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赤のミスティンキル  作者: 大気杜弥
第二部
36/68

挿話一 フェベンディスにて

 ミスティンキルとアザスタンがエツェントゥー老から、ラミシスの王国についての様々な事件や伝承などを聞き、一方でウィムリーフが部屋に閉じこもり独力で調べ上げているちょうどその頃。

 レオズス――ハーンとエリスメアはアルトツァーン王国西の港町、フェベンディスへと到着していた。


 フェベンディスは、東方大陸ユードフェンリル最大の港町だ。西方大陸エヴェルク行きの商船、旅客船はすべて、この港から出港するのだ。十一月の終わり頃、流氷がエヴェルク大陸の沖に押し寄せてくる時節まで、行き交う船が絶えることはない。ユードフェンリル大陸では見かけることの少ない民族達が数多く訪れ、街は繁栄し大いに賑わう。さながらアリューザ・ガルドにおける人種のるつぼである。

 またユードフェンリル大陸内においても、ここは海洋貿易の最重要拠点だ。北方ナルデボン地方や南方オルジェス地方との間に毎日のように船が往来している。

 ただし冬の間は北方貿易の海路は閉ざされる。巨大な流氷群がナルデボン地方の岸辺にまで押し寄せるためだ。一方、流氷とは無関係の南部に向けての航路は、開かれているように見えても実のところ往来は極めて困難だ。穏やかだったグエンゼタルナ海の様相は一変し、潮流の速い荒れた海になってしまうためだ。そのために、南部への貿易は春まで待たなければならない。春になっても、しばらくの間は陸路を使った貿易しか行われない。


 ハーン父娘が目指すは、ミスティンキル達が滞在しているオルジェス地方デュンサアル。しかも出来るだけ早く到着しなければならない。

――「魔導の力は諸刃の剣。しかるべき者が扱うべきだ。運命に弄ばれるような意志の弱い者に魔導を任せておく訳にはいかない――“魔導の暴走”の再来だけは避けねばならないからな」

 ハーンの長きに渡る友人であり、エリスメアにとっては魔導の師にあたる白髪の老エシアルル、ハシュオンはこのように言った。魔導のなんたるかを知らない者が、それとは知らないままにまかり間違って恐るべき魔導を発動させてしまったら――!

 “魔導の暴走”。

 ハシュオンとハーンの記憶の奥にしまわれているあの惨劇とそれに続く悲劇を、もう二度と再び起こすわけにはいかないのだ。


 急ぐがゆえに、ハーン達は陸路ではなく海路でもってデュンサアルに行くことに決めた。王都ガレン・デュイルからデュンサアルまで、歩いていけば一ヶ月以上はゆうにかかってしまう。だが船を使えばほんの四日間ほどで港に着き、そこから歩くこと一週間でデュンサアルまで到着できるのだ。春半ばのこの時期に船が出ていれば、の話だが。

 エリスメアが“転移”の魔導を行使でき、かつデュンサアルのイメージを脳内に描写できるのであれば、ほんの刹那のうちにデュンサアルに到着できよう。しかし、あいにくとエリスメアほどの術者であってもかの魔導は扱いかねた。転移のすべは、魔導の極みのひとつ。それを我がものとして扱えるほどの魔法使いは、今のアリューザ・ガルドではただひとり、ハシュオンをおいて他にいないだろう。


「やあ、海が見えるよ。きらきらと奇麗だなぁ……よく晴れている。西方大陸エヴェルク行きの船は出ているようだけど、はてさて、南方行きの船なんか今の時期出ているのやら。まだ海は荒れているだろうしねぇ」

 アルトツァーンの王都ガレン・デュイルから歩くこと一週間。ここ港町フェベンディスに到着して、小高い丘の上から町の中心部に向かって降りていくさなか、ハーンはまるで他人事のようなのんきな口調でそう言った。

「そう言ってる割には余裕があるように見えるんだけど、父さま」

 エリスメアがそう言うと、ハーンは自分の人差し指を彼女の唇にそっとあてた。

「おっとエリス。街の中では父さま、じゃないだろう? 昨日言ったじゃないか」

「……そのぅ、……“兄さま”」

 エリスメアはやや照れた口調で言った。


 彼ら父娘は本当の親子であるのだが、唯一大きく違っている点がある。それは種族の違い。エリスメアが人間――バイラル族であるのに対して、ハーンは闇を司るディトゥア神――“宵闇の公子”レオズスということだ。ディトゥアの血を引くエリスメアも神として生きる道があったが、彼女は思うところあって母と同じく人間としての限られた生を全うする道を選んだ。

