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付喪語  作者: 七織
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這牢の甘言・始

 それは異世界へと続くような道だった。

 どこまでも続く土で出来た一本道。左右を見渡せばどこまでも竹が生い茂り、その先には飲まれてしまいそうな闇があった。

 顔を上げればそこにも道。大きな夜空は背の高い竹に隠れ空の道を作り、小さな自分には天までも竹林に囲われたように見えた。

 天の道を目で歩めばその先には大きな月。けれど地の道を歩んだ先の出口は酷く遠く、小さく見えた。

 ここは竹が支配する闇の世界だった。世界が閉じ、どこまで行こうとも迷い込むような異界。

 出るすべは足元に伸びる一本の道。踏み外せば二度と出られない気がした。

 その先に見えるのはぼんやりと輝き山を照らす明かり。人が行き交う通りの世界。

 


 それは祭りへの道だった。

 夏休みに来た祖父の家で過ごす日々。その日々に潜んだ大きなイベントのひとつ。

 近くで行われる夏祭りへと続く道を幼い少年は妹と通っていた。

 二人共親に浴衣を着せてもらい、草履を履いて。その胸にはお小遣いを貰った小さな財布を忍ばせ。

 月が照らす竹林の一本道を兄妹は歩いていた。


 両親は少し遅れてくる。この道を抜けた先で待ち合わせの予定だった。

 だがきっと二人は待ちきれず、たどり着いた先で屋台に走っていくだろう。

 その楽しい想像を、すぐ先にまで迫った未来を描きながら歩いていた。


 ふと、少年は足音が一つ足りないことに気がついた。

 振り返った先、蒼い浴衣を着た妹が足を止めていた。

 おめかしだと祭りの為に結われた髪に刺さった簪が目印の妹は、ぼぉっと、竹林の闇の先を見ていた。

 何もせず佇み見ている妹に呆れ、少年は足を妹のもとへ戻した。

 どうしたのだと尋ねる兄に、妹は闇の先の一点を指差した。


――あれ、なに?


 指さされた先の竹林の先。その山の闇に目を凝らすと社と祠が見えた。

 ひっそり、誰に気づかれるでもなく。それはぼんやりと闇の中に浮かび上がっていた。

 今いる場所が偽物だと思うような、まるで本物の異世界の様な雰囲気がそこにはあった。

 行けば戻れぬ。そんな思いを抱かせるそれは当然少年は知りなどしなかった。

 

――よくあんなのに気づいたな

――うん、なんかね。ああ、あるなぁって。なにかある気がしたらあったの


 よく分からない事を言う妹を少年は理解できなかった。

 

――何だろうなあれ

――なんだろうね


 ずっと居ても埒があかないことは明らかだった。

 祭りへの興味が戻った少年は動かない妹の手を取り、道を再び歩き出した。

 歩きながら妹は握られた手を強く握り、兄さん、と聞いた。


――わたしがいなくなったら、さがしてくれる?


 さきほどのを見て、不安にでもなったのだろう。

 行けば戻れぬ。少年もそう感じたのだから。


――ああ、探してやるよ

――ありがとう兄さん。手、にぎってね。やくそくだよ。さがしにきてね


 兄である少年は妹の手を強く握り返した。

 そんな事など、そんな場所があったなど祭りについた二人はすぐに忘れていた。

 












 大学におけるテスト、というのは中学や高校と違い連続しては来ない。

 大凡二週間の中でマチマチに組み込まれ、その時間は教務課や教授の好みや都合で主に決められる。

 噂に聞いた話では霜月の通う大学は枠組みに関し教務課一強で教授はそれに従う形らしい。日にちを聞かれ「自分も知らないので教務課に聞いておきます」と言った教授がいたとか。

 集中していないため期間は長いが、そのお陰で対策に割ける時間も持てる。

 そしてテストが終わり次第大学生は夏休みに入る。

 早ければ七月半ば、遅ければ八月中旬から夏休みという仕様。それはひとえに学科と教授たちの都合で歪む。

 そんな絶望と希望の入り乱れた夏のひと時。

 それがテスト週間である。




 講義テストの始まる二十分前に霜月は講義室に着いた。

 軽く室内に目を通し、ひらひらと動いている手を見つけその隣に座る。


「やあ、早いね織守」

「お前もな香月。久しぶりだ」

「テストの時は流石の僕も来るさ。落とそうものなら後がないからね。よく休んでいる僕の土下座が教授に通用するはずがない」


 なら休むな、というのは言っても無意味だろう。

 そしてこんな事を言いながらのらりくらりと香月は単位を浮かせるのだ。

 共に過去問を前にしながらひぃひぃ言って勉強会をしているというのにその差だ。

 霜月としてはその頭を分けて欲しいう思いを禁じえない。


「そもそも朝一限、というのが悪いのさ。次が休みなんだから二限だっていいじゃないか」

「それでもどうせこないだろお前は。で、この間はどこ行ってたんだ。この三日間姿を一度も見なかったぞ」

「最近は懐が寂しくてね。近くを適当にさ。神社の奉納演舞を見たり能を見に行ったり」

「そういうの興味があったのか」

「勿論だとも。伝統芸能などは興味を持ってしかるべきところがあると思うよ。祭事の由来になった神話や出来事を知るのも面白い。僕の旅行はそういった面もある」

「食道楽とかそのへんじゃなかったのか」

「それも間違いじゃないけどね。寧ろ大きいかな」


 頂いたお神酒は美味しかったよ。

 そう香月は笑う。

 

「適当に神話でも読んでみると面白いよ。そこまで行かずとも大抵どこの土地でも探せば一つ二つ面白い話はある」

「ここも、ってか。興味がわいたらな。少なくとも今のオレの興味はテストにしかないぞ」

「違いないな。僕もさ」


 時計の針はあと少しでテストが始まることを示していた。

 自然と会話をやめ、空席を間に作る為に霜月は一つ横へと動く。

 教授とTAが室内に入ってくる。テスト用紙が配られる。

 お決まりの禁止事項の伝達。学生証と生徒の顔を確認する教授の歩みが一周し、教卓へと戻る。

 そして、開始を告げる時計の音が鳴った。

 








