第一章 デュンサアルへの旅 (二)
(二)
とりとめのない夢を見ながらも、自分の名前が呼ばれているのを意識したミスティンキルは、浅い眠りからゆっくりと覚醒していった。
もそりと上半身を起こし、二、三度首を振る。両腕を突き上げ大きく伸びをしてから、彼は目を開けた。うっすらともやに覆われているとはいえ、あたりはずいぶんと明るくなっていた。日が昇って既に一刻は過ぎているのだろう。
しかしなぜ天幕の中ではなく、草むらに寝そべっていたのだろうか? ゆったりとした白い旅装束にくるまるように寝ていたようだが、暖をとるにはいささか役不足であったようだ。ミスティンキルはくしゃみをひとつ豪快に放った。
ぱさり、と肩に着物が落とされる感覚。それは雪豹の毛皮だった。
「よう、赤目の旦那。風邪ひくなよ。そいつを羽織っときな」
ミスティンキルを起こし、毛皮を彼にかけたのは、あごひげを蓄えた中背の旅商だった。男はミスティンキルが寝転がっていた場所にどっかりと腰を落とす。
「お勤めご苦労さん。もう朝だぜ」
それを聞いたミスティンキルは、ようやく自分の失態に気付いた。ぼさぼさになっていた黒い髪を手で整えながら、旅商の顔色を窺う。
「……すまねえ、ワジェット。思わず寝ちまったようだ」
暖かい毛皮を羽織り、ミスティンキルは素直に謝った。故意ではないとはいえ、職務を途中で放棄してしまったのだから。
ミスティンキルの目指す場所は、旅商達と同じ。ドゥローム達の聖地デュンサアルである。単身で荒野を越すのは危険だという相棒の忠告もあり、旅商達と行動を共にしているのだ。元来動き回るのが好きな彼は、食客に甘んじることなく、よく働いた。そして昨日の夜半過ぎから朝の刻に至るまでの間、旅商達を護る任に就いたのだが――突如襲いかかった睡魔には敵わなかった。
ワジェットという名の旅商は、気にするなと言って、からからと笑った。
「ザルノエムの荒野越えはきついからな。ナダステルから旦那たちが旅をはじめてから三週間だ。おおかた旦那も疲れがたまってたんだろ。俺らだってこのエマクの丘あたりに着くとホッとしてよ。番をしながらたまに寝ちまったりするもんだ。……春も早いこの時期は、まだ盗賊どもや土着の悪鬼どももめったに姿を現さんし、まあ気になさんな」
「すまねえ。これから気をつける。――ところでワジェット」
「ん?」
「赤目ってのはともかく、旦那って呼び方だけはなんとかならねえかな? おれなんぞよりあんたのほうが人生経験ってやつを積んでるだろう? まあ、からかってんだったら話は別だけどな」
背高の偉丈夫とも言えるミスティンキルの背丈は、四ラクを越すであろうか。ワジェットより頭半分ほど高い。体格も漁師のせがれらしく、浅黒い肌の腕や足はすらりとしていながらも鍛えられた強靱な筋肉がついている。彼の種族――ドゥローム――特有の切れ長の目と、縦に細い虹彩は、野生の猫や豹すらをも想起させる。
そして――何かしらの畏怖を感じさせる、澄み渡った真紅の瞳。ミスティンキルには得体の知れない力が備わっているというのは、親族からも幼少期から言われ続けてきたこと。
しかしながら同時に彼は、ようやく少年時代の域を脱したあたりの若者でしかない。また、ちやほやとおべっかを使われるほどにミスティンキルは身分が高いわけでもない。
「旦那って呼び方でいいんじゃねえかと思ってるんだけどよ。あんたが見た目若いからって、からかってるわけじゃねえ。銀髪の嬢ちゃんから昨日はじめて聞いたんだが、あんたは今年で五十歳だっていうじゃねえか」
ミスティンキルは頷いた。
「けれどおれは、まだ成人したばかりだ」
「知ってる。旦那が成人する記念にこうして旅をしてるって事もな。けど……俺の村では、年上の人間は敬うものだって教えられてきた」
ワジェットは続けて言う。
「俺はこう見えてもまだ三十二になったばかりだ。赤目の旦那、あんたよりずっと年下なんだぜ?」
五十という歳はドゥロームにとっては一つの節目である。それは成人すること。