 ともあれ、他の人間からすれば、今の彼らは見た目のうえでは親子というより兄妹と思われるだろう。


「でもそのうち年が経てば、父さまのほうがわたしのことを姉さま、って呼ぶことになるのかしら?」

「うむ……きついこと言うねぇ」

 ハーンにとって今の言葉はやや堪えたようだ。ぽつりと漏らしたエリスメアは、とくだん悪気があってそう言ったわけではないのだが。

「と、とにかくだよ。確かに今の季節、デュンサアル行きの商船を見つけるのは難しいだろうね。まだ海が荒れているだろうから。でも大丈夫。街道で一緒になった商人が教えてくれたじゃないか、ディリスコンツ商会ってところを。……まあほら、どのみち悩んだって仕方ないさ。それに、こういう時の僕ってけっこう運がいいんだよ? だからさ、安心しなさい、“妹”よ。船は出させてみせる!」

 そう言ってハーンはぽんぽん、とエリスメアの肩を叩いた。

「根拠のない自信は昔と変わらずね、……兄さま」

「それがティアー・ハーンだからね!」

 ハーンはにこやかに笑った。


 ディリスコンツ商会は、古めかしい石造りの建物が並んでいる商業地の一角にあった。入り口の左右にアルトツァーン騎士の彫像が彫り込まれているその門構えは、この商会がある程度由緒正しいものであることをあらわしている。この家の紋章が彫られた両開きの木扉をぎいっと開けると、薄暗い玄関の奥から給仕の女がやって来て、エリスメア達を出迎えた。ハーンがデュンサアルに行きたいので主人と話をしたい旨を伝えると、女はやや怪訝そうな顔を浮かべたが、すぐに表情を戻し、主を呼びに奥の部屋へと入っていった。


◆◆◆◆


 商会の主にして商客船“凪の聖女”の船主、そして船長でもあるディリスコンツ男爵は、突然やって来た珍妙な客の無理な願いを一蹴した。

海蛇ウォンツァの牙にかけて、ああ、なんて客だ! 無茶もいいところですよ、客人! 優れた水夫が束になったってそんなことは無理だ……」

 おもむろに男爵は――男爵とは似つかわしくない、髭もじゃで中背の男だが――くわえていたパイプを一吹きして煙をくゆらせる。

「まだ三週間は早いですよ、お客さん。グエンゼタルナ海の潮の流れは速くて読めないし、春の強い東風が船を思わぬ方向にめぐらせる……。暗礁に乗り上げたり、海蛇の巣にでも迷い込んだりしちまったら、それこそ一巻の終わりだ! ……ここは諦めて、陸路を歩んだほうが賢明だと思いますがね。悪いことは言わないからお戻りなさい」

 ディリスコンツは大げさに肩をすくめて拒絶の姿勢を露わにしたが、ハーン達は引かなかった。

「だけれども……僕たちは一刻も早くデュンサアルまで行かなければならない。海路を使った方が早いのは明らかなのです。……陸路では遅すぎる。それに、旅先であなたの船の誉れを聞いてここにやってきたんです。『ディリスコンツ商会に頼むのが一番確実だ』ってね。もちろん僕にだって、今の時期の海が行く手を阻むくらいのことは分かってます。……では、どうすれば船を南東の方角に向けられるか、手段がまったくないわけじゃあないんでしょう? あと何が足りませんか? 言って下さい。僕たちに出来ることであれば……」

「“海の司”が必要だ」

 男爵は即答した。

 “海の司”とは風や潮を操る魔法使いの呼び名である。風を起こしたり、天気を変えたりするすべを持つ“海の司”がいれば、航海の無事は約束されたようなものだ。だが男爵の言う“海の司”とは、並の魔法使いでつとまるようなものではないようだ。

「……けれども“海の司”がいたからといって、あの荒れるグエンゼタルナ海に挑むというのは自殺行為に等しいってもんです。あの海をなめてかかって命を落とした奴を、私は何人も知っています。

「追い風を呼び込む腕前を持つ“海の司”ならばまだ数は多かろうが、潮の流れそのものを支配できる魔法使いなんて……。あんたがたも知ってのとおり、そんなたいそうな魔法を使える人間など、今の時代ほんの一握りですよ。千年前だったらそれこそ多くの魔導師達がいたでしょうけどね。仮にそんな大魔法使いがこの港町にいたとしても、一回の航海に雇い入れるだけで足が出てしまいます。私の家は五代前から爵位を頂いているが、その前に商人ですからね。儲けにならないような話はとうてい受け入れられない」


 それを聞いたエリスメアが、つと前に出て右手を軽く挙げた。

「私がその役目を担います。私にとって、潮流や風向きを変えることなどいとも容易いこと。もし私の力を疑うならばよろしい。小舟を一隻貸して頂けませんか? 舵をとらずともこの港の中を自在に操ってご覧にいれましょう」

 ハーンもエリスメアにならうかのように一歩前に出ると、彼の頭を飾っていた金色の飾り物をはずした。

「それじゃあ僕も。……船を動かすには何人もの水夫が必要でしょう? これを閣下に差し上げます。これは混じりっけなしのカラファー金で創られた頭飾り。あと、中央部の大きな宝石は青水晶リフィ・バルデ。そんなものだから、出すとこに出せば、かなりの値段が付くと思いますよ? そう……僕だったら少なくとも二万ガルディはつけたいところですねぇ」

