第五章 魔導を得る (二)
(二)
ウィムリーフの手に引っ張り上げられつつも、ミスティンキルは周囲の様相を見やった。ウィムリーフが翼をはためかせて、尖塔の頂上に向け舞い上がるにつれ、月の世界の容貌がよく見て取れるようになる。まばゆく光り輝くこの月世界の様は、たとえるなら白銀の発光体を内部に持つ貴重な鉱石、青水晶が極限まで光り輝き、世界の一面を覆い尽くしているかのようだ。
そして、月面の白銀と空の黒を分ける地平線は、ミスティンキルにとって見慣れないかたちを取っていた。右端から左端に至るまで、奇麗に円弧を描いているのだ。アリューザ・ガルドでは、このような地平線を見ることなど決してあり得ない。ミスティンキルが海に出ていたとき常に見ていた水平線は、どこまでも平らに続いている。世界に果てというものがあるとするのならば、おそらくそこに至るまで平らかに伸びていくのだろう。
だが、この月は違う。察するにこの世界は、どうやら球状を象っているようだ。アリューザ・ガルドから見上げる月は、美しい円を描いている。その見たとおりのかたちを、月の世界は持っているのだ。
「たまげたもんだな。月っていうのは丸い世界なのかよ」
「アリューザ・ガルドに戻ったら、すぐに冒険誌を書き上げなきゃ、ね!」
ウィムリーフはやや苦しそうに言葉を返す。大柄なミスティンキルの身体を引っ張りあげるのは、やはり難儀なことなのだろう。
「さっきあの子――イーツシュレウからいろいろ聞いたんだけどね。たとえば月の世界は、“幽想の界”つまり死者の国と“次元の門”によって繋がっているとか、ミストも言ったように丸い世界なのに落っこちないとか……“炎の界”からこのかた、驚くことばっかり続いてるもんだから、戻ったらデュンサアルの宿でもいい。とにかく忘れないうちに全部を書き留めておかないと」
「ほかにも色々ある。例えばほら、ここ一帯のように自ら光り輝く大地がある一方、この裏側の半球は光を放たない。アリューザ・ガルドから見上げる月の姿が常に移ろうのは、そのためだよ。月とアリューザ・ガルドとは毎夜ごとに次元が繋がるんだが、月の位置は日々変化している。……そしてアリューザ・ガルドから見れば、間もなく満月が姿を現すことになるんだろう。それはこの月ともっとも密接に繋がる夜だ」
二人のやや斜め上前方では、イーツシュレウが滑らかに浮遊している。“自由なる者”を名乗る少年、その実は見かけよりはるかに年を経ている栗毛の彼は振り返り、柔和な子供らしい声色で語った。
「アリューザ・ガルドの龍人、ここ月の世界は、どうか? イーツシュレウがここに来てすでに千年近く経とうとしているが、この美しい光景には飽きることなど無いものだよ。月の住人――精霊達も楽しませてくれるしな」
「……なあイーツシュレウ。あんたが、この月の世界の支配者なのか?」
ミスティンキルは、あどけないかんばせを持つ少年に向かって訊いた。
「違う。月は精霊達の故郷であって、とくに支配者などはいない。それにイーツシュレウは“自由なる者”。その名のとおり、何ものにも縛られず、また司らない。そのような者は、数多いるディトゥア神族にあって、このイーツシュレウだけだろうけれど」
ディトゥア神族!
