第三章 朱色のヒュールリット (三)
(三)
ミスティンキル達がヒュールリットに追いつく頃、太陽が東の水平線から顔を見せた。みるみるうちに世界が色づいていく。空と海が紅く染まる。ウィムリーフは光と色彩による眩さのあまり、腕で視界を遮った。
が、それもすぐのこと。光に目が慣れたウィムリーフは周囲をぐるりと見渡した。雲は確かに多いが厚くはなく、いずれ細かく切れて失せるだろう。空気は爽やかで心地よい。雨に降られる心配はなさそうだ。
蒼龍の背びれに寄りかかり、ウィムリーフは達成感という名の心地よい疲労感に浸っていた。高揚した気持ちを内包して。
彼女とは背びれを挟んで座しているミスティンキルが水筒をよこした。ウィムリーフはそれを手にとって軽く口に含み、彼に返した。
「ヒュールリットに挨拶しに行ってくるわ。訊きたいことがあるし……ミストも来る?」
彼女の誘いにミスティンキルは答えなかった。
「……いい。行ってこいよ」
それだけ彼は呟くと、アザスタンの背びれにしがみついた。
「ふうん……飛ぶのが怖い? “炎の司”」
わざと意地悪な表情をしてウィムリーフは言った。ミスティンキルにとっては図星だったようだ。舌打ちをしてウィムリーフの視線から目を背ける。
「悪いかよ、“風の司”」
「悪くはないけどね。飛ぶのには慣れておいたほうがいいわよ。せっかくもらった翼なんだし」
「……いいから。構ってねえで行ってこいよ」
ぶっきらぼうにミスティンキルは言葉を返した。
「つれないわねえ。……じゃあ荷物が落ちないように見ていてね。お願い」
ほほえみ、ミスティンキルに言い残すと、ウィムリーフは見えない翼を広げ、ふわりと空へ舞い上がった。アザスタンに軽く手を振って挨拶する。それからまっすぐ、前方のヒュールリットまで飛び、彼の頭と並ぶようにして滑空する。
「お待たせ、ヒュールリット」
彼女の挨拶に、ヒュールリットは前方を見たまま、小さくうなずいた。
「ねえ、ヒュールリット、あなたにふたつほど訊きたい事があるんですけど」
ウィムリーフの問いにヒュールリットは琥珀の瞳を向けた。問いかけに応じてくれるようだと分かったウィムリーフは言葉を続けた。
「じゃあ、まずひとつめ。ラミシスに行ったという人間を知っていますか? カストルウェンとレオウドゥールという、のちに二国の国王となった二人のバイラルを。……二百年ほど昔。彼らは龍に乗ってラミシスの地に降り立ち、オーヴ・ディンデの王城を囲む四つの塔に入り込み、それらに巣くっていた竜達を退治して財宝を持ち帰った……と、本や歌にはありますが」
【お前は彼らのようになりたいのか? 財宝目当ての人間か? 先ほどの言葉は嘘か?】
ヒュールリットの言葉はウィムリーフの頭に直接響いてくる。“炎の界”でアザスタンが使ったように、龍は人の意識下に直接言葉を送ることができるのだ。
「それは違います! ヒュールリット! 私たちは純粋に、秘境をこの目で見てみたいのです!」
ウィムリーフは慌てて強く否定した。
ヒュールリットは鼻から煙を出した。どうやら笑ったようだ。
【ならば答えよう、“風の司”。――その二者が龍に乗っていた事。愚図なゾアヴァンゲルどもから宝を得た事。それらが事実かは知らぬ】
「うそ?!」
ウィムリーフは驚いたが、すぐにこれが失言であると察し、手で自分の口をふさいだ。
「……てっきり、あなたがカストルウェン達を導いたのかと思いました。魔導師シング・ディールの時のように」
朱色の龍は語りはじめた。
【当時――そう、私は深く眠っておった。ゆえに彼ら二者と直接会ったことはない……だが私と二者は関わり合いがある。私が眠りから覚めたのは、まさに二者によること。ラミシスの島に起因することだった。カストルウェンらはラミシスから帰還した後、あの島での体験談をファルダインに語ったのだ】
「世界樹に住む、エシアルルの王にしてディトゥア神族のファルダイン、ですね」
【うむ】
ヒュールリットは言葉を続ける。
【件の二者は、たしかにラミシスの地を踏破していた。だが、あの忌まわしいオーヴ・ディンデまでは行かなかった。いや、辿り着けなかった。結界によってな。