「二万ガルディだって?!」

 金色に輝く宝飾を受け取った男爵は驚き声を上げて思わずたじろいだ。二万ガルディといえば、一年間は無事に暮らしていけるだけの金額だ。もちろん、商船を動かすには十分な額と言える。

「なんだってこんなたいそうなものを、あんたのような若い方が……」

 ディリスコンツはハーンを物色するかのように頭から足下に至るまでじいっと見るのだった。

「それにあんたが腰に下げているその黒い剣……大した代物のようだ。おまえさん、なみの人間じゃあないね? 一体何者……?」

 ハーンはそれには答えずにただ微笑するだけだった。

「ああ、いちおう言っときますけどね。別に僕らがお尋ね者とか、なにかご禁制のものを船で運ぼうとしてるとか、そういうわけじゃないですからね? 僕ら二人を運んで頂くだけ。僕たちの望みはそれだけですから」

 男爵は頷くしかなかった。どうやら話はまとまりそうだ。ハーンはにやっと口を歪ませると、取引をまとめようとした。

「さて、と。資金はご提供した。有能な“海の司”はいる。……ここはひとつ、船を出していただけませんか? あなたも商品を積み込めば、今の時期だったら相当な高値で売りさばくことが出来ると思いますよ? どうでしょう」

 ディリスコンツは唸り、目を閉じて腕を組むとしばしの間考え込んだ。

 そして彼の口がゆっくりと開いた。

「……二日間、時間をいただきたい。協会に申請を出して承認を受けなければならないし、人手だって集めなきゃならない。それに積んでいく荷物もだ。色々と準備が必要なのですよ」

「じゃあ、出していただけるんですね! 船を!」

 ハーンとエリスメアはお互いの顔を見合わせ、ほころばせた。

「まったく、こんなふうに無理を押し切りとおしたお客ははじめてだよ」

 ディリスコンツは苦笑いをした。

「だけど気に入った。あんたはたいした取引上手だ! 二日後の朝二刻目に、南の桟橋まで来て下さい。我が家の紋章を船首に描いた白い船が、“凪の聖女”号ですよ」

 男爵は右の手をすっと伸ばしてきた。ハーンは両手でディリスコンツのごつごつした手を包み込むようにして、握手を交わした。話し合いはついにまとまったのだ。


◆◆◆◆


「ねえ父さま……兄さま。交渉があまりにお上手なんで驚いちゃったわ」

 商会をあとにして、宿を探す道すがらにエリスメアが口を開いた。

「そりゃあまあ僕がいくらディトゥアだと言っても、人の世で暮らしていくには話術が巧みなほうがいいに決まってるからねぇ。生業なりわいとしてタール弾きをやったり傭兵をやったり……そんな長年の経験の積み重ね、ってやつかな」

「でも……頭飾り、あげてしまわれたけど、果たしてよかったのかしら? あんな高価なものを」

 ハーンは笑って、軽い口調で答えた。

「ああ、あれね! ……種を明かしちゃうとね、実のところはそんなにすごく高価なものじゃないんだ。僕が買った時は千ガルディくらいだったかな、まあそこそこ値は張るけど、宝飾品としてはまあ妥当な金額で、目玉が飛び出るような金額ほどじゃないだろう?」

「え……。じゃああの主人が宝石鑑定に出して値段がばれちゃったら……」

「その辺は大丈夫だよ。あれは今やただの飾り物じゃなくなってるのさ。ほら、今の時代だと、魔法が付与されたものなんてそうそう出回るものでもないだろう? けれどもあれには闇の守護の力を込めた“法”をかけているからね。レオズス直々に魔力を込めた貴重な一品だよ!」

 ハーンは言葉を続けた。

「……しかしさ。僕のほうこそ驚いたよ。まさかエリスがそこまで魔法を使いこなせるようになってる、なんてね。僕は人間の魔法についてそんなに詳しく知ってるわけじゃないけど、潮の流れを操るなんていったら、かなり高度な魔法なんじゃないのかい? よく知ってたね」

「ああ、それね! ……実はこれからこの街の図書館に行って、魔法についての本を借りようと思うの。風はともかくとしても、海をなだめるにはどうしたらいいか、実はまだ知らないのよ。ちょっとした賭けだったわね。あの場で『見せてみろ』と言われなくてよかったわ。でもよかった。二日もあれば魔法書を読み解くには十分な時間だもの!」

 それを聞いたハーンは呆気にとられたが、次に堰を切ったように笑い出した。

「あはは……。うん、エリス。お前もたいした取引上手だよ。さすがはこの“宵闇の公子”の娘! 見事だよ」


 こうして、彼らハーン父娘は無事に出航するための確約を取り付けることに成功した。しかし彼らは、ミスティンキル達が次の行動を起こそうとしていることをまったく知らない。ハーン達の船旅が順調に終わったとしても、その頃にはあの二人はデュンサアルから飛び去ってしまっているのだ。

 ハーン達とミスティンキル達。彼らが出会うのは、果たしていつになるのだろうか――。

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