第四章 龍王イリリエン (四)
(四)
星々が瞬くこの空間に在るのは、ミスティンキルと龍王の二者のみ。月へ向かう門も消え失せて、そして銀髪の彼女も――。
ミスティンキルは、今まで高揚していたおのれの気分が急に醒めていくのが分かった。それは、あるべきはずの存在が無いことに対する憂いのためだ。
ウィムリーフ。
時には口やかましくも感じられる彼女が――常に一緒にいたはずのウィムリーフが、姿を消した。この空間の暗がりのどこかに隠れ潜んでいるわけではない。
彼女の気配が全く感じ取れない。それは、彼女と出会ってからの五ヶ月間で、全く思いもつかないことだったし、おそらくこれからも彼女との旅が続くものと思っていたというのに。
「ウィムっ! どこに行ったんだ?!」
ついにたまらず、ミスティンキルは声を周囲に響かせるが、快活で暖かみのあるあの声を聞くことはなかった。ミスティンキルの表情はこわばり、胸中は不安と焦りとによって苛まれ、沈んでいく。
そんな彼の様子を知ってか知らずか、龍王は彼を見下ろしつつ、相も変わらず威厳のある不可思議な声をわんわんと響かせるのだった。
【“炎の司”の地位ではもの足りず、さらに龍化をも望むか。たしかに、ぬしは強い力を秘めている。まったき赤という純粋な“原初の色”、強大な魔力をな】
「ウィムは……ウィムリーフは、どこに行ったんです? さっきまで、ここにいたはずだってのに」
【ふむ、気づいたか。龍化の試練に際して、他者が介在することは望ましくない。だからあの娘はここにはいないのだ。……どこに行ったのか、ひどく懸念しているな?】
深紅の龍イリリエンは言葉を止め、黄金に輝く両の瞳でミスティンキルを凝視した。心の奥底までも貫くような視線に対してあくまでも抗うように、ミスティンキルは毅然とした表情をあらわし、龍王の眼前まで飛び上がった。両者は目をそらすことなく、真向かいからお互いを見据える。
先に言葉を発したのは龍王だった。
【……アザスタンに命じ、あの娘には先に月の界へと赴かせた】
「なんだって?!」
龍王の言葉を聞いた途端、今まで隠していた感情を露わにし、ミスティンキルは龍王をにらんだ。
「だったらおれも、行かなきゃならねえ! 月へ行く門を出してください!」
ミスティンキルの切実な願いとは裏腹に、龍王は厳しい口調で言った。
【それはならぬ。エウレ・デュア《はらからの子》。龍化の試練を望んだ者が、自ら資格を放棄することは許されぬ。ぬしが龍となるに値する者かどうか、イリリエンが見極める。……だが、どうやら今のぬしには困難とみえる。そら、ぬしの心に渦巻いている感情は何だ? 孤独に対する恐怖か? 私に対する憤りか?】
図星をつかれたミスティンキルは顔をしかめた。
一方のイリリエンは、なおも問いかけてくる。
【さて、ぬしの持つ色がよう見えるわ。まことに赤き色を持つ者よ、ぬしは赤き色に何を想うのか?】
「おれにはそんなことよりも……!」
ミスティンキルは焦りと苛立ちを露わに返答した。
【今は私の問いに答えよ! ぬしは、答えなければならない!】
龍王は有無を言わさないほどの強い圧迫感を放った。龍の言葉それそのものに力があることを、あらためてミスティンキルは思い知るのだった。
重圧をまともに食らった若者の体は金縛りにかかり、まったく動けなくなった。出来ることと言えばただ、小さく舌打ちをして顔をしかめ、悪態をつくくらいのものだ。
この場に及んで龍王はなぜ謎かけなどをしてくるのか、ミスティンキルには理解できなかった。龍化の試練を早いところ終わらせる必要があるというのに。そしてウィムリーフのもとに行き、彼女の顔を見て、安心したいのだ。今の自分が滑稽なまでに狼狽しているのが分かるが、裏返して言えば自分にとって彼女の存在こそ本当に大事なものだったのだ。今、ミスティンキルにはそれがはっきりと分かった。
だというのにイリリエンは謎かけなどをして無駄に時間を長引かせているだけではないのか?
(邪魔者め!)
ミスティンキルは強い憤りを覚えた。
(赤い力に何を連想するのか、だと? それは……そう、激しく燃える炎だ! おれの持つ魔力を解放して、この偏屈な龍王様に一泡吹かせてやりてえもんだ!)