驚いて顔を見合わせる二人。無理もないことだ。ディトゥア神族の中には人前に姿を現す者もいるが、神族であるということを気取られないために、自らの神気を露わにすることは滅多にないものだし、そもそもディトゥア神族と出会った人間自体少ないだろう。
ミスティンキルとウィムリーフは、まるで惚けたかのように栗毛の髪の子供を見上げた。対するイーツシュレウはそんな彼らの様を見て、面白そうにくすりと笑うと言葉を続けた。
「……何ものも司らぬということは――おのが持ち得る力の限りにおいてだけれど――神としての力を自由に使えるということ。だからだ。かつて“自由なる者”イーツシュレウは望んでこの世界に来た。膨大な魔力の封印を見守るために」
「で、ではイーツシュレウ様! ならば今こそ、その封印を解くときなのです。……あたしたちが住むアリューザ・ガルドが色あせてしまったのは魔導の封印が原因だと、“炎の界”の長、龍王イリリエン様から聞いています。だからこそ、あたしたちがここに来たわけで……」
ウィムリーフの口調が先ほどまでとはがらりと変わったことに、ミスティンキルは苦笑を漏らした。分からないでもない。あの小柄な少年が、その実は神々のうちの一人だというのだから。だが、厳格な龍王イリリエンと比べれば、目の上を浮遊するこの少年神は、はるかに穏和な性格をしているようだ。
「しかしさ、イーツシュレウ。ディトゥア神族だってんなら、わざわざおれたちがここまで来なくても、あんたがさっさと封印を解いちまえば事は収まったんじゃないのか? それだけの力は持っているんだろう?! ……痛てて……ウィム……」
ウィムリーフの言葉に、間髪入れずにミスティンキルは言った。それに対して、神様に対してなんて口の利きようなの?! と言わんばかりに、ウィムリーフは彼の両手首を強くつねりあげるのだった。吊り下げられる格好を強いられているミスティンキルにはなすすべがない。
だがイーツシュレウは、とくに気分を害したようでもなさそうだ。
「龍人。君の言い分も身にしみて分かる。けれどもそれだけは……出来ないんだ。“自由なる者”イーツシュレウだって、ディトゥアとしての役割を越えた権限を行使することは叶わないから。偉大なるアリュゼル神族が、世界の存在そのものをもたらす。われらディトゥア神族はアリュゼルに臣従し、それら世界の各事象を司る。……アリュゼルやディトゥアの神々のなかには、単体の事象に束縛されない例外もおろうが、数は少ない(冥王ザビュールや宵闇の公子レオズスのようにな)。だが君たち人間が創造されて以来、運命を切り開き“歴史”という物語を紡ぎゆく役割を担うのは、大概において人間のみなのだ。だからイーツシュレウにたとえ力があろうとも、魔導の封印を解くことは、してはならない。……まあ、本音を言ってしまうとだ。なんにも出来ずに手をこまぬくしかないというのは、イーツシュレウとしても歯がゆいことなんだがな。実に……」
イーツシュレウは腕を組んで顔をしかめると、もっともらしくうんうんと唸ってみせた。
――我らやディトゥアの神々は、いかなる世界の潮流に対しても、自ら率先して新たな流れを作ることを禁じ手としている。運命を切り開く役割というのは、唯一人間のみ有しているのだ――
そういえば、龍王も同じようなことを言っていたのをミスティンキルは思い出した。
先ほど湖中に落下しずぶ濡れとなったミスティンキルは、衣服から伝わる水の冷たさのためではなく身震いした。
自分自身が運命を切り開こうとしている。歴史を紡ごうとしている。おそらく後に編纂されるであろうウィムリーフの冒険誌によって、自分達の名前は世界中を駆けめぐるに違いない。増長しようとする生来の性分を何とか抑えながらも、高ぶる快感は収まらない。そのためにミスティンキルは震えるのだった。
◆◆◆◆
