第二章 アザスタン空を往く (二)
(二)
雲の上へ飛び出したアザスタンは急上昇をやめ、巨大な翼を水平にのばして滞空する姿勢を取った。
「わあ、下が真っ白! そうか、“雲の海”っていうのはこういうことを言うんだ! ああ、でもあっちの低くたれ込めているのは嫌な色……あれが雨雲ね」
ウィムリーフは子供のように喜びはしゃいでいる。そしてすくりと立ち、満足げに周囲を歩き回ると、気持ちよさそうに大きく背伸びをした。
「アザスタン、海に出るまではまっすぐ南に飛んでちょうだい。ただし飛ぶ速さは今までの半分くらいに抑えてね。――海に出るより先に夕方が来てしまうかもしれないけれど、急ぐ旅でもないし」
【了解した】
雲海の上、風に乗るかたちで蒼龍は静かに滑空していく。気候は冷涼ながらも、先ほど雲の中を突っ切っていたときに比べれば風もなく穏やかだ。頭上を遮るものはなにもなく、ただ紺碧。
ウィムリーフは荷物のひもを解き、まっさらな冒険日誌を取り出した。彼女はあぐらをかいて座り込むと、今まさに自分の目に映っている雲海の様相を描き出すべく、ペンを走らせた。
龍の姿勢がようやく水平になったのを知ったミスティンキルは、アザスタンの背にべたりとうつぶせになり、そのまま四肢を大きく伸ばした。精根が尽き果てているのが分かる。なにもできない。彼は翼をしまうと大きく一呼吸した。
長いこと恐怖にも似た緊張を感じていたためだろう。全身の筋肉がすっかりこわばってしまっている。いつの間にか首の筋をちがえてしまったようで、思いもよらぬ痛みのために彼はうめき声を上げた。
「……あんまり力みすぎたからよ。湿布でもしたほうがいいかしらね?」
ウィムリーフは写生をやめ、ミスティンキルを見た。じろりと、ミスティンキルは恨めしそうにウィムリーフのほうを見る。
「ウィムよう。お前さんはなんでそうも平気でいられるのかね?」
ミスティンキルは力なくウィムリーフに言った。
「ミストと違って、あたしは力任せにしがみついてたりしなかったもの。アザスタンの飛び方には最初びっくりしたけど、風の助けと翼の使いようで、勝手が分かったらあとはそれほど苦でもなかったわ」
「さすが“風の司”ってやつか。おれはしがみつくのが精一杯で、翼を使うとか魔法を使うとか、そっちまで頭が働かなかったからなあ。……っ……。なんでこんなひでえ目に遭わなきゃならねえんだ……」
「魔法を使って癒すとか、そういうことはできないの?」
「そんな魔法もあるに違いないけどな。自分の中から魔法を探るのってのはけっこう疲れるんだぜ。心身ともにな。……今はとてもそんな気になれねえ」
元気な口調のウィムリーフが恨めしい。この疲労の半分でも分けてやりたいとすらミスティンキルは思った。
「……ともかく助けてくれ。痛くてたまらねえ。さするなりなんなり、してくれねえか?」
「ミストがそうまで痛がるなんてよっぽどのことねえ」
言いつつウィムリーフは日誌をいったんしまうと、龍の背びれをひらりと乗り越えてミスティンキルの横でかがみ、彼の肩や背をさすった。そのたびにミスティンキルは小さくうめく。
「わあ、この凝りかたは酷いわね! ずいぶんと痛いでしょう?」
「正直言って動きたくねえな。……なあ、ウィムのほうは魔法は使えるのか?」
「え?」
ウィムリーフは一瞬きょとんとした。
「今まで考えたこともなかったな。そういえば月で魔導師の……ユクツェルノイレさんが言ってたっけ。『魔導は君達二人に託したい』って。あの時、あたしも一緒になって魔導を復活させたんだから、ミストだけが魔法を使えてあたしが使えないっていうのも変よね。うん! やってみる。どうすればいいのかな?」
「おれの場合は『こうしたい!』と心の中で願った。そうすると心の奥底からふっとわき出るように魔法が出てきたんだ。呪文だって同じだ。おれ自身、難しいことはしてねえし、考えてもない」