【結界――そう、問題はここからだ。『王城の周囲に結界が張られていて、城を見ることさえできなかった』とカストルウェンらはファルダインに語った。だが魔導王国ラミシスはお前も知るとおり、我が友ディールの時代に確かに討ち滅ぼし、以来まったく沈黙していたはず。なのになぜ結界が――魔法の産物が――存在しているのか。
【のちになってエシアルル王は不安を覚え、我らが龍王イリリエン様に申し立てた。『私を龍と共に結界の場所まで行かせてほしい』とな。その龍は、すぐに決められた。……かつてのラミシスを知り得る龍。すなわちこの私だ。……こうして私は龍王様の命により目覚めた。
【私とエシアルル王は世界樹からまっすぐラミシスへと向かった。魔導王国滅亡から七百年の時を経て、ラミシスの地はもとあった自然の姿へとほとんど還っていた。だが王国中枢部にそびえる建造物は堅牢で、当時と依然変わる様子もなく暗澹たる姿を留めていた。そして王城であるオーヴ・ディンデへと向かおうとした矢先――弾かれたのだ】
「結界……ですか」
【しかり。しかもそれは、かつて我らの軍勢によるラミシス突入を阻むために、邪な魔導師どもが作った障壁とは比べものにならないほど強力なものだった。私をもってすら打ち破ることはできなかった。おそらくファルダインが全力を投じたのならば、どうにかなったかもしれない……されど神族が、得体の知れないものに対して超常の力を行使することは禁じられている。世界の秩序を乱すどころか崩壊を招く恐れすらあるからな(かつてそれは起こったのだしな)。
【我らは結界を破れぬまま、ラミシスを後にした。これこそ敗走に他ならぬ――私はあの時の屈辱を忘れはしない。だが、こうも願った。(いつの日か、いと強きものにより結界が破られる日が来るように)と。ラミシスに遺された唯一の謎。魔導師どもが身を削って編み出した結界の向こうには何があるのか。いつか解かれなければならないのだ。――人間によって】
ヒュールリットは琥珀の瞳をウィムリーフに向けた。
【以来二百年、私はこの空に留まり続けた。警告を発し、人間の渡航を阻むために。そう……阻み続けたのだ。だが今まさに、私の願いは成就されようとしているのだろう――お前達、力を持つ二者によってな】
ウィムリーフは龍の目を見つめた。もうヒュールリットの言葉に囚われることはない。彼は自分達を認めてくれたのだから。一瞬、龍が笑ったようにウィムリーフには見えた。
【ウィムリーフよ。力を持つ人の子よ。私とラミシスの、数百年に及ぶ因縁に終止符を打ってほしい。これは私自身の願いだ。そして、おのが持つ力を正しき方向に使うように、とも】
ウィムリーフは片手を胸に当てて深く頭を垂れた。
「間違いなく、ご期待に添えるようがんばります」
【して、もう一つの問いとはなんだ】
「ああ! もう分かってしまいました。『どうしてラミシスを守るようになったのか』……これが二つ目の質問でしたから」
ウィムリーフは笑みを浮かべた。
◆◆◆◆
「……聞いてたぜ」
ウィムリーフが戻るやいなや、ミスティンキルが言った。
「え……なんで? よく聞こえてたわね」
「ヒュールリットの言葉がな、おれの頭の中にもろに伝わってくるんだ」
ミスティンキルは指で自分の頭を突いた。
「なら、だいたいのことは分かったってわけね」
ミスティンキルは頷いた。
「龍のくせにおしゃべりだな、あいつは」
「……きっと、誰かに話を聞いて欲しかったのよ。龍が孤独を好むといっても、そういう気分だってあるんじゃないかしら?」
「龍に乗って旅立ったおれ達は、行く手を阻んだ龍を説き伏せて、さらに龍の願いを聞いた……か。これだけでも吟遊詩人の詠う勲になっちまうな!」
「まだまだよ。そこから先の展開で悲劇になるのは、歌によくあることでしょう? 万事、めでたしめでたしで終わらなくちゃ駄目なのよ」
「違いねえ」
そして二人は笑った。
「ミスト!」
ウィムリーフは右の掌を掲げ、ミスティンキルのほうに突き出した。ミスティンキルは意図を汲み、右手を挙げる。そして――
ぱん!
