第一章 旅立ち (二)
(二)
ウィムリーフは、ランプの光で足下を確かめながら、急な坂道を息せき切って駆け上がっていった。空はすでに濃紺から黒へと色を変えつつある。もう間もなくすると周囲は真っ暗になってしまうだろう。走りながら何人かのドゥロームとすれ違ったが、彼らはランプを手にしてはいなかった。ドゥロームという種族は比較的夜目が利くのだろうか。
アルトツァーンの商人達が寝泊まりする旅籠の平地からやや離れたところ、ドゥローム達の住んでいる山あいからもやや離れた場所に、酒場は軒を連ねている。普段は外で酒をたしなむという習慣のないデュンサアルのドゥローム達も、時にはバイラル達と混じって酒を酌み交わすこともある。そのために酒場は両者の住処の中間――岩山の麓あたりに集まっているのだ。とは言え、デュンサアルの慣習を知らない者にとっては不便きわまりない。他の地域であれば、宿屋が酒場を兼ねていたりするものだというのに。
なぜわざわざ走る必要があるのか、なにが自分をこうまでせき立てているのか、もはやウィムリーフには分からなくなっていた。とにかくミスティンキルに、自分がラミシス遺跡へ旅立つことを伝えなければならない――その一心だけでウィムリーフは道を急ぐのだった。
◆◆◆◆
酒場の建ち並ぶ界隈にたどり着いたウィムリーフは、この中から一軒の酒場に見当を付けた。たいていの場合この店か、そうでなければもう一軒隣の店かどちらかにミスティンキルが入り浸っているからだ。
こぢんまりとした木扉を開けると、案の定ミスティンキルはいた。十人も入れば満席となってしまいそうなこの小さな酒場は、とくに装飾品はない質素な造りとなっており、壁に掛けられた二つのランプの光のみが部屋の中を薄暗く照らし出している。隣の店からは楽器の音色と共に浮かれた声が聞こえてきているが、この店には今のところミスティンキル以外の客の姿は見あたらない。
「……あ? ウィムじゃねえか。お先に飲ましてもらってるぜえ!」
ウィムリーフがやってきたことに気づいたミスティンキルは、杯を片手に上げながらそう言った。顔がずいぶんと赤い。彼は杯に残っていた酒を飲み干して卓に置くと、大きく息をはいた。
「おあいにく様。飲みに来たわけじゃないわ」
ウィムリーフは同じ机に自分の持ってきたランプを置く。癖の強い酒の匂いをかぎ取ったウィムリーフは、今のミスティンキルになにを言っても無駄だと知った。この地方の特産である火酒は、他のどの地方の酒よりも強いと言われる。火酒という名にふさわしく、それを飲めば龍の体内に宿る炎を得たかのように体が火照り熱くなる。寒さの厳しいデュンサアル地域の冬を乗り越えるためにと造り出された酒だ。
そんな酒だというのに、ミスティンキルはすでに二杯ほど空けている。今の彼が酩酊しているのは火を見るより明らかだった。ウィムリーフは軽く溜息をついて、まずは店の主と挨拶を交わすと、酔っぱらいに話しかけた。
「今までたった一人で飲んでたっていうの? しようがないわねぇ」
「んん……。なんだよ。飲みに来たんじゃねえのか……。あ、じゃあなにか? まだ冒険誌の手伝いをしてほしいってのか? あと残ってんのは……紙にきちんと文章を書き上げることだけれど、それってウィムの役目だろう? おれはだめだ。文字なんかろくに書けやしないんだから! 今さら文字を覚えろって言われたってそうはいかねえ。それだけは勘弁してくれよなあ」
ミスティンキルは両手を横に伸ばし、大げさに首を横に振った。ややろれつが回らなくなってきている彼は、いつになく饒舌だ。この調子では彼はたらふく酒をかっくらったあと、突っ伏して寝てしまうに違いない、とウィムリーフは思った。
「別にあんたを連れ戻す気で来たんじゃないって。……あのね。ちょっと別の話があったからここに来たってわけ」
素っ気ない調子でウィムリーフは言葉を続けた。
「酔っぱらってるミストにあれこれたくさん言っても伝わらないだろうから簡単に話すけど……。あたし、また冒険をしてみるつもり。ここから南にずうっと行ったところに遺跡があるんだけど、そこに行きたくなってね」
「ラミシスの遺跡。……ってやつだろう?」
酒場の主人から新しい杯を受け取ったミスティンキルは一口酒をあおり、半ば座った目でウィムリーフを見た。
「え? もうミストは知ってたの? ラミシス遺跡のこと」
「昔々の魔法王国、だっけか? そういう怪しげな所があるってのは、ここで飲んでる時に何度か聞いたことがあるからな」
「そう。なら話は早いわ!」
ウィムリーフはぐっと身を乗り出した。
「なんだってそんなへんぴなところに行こうだなんて考えてるんだ?」
「それはなんと言ってもラミシス遺跡っていうのは、かつての魔法に大きく関わった場所だからよ。魔導を受け継いだ身だったら、その目で確かめたくはならない? それにわざわざ東方大陸の南の端まで来たんだから、この機会を逃したくない。そう、こんな機会は、望んだってなかなか来るもんじゃないわよ? あたしは今すぐにでも行きたい! って考えてる。……それでミストはどうするのかな、と思ってここまで訊きに来たわけよ」
「まだ、前の冒険誌のまとめだって完成してないってのに。なんでそんなに急ぐ必要があるんだ? もうしばらくはのんびりとしてかねえか?」
「……じゃあ、ミストは行く気にはなれないってわけね? ひょっとしたらこの前の冒険みたいに、予想も付かないとんでもないものが見られるかもしれないのよ?」