昔から口べたで、人にものを教えることが苦手だというのはミスティンキル本人も分かっている。自分の感覚がうまく伝えられないもどかしさを苦々しく感じながらもミスティンキルは答えた。
「……ふうん。……なんていうかな、魔法って聞くと普通はもっといろいろと手間のかかるもののように思えるんだけど、魔法を使う本人にとってみれば意外にそうでもないのかしら。あたしたちアイバーフィンが風を操ってみせるのと同じような感覚だと考えていいのかな……とにかくやってみるわ」
ウィムリーフは目を閉じ、両の手のひらをミスティンキルの背中に当てた。意識を集中させているのだろう、彼女の両腕が力んでいるのが分かる。
しかしいくら経ってもその腕から魔力が放たれることはなかった。
「……どう?」
自信なさそうにウィムリーフが尋ねる。
「悪いけれども……」
ミスティンキルはかぶりを振った。はあ、とため息を漏らしてウィムリーフは両腕から力を抜いた。彼女の落胆ぶりが伝わってくる。
「『癒しの力よ来い!』とか『出ろ!』とか色々願ってはみたんだけれど……駄目ね。ミストだったら例えばどういうふうに願う?」
「やっぱりお前と同じだよ。『やる気出ろ!』みたいにな。……とにかく俺からはそういうふうにしか答えられない。理屈じゃなくて感覚で魔法を使っているんだろうな。だからウィムのやり方と俺のとでなにがどう違ってるのか、俺には分からない」
彼女はやや憮然としながらも何回か魔法を試してみたが、結果に変わりはなかった。
「あたしは……駄目なのかしらね」
しまいにウィムリーフは自嘲気味に笑みを浮かべて空を見上げるのだった。
「ウィム」
ミスティンキルの言葉にも彼女は目をつぶって小さくかぶりを振るばかり。ミスティンキルは雰囲気を察し、なにも声をかけないことにした。しばし沈黙。彼女は今、どんなことを心の中で思っているのだろう? ウィムリーフには魔導は継承されなかったというのだろうか?
◆◆◆◆
しばらくしてウィムリーフはすくりと立ち上がった。
「うん。……仕方ない。まだ痛むでしょう? 湿布をしてあげるわ」
きわめて普段どおり、軽やかな足取りで龍の背びれをまたぎ、ウィムリーフは薬を取り出した。
「不公平よね。なんであたしにはなにも――」
ミスティンキルの元に戻る最中、ウィムリーフはぽつりと漏らすのだった。納得しかねている様子がありありと伝わってくるが、彼女はそれ以上負の感情を露わにすることはなかった。
ウィムリーフは包帯をちぎって薬を塗り込む。そしてミスティンキルの身体を撫で、特に筋がこわばっているところに包帯を当てていった。
それがひとしきり終わると彼女は元いた場所に戻り、再び写生をはじめるのだった。ミスティンキルが感謝の言葉をかけたが、彼女からの返事はなかった。
やがて太陽が雲海の上まで顔を出すようになり、暖かな光を放ち出す。節々を痛めているミスティンキルにとっても心地よい光だ。ウィムリーフは感嘆の声を上げた。今までとはまた違った情景へと変わったのだろう。
「あのう……あたしのこと、気を悪くしてたらごめんね?」
ウィムリーフはおずおずとミスティンキルに声をかけてきた。先ほどのことをずっと気にやんでいたのかもしれない。魔法が使えなかったことではなく、それに対する彼女自身の態度について。
「おれは気にしてねえよ」
うつぶせになったままのミスティンキルは目を閉じたまま答えた。
「うん。ありがとう」とウィムリーフ。
「……空ってやっぱりいいわね。気分が癒される。ミストも見てみたら? 雲に光が当たって、輝いて見えるわよ」
「ああ。けれども……眠くなってきた」
「それじゃあ眠ってしまいなさいな。心配しないで、突風が来てもあたしの力でそらせてみせる。次に起きる頃には調子も良くなってるに違いないわ」
