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付喪語  作者: 七織
7/10

見地の過去

 ぱん。

 小さな破裂音と手を地に付け下腹部を上げた――俗に言うクラウチングスタート――姿勢をした少女たちが駆けていく。

 拳銃を模したそれの、小さな火薬を叩きつけて出される音と共に少女は地を蹴り、己のうちでリズムを刻みながら白線で区切られた枠の中を疾走する。

 何度となく繰り返しフォームを見直し、疲れによるズレが体が刻まれる前に足を休め、そしてまた走る。

 空に雲はない。日がさんさんと地を照らし気温は温まる一方。少女も友人たちも、みなその額に汗を浮かび上がらせている。

 振り返った先に見える校舎。その隣の比較的真新しい棟。その中にいる友人たちはこんな暑い中で動き回っている自分たちをあざ笑うかのように、文明の利器を使い冷たい風を浴びていることだろう。それを何となくだが恨めしい目で見やりながら少女、織守弥生は休憩のために日陰に座り込んだ。


 夏の日差しが差し始め、気温は日毎にジリジリと右肩上がり。

 今日はまた一段と暑い。昨日雨が降った空はだからか雲一つない快晴で、中途半端に乾いて濡れた地面はじめじめとした湿気で弥生たちを苦しめる。

 上級生たちの出来に熱心な顧問は一年組の様子などそこまで目くじらを立ててみやしない。

 タオルで汗を拭いながら弥生は携帯のランプの点灯に気がつく。そそくさと顧問の目から更に少し離れる。


「弥生さん、あのお兄さんからのメールですか?」

「よくメールしてるよね。ブラコンの弥生ちゃんは愛しのお兄様からのメールで、もう、もう……ッ!!」


 話しかけてきた、同じように休憩に入った友人たちに溜息をつきながら弥生はメールを読む。

 勝手に自分の世界に入っている友人は確か、最近読んだ漫画が兄妹系だとか言っていたはずだ。それで暴走しているのだろう。

 黙っていてもいいのだが、妄想劇がどんどん進んでいっているようで流石に止めないわけにも行かない。気づけばもうひとりの方を巻き込んで抱き合っている。


「違うよ。母さんから。帰りに牛乳買ってこいってさ。というかそこ、愛しとか違うっての! 何度も言わせるな!!」

「えー。でもお兄さんのことよく話すじゃん。携帯にも写メあるし」

「家族の写真くらい入っててもおかしくないでしょ普通……」

「それこないだ私も見ました。優しそうな方でしたよね」

「二人でカラオケとか行くんでしょ。仲睦まじいでちゅね弥生ちゃ~ん。ブラコンですなぁ」

「あんただってこないだ従兄弟とカラオケ行ったって言ってたでしょ!」

「えー、何のことかわかんなーい」


 女三人集まれば喧しいとはよく言ったもの。

 話題になりさえすればネタはなんだっていい。つつけるモノは何でも突く。真偽などどうでもいいのだ。

 弥生の兄、霜月の事を弥生の友人二人は弥生から話され知っている。

 そして当然、現状のことも。


「確か今、そのお兄さん一人暮らししてるんだよね」

「うん。お爺ちゃんの家にね。ホントはお爺ちゃんと二人だったはずだったんだけど」

「まあ、其のへんはね……」


 弥生の祖父が死んだことを知っている友人はそこは口に出さない。


「夏になったらお兄さんとこ遊びに行くんでしょ。話題のお兄さんに一回会ってみたいなー」

「止めたほうがいいと思うよ」


 思わず、という風に弥生はそう言っていた。

 言ってからまずかったかなと。そう思った弥生の予感は的中。面白いネタを見つけたとばかりに友人たちは弥生を見る。

 友人が弥生の頭を撫で、生温かい目で見る。


「愛しのお兄ちゃんが取られるかもしれないのが怖いんでちゅか~弥生っちはブラコンでちゅからね~。彼女とか出来てたら泣いちゃいますか~?」

「一人暮らし、なのですよね。もしかしたら一つ屋根の下での同居など……!! そ、そんなダメです! そんな人に言えない爛れた日常なんて!!」

「あー、もう取られちゃったかー。取られちゃってたかー。さあよしよし。私たちが慰めてあげるからね弥生」

「私たちの胸に飛び込んでいいんですよ弥生さん? さあ、どうぞ!」

「ごめん、ちょっと汗臭い。それに兄貴にそんな甲斐性ないよ」


 まあ、汗は自分も同じなのだが。

 そう思いつつ、自分よりも豊かな双丘を両手を広げ強調してくる慈母の如き笑みの友人を恨めしく思いながら、弥生は友人にチョップを入れる。

 実際のところ兄である霜月の元に女性?が居て一つ屋根の下に暮らしていることを弥生は知らない。爛れてはないが仲の良い日々を送っていることも。

 最も、連絡といえば携帯でしかしていない弥生がそれを知ることは殆ど無理なのはしょがないことなのだが。

 無理矢理に抱きすくめようとしてくる友人たちを交わしながら、何といったものかと弥生は考える。

 