そうしているうちに彼らは塔の頂へとたどり着いた。白を基調としていながらも、時折虹色の光沢を放つ、真珠の床に降り立った。この尖塔はその名の通り、上るにつれて筒が狭くなっており、ここ頂上部は下層部からするとはるかに小さい。安宿の二部屋分ほどの中にすっぽりと収まるのではないかとすら思える。
そして――彼ら三人のちょうど真上には、巨大な円盾のような蓋が存在している。蓋を通してすら、内部にある膨大な魔力がびしびしと肌に伝わってくる。ごくり、とミスティンキルは喉を鳴らした。
目指していた地にようやく到着したミスティンキルがまずはじめに行ったことは――冷たい水を含んで重くなった赤い上衣と靴を脱ぎ捨てることだった。
この突然の行動にはさすがのディトゥア神の一人とはいえ、呆気にとられるほかない。我に返って制止しようとしたウィムリーフが言葉を放つ前に、彼はとうとう下衣のみの姿となってしまった。
「ウィム……言いてえことはだいたい分かる。……けど、あんなずぶ濡れの服着たままだったら風邪ひいちまうだろうが」
二の句どころか一言も告げられなかった、口を大きく開いたままのウィムリーフに対して、とくに悪びれる様子もなく、ミスティンキルは言い切った。
一瞬の沈黙が覆ったあと、イーツシュレウがぽつりと漏らした。
「……人間とは豪胆になったものだな。かつてここにやって来た魔導師達は、それは慎重だったものだが。千年も時が流れると人の考え方も様変わりするというんだな」
「そうじゃなくて……ミストの言動が独特すぎるんです……さすがのあたしでも、今回の行動だけは予想できなかったわ……」
(あたしたちは、神様を御前にしているっていうのよ、ミスト。それなのにあんたのする事ときたら……)
頭が痛い。とうに怒りを通り越してしまったウィムリーフは、もはや指一本を額に当てて、大きく溜息をつくほか無かった。
「ふうん……。では事が済むまでの間、服を乾かすようにと、精霊達に頼むとするか」
ウィムリーフはぺこりと頭を下げた。
「さて、と。身軽になったところで、さっさとケリをつけるとしようぜ! この分厚い蓋を開ければいいんだろう?」
「まあそう急くな、龍人。間もなく夜の刻が訪れる。その時こそアリューザ・ガルドとの次元が繋がるのだ――ほら、見やれ」
羽根を持つ小さな精霊達がやって来て二言三言話した後、イーツシュレウはミスティンキルの頭の高さまで浮かび上がり、前方の虚空を――星々が瞬く暗黒の宙を指さした。
やがてその宙の中からぼんやりと、巨大な“もの”が姿を現しはじめた。やがてくっきりとした輪郭を描き出す。彫像か、はたまた岸壁か。途方もなく高くそそり立つその巨大かつ堅牢な塔の頂では、山々が連なるように円をつくる。そして褪せた青が山々の円冠の中を彩る。その青は――水……海なのだろうか? さらにその中心部、かすかに小さく緑色が見て取れる。二粒の豆のようにすら見える小さなその緑は、ややもくすんで見えるが、それでもなお確固たる存在感を持っていた。陸地だ。
「あれこそが、人の住む世界――アリューザ・ガルドだ」
イーツシュレウは言った。
物質界、人間達の住まうアリューザ・ガルドは広い――だが、そこから繋がる諸次元とは、人の子では想像だに出来ないまでに広大だったのだ。果てもなく。
しばし、二人は言葉を失った。
◆◆◆◆
「こ、これが……アリューザ・ガルドのすべてだってのか?!」
しばらく後に、ようやくミスティンキルが発した言葉だった。彼の横に立つウィムリーフは、手を口に当ててその世界の様を凝視するしか出来ないでいる。
「どうだ、驚いただろう? 翼人に龍人!」
イーツシュレウは彼らの周囲をくるくると飛び回りながら、なぜか自慢げに言ってのける。
「こんなものを見せられて驚くなという方が無理ですよ……」
ようやくウィムリーフが、抑揚少なめに口を利いた。
