序章 (一)
(一)
風をかき分け、空を疾駆する。
ミスティンキルは、眼下に広がる平原が一面、新緑に色づいているのを見て取った。見上げると蒼天の空には純白の雲がいくつも浮かんでおり、それらは春のうららかな陽光を受けて輝いているかのようだ。
(世界ってのは、こんなに奇麗なもんだったのか)
ミスティンキルは思った。普段見慣れているはずの色であるにもかかわらず、全く新鮮であるように感じ取れるのは、一時期アリューザ・ガルドの色が褪せたためなのだろう。
普段あるべきものを失ったときの何とも言えぬ喪失感は消え失せた。色が甦ったことを実感出来た喜びといったら、なんと表現していいものだろうか。今のミスティンキルには、目に見える全てのものが網膜に鮮やかに映る。そしてこの山岳地帯の情景の壮大さは、深く胸に染みこむような感動を彼に与えた。
ミスティンキルがウィムリーフ、アザスタンと共にデュンサアル山を後にしてからしばらく。最初のうちは物質界での翼の扱い方に四苦八苦していたミスティンキルも、ウィムリーフに教えてもらいながら、ぎこちないながらも何とか飛べるようになっていた。今は龍のアザスタンを中心に据えて横一列に並び、デュンサアルの町を目指して飛んでいるのだ。
だが、何事もなくたどり着けるはずがないことは、先のウィムリーフの言葉からも明らかだ。現に、彼らの前方には幾人かの人影が見えるようになっているのだ。二人の“炎の司”と、幾人かの兵士達が。
ミスティンキルとウィムリーフが聖地デュンサアル山に赴くに際して、ちょっとした騒ぎを起こしたのは事実だ。あの時、“炎の司”としての面子を完全につぶされた、見張り小屋の守人ジェオーレは、おそらく真っ先に、父であり“司の長”の一人であるマイゼークに事の次第をつぶさに告げたのだろう。
「おお、いるいる。やっぱりウィムの言うとおりだ。あのマイゼーク親子が、兵士を連れて待ちかまえてやがる」
目の良いミスティンキルは、眼前に映る小さな人影が誰のものなのか、容易に見てとった。彼らもまた空中に浮いているが、こちらの様子にも気づいているためだろう、滞空したままでそれ以上さらに進んでくるつもりはないようだ。特にアザスタンの巨体は、一目見ただけで龍であると分かるだろう。
いくら龍の末裔であるドゥローム族といえども、迫り来る龍に対して、刃を向けたまま突き進むなど愚の骨頂であることは分かっている。龍は彼らドゥロームにとって畏敬の念を払うべき存在なのだから。
おそらく今の彼らは、予想だにしなかった龍の出現に対して、どのように対処すべきか考えつつ狼狽えているに違いない。
「万が一って事もあるから、風を整えておくわ」
“風の司”であるウィムリーフが、空中に文字を描くように左から右へと細かに指を動かす。すると、風を切る音がぴたりと止んだ。もし相手が弓を射てきたとしても矢を逸らすようにと、彼女は風に働きかけたのだ。奇妙な静けさの中、三人はさらに飛んでいくのだった。
「……でも、このまま前に進んじゃって本当に大丈夫なんでしょうね? アザスタンも、ミストもまるで平気な顔をしているんだけど、なんでそんな平然としていられるの? あたしたち、デュンサアルの掟を破っちゃってるのよ?」
ウィムリーフは心配げに龍の顔を見上げた。
【事はたやすく済む。ウィムリーフが心配することはなにもない】
アザスタンは、ただそれだけ言った。
◆◆◆◆
ミスティンキルとアザスタンの予想はたがわなかった。
そして――デュンサアルのドゥローム達にとっては、龍の飛来など予想出来るはずもなかった。
両者は、平原と岩山とを隔てている断崖にて対峙することになった。ちょうど真下には細長い吊り橋が架かっている。ミスティンキルとウィムリーフが“炎の界”に向かったあの晩、守人をつとめていたジェオーレを出し抜いたちょうどその場所で、皮肉にも再会することになったのだ。
