第四章 龍王イリリエン (三)
(三)
――魔導の復活こそが、色を甦らせる唯一の手段だ――
龍王イリリエンの言葉の意味するところが、ミスティンキルには理解出来なかった。
生まれてからこのかた、彼は本物の魔法使いに出会ったことがない。ミスティンキルが見かける魔法というのは、盛り場界隈のまじない師達があやつる“まじない”くらいなものだ。しかし、彼らの操る魔法はおしなべて拙く効果に乏しく、ミスティンキルからすれば“うさんくさいもの”でしかなかった。
かつて魔法の力は、今と比べものにならないほど強力だったという。
今より七百年ほど遡り、アリューザ・ガルドには強大な魔法体系――つまり魔導が存在し、時の魔導師達によって研究が進められていた。
だがある時、魔導を行使する源である魔力が制御できなくなり、膨大な魔力は氾濫を起こしてアリューザ・ガルドに壊滅的な打撃を与えた。これが世に言う、“魔導の暴走”だ。
状況を憂い、暴走を食い止めたのは、ディトゥア神族の中でも闇を司るレオズスだった。しかし彼は“混沌”という太古の絶対的な力に魅入られており、その力を利用し(一方では利用され)アリューザ・ガルドを恐怖でもって君臨しようと企んだのだ。だが宵闇の公子の野望は、三人の英雄によって潰え去った。
それ以降、魔導の体系はいずこかへ封印されて今日に至っている。
これくらいであればミスティンキルも聞き知っていた。とくに大魔導師ウェインディル達が卓越した魔法と剣の技を繰り出し、ついに“宵闇の公子”レオズスを倒すくだりなどは、吟い手が好んで唄う勲のひとつで、ミスティンキルも気に入っていた。
だがもはや“魔導の暴走”の災禍などは、遠く過ぎ去った大昔の事件でしかない。それ以上魔法に対して興味を見いだすこともなく、ミスティンキルは漁を営んできたのだ。
魔法に興味を持たない他の人間達と同様、魔法と色の相関関係などをミスティンキルが知っているはずもない。
だから今、イリリエンが与えようとしている使命に対して、「魔法なんて得体の知れないものなんか、手に負えない。出来るわけがない」と躊躇したとしても、それは仕方のないことなのだ。
しかし、ミスティンキルは違った。
彼はほんの一瞬だけ思考を巡らせると、こう答えるのだった。
「わかりました」
◆◆◆◆
「ええ?!」
ウィムリーフは、いとも簡単に承諾してしまった龍人の腕の中で驚嘆の声をあげた。彼女は起きあがるとすぐさまミスティンキルに対峙する。
「ちょっと待ってよ。……こんな大事をそんな簡単に受けちゃっていいわけ?! それとも魔導が復活すれば、なぜ色が元通りになるのか、理由をミストは知ってるの? あたしは知らないけど……魔導と色との間に関係があるというの?」
「そんな難しいことは分からねえ」
ミスティンキルは即座に言葉を返した。
「けれど、魔導を解き放つことしか世界の色を元通りにする方法がないってんなら、やってのけるしかないだろ。だいたい面白そうじゃねえか。おれたちが魔導を復活させた、なんていったら、それこそ歴史に名が残るに違いないぜ?」
明らかに彼は状況を楽しんでいた。炎の司となったうえに、龍王はミスティンキルのことを“力ある者”として認め、使命を与えようとしたのだ。
これに応えないわけにはいかない。ミスティンキルにとって躊躇うことなどみじんも考えられなかった。イリリエンから直々に認められたドゥロームなど、そうそういるわけがない! ひょっとしたら魔導の力すらも自分の手に入れることが出来るのかも知れないのだ。そうなれば、自分を蔑視しようなどとは誰も思わないだろう。
自分の赤い瞳が嫌忌の象徴ではなく、多大なる力の象徴であることを、はっきりとミスティンキルは自覚した。
(アリューザ・ガルドに戻ったら、まず絶対に故郷に戻ってやる! そして……見せつけてやる!)