ウィムリーフはそう言うとミスティンキルのところにやって来て、彼の頬に口づけをした。そんなウィムリーフを愛おしいと思う。ミスティンキルは上半身をむくりと起こし、やや強引にウィムリーフの唇を奪った。ややあって。赤い瞳の彼は唇を離し、にやりと笑って彼女の青い瞳を見る。不意打ちを受けた彼女は、かあっと顔を赤らめた。
「……お休み、ウィム」
「あ、うん。お、お休み……」
それだけ言葉を交わすと、ウィムリーフはまた元いた位置へと戻っていった。
髪を撫でる心地のいい風と、さんさんと降り注ぐ暖かな春の陽光は、ミスティンキルを眠りの縁へと誘っていくのだった。
◆◆◆◆
次にミスティンキルが目覚めたとき、風はぱたりとやんでいた。ウィムリーフが手当したかいがあって、筋肉の痛みはすっかり引いている。あれだけ緊張して張りつめていた心身は、今や全く普段どおりになっている。ミスティンキルはぐっと四肢を大きく伸ばしたあと、ふと、様子がまるで変わっているのに気付いた。ミスティンキルは龍の背からがばりと起きあがって周囲を見渡した。
自分達を中心として、丸天井を象った大きな空間がぽっかりあいており、その周囲を乳白色の厚い雲が覆っているのが分かる。そこから外側の様子は見えない。寝ぼけまなこをこすりよく見てみると、これは雲に見えるようでいて実は雲ではない。
龍の背びれの向こう側ではウィムリーフが仰向けになって気持ちよさそうにすうすうと眠っていた。
「で、ここはなんなんだ?」
身体を動かして筋を伸ばしたあと、ミスティンキルは呟いた。この奇妙な空間はどこかで目にしたことがあるような気もした。
【わしが作った巣だ。お前達二人とも眠ってしまったから、今晩はここで過ごすことにするぞ】
ぐぐっと、アザスタンが長い首を向けてミスティンキルに語りかけた。
「龍の巣か?!」
“炎の界”では、赤水晶のように煌めく球体が浮かんでいたのを思い出した。
「……にしては赤くねえんだな」
【赤さは“炎の界”の中にあってこそのもの。ここアリューザ・ガルドでは、見てのとおりの色合いとなるのだ】
「降りられるのか?」
【むろん。お前達にとってはそのほうが居心地が良かろう】
言われて、ミスティンキルは龍の背から降りてみることにした。二人分の荷物を抱え込み、アザスタンの大きな脚を伝って地面に降り立った。この床面はまるで羊毛の絨毯のようにふかふかして暖かい。
彼は荷物をどかりと下ろすと、ウィムリーフのもとへ向かった。だが彼女は深く眠っているようで、いくらミスティンキルが揺り動かし呼びかけてもぴくりとも応えなかった。仕方なくミスティンキルは彼女を抱き上げて龍から降り、やや歩くと、綿毛のような床に横たえた。このあたりは寝床にするにはもってこいのようだ。
「アザスタン。今どのあたりなのか、あんた分かるか?」
ミスティンキルはアザスタンの側に寄ると、彼に訊いた。
【デュンサアルから真南、ちょうど海に出たばかりのところだ。この先どうしようかとウィムリーフに訊こうとしたのだが、寝てしまっていた。まあ夜も近かったことだし、この空に巣を張ることにしたのだ。あとどうするのかはウィムリーフが起きたときに訊け】
「ああ、そうさせてもらう。……今日一日、ありがとうな」
ふんと、アザスタンは鼻を鳴らせて答えた。
ミスティンキルはウィムリーフのところまで行き、床に腰を落ち着けた。ぬくぬくとした心地よさが伝わってくる。再びまぶたが重くなってくるのを感じたミスティンキルは、もう一度眠ってしまうことに決めた。結局食事をとっていないのだが不思議と空腹感はないし、これ以上起きていてもなにもやることはない。
彼はウィムリーフにぴったりとくっつくと彼女の頭を自分の左腕に乗せ――ゆっくりと目を閉じるのだった。