そう思った途端、ミスティンキルの全身から赤い輝きが放たれるようになった。身体の奥底に息づいている多大な魔力が現れようとしているのだろうか。怒りという激しい感情とともに吹き出す魔力は、さぞかし強烈な威力をもって発動されることだろう。司の長の館で魔力を顕現させた時と同じか、それ以上に。
「おれにとっての赤とは、炎だ。真っ赤に燃えさかる炎だ!」
ミスティンキルは宣言した。
◆◆◆◆
だが、そんなミスティンキルの心の奥底を射抜くような黄金色の瞳がきらりと輝く。
【……なるほど。ぬしにとっての赤とは業火に他ならないというのだな? そして炎をもって、おのが力がいかに多大なものかを示しさえすれば、この私に認められると思ったか】
龍王に心を読みとられたと悟ったミスティンキルは動揺するが、それでも小さく頷いた。
【甘いな。そもそも炎は、赤という事象の持つ象徴のひとつに過ぎぬ。それに龍化の試練は、ぬしが考えるような生半可なものではないと知れ!】
イリリエンは声をくぐもらせて笑い――次にその巨大な口を、ミスティンキルに向けてがばりと大きく開いた。巨大で鋭利な牙が並ぶ口内のさらに奥には、ちろちろと炎の玉が見え隠れしている。球状に凝縮されたその炎の色は赤ではなく、眩しいまでの白い輝きを放っており、尋常ならざる焦熱を宿らせているのに違いない。
つまり龍化の試練とは、龍王が放つ白色の炎に耐え抜き、そして打ち勝つことに他ならないのだった。そしてそれは、およそ並の龍人では到底、耐えうるものではないのだ。
かつて暗黒の神、冥王ザビュールがアリューザ・ガルドに降臨した折りに、イリリエンは龍達の先頭に立って“魔界”に乗り込みザビュールと対峙したという。その時に龍王の放った炎は壮絶なまでの光輝に満ちあふれ、ザビュールその人にこそ威力が及ばなかったものの、冥王直属の最高位の魔族すなわち天魔の幾人かを屠ったと言われている。
熾烈な炎が今まさに放たれようとしているのか――。
(……おれには敵いっこねえ!)
ミスティンキルは、自分が敗れ去ることを直感した。この暗黒の空間一帯が白一色の炎に覆われ、抗う時間すら与えられずに、自分の存在は跡形もなくなってしまう――死に至る情景がまざまざと脳裏に浮かび上がってくる。
そしてミスティンキルは悟った。
(だからなのか。ウィムリーフを先に行かせたっていうわけは……)
龍王の炎を浴びれば、自分のみならずウィムリーフまでが消え去る。それでは月の界へ行き、魔導の封印を解くという目的が果たせなくなってしまう。そしてそれは龍王の望むところではない。龍王は端から、ミスティンキルが試練に破れることを見越してウィムリーフを行かせたのだ。
(これで終いになるんだったなら、龍になるなどと思わなければよかった!)
ミスティンキルは絶望を覚えた。
(今のおれにとって、龍になることは高望みだったのか。そしてそのせいでおれは死んじまうっていうのか?! そんなのはいやだ、ウィム!! ……助けてくれ……)
【ならば、ぬしの願いは――龍化は果たせぬな】
龍王は口を閉じた。あたかも、ミスティンキルの痛切な心の叫びを聞き届けたかのように。
【ミスティンキルよ。お前自身は真の強さを持ち得ておらぬ。それではこの龍王の与える試練、つまり“蒼白たる輝焔”にはとうてい耐えられぬだろう。あの娘のことで心ここにあらぬ状態であれば、なおのことだ】
イリリエンはそう言って天を仰ぎ、鐘のような声を打ち鳴らして朗々と咆吼した。すると暗黒の天上からは月へと向かう門が再び姿を現した。
【ぬしが思い焦がれている“風の司”の娘に免じて、ぬしに戒めを与えるのはやめおこう。……風に護られし孤独の炎、赤のミスティンキルよ。月の界への扉をくぐれ。そこでぬしの相棒が待っている】
その時、ミスティンキルを縛りつけていた圧力がようやく解かれた。
「え……?」
予想だにしなかった龍王の言動だっただけに、ミスティンキルは戸惑った。訝しそうな表情を浮かべて龍王を見る。
「行っても……いいんですか?」
【今は、このイリリエンが龍化の試練を与える時ではない。先ほど言ったとおりな】
「真の強さとやらを、おれが持っていないから……? じゃあ、真の強さっていうのは?」
【それはぬしが、これから身をもって知るべきこと。私から答えを導き出すべきではない。……たしかに、魔力の強大さにのみ言及するのならば、ぬしの力は龍となるに十分値する。しかし、試練は先延ばしだ。これからのぬしに待ち受けているであろう運命をくぐり抜け、いずれぬしが強さを得たその時こそ、龍化は果たされよう】
それを聞いてミスティンキルは落胆したが、同時に安堵をも感じた。試練を受けることが出来なかったというのは悔しく、自分の至らなさには気落ちした。しかしそれにも勝る別の感情があったのだ。ほかでもない、ウィムリーフに再会できるという喜びだ。
波が退くように彼の感情が静まっていくにつれて、それまで身体に浮かび上がりまといついていた赤い力は、再び体内の奥底へと戻っていった。そしてそれと共に、かつて自分が交わした約束の言葉の一節を思い出した。
――ただひとつ、わしと約束をしてくれ。今後どのようなことが起きようとも自分の力を否定せず、かつ増長しないことをな――
デ・イグに赴くにあたって“炎の司”達の館を訪れた際に、彼らとの間にいざこざが生じた。それを収めた司の長老エツェントゥーが、ミスティンキルに言った言葉であり、また約束事であった。
(エツェントゥー老……。どうやらおれは司の資格を得て、すっかりいい気になっちまっていたようです。これから魔導を解き放ってさらに力を得ることを夢見て……しまいには龍化だって簡単に出来る、そう思いこんでました。……おれは激しやすい。もっと、落ち着かなきゃならないのか……出来るのか、このおれに……?)