マイゼークとその息子、そして兵士達は表面上は落ち着き払ったさまを見せている。だが、彼らの胸に秘めた本当の感情は、隠そうとしても隠しきれるものではない。お互いの顔が見て取れるほどの距離にまで近づいた今、対峙する相手の顔には狼狽している様子がはっきりと現れている。おそらく、生きた心地はしていないだろう。アザスタンの巨大な翼の羽音と、しゅうしゅうという炎まじりの息づかいは、彼らに恐怖しかもたらさない。
口火を切って話しかけてきたのは、マイゼークだった。
〔龍様。ここより先はわたくしどもドゥロームが住まう地でございます。わたくしめは炎の“司の長”のひとり、マイゼーク・シェズウニグと申す者。隣におりますのがせがれのジェオーレでございます〕
顔色をうかがうような慇懃なさまで彼は挨拶をし、ジェオーレもぎこちなくではあるが深々と礼をした。
〔そしてこれに控えておりますのは、町の衛兵たちでございます。彼らは武器を携えてはおりますが、決してあなた様に危害をもたらすものではありません。……実は、あなた様の横におります若いドゥロームが、我らの掟を破ったのではないかという疑いがあります。ですので、その者と、後はそこの……アイバーフィンを我らの法の下において裁く必要がありますゆえ、どうかお引き渡し頂きたいと……〕
【ならぬな】
背中に冷や汗をかきながら、それでも司の長としての体裁を何とか保ちつつ話すマイゼークだったが、蒼龍は彼に最後まで言葉を告げさせることなく、拒絶した。
アザスタンの声を聞いた者の中には即座に失神した者もいた。龍の言葉は、それそのものが魔力を持つとも言われている。ドゥローム達の筆頭に立って交渉をしようとしていたマイゼークですら、ひっと小さな悲鳴を上げた。彼は額に脂汗をにじませ、なんとか次の言葉を紡ぎ出そうとしたが、出来なかった。
あわれな司の長を見やりつつ、アザスタンは言った。
【デュンサアルの龍人よ。わしとて遡れば、かつてはドゥロームであり“司の長”の一人であった者だ。掟破りは、場合によっては厳罰に処されることも知っておるし、この者達がなにをしでかしたのかも承知している。そしてマイゼークよ、お前の立場と行動も理解出来る。だが、その咎を抱え込んだこの者達を、“炎の界”は迎え入れたのだ。――わしは“炎の界”にて、龍王様を警護する役をいただいておる、名をアザスタンという。我が名において、わしとこの者達をこのまま行かせてもらいたい】
龍の言葉は誇りに満ちており、これを拒絶することは、一介の人間にはとうてい出来るものではなかった。ついにマイゼークは折れた。
〔し、しかしアザスタン様……。まことにもって恐縮ではございますが、ドゥール・サウベレーンは我らにとって神にも等しい敬意を払うべきお方であります。あなたのそのご立派なお姿をデュンサアルの町人たちが見れば、必ず驚きましょう。……その者達の犯した罪については不問といたしてもかまいません……ですが、もし差し支えないようでありましたら、アザスタン様はこのままお引き取り頂きたく……〕
【意外と聞けぬ男よな、お前は】
アザスタンはそう言うと、天に向かって頭を向けると一声、大きく吼えた。
轟くようなその音をまともに聞いてしまったドゥローム達は、再び恐怖に震えた。ついにはジェオーレすらも失神してしまい、父親マイゼークは彼を抱き留めた。
もはや顔色を無くしたマイゼークが再び、恐る恐る龍の様子を見ると、そこには巨体を誇る龍の姿はなく、五フィーレ弱ほどの身長を持つ龍頭の戦士がいた。
「この姿ではどうだ。――これでもまだ不服か? ならばドゥロームの姿に変化してもいいのだぞ」
〔お、お待ち下さい!〕
慌てふためいた様子でマイゼークが取り繕うとする。
〔龍であるあなた様に、なにもそこまでして頂くことはございません! ……分かりました。マイゼーク・シェズウニグは、炎の“司の長”の名において、あなた様とそこなる二人をデュンサアルの町へお招き申し上げます」
「賢明な判断だ」
アザスタンは言った。
〔ひとつお伺いしてよろしいでしょうか。なぜ、あなた様はそうまでして、そこなる者達をかばいなさるのでしょうか?〕
アザスタンは口元を歪ませるように笑い、言った。