乾いたいい音で互いの掌が叩かれる。
意気が揚がった冒険家のたまご達は、また笑いあうのだった。
◆◆◆◆
昼頃。二人が簡素な食事をとっている時にアザスタンが声をかけてきた。
【見えてきたぞ。あの島ではないのか?】
「ラミシスのこと? ついに見えたの?!」
ウィムリーフは前方を見たが、あいにくと龍の躯に景色が隠れてしまっている。そこで彼女は飛び立った。
「うん、間違いないわ! ほら、あれよ! ミスト、あれがラミシスの島よ!」
ミスティンキルの真上、ウィムリーフは興奮した様子で彼に声をかけた。
ミスティンキルにしてみれば、飛び上がれと催促されているように感じられた。さっきのように、またしてもからかわれるのは癪だ。
(行くか!)
彼は荷物が動かないようにと蒼龍の背びれにくくりつけた。目を閉じて大きくひと呼吸をする。やおら見えない翼を広げ、空へ舞い上がった。強風をもろに受けて失速するものの、すぐに彼は風に乗ることができた。それから前へと進み、ウィムリーフと並んで飛ぶ。
「ほら、できた。できるじゃないの、“炎の司”」
ウィムリーフが自分の事のように喜びはしゃぐものだから、朴訥なミスティンキルは照れを隠すようにと、ただ顔を背けるのだった。
一面に広がる大海原。眼下には大小さまざまな形をした岩場がある。そこで翼を休めているのは鳥――いや、小型の龍達だ。どうやらこの領域は龍の生息地となっているようだった。彼らは首をあげて、上空を舞うミスティンキル達にちらりと目をくれたが、特に関心を持たない様子だった。
そして前方には、いよいよ陸地が見えてきている。小さいが間違いなくラミシスの島だ。あの島の南東部にこそ、結界に守られた城――未だ見ぬ謎めいたオーヴ・ディンデがあるのだ。
「この辺りが“ヒュールリットの攻防戦場”と呼ばれている戦場だわ」
ウィムリーフが周囲をぐるりと眺めて言った。そしてまっすぐ先を指さす。島の突端に、ひとつの巨大な建造物がそびえ立っているのが見える。あれこそが“壁の塔”すなわちギュルノーヴ・ギゼの塔だ。
魔導王国ラミシスの名が歴史書に登場するのは八百年以上の昔のこと、魔法都市ヘイルワッドを核として、魔法についての研究がますます盛んになっていく時代のことである。
ラミシス王国の行っている研究や生贄を用いた儀式の、きわめて邪なることを知った当時のアズニール王朝は、魔導師シング・ディールを筆頭とした軍隊を進軍させたのだ。彼らはここスフフォイル海を軍船で渡りきろうとしたが、魔導王国の脅威をその身をもって思い知ることになった。
“壁の塔”には忌まわしい魔導師達が集結していた。彼らはおのが魔力を増幅して、目に見えない結界をこの辺り一帯に放射したのだ。その結界は鋼の壁のように頑強なだけではなく、触れる者に酸鼻きわまる死をもたらす、強力かつおぞましい呪詛をも内包していたのだ。当時、魔法を知る者はそう多くはない。兵卒もまたしかり。ゆえに、アズニール王朝の軍勢は結界に阻まれて大敗を喫した。
アズニール王朝軍は次の策として、眠れる龍達の加勢を得ることとした。ディールは長き時を経て覚醒していた朱色のヒュールリットに交渉を持ちかけ、朱色の龍は人間の申し立てに賛同した。ヒュールリットは眠れる龍達を起こすと、人間達をその背に乗せて空からラミシスを目指した。かの魔法の結界は、龍達にとってさしたる効果をもたらすものではなかった。それほどまでに龍の持つ魔力は強大なのだ。龍達は一斉に頭から結界にぶつかり、針で玉を割るように障壁を打ち崩した。
それから龍達と戦士達、“壁の塔”からなおも幾多の強大な魔法を放つ魔導師達との戦いが繰り広げられた。三日三晩、昼夜を分かたず続いた攻防の末、アズニール軍は“壁の塔”周囲を制圧した。龍が放つ魔力と劫火によって魔導師達は敗れ、とうとうギュルノーヴ・ギゼは陥落した。
これが歴史に名高い“ヒュールリットの攻防戦”のあらましだ。
難攻不落の守りの要衝である“壁の塔”を落とし、勢いづいた軍勢は一気に王都へと進軍した。ラミシス軍は圧倒的戦力の前にろくな抵抗もできなかった。