 昼もだいぶ過ぎた頃、霜月たちは学食にいた。

 既に始まっているテスト週間により学生もまちまちでいつもより席は空いていた。

 一限と、正午を過ぎての三限にあったテストを終えての遅い昼食だ。


「出来はどうだったかい」

「まあ、浮いたとは思う。過去問ともそう違わなかったしな。前半は」

「前半は正しくその通りだったね。多分だけど、あれで生徒を浮かしにかかってるよ。で、大幅に路線変更した問3問4でそこからのふるい落としだろうね。意地の悪いことだ。死ねばいいのに」

「そこまでAを与えたくないのか全く。落とせば評判は下がるだろうから、下の足切りじゃなく上の足切りってか」

「撃墜されないだけ優しい、とも言えるけどね」


 いつもと変わらないチープな味のラーメンを啜りながら互いに感想を述べる。

 今日のテストは二つで既に終わっている。

 二人はあれは解けたあれは解けないだとと言いながら教授への愚痴をこぼして行く。

 本来ならば真面目に勉強せず過去問に重きを置いた短期集中勉強をしていた二人が悪いのだが、それは無視だ。


「まあ、過ぎたことだ。明日に目を向けようじゃないか。どうせ今日のは選択推奨。落としても挽回は効くからね」

「明日は三つ。一つはどうでもいい楽だが二つは必修だからな。それに……」

「片方は名高い『撃墜王』だからね。胃が痛くなるってものさ」


 本来、教授は学生にある程度は単位を与える気持ちでテストを行う。

 単位を落とすものが多すぎると教務課から文句が来る。

 それにそもそも教授も元は学生だ。生徒たちの気持ちを重んじ、出来るだけ単位をくれようという人も少なくはない。過去問の類似問題を出す人などはこれにあたるだろう。

 だが、中にはそれとは全く逆の人間もいる。

 履修者の内三分の二が落とすと言われる必修講義。頑張ってもそれを無視する構成。教務課から文句は受けてもどこ吹く風でスタンスを変えない。

 一応言い分は聞くと再テストは行われるが、それでも浮くのは半分以下。再履多数と噂が絶えない。

 畏怖と共に付いたあだ名が『撃墜王』。

 その『撃墜王』のテストが明日あるのだ。


「浅生先生の講義が優しいって聞いたよ。レポート問題から出るし再テストを何度もしてくれるらしい」

「らしいな。救済措置がデカイって。そっち配属の友人が「神だ」ってさ。それ取るか」


 既に会話は再履で誰を取るかだ。

 無論、明日のテストを頑張る気持ちはある。

 あるが、ある意味、諦めの境地である。

 

 食べ終わった器を片付け、二人は食堂を出る。


「どうする織守。何時も通り勉強していくかい」


 テスト週間中、霜月は香月と講義が終わった後に勉強会をしている。

 こんな時でもなければしないので、こんな時だけはちゃんと勉強しているのだ。

 次の日にあるテストの対策が殆どのそれは意外に真面目で、数時間もザラだ。

 元々は互いに一人では勉強する気が起きない、という思いで始まった勉強会だ。空いている講義室が主で、最近は実験棟の休憩室をよく使っている。


「するか。家帰ってもするつもりではあるが、こっちでして行ったほうが身が入る」

「パソコンの誘惑もないからね。僕としても分からない問題を聞く相手がいて楽だよ」

「まあ、香月に分からないのを俺が分かるとも限らないけどな。寧ろオレが聞く側な気がする」


 じゃあ、ここで一旦別れだと言い香月は駐車場に向かう。

 休憩室はここから少し歩く必要がある。往復はめんどくさいと香月は足であるバイクを取りに行ったのだ。


 何を勉強しよう。

 その順番を考えながら、霜月は歩き出した。




~~青年たち勉強中~~


「おい、これどう解くんだ?」

「少し待ってくれ。これが出来たら……ああ、それは教科書の例題丸写しで解けるよ」


「織守、これを解いてみたんだが合っているかい。やたらと時間がかかって不安なんだが」

「んー、ああそれ講義でやったのだ。ノートにあるぞ。確か半ページもかからんはずだ」

「……この公式知らないぞ僕。コピーさせて貰うぞ」


「織守ィ! これ! 多分これがでるよね!!」

「例年の傾向から行って多分な! というかそれ以外出たらお陀仏だ!!」

「考える暇があれば暗記だよ暗記!! 理屈で解くんじゃなく体で覚えるんだ!!!」


「なあ、これどうしてこう……」

「考えたら負けなのさ。そういうもの、と覚えるしかないんだ」



「教科書を読むんじゃない。今更読んでも遅いんだよ織守……僕たちには過去問とレポートしかないのさ」



   ………

   ……

   …

   .






 勉強が長引き、終わったのは棟の電気が落とされ休憩室が締められる直前だった。

 既に暗くなった夜空の下、霜月は帰宅した。

 鍵を開けて中に入り、自室についてカバンを下ろす。カバンから答えの書かれた過去問を出し、適当に目を通す。


「勉強とは……珍しい光景じゃのう。うむ、全くわからん」


 背中から覗き込んできた九十九が変な声を上げる。

 

「テスト前は流石にな……この時期にしないようじゃ流石に洒落にならない」

「単位、か。ネット上じゃと大げさに扱われていたが、あながち嘘でもなさそうに見るのが怖いのう」

「昔は馬鹿にしていたけど、なってみると意外とな。一つ二つで留年しないが、逆に言うとだからこそ高校と違いダメなら普通に落とされる」


 規定の単位数さえ取れていれば進級はできる。本当に特別なものを除き、特定の一つ二つはなくても他で補える。

 再履修で来年とってもいい。半年後の再テストを受けてもいい。

 だから、というわけでもないだろうが落とされる時は容易く落ちる。


「教授に土下座廻りと聞いたが、するのかえ?」

「お前暫くネット無しな」

「ふぁ!?」


 パスワード変えておくか。

 そう決める。

 何故じゃ何故じゃと突っかかってくる九十九の頭を掴んで抑えつつ、霜月はひたすらに解法を頭に叩き込んでいく。

 