「そーいうんじゃなくてさ。何ていったらいいかな……あーでも、二人なら大丈夫なのかな」

「大丈夫って、何がです?」

「ウチの兄貴にあっても。二人はその、私の友達だからさ」


 どういう事だと視線で訴えかけてくる二人に、これを言ってもいいのだろうかと一瞬弥生は迷い、まあ大丈夫かと口を開く。

 どうせ黙っていても納得はしないのだ。

  

「うちの兄貴さ、たまに怖いんだ」

「怖い? 優しそうだったけど実は、ってやつ?」


 違うのだと弥生は首を横に振る。


「兄貴は優しいよ。怒るってことが苦手だって前に言ってたし。兄貴が怒鳴ったりしたとこ、全然見たことない」

「じゃーどこがなのさ」

「もしかして、これが惚気というやつですかー?」


 上手く言葉にできず弥生はうむむと眉根を寄せる。

 さてどうしたものか。弥生は頭を巡らせる。このまま放置したのではまたからかわれるネタを出しただけになってしまう。

 然れども頭にあるのは漠然としたイメージだけ。何とか伝えようとしてもちぐはぐになってしまう。

 ならばと思い、頭に浮かぶのは一つのこと。過去の記憶。

 そもそもどうして自分がそんな思いを抱いているか。その切欠を語るのが早いだろうと弥生は思い至る。

 心に今も残り続ける、小さな頃の記憶。

 初めて兄を、心の底から怖いと思った日の事。

 ――昔のことなんだけどさ。

 そう前置きして弥生は口を開いた。


「小学校の頃、虐められてた……っていうのも大袈裟だけど、男子からちょっかい出された時期があったんだ。私自身、今思えば女の子の中じゃ元気っていうか煩かったと思う。その辺もあって、よく口喧嘩して取っ組み合いになったりしてさ。筆箱から消しゴム取られたり、悪口言われたり。叩かれたこともあったかな。やり返したけど」

「漫画とかでありがちだねそのへん。実際にもあるんだねー」


 確かにありがちだが受ける方としてはたまったもんじゃない。

 弥生はいつも一人で、向こうは多数だった。男子が直接女子を多数で苛める、というのはプライドもあってか無かったが、それでも野次を飛ばされたり悪口は何度となくあった。

 幼い時分の弥生にとって最初は跳ね除けていたが、いつまでも耐えられるものではない。


「こっちは一人だから、段々と怖くなっていってさ。親には言えなくて兄貴に相談したりしてた。

 ……それで男子と殴る蹴るの喧嘩した日の学校からの帰り道に、主犯格の男子と偶然会ってさ。向こうは数人でこっちは一人。怖かった。そんなこっちの様子が分かったのか近寄ってきてニヤニヤしながら罵倒されたんだ。凄く怖くて、でも道を塞ぐようにいて逃げられなくて泣きそうになってさ。そこに運良く兄貴が来てくれたんだ」


 なるほど、とばかりに友人たちは頬を緩ませる。そんな友人たちを見て弥生は曖昧な笑みを浮かべる。

 友人たちの頭の中では兄が妹を助ける感動的場面が再生されているのだろう。

 それは正しく、

 そして歪に違う。


「……『止めろ』って言ってくれたよ。『直ぐにやめろ』って。事情を知ってたからさ。助けが来たんだって、嬉しかった。でも咎められた事が癪に障ったみたいで、主犯格の子が顔真っ赤にして手を振り上げた。あ、叩かれるんだなって。逃げようにも足がすくんだ。その手が振り下ろされる前に、兄さんがその手を掴んでくれた」

