第二章 アザスタン空を往く (四)
(四)
ヨウコソ――
宵ウ来ソ――
ウィムリーフはその言葉を確かに聞いた。誰のものか分からないその声はしかし、不思議と彼女を心の底から安心させるものだった。
(ここはどこ?)
どこかの室内。もしくは回廊。辺りは一様に薄暗く、間隔を置いて灯っているランプによって足場が照らし出されていた。
そしていつの間にか彼女は、長く長く続いている狭い螺旋階段を下りているのだった。
(これは夢だ)
ウィムリーフの意識は確信した。いつか見ていた、夢の続きを見ている。
ふと前に焦点を合わせる。四段ほど前、ウィムリーフを誘うかのように人の影のようなものが階段を下りている。あれはいったい何なのだろうか? だがウィムリーフの足は近づくことができない。また、止まったり遠ざかったりすることもできない。一定の距離を隔てたまま、ただ階段を下りていく。
やがて鉄の扉が彼女達の前に現れた。真っ平らな扉には取っ手らしきものは何一つ無く、鉄板の鈍色が冷たさと重厚さを醸し出している。影はその前で止まった。ウィムリーフはやはり、影から数歩置いたところで動けなくなる。
影が扉に手を触れると、鈍色の表面に変化が起きた。手を中心に細く青白い線が何本も放射状に延びていき、すぐに複雑な紋様を象った。この紋章が一瞬輝きを増すと、扉はそれに応えるように重々しい音を立ててゆっくりと開いていった。
再び彼らは螺旋階段を下りていく。距離を置いて。もうずいぶんと降りてきた。この階段はぐるぐると廻りながらどこまで続いているのだろうか。どこに向かっているのだろうか。彼女はそんな疑問を持ったが、それとは関係なしに足は一歩一歩前へと進んでいく。何かに引き寄せられるように。あるいは前を行く影に。
やがて第二の扉が行く手を阻んだ。影は先ほどと同様、その表面に手を触れた。今度は違う形の紋様が形づくられる。そして扉は音を立てて開いていく。
その先にあるのはただ闇だった。影はしかし、躊躇することなくその闇の中へと消えていく。ウィムリーフもそれに続いた。
背後で扉が閉まると、周囲はねっとりした闇に支配される。影は光の珠を魔法で作り出し、手のひらから離した。光球はゆっくりと上に向かっていく。それと同時に周囲の情景も明らかになっていく。
ウィムリーフはしばし見とれた。ここは大きな空洞だ。周囲の壁はそれまでのような人工的なものではなく鍾乳石で出来ている。気の遠くなるような長い年月を経て、この天然の鍾乳洞はつくられたのだろう。
影は――空洞のとある場所で立ち尽くしていた。ウィムリーフはそちらのほうまで歩いていく。影はゆっくりと腰を落とした。ウィムリーフはそろそろと、影の斜め後ろにまで近寄る。
影の前の床は明らかに人の手が加えられており、そこには石造りの立方体をした箱がひとつあった。小動物の一匹くらい中に入れそうな、その箱の表面には文字がびっしりと埋め尽くすように刻まれていた。それらの意味するところはウィムリーフには分からない。
影は、これを自分に見せたかったのだろうか?
そう思うと同時に、影がぬうっと手を伸ばしウィムリーフの手首を掴んだ。
刹那。
魔力が――青い魔力が、爆ぜたかのように勢いよく放出されていく。ほとばしり立ち上る青の力。それは尽きることなく自分の内面からわき上がってくる力。
当のウィムリーフは立ち尽くし、影に掴まれた手首を見つめながらも、たしかに快さを感じていた。愉快なまでに。
影がゆっくりと振り向こうとしている。
そして暗転――
◆◆◆◆
夢から覚めたウィムリーフは目を開けた。まだ朝は早く、太陽も顔を出していない。篝火の小さな炎が暖かい。その向こう側ではミスティンキルが大口を開けて寝入っていた。
ウィムリーフ達は小島で一晩を過ごすことにしたのだった。ここは海岸近く。寄せては返す波の音が心地よく聞こえる。
昨晩はミスティンキルが釣り上げた魚を中心に、昼食の時とは比べものにならないほど豪勢な料理が味わえた。島に住む野生の動物を警戒するために篝火の火はつけたまま、彼らは眠りについたのだった。
徐々に、空が明るくなってきた。しかし、それにしても先ほどから――いや、目覚めたときから目の前がうっすら青いように思える。薄い布で覆われているような青い色。これはなんなのだろうか。
「――!!」
察したウィムリーフは、がばりと飛び起きた。この青い色には見覚えがある。自分の魔力だ! それが今、彼女の全身を包み込み漂っている。
(引っ込め!)
彼女がそう念じると同時に、青い魔力は彼女の体内へと戻っていった。
(なんで……?)