【真紅の魔力を持つミスティンキル。再び会う時を楽しみにしているぞ。さあ、今は行け。そして待ち受ける運命と対峙するのだ】
龍化が叶わなかったことに対して、ミスティンキルは後ろ髪を引かれる思いだったが、それでも思い直して答えた。
「また、来ます」
その表情は晴れやかだった。
ミスティンキルは翼をはためかせて飛び上がると、躊躇うことなく天上の門をくぐっていった。
(待ってろ、ウィム! おれも今から行くからな!)
こうして次元を跳躍するための“ことば”を放ち、ミスティンキルは転移していった。
◆◆◆◆
血気にはやる若者が門の向こうへと消え去ると、龍王の周囲の空間はゆっくりともとの姿に戻っていく。四界の事象が結集した、美しく幻想的な情景へと。
一息つくかのように、龍王は炎を帯びた息を鼻から吹き出すと、おのれの周囲に繭のような炎を形成し始めた。
しばらくのち、月と繋がる門の向こうから一つの姿が現れた。龍王に仕える戦士、アザスタンだ。彼は門から舞い降りると、イリリエンの胸先近くで滞空し、恭しく一礼した。
【ただ今、戻りました。“風の司”の娘ウィムリーフを、“自由なる者”イーツシュレウ殿のところまで案内しておりましたゆえ、少々遅くなりましたが。……あの赤目の奴はどうしました? 龍化を果たしましたか?】
蒼龍の戦士は言った。
【龍化は叶わなかった。しかしあれもまた今し方、月へと赴いていった。アザスタン、おぬしまた道先案内をつとめるか? おそらくミスティンキルは、門を抜けた先に娘が待っているものと思いこんでいるぞ】
いいえ、とアザスタンはかぶりを振った。
【あやつならばなんとかしてウィムリーフのもとにたどり着こうとするでしょう。どうやら、お互い引き合わせるような力を持つようですので】
イリリエンは目を細めて小さく息を吐いた。
【ほう。そこまで行動を読みとるとは、ぬしにしては珍しく人間に興味を示しているな。なぜか?】
【あの娘に触発されたためでありましょうか。相手が龍であるからといって怖じ気づかない態度は見上げたものです。それでありながら礼儀もわきまえている。あのアイバーフィンをたいそう気に入りました】
【ではミスティンキルはどうだ? あれは以前のぬしのことを想起させるほど似通っている。ぬしがはじめて我がもとに来た時を思い出すわ……】
【あやつなどは、どうでもいいことです。奴はものを知らなさすぎる。龍王様に対しても、無礼な口を叩きおって!】
アザスタンは言い捨てた。かつての青臭かった自分も、やはり向こう見ずで血気盛んであったことを思い出したためなのだろう。
猛き蒼龍アザスタンはもともと、龍化を果たしたドゥロームだ。遡ること千四百年も昔、すでに“炎の司”としての地位を持っていた若き戦士アザスタンは、“炎の界”での試練で辛酸をなめた末にイリリエンのもとへたどり着いた。自分の持つ力がどれほどのものなのか、龍となるに相応しいか、試したかったのだ。
しかしイリリエンの与えた試練に打ち勝つことが出来ず、かろうじて命のみを留めてアリューザ・ガルドへと帰還した。それからしばらく時が流れ、アザスタンが司の長となるまでに鍛練を重ねたあと、再び彼は“炎の界”へと赴き、ついに龍化の資格を手に入れておのが身を蒼龍と転じた。
冥王降臨の暗黒時代には、イリリエンと共に“魔界”に乗り込んだが、この時にはよく龍王を守護した。その功労もあって龍王の側近に抜擢されて、二振りの剣を持つ龍戦士としての姿を象るようになり、今に至っている。
では、あの赤目の若者は、今後どのような人生をたどっていくのだろうか?
ウィムリーフのみならず、ミスティンキルにも興味が湧いているということを、悔しくもアザスタンは認めざるを得なかった。性格が似た者ゆえに疎ましく感じられる一方、力を持つ者同士ゆえに惹かれるというのだろうか。
【……龍王様。しばらくの間、私はおいとまをいただきたく存じます。久方ぶりに、アリューザ・ガルドへ行きたいのです。彼らの動向を見据えるためにも】
決意を胸に、アザスタンは上奏した。
【――いよいよ運命は廻りだし、“物語”が始まる――】
預言者のごとく、龍王は言う。
【……よかろう、アザスタン。私の目の代わりとなって、あの者達の紡ぐ物語の行く末を見届けるのだ】