「この両名は“炎の界”の中心部まで赴き、龍王様より直々の命を承り、さらには月の界へと向かった。かの地で彼らが成し遂げたことによって、色褪せていたアリューザ・ガルドの色はすべて元に戻ったのだ。今日、目にするこのような景色にな。……この行いは、デュンサアルの掟破りを償ってなお余りあるものであるどころか、むしろ賞賛されてしかるべきものではないか? ミスティンキル・グレスヴェンドとウィムリーフ・テルタージ。これなる両名は、大事を成し遂げた者達なのだ。それゆえに“司の長”マイゼークよ。――龍王イリリエンの御名をお借りして、誉れ高き両名の身の安全をすべからく確保するよう、そなたに命ずる!」
してやったり。
ミスティンキルは腕を組み、余裕の笑みを浮かべてマイゼークを見やった。その視線に気づいたマイゼークは、さも悔しそうな様子で彼を一瞥すると身を翻し、まだどうにか平静を保っている残りの兵士達に告げた。
〔予定していた事項は……取り消しだ! 我々はかの方々を、“集いの館”へ――司の長の集う館へとお連れ申し上げることになった。……以上!〕
デュンサアルのドゥローム達はこうして、ミスティンキル達を先導するかたちで町へと戻っていくのだった。
◆◆◆◆
「え?! ……ちょっと待てよ?」
突然思い出したかのように、ミスティンキルは声をあげた。彼はウィムリーフの側まで飛んでいくと、彼女に問いかけた。
「今までお前の姓を聞いたことがなかったから、アイバーフィンってのは自分たちの姓を人に名乗らないもんなのかと思ってたけど……ウィムリーフ・テルタージ、さっきそう言ってたよな? なあ、アザスタン」
アザスタンは頷いた。そういえば月の界で魔導を解き放つに際しても、ウィムリーフ自身が名乗っていたではないか。テルタージという姓を。
冒険家テルタージの名は、アリューザ・ガルドに広く知れ渡っている。彼らは夫婦であり、前人未踏の地域を探索する冒険家として名を馳せた。とくにアズニール暦千百年代の初頭に世に出た『天を彷徨う城キュルウェルセ』の冒険行は、名著として今も広く知られているものだ。文字の読めないミスティンキルも、故郷の島を時たま訪れてくる吟遊詩人の歌を通して、幼い頃から彼らの冒険行を何度か聞いた覚えがある。
ウィムリーフは照れくさそうに鼻の頭をかきながらミスティンキルに言った。
「この冒険が終わったら、あんたに明かそう、とずっと思ってたんだけどね。そう。あたしの姓はテルタージ。ひょっとしたら隠す必要なんてないのかも知れないとも思ったけど、『冒険家テルタージの孫娘』っていう色眼鏡を付けられて見られるのだけはいやだったから、名乗らなかっただけ。気を悪くしないでね、ミスト」
「いや、別に怒ったりはしねえけど……びっくりした。じゃあ、ウィムが冒険家を目指しているってのは、やっぱり冒険家テルタージの影響なんだな。しかし……そうか。おれはずっと、テルタージはバイラルだとばかり思っていたけど、アイバーフィンだったとはなぁ。まだ健在なのか?」
「今はお婆さまのふるさとで静かに暮らしてるっていうふうに聞いてる。あと、本当のところを言っちゃうと、お爺さまのほうはアイバーフィンじゃないらしいの。セルアンディルだっけな? 今のアリューザ・ガルドにはいないとされてる種族の末裔らしいんだけど、詳しいところはあたしはあまり知らないのよ。……でも、あたしがこうして大きな魔力を持っているのは、多分お爺さまお婆さまの血の影響なんじゃないか、っていうふうには言われたことがある。とにかく、あたしが冒険家になりたいと思ったきっかけは、あたしも“冒険家テルタージ”のように名を馳せたい、と思ったから。それは違いないわ」
「おれたちがやり遂げた冒険行ってのも、テルタージの冒険に負けないくらいすごいもんだろう?」
「そう! とてつもないことをあたしたちは成し遂げちゃったのよ! 帰ったら早速今回の出来事を思い出せるだけ思い出して、書き留めなきゃね! もちろんミスト、あんたにも手伝ってもらうからね!」
熱い意志を秘めた口調で言った後、ウィムリーフはミスティンキルに、にこりと微笑んだ。その屈託のない微笑みから、これからしばらくの間こき使われることを予見したミスティンキルは、重い溜息をつくほかなかった。