「ネットがないと暇なのじゃ」

「それしかやってないのかお前は。少しは外に……」

「出ていいのか?」


 少し、口篭る。


「……言われなくても偶に出てるだろ。儂檸はよく出てるし、一緒に出かけたらどうだ」

「あやつとか。それは少し、のう」


 少し、嫌そうに九十九が言う。


「まあ一考しておくとしよう。あやつが何をしておるのか興味もある」


 確かに、外に出た儂檸が何をしているのか詳しく知らないところがある。

 霜月自身、興味がないといえば嘘になる。


「出るなら鍵締めてこないだ渡したの持って行けよ」

「分かっておる」


 そのまま暫く過去問に、時折ノートにも目を通す。

 ある程度目を通し終わったところで霜月は手を止め、立ち上がる。

 風呂に入るためだ。

 明日もテストはある。さっさと入って残りは布団に篭もりながらすればいい。

 テスト週間はまだ半ばほど。

 それを思い、霜月は重いため息をついた。









 次の日の朝、霜月は椅子に座りぼーっとテレビを見ていた。

 今日のテストは二限から。昼を挟み跳んで四五限の連チャン必修の構成だ。その為朝は少し余裕がある。

 ニュースは世間が夏休みに入っていることを伝える。楽しみだ、と告げる高校生以下の笑顔がテストを控えた霜月には眩しい。

 何となくチャンネルを回すが地域密着の郷土話、運勢占い、天気予報とどれも見る気が起きるものはない。


 テレビを消して時間を確認し、そろそろ出るかと霜月はカバンを掴む。

 九十九たちに出ることを伝え、霜月は鍵を締めて外に出る。

 今日のことを思うと自転車をこぐ足が重くなるが、今日明日と頑張ればそれから四日間はテストがないので少し気が楽になる。

 さて頑張るとか霜月は大学に向かっていった。



 霜月が出て暫く。

 家の中に残っていた九十九はノートPCを開き変えられていたパスワードと格闘していた。

 霜月の誕生日、名前、(勝手に見た)学生コードに学籍番号と入れていくが尽くヒットは無し。

 九十九の暇つぶしにして要らぬ知識の供給源。

 その箱は九十九の手から離れていた。


 諦めて霜月の部屋の押し入れや本棚の隙間を九十九は漁っていく。

 何かあれば面白いからだ。

 本のカバーを外し辞典の箱をどかし中身を改めていると、玄関で音が聞こえた。

 下足を履いていた儂檸を見て九十九は声をかける。


「どこに行くのじゃ」

「いつも通りだ」


 酷く簡素な答え。

 取り付く島もないその態度が九十九は余り好きではない。

 だからといってこちらから好意的に接するつもりもないのだが。


 儂檸が出かけるのは確かにいつものことだ。

 何をしているのかは知らないが、本体である弓を背負い矢筒を持ち歩きで、時には自転車で出かけている。

 いつも通り、なら九十九はこのまま見送っただろう。

 だが、今日は”いつも通り”ではなかった。


「儂もお主について行くぞ」

「……何の為に?」

「そんな怪訝な顔をせずともよかろう。何をしておるのか興味があるからじゃよ」


 儂檸は余計怪訝な表情を浮かべた。

 それと同時に、迷惑そうな、知られたくなさそうな色もそこにはあった。そして九十九はそれが分かった。

 だから、九十九は余計に興味がわいた。


「そぉ坊に言われたんじゃよ。暇ならお主と一緒に外にでも出ろとな」

「それはまた、はた迷惑な」


 面倒くさそうに言う儂檸に九十九はここぞとばかりに続ける。


「小僧のいうたことじゃ、邪険にするでもない。家の主の思いを無下にするのはどうかと思うがのぉ」


 暫し逡巡するように儂檸は虚空を見つめる。

 そして小さく溜息を吐く。


「分かった、来たければ着いてこい。だが文句を聞くつもりはない」

「聞かぬなら聞くまで言うだけじゃ」

「途中でまいて迷子にさせるか悩むよ」

「そっくりそのまま返してやろう。警察に送られてきおって」

「……あれは何かの間違いだ。あんなこと、本来ならありえるはずが、絶対に何かがおかしい」


 ブツクサと文句を言う儂檸と一緒に玄関を出る。スペアの鍵できちんと鍵も閉める。

 使うのは古い自転車だ。古いが、型も大きく丈夫でまだまだ現役で走れる。

 もっぱらよく使う儂檸が必要なら整備をしていることもあり、サビなども目立っていない。


「その服で漕げるのか?」

「簡単に裾を纏めれば問題はない」


 自転車に跨った儂檸の後ろ、荷台部分に九十九は腰掛ける。

 落ちないよう腕を儂檸の腰に回す。

 儂檸が足に力をいれ、自転車が動き出す。


「あれは持ったかや」

「持っている。そっちが持つか」

「いや、あるならいいのじゃ。……それにしてもお主、腰が細いのう」


 霜月と比べ全く違う、華奢な腰だ。

 だからと言って心配になるというほどではない。確かな柔らかさと同時に、しなやかな筋肉も感じられる。


「それに胸も」

「それはお前に言われることではないな。自分の体を見ていったらどうだ」

「ふっ。これだから何も知らぬやつは」


 やれやれ、と九十九は呆れたように言う。


「確かに今の儂は貧相。だがのう、それは体が幼い故。本来の儂はもっと大人で妖艶じゃよ」

「そういうのを妄想や戯言というんだ。知っておくといい」

「既に期待が持てない輩は大変じゃのう」


 グン、と自転車のスピードが急に上がる。


「……ぬぅ!?」


 落ちぬよう、九十九は傾いた体を戻し慌てて儂檸の腰にしがみつく。