「信じられない……長い筒の頂上にあたしたちの住んでる大地があって……海が広がっていて……さらに周囲を山が取り囲んでるなんて……。じゃあアリューザ・ガルドの底って、一体どうなっているんだろう……」
「奇っ怪きわまりないけれども、底なんて概念は無いらしいぞ。延々と果てなく、あの絶壁は続いてると言われている。この月は、アリューザ・ガルドと“幽想の界”とを結ぶ役割をも果たしているために、『死者の魂が見るアリューザ・ガルド』というのがどんなものかを、こうしてかいま見ることが出来るわけだけれども……」
ふわりと浮かんだまま手を後ろに組み、まるで学び子達に教え説くかのようにイーツシュレウが言った。
「アリューザ・ガルドに住む生きている人間にとっては、世界に果てなど存在しない。いくら外洋に出てもあるのはただ一面の海だけ。けれども、死者の魂にとっては違う。死した人の魂は海を渡り、いや果てにある“果ての山々”すらも越えるのだ。ほら、円環状に連なるあの山々がそれだな。……そして山を越した魂はいよいよ、アリューザ・ガルドの岸壁にたどり着くわけだが、ここで生前の行いに対して裁きを受けることになる。無垢な者も罪人も、基本的には分け隔てなくこの月へと登り来る。そしてさらに次元を越えて“幽想の界”にて住まうわけだ。……だけれど、あまりにも業が過ぎた魂は、あの岸壁から突き落とされ、まさしく永遠に救われることが許されず落ち続ける――こう言われているな」
そこまで言うと、イーツシュレウはくるりと二人の方を振り返った。
「これが、アリューザ・ガルドだ」
「……さっきから思ってたんだけど……あんたって、見かけの割には意外と物知りなんだな」
ミスティンキルにとっては、そう言うほか無かった。
「む。なんだか、あまり嬉しくない褒められ方をされてるようだけれども……まあいい」
イーツシュレウは口を尖らせた。
「“自由なる者”には司るものがないから、一つところに束縛されない。だからたまに、気が向いたときには次元の狭間を越えて“イャオエコの図書館”で本を読んだりもする。イーツシュレウはそこで得た知識を披露しているに過ぎない。『受け売り』とかいうやつなのかもしれないな。けれども人間にとってアリューザ・ガルドの全容を知るなど、今の世を生きる者のなかでは君達が初めてだろうさ」
「確かに……これってとんでもなく貴重な体験だわ。お爺さまたちだってこんな事知らないはずだし……」
アリューザ・ガルドに向かって凝視を続けながら、ウィムリーフは小声でひとりごちた。
「……いよいよ時は満ちた」
イーツシュレウは真顔で、宣告するように言い放った。あどけない少年の声色でありながらも、その言葉の端々には神でしか具現出来ないであろう威厳に満ち満ちているのだった。
「アリューザ・ガルドは夜の刻を迎え、今や月の界と完全に繋がった。さあ、歴史を刻む人間よ、褪せた色を戻すために、今こそこの蓋を開けて、封じられたる魔導を解き放つのだ! ……事が為し遂げられたその時、イーツシュレウは力を放ち、君達をアリューザ・ガルドへ帰還させる!」
「おう! とっととケリをつける」
ミスティンキルは力強く答え、イーツシュレウの頭をぽんぽんとはたいた。子供扱いされたその神は、不服そうに頬を膨らませ灰色の瞳でにらんだ。
「おれたちの最初の冒険誌の締めくくり……きちんと書いてくれよ、ウィム!」
ウィムリーフは頷く。
そして二人は首を上に向け、鈍色の巨大な蓋を見やった。
歴史を動かすということ。
そのとてつもない出来事に今、真っ向から対峙しているがために、かつて無いほどに緊張はいや増し、自然と鼓動が早まっていく。手足を流れる血潮の音すら聞こえるようだ。
だが、それと共にミスティンキルは、自分の内に秘められた赤い魔力が徐々に膨張していくのを感じていた。膨大な力が沸き上がり気分を高揚させていく。
そして申し合わせたかのように――二人は同時に跳ね上がった!




