飲まずに話を始めた。わたしはコーヒーに砂糖を入れてかき混ぜながら、やっぱり口にせずに耳を傾けた。
「豊さんは『俺なんて、振られた男だよ。止めておきなよ』と言ったんです。その瞬間、わたし、ゆりこさんが憎くなった。わたしが欲しい男性を振る女性なんて、悲しませる女性なんて、憎いと思った。奪いたいと本気で思った」
ひかるさんは涙を浮かべながら、下を向いたきり黙ってしまった。
「わたし、振ってないわ。振られたのよ。ううん、振られるのが怖いから、逃げたの。豊を一生、わたしのものに しておくために、わたし、あなたに酷いことをしたの。ごめんなさい」
ひかるさんは、驚いたような顔を見せた。
「だって、もう離婚したんでしょう?」
「そう。紙の義務はなくなったの。でも、それだけよ」
「負け惜しみだわ」
歪んだ笑顔を浮かべて、ひかるさんはわたしを正面から睨みつけた。
「そうね」
わたしは、黙って伝票を取って席を立った。
「豊の子供、会えるのを楽しみにしているわね。お大事にね」
ひかるさんは返事をせずに、そっとお腹に両手を添えた。
店を出ると豊が待っていた。
わたしたちは数秒視線を絡ませて、さよなら、またね、と言葉を交わした。
最低な人しか出てこなくてすいません。