 だがそれでもガタガタと揺れる振動は絶え間なく九十九を襲う。

 荷台に横に座り元々不安定とも言える九十九を今にも落ちそうな恐怖が絶え間なく襲う。

 必死で儂檸にしがみつくより他ない。


「や、やめるのじゃ!」

「さて、何のことかな」


 どこ吹く風で儂檸は足に入れる力を緩めない。

 それから暫く。目的地についた時には九十九の腕は疲れきっていたという。




















 規定時間よりも二十分も早く、霜月は二限のテストを終え講義室から出ていた。

 元々そこまで難しくないから、と知って選んで受けた講義だ。香月に至っては更に十分も早く退室していた。

 三限は何もない。暫く時間が空いている事になる。

 さてどうしよう、食堂が混み始める前に香月と少し早い昼食でも食べようか。


 そう考えていた矢先、携帯が鳴った。

 連絡元は霜月の父親からだ。


「はい、何か御用ですか」

『おう、久しぶり。元気にしてたか』


 相も変わらずぶっきらぼうで、小さな頃から聞いていた安心できる声が聞こえてくる。

 

「特に問題はないです。しいていえば毎日暑いくらいで」

『倒れられても困る。クーラーとか使えよ』

「まあ、そこそこには」

『いま大学か? ああ、そろそろテスト期間か。ちゃんと良い成績取れよ』

「……大丈夫、単位は取るから」


 精一杯の誤魔化しだった。

 嘘ではない。単位は入学以来問題なくとっている。

 ただ、Bが多くCが並びAやAAがちょっと少ないだけだ。

 問題はない。


「ええと、その、それだけ? 何か用があったんじゃないの」


 それ以上突っつかれても困るので話題を変える。

 親もそれが分かったのだろう。それ以上その事には触れてこなかった。


『ああ、そうそう。お前に言っとくことがあったんだ』


 代わりに、爆弾がぶち込まれた。


『弥生がな、家出したわ』


 何でも無いように父親が言い放った。

 それがあまりにも普通の口調だったから、霜月は一瞬理解が遅れた。


「……は?」

『いやだから、家出。俺の若い頃は周りでもしょっちゅうあったが、今でもあるんだな』


 ウチの妹はそんな衝動を抱えた奴だったかと、理解が追いついた脳がそんなことを考える。

 家出。つまり家を出る。実にシンプルである。

 少年漫画の中ではよくある展開だが、妹はいつの間にその住人になったのだ。

 それとも親が勘違いしてるだけで、単に友人の家にでも泊まりに行ったのか。

 だが、そこまでうちの親は馬鹿ではないだろうと霜月は知っている。

 眉間を寄せたままの霜月に、父親は続ける。


『出てったのは多分、今日の朝だ。それに気づいていないなと思ったら家出する、みたいな書き置きが見つかってな。夏休み入ったばかりで浮かれでもしたんかな』

「結構な爆弾発言で驚いてるんだけど、何でそんなに冷静なの? 普通もう少し騒ぐもんだと」

『ああ、そりゃ行き先分かってるかな。紙に書いてあった』


 膨らみかけていた心配の心が、少し収まる。父親が平気そうな理由は理解できた。

 だが行き先の分かった家出を家出といっていいのか。

 霜月にはそれが分からなかった。


『ちょっとお爺ちゃんの家に家出します、部活はサボります。だってさ』

「しかもオレの家かよ!」

『部活が嫌だったのかなーって母さんと話したよ。まあそんなこともあるかなって』

「あ、納得するんだそれで」

『父さんはあれだ、高校時代に友人とツーリング行きたくて部活サボったことがある。後でバレてきつい仕置くらったよ』


 あれはきつかったなぁ。だがバイクは楽しかったぞ。

 電話口の向こうでそう笑う父親に違う意味で霜月は何も言えなくなる。父親が言うには昔使っていた原付とバイクは庭の倉庫の奥にしまってあるとか。

 理解がありすぎるのも困りものではないだろうか。というか、そんな話は初めて聞いた。


 確かに向かった先が霜月の住んでいる家ならここまで心配が薄いのも納得だ。

 一応とは言え弥生は高校生。少し電車に乗るだけで心配するような年でもない。

 だが、家出するなら両親はともかく自分には知らせて欲しかったと霜月は思う。

 前情報もなく特攻されると少しばかり困ることもあるのだ。


『時間的に多分着くのは昼頃だろう。見つけたら適当に叱っといてくれ。夏休みに入ってるし何日か置いて満足させて帰らせるか、それかこっちから迎えに行く』

「分かった。叱っとくよ」

『何か再来週部活の大会らしいし、しっかりとな。見つけたら連絡頼むぞ』


 通話を切り、霜月はさてどうしたものかと空を仰ぐ。

 完全に不意打ちの出来事だ。

 こう言っては何だが、正直めんどくさい。テストを控えた身からしたらめんどくさすぎる。

 高校生は既に夏休みでも大学生は一番大事なテストラッシュの真っ最中なのだ。めんどくさい。

 それでも一応は家出(?)でもあるのだ。気にかけないわけには行かない。

 だけど、見つけたら拳骨の一発くらいはいいよな。

 そう心の中で思う。


「時間もあるし、確認も兼ねて一旦帰るか」


 そう決め、香月に一旦帰るとメールを送る。

 駐輪場に向かいながら、霜月は一応、と家にも電話をかける。

 だが、誰も出ない。弥生の携帯にも何度かかけるがこちらは電源が入っていないようだ。

 弥生はまだ来ていないらしい。そもそも鍵を持っているのかも不明だが。

 それと九十九たちもどうやらいないようだ。

 二人共、というのは珍しいがどこかに出かけているのだろう。

 