ミスティンキルが故郷の島を離れてはや九ヶ月、はるばる龍人の聖地にまで旅をしてきたのも成人になるという名目があったからだ、実際にはこの旅は自分の意志にそぐわないものであり、成人というのは旅の表向きの言い訳でしかないのだが。
「そんなこと言ったら、あんたたち旅商が“銀髪の嬢ちゃん”と言ってるウィムだけど。……あいつは五十五だぜ?」
「何い?! 俺のお袋と、そう歳が変わらないってのかよ?! あの娘が?」
予想していた通りの反応だったために、思わずミスティンキルは、にやりと笑った。
「おれたちドゥロームも、あいつの種族も寿命はさして変わらないって聞いてるからな。実のところはウィムだって、成人して間もないらしいけどな」
ミスティンキルにそう言われても、歳の離れた妹のように捉えていたはずの人間が、じつは自分よりも年上だった事実はワジェットにとってやはり衝撃が大きかったようである。
「俺は長いことドゥローム相手にも商売をやってるから、あんたが実際は俺より年上かもしれないってのは想像がついたけど……アイバーフィンにお目にかかったのは今回がはじめてだったんだよなあ……そうかぁ、五十五かあ」
「……まあいいや。おれたちの呼び方自体は、あんたたちが今まで呼んでたとおりで構わねえよ。ウィムもおれと同じ意見だろうし。けど、あんましあいつの前で歳を話題にしないほうがいいけどな」
先ほどと立場が逆転し、やや気落ちして肩を落とすワジェットを今度はミスティンキルが慰めることとなった。
「そういやさ、あんたがおれんところに来たってのは何でなんだ?」
言われて、ワジェットは本来の目的を思い出した。
「ああそうだ! 朝飯が出来たってんでこっちまで知らせに来てやったら、旦那がぐうすかと心地よさそうに寝てたんだったよな。仕事ほっぽってよ!」
ワジェットの言葉は明らかな軽口。ミスティンキルは笑いながらも肩をすくめてみせた。
「ああ、悪かったって。ウィムは何してるんだ?」
この場所から少し離れたところにある旅商達の天幕からは、朝げの煙が立ち上っている。しかしミスティンキルの旅の相棒であり心を許せる恋人――銀髪の娘、ウィムリーフはどうやら今朝の炊事に携わっていないようだ。
「嬢ちゃんは……ほら、空飛んでるよ。久しぶりに緑の草原が見れて嬉しいんだろうな。髪を染めちまったことの気晴らしってのもあるんだろうけどな。……まあもうじき降りてくるだろうさ」
ワジェットが指さした方向――すぐ真上の空にはウィムリーフがいた。まるで鳶が滑空をする時のように、両の手を広げてゆっくりと漂っている。彼女の背中からは時折、かすかに光が放たれる。その様は彼女の均整のとれたすらりとした体に相まって、まるで翼をまとった天の使いであるかのよう。眼下に広がる丘陵地と、南に連なる山々。その光景とはさぞかし心地のいいものなのだろう。
「さあ、飯を食いに行こうぜ。腹ごなしが終わったら出発だ! 三週間が過ぎちまったけど、もうあと一週間の辛抱だ。そしたら旦那たちの目的地、デュンサアル山に着くからな!」
ワジェットはそそくさと旅商の天幕へと向かう。ミスティンキルもまた、天を舞う娘に声をかけたあと、護衛用の槍を片手にして朝食の場へ向かっていった。
◆◆◆◆
アリューザ・ガルドに住む人間は大きく四つの種族に分けられる。短命なバイラル族が国家を興し、アリューザ・ガルド全土に渡って勢力を誇る中、他の三種族は慎ましやかに暮らしていた。
ドゥローム族もまたしかり。
アリューザ・ガルドにおいて彼らは炎の加護を受ける人間である。彼らは長命種であり、短命なバイラル族が三世代を終える頃に、ようやくドゥロームの一世代が“幽想の界”へ向かう眠りにつく。
“炎の界”への試練に赴き、“炎の司”として認められたドゥロームは龍の翼をその背に得る。この翼は物質的な存在ではないため、アリューザ・ガルドでは目にすることが出来ない。
なにより、彼らの特徴として特記すべきは龍化。おのが持つ力を龍王イリリエンに認められれば、その身体を龍と化すことが出来るのだ。ただし、今までの歴史の中でも、龍となれたドゥロームはごく少数に限られているというが。