落ち着きを取り戻した彼女は疑問に感じた。彼女が魔力を開放したのはずいぶんと前のことになる。月の世界、魔導師ユクツェルノイレの封印核を打ち破る際、赤い魔力を持つミスティンキル同様に彼女も魔力をすべて解き放ったものだ。
それが今朝、知らずの間に放出されていたなんて――ウィムリーフは訝しんだ。彼女は、今し方まで自身が見ていた夢の内容は覚えていない――。
「わしらがこれから行こうとしている魔導王国に、何かしら関係があるのかもしれぬな」
振り返るとそこには龍戦士の姿に身を変えたアザスタンが立っていた。
「見ていたの? あたしの魔力が放たれていたのを」
アザスタンは頷いた。
「無意識にやっちゃうだなんて、こんなこと初めてだわ。一体あたしになにが起こったっていうの? ミストにはなにも起きていないというのに」
「分からぬ」
アザスタンは答えた。
「月の世界で魔導の封印を解いた時のように……あたし達は、なにかを起こすことになるというのかしら――?」
真剣な表情でウィムリーフは再び訊いた。
「わしには分からぬことだ。わしは龍王様より言いつかって、このアリューザ・ガルドにおる。『私の目の代わりとなって、あの者達の紡ぐ物語の行く末を見届けるのだ』――龍王様はこうおっしゃった」
アザスタンは言った。むろん“あの者達”とはミスティンキルとウィムリーフのことだ。
「わしから言えることはひとつ。今はただ進め、ウィムリーフ。運命を切り開く役割は、お前達人間にしかできぬことなのだ。我ら龍も、神々すらも、ただ傍観するか、助力となるしかできない」
それを聞いてウィムリーフは頷いた。
「わかった。あたし達を見守って下さいましな、アザスタン」
「無論。それが今わしがここにいる意味。龍王様から下された課題なのだ」
アザスタンは言った。
その時ふと、ウィムリーフの脳裏を何かがよぎった。忘れかけていた記憶がよみがえってくる、そんな感覚をおぼえた。だがけっきょくなにも思い出せなかった。
「夢……? 寝ているとき、あたしはなにか夢を見ていたような気がする。――回廊、暗闇……階段――そんな情景だったはず。でも内容までは覚えてないな……」
ウィムリーフはぽつりとつぶやいた。
当人すら知らぬところで、“変化”は確実に起ころうとしていた。
◆◆◆◆
「うう……ん」
半刻ほど経った頃、ようやくミスティンキルが目覚めた。
「おはようミスト。もう朝よ」
ウィムリーフはミスティンキルの側に駆け寄って彼の顔を眺めた。
「ぽかーんって、大口開けて寝てた」
ウィムリーフはけたけたと笑った。
「……見てたのか」
ミスティンキルは口もとを腕でぬぐい、やや恨めしそうにウィムリーフの顔を見上げた。
「なんか夢でも見ていたの?」
「ん? ……覚えてねえな。ぐっすり寝入ってた気もする」
「起きて。食事にするわ」
言われて、ミスティンキルはむくりと起きあがると周囲の様子を確かめた。
「雲が多いな」
ミスティンキルの言うとおり、昨日はあれほど雲ひとつ無い青空が広がっていたというのに、今日は雲が多い。ただ雨雲らしきものは見あたらないし、雨独特の空気の匂いは感じられない。少なくとも雨が降ることだけはなさそうだ。
このまま遺跡の島へと上陸できそうだ。そうミスティンキルが思っていた矢先――。
「龍の気配だ。こっちに来るぞ」
アザスタンが唐突に言った。
「ヒュールリット?!」
ミスティンキルとウィムリーフは表情をこわばらせる。だが龍の姿はどこにも見あたらない。アザスタンは同じ龍だからこそ感じ取れたのだろう。ミスティンキルは精神を集中して周囲の様子を感じ取ろうともしたが、アザスタンのようには分からない。
「どこから来るの?」
とウィムリーフ。それに対してアザスタンは指を示した。入り江の方向、空高くに。一同はその方角を見つめるが、目をこらしてもまだ何も見えない。ただ白い雲が漂っているのみ。
しばらく緊迫した空気が彼らを包み込む。誰もしゃべらない。
「――来た!」
沈黙を破ったのはミスティンキル。魔法を用いて気配を感じ取ろうとしていたのだ。
「雲を突っ切って真っ逆さまに降りてきている。……もうすぐ見えるぞ!」
「あっ! あれ!」
ウィムリーフが指さす空に、ぽつんと小さな影が見えた。それはぐんぐんと、とてつもない速さで近づいてくるではないか。
大きな翼。龍の威容ある姿。その身にまとうのは朝日と見まごうばかりの鮮やかな朱。
「間違いねえな。ありゃあ朱色のヒュールリットだ!」
ミスティンキルは拳を握るのだった。