ウィムリーフはミスティンキルの顔をのぞき込んだ。
そして諦念。
今までも、多少の憂さ晴らし程度に酒を飲むのであればウィムリーフも目をつぶってきていたが、今日の彼は飲み過ぎている。ミスティンキルの赤い瞳は酒のせいかやや濁ってすらも見える。本来は赤水晶のように澄んだ色をしていたはずなのに。それまでの彼が確固として持ち続けていた、執念とも似た強い意志など今や微塵にも感じられない。
“炎の司”になるというとりあえずの目的を果たした今の彼は、これからなにをすべきかを見失ってしまったのか――。このままデュンサアルに滞在したままでは、周囲にちやほやされるだけで堕落する一方だ。挙げ句の果てはただの飲んだくれになり果ててしまうに違いない。ウィムリーフは、そんなミスティンキルは見たくなかった。何が何でも事を為し遂げてやる、というどん欲なまでの強い意欲を持っていたからこそ、彼は彼自身であり続けたのだ。
「悪いけどな。おれはその遺跡とやらに用事はないし興味もない。それだったらまだここにいた方がずっといい。もし仮に行くにしてもだ。なにもそんなに焦ることはないと思うぜ? 準備だって色々あるだろうに。幸い時間だけはたっぷりとあるんだし、金についてもおれの持ってる赤水晶を売っていけばいい。だからだ、ここはゆっくりと行かねえか? そうすればおれの気持ちも変わるかもしれないし」
確かにミスティンキルの言いたいことも分かる。今のウィムリーフは明らかに急いでいるのだから。急ぐあまりに失敗を起こすよりは、ゆっくりと地道に事を構えた方がいいに決まっている。特にそれが前人未踏の地に赴くという、危険が伴う事態であれば、なおさらだ。
「そう……」
ウィムリーフはしばし考える姿勢を見せた後、わかった、とだけミスティンキルに言って席を立った。
それでもウィムリーフにとっては、まだ見ぬ地――ラミシスへの冒険行に馳せる想いのほうが勝ったのだ。
「ウィムリーフさん、この方を連れて帰るんじゃないのかね?」
店主が声をかける。
「彼はまだまだ帰るつもりじゃないようだから、これで引き上げるわ。あたしから伝えたいことは伝えたし」
「なんだ。一緒に飲んでけばいいのに」
主はやや残念そうに言った。アイバーフィンのウィムリーフに対しても、デュンサアルの住民達はようやく心を開いてくれた。そのことが嬉しくもあったが、ウィムリーフは木扉に手をかけた。
「そうねえ……申し訳ないけどミストに、飲むならあと一杯くらいにして宿に帰るようにと、うながしてくれません? あ、それからその時に伝言をお願いします。『ウィムリーフは遺跡に行きます』ってね!」
「……分かったよ。けれどお前さん、本当にひどく急いでるように見えるねえ。また何かがあったのかい? “司の長”様から指示があったとか」
「いえ、特に長様からはお話を頂いたわけじゃないんです」
「それならばなにも焦ることはないよ。おれもこの酔っぱらいの言うことはもっともだと思うね。ましてラミシスなんざ、ここの住人だって行ったことのないような魔境だ。いくらお前さんが旅に慣れているとは言ってもだ。念には念を入れるに越したことはないと思うがね?」
そうだ。旅に出ることについても、ミスティンキルが旅籠に戻ってきてから改めて話せば済む話だというのに。なにが自分をこうまで急がせているのだろうか? 冒険に対する憧憬、の一言だけでは片づけられないようにウィムリーフは直感した。急げ急げとせかすこの感情がなぜ突如として生じたのか、もはや分からないが。ただ明らかなのはひとつ。この衝動を打ち消すことはもはや出来なくなっているということだ。
「ありがとう。でもいいんです。あたしはもう、行くって決めたんだから……」
伝言のほうをお願い、とだけ言うとウィムリーフは店主に軽くお辞儀をし、酒場をあとにした。
「出来ればあんたには付いてきてほしかったな……。どうかしてるわね、あたし。本当、なんでこんなに急いでるんだろう? 多分ミストの言ってることのほうが筋が通ってるってのに……」
外に出たウィムリーフは、再び宿へ帰る道を急ぐのだった。
◆◆◆◆
ミスティンキルは愕然とした。それまで酒に酔いしれて真っ赤だった顔が思わず青ざめるほどに。
あれから半刻が過ぎ、彼が酒場から宿へと帰ってみたら、部屋の雰囲気ががらりと変わっていた。部屋からはウィムリーフの荷物だけがそっくり無くなっているのだ。これには狼狽えるほか無い。なにせ今まで二人で旅をしてきてこんな事は一度たりとも無かったのだから。
「ちょっと待てよ! あいつ本気で遺跡に行くなんて考えてたのか?! しかもたったひとりで!」
まさかウィムリーフの残した言葉が彼女の本意だったとは。てっきりミスティンキルが一緒でないと行動を起こさないとばかり思っていただけに予想外だった。自分が思ってた以上に、彼女の意志は強固だったのだ。
ミスティンキルは落ち着こうと、とりあえず椅子に腰掛けた。しかし焦りは募る一方。
「ああもう! なにを急いでるってんだ、あいつは?!」
もはやいても立ってもいられなくなり、彼は悪態を付きながら足早に部屋から出て行った。すっかり酔いが回り、足下がおぼつかなくなっているというのに、意識だけは冴え渡っていた。いや、そうせざるを得ない状況だった。
「まったく……。いつもとは逆の立場じゃねえかよ……」
ミスティンキルは宿から外に出るやいなや――見えない翼を広げて夜空へと飛び上がっていくのだった。