 なので霜月は家への電話を切り、とある番号にかけ始めた











 霜月が電話を切ったほんの少しあと。

 その影は霜月の家に近づいていた。

 健康的な太ももと二の腕を覗かせた動きやすそうな服装をしたその影は家の敷地内を通り玄関前に立つ。

 軽く戸を叩いても反応がないことを悟ると背負っていたショルダーバックを漁り、出した鍵で扉を開けて中に入る。

 まるで我が家のように自由に、気楽に。

 影はタオルを出し汗で濡れた衣服を着替え、クーラーをつけた。


「あー涼し。生き返るぅうううぅうう」


 ボタンを入れた扇風機をがっしりと掴みながら叫ぶ。

 自由気ままに振舞う影の名前は織守弥生。この家に住む霜月の妹である。


 高校生である弥生はつい先日から夏休みに入っている。

 そして平日である今日は部活の予定がある。来週の土日には大会も控えている。

 だが、全ての予定を放り投げて弥生はここにいる。


「大会前だけやる気見せられても先生に従う気になれないよねー」

 

 次の大会から真面目にやろう。

 弥生はそう割り切っている。

 そもそも弥生には部活に本気で打ち込むつもりがない。運動がそこそこ得意であり楽しむつもりでやっている。

 大会で成績を残せるとか、残そうだとか、それにはあまり興味がない。自己ベストを更新する、というのは楽しくて頑張っているがそれは別にいつでも出来る。

 今回の家出。伝えてあるのは同じ部活の友人である二人だけだ。

 今頃コーチである先生は怒っているだろう。だが、その怒りはここにいる弥生には届かない。

 熱い中頑張っているだろう友人たちを思いながら、弥生は涼しい部屋でだらける。


「兄貴は大学かな。今はテスト期間だったっけ」


 携帯の電源を入れる。親からの着信対策に切っていたのだが、やはり何件か履歴がある。

 友人たちに連絡のメールを送り、さてどうするかと弥生は電話帳の画面を見ながら考える。


「何か言われそうだし、兄貴は帰ってきてからでいいか」


 既に親からの連絡が行っていそうだ。

 弥生は携帯を仕舞い、さてどうするかと考える。

 一応いくつか宿題を持ってきているがやる気になれない。そもそもそれは霜月に頼む、もとい見て貰う予定のものだ。

 そうなるとすることがなくなる。

 朝から暑い中歩いた疲れで眠ってもいいのだが、少しもったいなさも感じる。

 簡易的とは家出は弥生にとって初めて。少しテンションが上がっているのだ。


「ん~パソコンのパスワード変わったんだ。入れないや」


 エラーを吐き出す画面を見つつ呟く。霜月の入れそうな情報を打ち込むがヒットしない。霜月の性格からしてメモもないだろう。

 取り敢えず制限回数いっぱいまで打ち込んでからパソコンは閉じ、弥生は立ち上がる。

 まずは兄の部屋の家探しだ。


「特になにもないんだ。HDDに入れてるのかな。それとも分かりづらい場所なのか」


 そういった本があれば漫画よろしく机の上に置いて反応を見たいという迷惑な夢が弥生にはあった。

 適当に探し終わった弥生は家の中を歩き回る。

 小さな頃は泊まっていたが、大きくなってからはそれは無くなった。

 記憶の中にある家と見比べたいと思ったのだ。


「何で布団二つあるんだろ」


 疑問を浮かべながら見て回る。

 居間に客間、私室に縁側。

 襖を開け放ち障子を動かしガラス戸を開け、記憶の中と今とを照合していく。

 だが、何故か違和感が消えなかった。

 違和感というよりは不足感。それは見て回る度にほんの少しずつ弥生の中に溜まっていく。

 

 庭を眺めながら弥生はそれが何なのか考える。

 様相を変えた庭でないことは確かだ。そもそも季節によってこれは姿を変える。

 知らない花やその近くにある石の矢倉。草木の境を分かりやすくしている仕切り棒など、霜月が手入れしているのかと弥生は少し感嘆する。

 あれにそんな知識があったのかと。

 最も、それをしているのは全くの別人なのだが弥生の想像が及ぶところではない。


 庭の倉庫を見ていた弥生はふと背後を振り返った。

 そしてそれを見た。

 