「おーやりますなお兄さん。救世主じゃないですかうっへっへ」


 あの日のことを弥生は今も鮮明に覚えている。

 その日も学校で喧嘩をしたばかりで、主犯格の男子の頬には弥生の爪が付けた跡が赤く残っていた。それが尾を引いて事が起きたのだ。

 囲まれて悪口を言われ、今にも泣きそうになって、それを隠そうと必死でこらえた。助けを求めようにも誰も来ない。声を出せば泣いてしまいそうだったから。

 四方から届く声が世界の全てで、まるで世界から嫌われているようにさえ錯覚してしまえた。

 夏の蒼い空の下、どこまでも見透かせる様な空だったのに、そんなとても広い世界の中で独りなのだと。

 ジリジリと照らす日が、遠くで鳴く蝉の声が、陽炎を立ち上らせる熱気が、絶えず自分を追い立てるようで。

 だから、兄の、霜月の姿が見えた時、本当に安堵したのだ。


 男子たちも本当は悪いことだと自覚していたのだろう。だから、咎められたのが、それを指摘されたのが酷く恥ずかしかったのだ。

 兄は一人だった。対し、男子達は複数だった。年上であろうと数の利が気を大きくさせたのだろう。

 男子たちは霜月を批判をした。

 これみよがしに弥生を罵倒した。

 主犯格の男子は弥生の髪を掴み、苛立ちを紛らわせるように手を振り上げた。

 それは真っ直ぐに自分にむいていて、叩かれるんだとわかった。

 学校で取っ組み合いをした時にも貰ったはずなのに、それは酷く怖くて足がすくんで弥生は動けなかった。

 自分を叩こうとするその手から視線が離せなかった。

 その手を、後ろから霜月が掴んで、


「そして――へし折った」


 殴る蹴るなら予想していたのだろう。友人たちは何を言われたのか理解ができず、一瞬遅れ絶句したのが伝わってくる。

 あの日のことを弥生は全部覚えている。

 なのに弥生は、あの時の霜月がどんな顔をしていたのか。それを、覚えていない。

 確かに目の前で見たはずなのに思い出せない。

 あの日見たことを思い出すように、弥生は自分の右手の後ろから左手を重ね覆う。そしてそのまま後ろへ曲げる真似を。


「こう、指を逆にへし折って、離さないまま体重をかけて地面に引き倒して。背中に左足を乗せて抑えて、右手で掴んでピンと張った腕を蹴り抜いたんだ。骨が折れる音、あの時初めて聞いたな。痛みで泣き叫ぶその子の顔を踵を落として『他に誰が虐めた』ってさ」

「えっと、その、なんといいますか……大変その、過激な方なんですね」


 引きつった顔で友人たちがそう評す。

 過激、何て括りで括れるものではなかった。

 それは正しく暴力で、叩かれるなんてものよりも歴とした恐怖だった。

 数の利に気を大きくしていた男子たちは腕が折られる瞬間動けず、上がった悲鳴に竦み何も出来ていなかった。

 迷うことなくぶつけられる暴力に、心が負けていた。

 ”次”を見つける言葉に悲鳴を上げながら逃げていく彼らを、霜月は追わなかった。道に座り込んでいた弥生を置いていくわけがなかった。


 大丈夫かと伸ばされた手を、けれど弥生は怖くて、すぐには掴めなかった。

 少し前からずっと、どこかで感じていた違和感が形になったから。

 夏の熱気に揺れる陽炎を背負った兄が、別のナニカに見えたから。

 まるで心をどす黒いナニカに侵されて、兄が変わってしまったのだと。

 自分を助けてくれたのは分かっていた。自分を心配してくれるのは、分かっていた。

 けれど自分を助けるために振るわれた暴力が、その時の弥生には何よりも怖かったのだ。


 一日ずれて無くてよかったとも思った。もし雨がその日だったなら、兄のその手には傘があったはず。どんなことになっていたのかなんて想像したくもない。

 熱されたアスファルトに顔を強く押し付けられ、血を流しながら泣き叫ぶ、腕がありえない方に曲がった男子。

 あの瞬間、確かに弥生はそちら側の存在だった。


「問題になったよ。親が呼ばれて話し合いがあった。何故か私はその場に呼ばれなかったけど」


 どんな話し合いが有ったのか弥生は知らない。

 けれど、兄は数日学校を休んだだけで特にお咎めもなかった。

 だが、今なら予想はつく。元は弥生への虐めが原因。事を大きくすればそれが問題になるとでも学校側は思ったのだろう。隠蔽体質といえば聞こえは悪いが、それが良い方に作用した。

 向こうの親もごねただろうが子の虐めの事実を広めたくはなかったのだろう。それ以後、ぷっつりと弥生への突っかかりは無くなった。

 いや、無くなったというより、距離を取られたのだろう。寧ろ近寄ったら泣かれた。

 弥生自身、元々の発端は自分から喧嘩を売ったところもあり負い目もあった。互いに近寄ろうとはしなかった。

 事を知る一部の男子達が弥生に向けた恐怖の目。二度と霜月に会いたくなかったはずだ。

 それからは特に何もなく、弥生は今まで生活してきた。


「身内っていうか、線引きの内側の人には優しいんだよね。外側の人が内側の人に危害を加えると兄貴は加減が無くなる。よっぽどのことがないと平気だけど」

「その可能性を無くしたいわけか。お兄さん昔からそうなの?」

「ん~……もっと小さい頃は全然違ったはず、なんだけどね。そんな事、絶対にしなかった気がする」

「何かあったん?」


 何もなかったはずだ。

 だが、いつ頃から違和感を感じていたかを思い返せば大凡の切り替わった時期は推測できる。


「お爺ちゃんの家に泊まりに行った後から変わった気がするんだよね。でも、何かあったっけ?」

「いや、私らに聞かれても知らんし。でも、聞いてみてより一層会ってみたくなった」

「別にいいけど変なことしないでよ。この歳で友達の葬式に出たくないから」

「怖がらすのやめーや」

「優しい方なのですよね? 大丈夫ですよ」


 そろそろ戻るか、と三人は立ち上がる。


「あ、そうだ弥生。前言ってたあれ、やるの?」

「気分次第かな」


 ふーんと納得する友人に続いて小走りし、顧問の怒鳴り声を聴きながら再び走り出す。

 走りながら弥生はかつての祖父の家でのことを思い返す。

 特別なことは何もなかったはずなのだ。

 毎年のように遊び、親たちの退屈な話に飽き飽きとしていただけ。


『ねえ兄さん。このお部屋の中、お皿や箱がたくさんあるよ。見てみようよ!』


 自分の発案であの家の中を探検しただけのはずなのだから。




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