故郷から体よく追い払われたミスティンキルが目指しているのは、ドゥロームの聖地デュンサアル山である。炎の界との繋がりが最も密接とされているこの地から“炎の界”へと赴き、“炎の司”の資格を手に入れること。これこそがミスティンキルが望むことであった。自分を追いやった親族に対する、彼なりの復讐でもある。
◆◆◆◆
ミスティンキルはもともと、アリューザ・ガルド南部、ラディキア群島のとある小島の出身である。彼の父は、その海域をなわばりとする漁師の長であり、ミスティンキルは次男として生まれた。
“ミスティンキル”とは古い言葉で「まったき赤」の意であるという。持って生まれた真紅の瞳から付けられた名だ。
瞳に宿す赤は美しく、深い。その瞳がすべてを見通すかのように澄み渡っているようにすら見受けられたので、得体の知れない力を秘めているのではないかと両親は期待し、また畏れた。
体格に恵まれたミスティンキルは父親の漁の仕事もよく手伝い、時として父親以上の釣果をあげることすらあったし、近所の島に住むバイラルの若者達とも親しく、彼らからよく大陸の華やかさを聞かされていた。
だが、少年期も過ぎ去ろうとしていた頃に持ち上がったのが跡継ぎの問題である。ミスティンキルの兄は、ミスティンキル以上に両親の寵愛を受けていたが、こと漁の腕前に関してはミスティンキルのほうが一枚上手であった。
バイラルの漁師仲間はミスティンキルをぜひ跡継ぎにと両親に推したが、ミスティンキルの親族とさらには両親までもがこぞって異を唱えた。あくまで後を継ぐのは長子である、と彼らは主張したのだ。
ドゥロームの言い分はいちおう筋が通るものであり、ミスティンキルを推す漁師達も渋々納得したため、次期首領には兄がおさまることになった。しかしなによりドゥローム達はミスティンキルに内在する底知れぬ力を恐れたのだ。
ミスティンキルは波止場で商売をするまじない師のように、魔法らしきものが使えていたのだ。それも、呪文の詠唱すらせずに。
大きすぎる力は時として災いを呼び寄せるという。
事実、歴史上においても力に魅せられたゆえに災禍を招いた例というのは数知れない。
大いなる力を秘めた若者は、その力ゆえに徐々に疎んじられるようになっていった。成人も間近に迫った頃、ミスティンキルはついに、生まれ育った島をあとにすることを決意する。後継者候補であった自分がいなくなれば漁師同士の密やかな確執も無くなるだろう。何より親族が自分に対して向ける羨望や畏れ、特殊な者として仲間はずれにしようというような冷酷な雰囲気が堪えた。
別れの晩餐はひっそりと、数人のドゥロームの友人とバイラルの漁師仲間によって催され、明くる朝ミスティンキルは西方大陸へと向かう船に乗り込んだのだった。両親から餞別として贈られたのはなんの皮肉だったろうか。ミスティンキルの瞳の色――赤く染まったそれは、ラディキア特産の赤水晶であった。これを売ればどこでも土地を得て暮らしていくには十分すぎるほどの額を得るだろう。しかし、波止場には親族はもちろんのこと、兄も両親もついに姿を見せなかった。
(あんたたちが疎んじた力とやらを、おれは自分自身のものとしてやる! 龍にだってなってやるさ! そうして龍と化したおれの姿を見せつけてやるんだ!)
船上、徐々に霞んでいく故郷の島を見ながらミスティンキルはそう決意したのだった。
彼が目指すは、ドゥロームの聖地デュンサアル山。
たとえ龍にはなれずとも“炎の司”の称号を得れば、ドゥロームとして高い地位を確立することになる。冷ややかな態度をとり続けた親族も、今度は一転してへつらうようになるだろう。それは大した見物に違いない。ミスティンキルはもはや故郷に戻る気をとうに無くしていたものの、彼らの豹変した滑稽きわまりない姿だけは見てみたかったのだ。
故郷ラディキア群島からエヴェルク大陸へ。さらに海を越してユードフェンリル大陸に至り――旅をはじめてから九ヶ月を経た今、ミスティンキルの目的地は間近に迫っているのだ。