「……ぇ?」


 一気に弥生の顔が青くなる。

 それは子供だ。

 襖で仕切られた一つ向こうの部屋。電気が付けられず戸も閉まっている薄暗いそこに子供はいた。

 背丈は十の子供ほど。

 おかっぱ頭に白い髪。来ている服も白装束の着物。

 透き通るように。否、病的に白い肌が薄暗い中で一層白く見える。


 幻かと弥生は頬をつねり目を凝らすがその子供は確かにそこにいた。

 確かにそのほんのりと赤い瞳が暗い中から弥生を見つめていた。


「――」


 子供の口が何かを告げるようにほんの少しだけ動く。

 そしてスっと、襖に隠れるように横に動いて弥生の視界から消えた。

 まるで弥生を誘うように。


「いやいやいやいやいやいやいや。ないから、それはないから」


 今見たものを必死で否定しようと弥生は自分に向け呟く。

 だが、それでも今見たその記憶は鮮明に弥生の中に残っている。

 子供に存在感はなかった。まるで触れれば消えてしまうような、残像の様な儚さ。

 だが、確かにそこにいた姿が弥生の瞳に焼きついている。

 今にもその襖の陰からまたひょっこりと顔を覗かせそうな気さえする。


「やっぱりいるんじゃ……兄貴の野郎」


 霜月への恨み言が口に出る。

 今の子供を弥生は前にも見ている。

 霜月の引越しの日。その手伝いに来ていた弥生はその時にも見ていた。

 その時はほんの一瞬で、瞬きした次の瞬間には消えていた。霜月にも否定されたので単なる見間違いだと思っていた。

 だが、今のは見間違いでは済まない。

 確かに何かいる。そんな確信が弥生の中にはできていた。


「メジャーな当たりで言えば座敷わらし、とか? 何でいるんだよぉ……」


 遊園地のお化け屋敷でさえダメな弥生にとってこの状況は辛すぎた。

 鳥肌立った腕を抑え、震えそうになる足を必死で抑える。

 家の中に一人でいる事実が急に怖くなってくる。

 つい俯く視線。背後から差し込む日差しで出来た自分の影さえ見るのも怖くなる。

 今にもそこに別のナニカの影が混じってきそうで。

 酷く遠くから聞こえる蝉の声が小刻みに弥生の心を揺らす。


 どうする。どうすればいい。

 弥生の心の中にはその言葉がぐるぐると巡り続ける。

 このまま逃げようか。外に出て霜月が帰ってくるまで待つのも手だろう。逃げ帰ってもいい。

 だがそれでは生まれたばかりのこの恐怖は拭いきれない。ふとした時に思い出しその度に恐怖が浮かぶだろう。

 これからを思うなら今すぐにでもこの震える足を止めるには確認するしかない。

 今見たものがただの夏の幻だと。

 一人でいる自分が生み出した幻覚だと。

 そんな存在などいないのだと、見て確認する。


「……ふぅ、ふぅ。っよし」


 何とか生きを整え震える足を叩いて抑える。

 もはや混乱しきっての特攻。恐怖に逆に腹が括れていた。

 足を進め、子供がいただろう襖の後ろ覗き込む。

 そこに姿は何もなかった。


「ほらね。やっぱり何かのまち…が……い……」


 襖の裏には小さな傷があった。今付いたばかりの様な、爪を立てた様な些細な傷。 


 トン

 と。


 小さな音が弥生の耳に届いた。


「……!」


 子供が歩くような軽い音。

 振り向いた先にもやはり姿は……否。青白い肌の指が視界の先の廊下の壁から顔を覗かせていた。

 弥生の視線に気づいたようにそれはすぐに引っ込んで消える。

 

 ヘタリ込まなかった自分を弥生は褒めてあげたかった。

 まるでこっちに来いとばかりの手が消えた場所を呆然と見つめる。

 そこに、何かあるのか。

 そこに、居るのか。

 後戻りの出来ない根性だけを頼りに、弥生の足が前に出る。

 既にそのナニカに魅せられていたのかもしれない。


 壁の部分にも子供はいなかった。

 ただ、扉があった。

 さきほど見回った時には気づかなかった古い、傷のついた扉があった。

 それを見て、心の中に溜まっていた違和感が消えていくのが弥生はわかった。

 不足が埋まる。

 否。

 思い出したのだ。


「懐かしいな。なんで忘れてたんだろ私」


 ずっと昔。小さな頃。

 泊まりに来た時、弥生はこの中に入ったことがあった。

 今の今まで忘れていたそれを思い出し、懐かしさに扉の表面を撫でる。

 扉はさほど力を入れずとも開いた。

 弥生は懐かしさのままに中へと入る。


 子供がいるとするならばここしかないのに。

 子供が呼んだとすればここでしかないのに。

 まるでそのことを忘れたかのように。何の疑問も持たず。

 ふらふらと、弥生はその中に入った。


 中は暗かった。天井に申し訳ついでについたような電灯はロクな光を出さない。

 ある程度の整理はされたのだろう。けれども微かに残る埃の匂いが、ここの放置された時間を告げる。

 

「確か、兄貴と一緒に入ったんだよね。色々近くの物を弄ったりして」


 かつての日を思い出すように弥生は中を見回る。

 あの日は暇でしょうがなく、探検と称して霜月とここへ来た。

 見たこともないものが珍しく、箱を開け中の物で遊んだ。

 そして、一つの箱に目をつけた。

 それは綺麗な箱で、紐で縛られていた。紙の封もしてあった。


 棚の上の奥の方に置かれ、目のつかない場所にあったそれを何故見つけたのかは覚えていない。

 椅子に乗って手に取り、封を切った。あの手この手で開けようとしても箱は開かなかった。

 躍起になって開けようとした弥生の頭にふと、その開け方が浮かんだ。

 なぜなのかはわからないけれど、そうすれば開けられるのだと分かり、手を伸ばした。


 霜月はそんな弥生の変化に気がついたのだろう。

 何かを感じたのかもしれない。

 慌てて弥生の手から箱を奪い、その衝撃で椅子を脚を踏み外した。

 偶然かその拍子に手に持った箱を開き、中にあったものを体に受けながら。


 頭から落ちた霜月は床に倒れ、動かなかった。

 幼い弥生は兄が死んでしまったのだと思った。

 泣きながら必死で体を揺すったのを覚えている。部屋に蔓延る暗い何かが兄の体を喰らっていくように思えた。

 すぐに大人たちが来て霜月を運んでいった。ただ頭を打っただけですぐに起きるとそう言われ安堵した。

 ただ祖父だけは、有り得ない何かを、あってはいけない何かを見たように愕然とした顔をしていた。


 あれは一体なんだったのだろう。

 弥生は過去を思い出して疑念を浮かべる。

 兄は何の問題もなく意識を取り戻した。危ないことをするなと親たちから叱られただけだった。

 そもそも何故このことを今の今まで忘れていたのか。

 それが一番弥生は不思議に思えた。


 ゆらゆらと揺れる天井の裸電球が朧げな影を床に照らす。

 小刻みに長さを変える弥生の影。そこに別の影が重なる。

 背後から重なるその小さな影に振り向りむくが、そこには何もいない。


 振り向いた弥生の視線はとある一点に自然と吸い込まれていた。

 何故それがそこにあると分かったのか。

 何故それがそうだと確信できたのか。

 気づけば足は動き、弥生の手の中には箱があった。

 あの日見たのと似た、けれどどこか違う箱。

 何の疑問も持たず、耳元で囁かれ誘われるように手がその封を開けていく。


 封を切り、結びを解く。

 そうするのだと知っていたように手が動く。

 箱を撓ませ板をずらし捻れの隙間から蓋を外す。

 中には一つの面が収められていた。牙を生やし憎悪を浮かべた木彫りの面だ。

 それを手に取り眺めていた弥生の肩が小さく叩かれる。

 ハッと振り向くとそこには赤い眼が有った。

 あの白い子供がすぐ横に。確かな存在を得て弥生の肩を掴んでいた。


「ありがとう、お姉ちゃん」


 浮かべた笑みとは逆の、心に腐臭が染み込むような囁く声がその口から這い出てくる。


「でもね、まだダメなの。おそとに出るのに少し、てつだってね」


 子供の手が弥生の顔を掴む。屍人のように冷たいその指が爪を立てる。

 面を持ち上げ、近づけてくる。

 