数日を経ずして王城オーヴ・ディンデは炎のもとに落ちたのだった。
朱色の龍ヒュールリットと、“漆黒の雄飛”――闇の剣レヒン・ティルルの使い手、魔導師シング・ディールは玉座に降り立ち、魔導王国ラミシスの王、“漆黒の導師”スガルトを葬った。
かくして魔導王国は滅亡し、以来この地は廃墟と化した――はずなのだが、なにかの力が働いているというのだろうか。ひとつだけ、謎が遺された。
それを解くべき者こそ、ミスティンキルとウィムリーフに他ならないのだ。
◆◆◆◆
滑空をやめた二人は再び蒼龍の背に乗った。
陸地が近づいてくるにつれ、そびえ立つ“壁の塔”の全容も鮮明に見て取れるようになる。巨大な石板を想起させるこの建造物が“壁”と称されているのも理解できる。高さは四フィーレにもなるだろうか、これに比肩するものは周囲には無い。それどころか、現在のアリューザ・ガルドの諸都市においても、これほどの高さを誇る建造物などまずあり得ない。
塔は白一色に包まれている。海風に晒され続けた現代では薄汚れて見えるが、ラミシスが在りし時代には、きっと白磁のごとき輝きを見せていただろう。海側から見るかぎり、壁面には一切の窓がない。その代わりに壁画が描かれていた。中央部は巨大な真円を象っており、その中には複雑な様式の呪紋が幾重にもわたって描かれている。“魔法陣”と呼ぶ者もいるだろう。円の外周には判読不能な古代文字がびっしりと羅列してあった。さらにその外側にはさまざまな動物や人間が抽象的に描かれている。これら壁画の意味するところはなんなのだろうか。
塔の偉容を目の当たりにしたミスティンキルはしばし言葉を失っていたが、ようやく口を開いた。
「……なんてえでかさだ!」
それから訝しげな表情で塔をじっと見据える。
彼の横でウィムリーフは真剣な面持ちをしたまま、紙に筆を走らせていた。覚え書きのみならず、簡素ながらも写生画まで描いている。これを元にしてのちに冒険誌を編纂しようというのだ。
「カストルウェン達の冒険行にもあったけれど……本当、考えられない大きさね。世界樹くらいかしら、あんなに大きなものっていうと。……ギュルノーヴ・ギゼ。人が造った建物でも、間違いなく最大に違いないわ。建造時、魔法の力でも使ったのかしらね? よく分からないけど」
ウィムリーフは写生する手を休めることなく言った。
「壁の紋様――昔の魔法使い達は、“呪紋”という陣形を地面や空中に描くことで魔法の威力を増幅させたっていうけど、あれはまさしく呪紋ね! “ヒュールリットの攻防戦”では、空間を遮断する魔法をここで練り上げ、塔の呪紋で魔法力を強化して放射したんじゃないかしら」
「今でも、そんなからくりが動いてたりしねえよな? おっかねえ……」
「心配なさんな。魔法使いがいない以上、あの塔はただの遺跡……。――?!」
ウィムリーフは怪訝そうな表情を浮かべた。なにやら海面からうっすらと、霧が立ち上ってきているのを知ったのだ。そうこうしていくうちにこの高みにまで霧がかかるようになり、風景が徐々に見えなくなってくる。
やがて周囲一面は濃霧に覆われ、二十ラク先すら見通せなくなってしまった。先を行くヒュールリットの姿は視界から完全に消えてしまっている。が、二匹の龍は意に介することなくまっすぐ“壁の塔”を目指して飛び続ける。
「これは自然の霧なのか? アザスタン」
とミスティンキル。
【そうとも言い切れぬな。微弱だが魔法が介在されているのを感じる】
アザスタンは言葉を返した。
それを聞いて、ウィムリーフはヒュールリットの元へと飛んだ。
「この霧……島へ向かうあたし達を邪魔するような意図があるんじゃないですか?」
【こんな現象は初めてだ。奇っ怪な。この時期のスフフォイル海に霧が発生するなど――】
ヒュールリットの言葉を遮るように、目の前になにかが下から飛び上がってきた。熱を伴ったなにかが。
(炎?!)
ウィムリーフが構えるやいなや、二つ目が勢いよく飛び上がってくる。球状のそれは、真っ赤な火の玉だった。
そして――ウィムリーフ達の真下から、翼をはためかせる音が幾重にも重なって聞こえてきた――!!