「ふたりじゃさびしいんだ。だから、いっしょにねよ?」


 段々と覆われていく視界。

 その中に残る赤い瞳が弥生を捉え、その瞳が近づく。

 それを最後に弥生の意識は途切れた。















 時間は少し遡る。

 九十九と儂檸は山の中にいた。

 欝蒼と緑生い茂る中、一本の樹に的が括りつけられていた。その周りにはネットが張られている。

 数十メートル離れたその的を狙い儂檸は弓を引く。


 足踏み。胴作り。取り掛け。打ち起こし。引分。解。離れ。残心。

 正式な流れに沿った、けれど敢えてずらしたそれで儂檸は矢を放つ。

 放たれた矢は一本たりとて的には当たらず、樹やそれ用に張られたネットに刺さる。

 だが一切気にせず儂檸は矢が尽きるまで引き続ける。


「下手くそじゃのう。それでも元が弓か貴様」


 近くで見ていた九十九がつまらなそうに言う。

 既に暫くの間この光景が続いていた。最初の方は面白そうに見ていた九十九だが文句も言いたくなったのだろう。


「……」


 そんな戯言に耳を貸さぬとばかりに儂檸は射を放つ。

 矢が尽きたところで張り詰めていた気を抜くように大きく息を吐く。


「頼んだ覚えはない。つまらないと言うなら帰って貰って結構だ」

「儂ではあの自転車は漕げぬ。それに鍵はそっちが持っておるではないか」

「歩いて帰ればいい」

「ここがどこか知らぬのだが」

「だから、歩いて帰れば良いと言っている」


 互いに皮肉をぶつけ合う。

 儂檸は刺さった矢を回収し、そしてまた放ち始める。

 ひたすらにそれの繰り返しだ。見ているだけの九十九としては何がしたいのか分からない。

 ここへは何度も来ているのだろう。来る途中の歩みに迷いはなかったし、的を置く樹には矢の刺さった跡が綺麗に円形状に残っていた。

 練習するために人気がない場所でするのは分かる。だが何度も何度も飽きないのだろうか。


 着ている着物の縫い目がいくつか数え始めた九十九の懐で小さな機械音が鳴る。

 取り出したのは携帯電話だ。着信元には霜月と記されている。

 この携帯は霜月が連絡用にと九十九たちに用意したものだ。家にいるならばいいが、外に出た際に連絡が取れるように、と1台だけ。外に出るほうが持っていくようになっている。

 ネット、メールは出来ずに電話だけで最低限のプラン。本体も型落ちの0円携帯。

 登録してある番号は家と霜月の携帯のみ。家族間通話のプランで月に掛かる金額は千円前後。親に言うわけにもいかない霜月の懐から出ている。


 ちなみに渡された理由で大きいのは「もう迷子にならないように」である。

 二人としては甚だ遺憾な理由であった。

 

「なんじゃそぉ坊。なんぞ用か」

『九十九か。今どこだ』

「どこぞの山の中じゃ」

『何だそれ。いつからお前は野生児になった』

「儂ではない。連れてきたのは猿じゃよ」

『さ……? ああ、儂檸か。喧嘩になるからその言い方やめろよ』


 それで気づく方もどうかと思ったが、九十九は言わなかった。


『一緒にいるとは珍しいが、まあ都合がいい』


 つい先日暇ならついて行けと言ったのは誰だ。

 そう思ったがやはり九十九は言わなかった。


「あやつに用なら変わったほうがよいか」

『用は二人に対してだ。昼頃に妹が押しかけてくるって連絡を貰ったから帰る時は気をつけてくれ。見つかったら困る』

「同衾した相手だと紹介して貰っても構わんぞ。新しい命を宿して貰ったとものぅ」

『変な言い方をやめろ。流石にまだ死にたくはない。儂檸にも伝えておいてくれよ。オレはこれから一旦帰る』

「了解した」


 どうやって自然に姿を現そうか考えつつ九十九は承諾する。


『妹は何日かいる可能性がある、家では極力物の姿でいてくれると助かる。もし見つかったら近所の知り合いとかサークルの知り合いだと誤魔化すから話を合わせろよ』

「正妻に浮気の言い訳をする男みたいじゃな」

『ほんとお前、普段どんなサイト見てるんだよ……やっぱり暫くの間パソコンを』


 最後まで聞く前に九十九は通話を切る。

 生憎だがパソコンがない生活を伸ばされるのはお断りなのである。


 霜月の妹が来る。

 それを思い、九十九は物思いにふける。

 妹の事は昔から知っている。ほんの二、三ヶ月前にも見ている。

 思うことは、いくつかある。だが、だからといって何かするわけではない。

 九十九の胸の内に浮かぶ複雑な念が浮かんでは消えていく。


 九十九が物思いにふけっていると小休憩に入った儂檸が近寄ってくる。暫く弓を引いていたというのに疲れた様子はない。

 

「何の用だったのだ」

「昼時に小僧の妹が来るらしい。三つ指ついて挨拶をしろとのことじゃよ」

「……妹君に姿を見せるな、といったところか。見え透いた嘘をつくな」

「ほんに面白くない奴じゃのう」


 つまらなそうに言う九十九を呆れたように儂檸は見下す。

 そんな視線を九十九は負けじと見返す。

 どこまで言っても性が合わないのだろう。暫しのにらみ合いが起こる。

 少しして嘆息した儂檸が先に視線を動かす。


「そこまで暇ならどこか行ったほうがいいか? 図書館や練武館の方がマシだろう。それとも川で魚でも捕るか」

「ほう、気づこうてくれるのか」

「露骨につまらなそうにされるのも目障りだ。小休憩のつもりだったが終わりにしてもいい」


 どうするかと九十九は高い木々を仰ぎ見ながら悩む。

 暇なのは確かだが、偉そうな気遣いを受けるのも癪に障る。

 昼過ぎには戻る予定だったのだ。長くてもあと一時間はかからないはずだ。そう大した時間ではない。


「儂が勝手に付いて来たんじゃ、気にするな。好きなだけ矢を的から外して遊ぶがいい」

「要らぬ一言多い奴だ。あいつの前のような態度で接しようとは思わないのか」

「くだらない事を言うな。あれも素じゃがこちらも本来の儂の性根に近い。名の無い、本来のな」


 何も分かっていない。

 そう九十九は吐き捨てる。


「ただ……小僧は別じゃ。あやつとお主では儂からの重みが違い過ぎる。繋がりもな。何一つ要らぬ言葉で覆わずに、ありのままに接しておるそれと比べられなどせん」


 何かを思うような力のこもった言葉がそう告げる。

 儂檸は何を言うでもなく、その言葉の意味を理解するように目を閉じて暫し逡巡する。

 一体どんな思いが込められているのか。

 それを推し量るように。


「……まあいい。私は続きをさせて貰う」

「ああ、好きにせい」


 踵を返したその背中に九十九は言う。

 視界の先、儂檸がまた弓を持って立つ。その弦に一本目の矢をつがえ始める。 

 それを見ていた九十九はふと、小さな違和感を感じとった。

 それは胸の内をざわめかせる小さな小波だ。

 何かが小さく動き回り、自分の胸に僅かな引っ掛かりを残す様な感覚。

 小さな虫が服の中を這い回り、皮膚に牙を突き立てるような錯覚。


 それは段々と大きくなっていく。

 まるで力いっぱい引かれた一本の糸が今にも張り詰め切れそうな如く。

 違和感は予感に。それも悪い予感として胸の内に雑音を生む。

 そして九十九は感じた。


 その蟲が、確かに喰らい付いたのを。


―― ギ ィ ィ ン !


 張り詰めていた糸が切れる音が、はっきりと九十九の内に響いた。

 ”それ”に牙を突き立てられ罅が入ったことがわかった。

 

 何故、どうして。

 考え、浮かんだの一つ会話。

 つい先ほどの電話がその解答を示していた。

 

 今にも出そうな叫びを歯を噛み締めてこらえ、九十九は儂檸の元へと走る。

 危険だから邪魔をするなと注意されていたのを無視し、引分に入っていたその背中に飛びつく。


「っ、お前何を――」

「先程のは無しだ!! 今すぐに戻れ!!」

 

 暴発仕掛けた矢を無理矢理に抑え怒鳴ろうとした儂檸に九十九が必死の形相で叫ぶ。

 ただ事ではないと悟ったのだろう。怒りの表情を抑え、儂檸は直ぐさま道具を仕舞う。

 九十九は儂檸の手を握り、全力で来た道を引き返していく。

 儂檸はそれに逆らわず、弓と矢筒だけの最低限の道具を持って共に走り山を降りだす。

 

「何があった」


 神妙な声で尋ねる儂檸に九十九は少し落ち着いたのか、けれど口早に言う。


「儂を連れ今すぐに家に帰れ。結界に罅が入りおった」

「結界?」

「それも家の内側からじゃ。恐らく小僧の妹が魅入られ呪われた」


 その言葉に儂檸も事態を理解し眉根が険しくなる。

 儂檸は隣を走る九十九を一瞥し、体を寄せる。そしてその体を小脇に抱える。

 暴れる九十九を抑え、獣道でさえない荒れた最速ルートを儂檸はその状態で駆け始める。


「は、離さんか!」

「こっちのほうが早い。黙っていろ、舌を噛むぞ」


 一体その体にどれだけの力があるのか、小柄とはいえ九十九を小脇に抱えているとは思えない瞬足で儂檸は山を下り、自転車を置いた場所にたどり着く。

 九十九を荷台に乗せ、直ぐさま自転車は走り出す。それも凄まじい、来た時以上の速度で。


「下りも全部飛ばす。ちゃんと掴まっていろ」

「構わん。可能な限り早く戻るのじゃ」


 荒い道にハンドルが取られ、今にも地面に放り出されすり下ろされる姿が幻視できるほどの速さ。

 カーブはブレーキなど使わず足を地面にこすらせて無理矢理に曲がり、向かう風に髪は地面と水平以上を維持したままだ。

 矢筒を背負い、左手でハンドルとともに下部を握り肩に背負う形で弓を持ちながら、儂檸はその運転とは反対に涼しい顔で自転車を駆け抜けさせる。

 それだけ頑丈な自転車を褒めるべきか、動かしている儂檸を賞賛すべきだろうか。一般車道の車の法定速度などとっくに超過していた。


「ふむ、ばいくとやらが欲しくなる」

「ほざけ!!」


 九十九は儂檸の腰に必死に捕まり、舗装された地面に出たところで懐から携帯を取り出す。

 片腕で死に物狂いで儂檸に捕まりながら、もう片腕で霜月への電話をかける。

 コール音はするが電話口の向こうの相手が出る気配はない。無機質で単調に鳴り続ける呼び出し音に九十九は歯ぎしりをする。


「くっ……早く出ぬかうつけがぁ!!」



多分あとでちょっと書き直す。

もっと文字少なくしないと。

上中下の内の上編

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