鬱積していた感情はいまや払拭された。代わりに、少しばかりの高慢が現れたのだが、心の解放を感じ取っているミスティンキルがそれに気づくはずもなかった。
「……分からねえ……面白そう……」
ウィムリーフは言葉を反復する。明らかに呆れかえっているのが見て取れる。彼女はため息をついて、次に大きく息を吸い込んだ。過去の経験から、この次の言動およそどういったものになるのか、ミスティンキルには見当がつく。
そして、ミスティンキルの予測は違わなかった。
「ミスト! あんたはねえ、ろくに考えもせずに感情だけを突っ走らせて……そんな簡単に答えを出しちゃっていいと思ってるの?!」
感情を露わにして声を張り上げすぎたと思ったのか、ウィムリーフは声の調子をやや落とした。
「……だいたい、魔導を復活させるなんてそんな大それたこと、あたしたちがやり遂げられるかどうか、分からないじゃないのよ」
「じゃあほかに、どうすればいい? おれたちの力を見込んでるからこそ、イリリエンはおれたちに使命を与えようとしてるんじゃねえのか? 理屈なんざ、あとまわしだ。せっかく苦労してここまでたどり着いたんだから、あともう少し、やってやろうじゃねえか。……なに、おれたちならば出来る。そう信じようぜ」
【……さて、元気があるというのはいいものだが……龍王様を御前にしながら勝手に口論をはじめるというのは感心しないぞ】
上方からアザスタンが、珍しくもやや困惑した口調で言った。
【もっとも……蒼龍たるわしの炎を浴びてみたいというのなら、望みどおりそうもしようがな!】
アザスタンは急に声色を変えた。人間とそう変わらない大きさのはずの彼の姿が、ひどく恐ろしく大きなものに見えてくる。蒼龍のイメージが、二人の脳裏に浮かび上がる。
さすがに二人は喧嘩を取りやめた。ドゥール・サウベレーンの逆鱗に触れればどんな目に遭うのかは知らないが、無事では済まないことは確かだろう。
だが、イリリエンは鼻から火の息を漏らしただけで、大して気にも留めていないようだった。龍王は淡々と和音を重ねた。
【……“風の司”の問いに対しては、私が答えられる。それで納得し、ぬし達が使命を受け入れることを願う。魔導についての知識は必要ない。……私とて魔導のことはよく解さない。封印を解く者の器の大きさこそが重要なのだ。そしてぬし達は十分に力を――魔力を持っておるぞ。おそらくはぬし達でなければこなせないだろう。色の再生という使命をな】
龍王の言葉を聞いたウィムリーフは深々と頭を下げた。
「過分なお言葉を拝領し、ありがたく存じます。けれど、もう一つ教えていただけませんでしょうか? 魔法と色との関係について……。なぜ魔導の復活が、色の再生に関わっているのでしょうか?」
◆◆◆◆
イリリエンは金色の目を細め、二人を見下ろしながら語り始めた。
【魔力とは、人間のみが持っているものではない。アリューザ・ガルドの世界そのものも魔力に満ちているのだ。たとえば草木、岩、河川など、ありとあらゆるものに大小の差異こそあれ魔力が宿っている。――そしてこれこそ、世界の核たる摂理よ。これを理解している人間など、今の世にいるかどうか訝しいが。かつての魔導師達は、おのが魔力のみならず、これら事物に宿る魔力をも抽出し、術を行使していたようだ】
【そして魔法と色とは密接に結びついている。なぜならば色とは、魔力そのものを帯びているからだ。それはアリューザ・ガルド創造の折り、それまで色の存在があり得なかった世界に、いずこからともなく色が流入したことによるのだ。魔力を伴った“原初の色”と呼ばれる色の帯が互いに織り編まれていくことでアリューザ・ガルドは彩られ、魔力に満ちていった】
【創世の時が終わりを告げると、“原初の色”は事物の奥深くに隠れ、表層には現れなくなった。しかし依然“原初の色”は確かに存在する。“留まる色”と“流転する色”とになってな。“留まる色”は、事物の奥深くに内包されることで恒久的に魔力と色をもたらす。一方、“流転する色”は世界の深層部を流れている。そして“原初の色”を常に循環させて、事物に鮮やかな彩りを保たせているのだ】
【川の流れが止まれば、清流は濁ってしまうもの。同様に、“原初の色”の流れが淀んでしまえば、世界の色もくすんでしまうのだ。かつての人間が“魔導の暴走”を経て、力ある魔導を封じたのはいい。……が彼らはそれと知らず、“流転する色”をもせき止めてしまった。幾百年を越えた今、その影響が現れ始めたのだ。これが世界に起こりつつある異変の原因よ】
だからこそ、“原初の色”の流れの閉塞を解くためには、魔導を解放するほか無い。
龍王の言葉にウィムリーフは納得したようだ。
ミスティンキルはあとでウィムリーフに教えてもらおうと思った。龍の言葉はまどろっこしく、なかなか意味を把握できない。加えてべつに世界の構造についての説明を受けなくても、ミスティンキルは使命を受諾するつもりだったのだ。
「ではこのまま色あせたままだと、アリューザ・ガルドから魔力は無くなってしまうというのですか?」
ウィムリーフの問いかけを龍王は否定した。
【魔力の全喪失となれば、色の概念そのものが無くなることを意味する。幸いにもそのような事態には至っておらぬ。“留まる色”が依然存在し続けているゆえにな。――よって事態そのものは、世界を根本から揺るがす大事――破滅には至らない】
「けれども突然起きたこの異変のことを、人々は非常に恐れています。凶事の前触れなのかとか、何かの呪いが発動したのか、とか考えている人も多くいるようですし、あたしも不安でした。……不安が募った人間達によって、かえって大事が引き起こされる可能性というのも考えられます」
それを聞いた龍王は満足して、笑ったかのようにも思えた。
【ふむ、鋭い感性よな、“風の司”。ぬしの言うとおりだ。突如変容した事態をたやすく許容できるほどに、人間の心とは柔軟かつ強いと言えるか? それはぬしら人間であれば承知のことだろう】
人心が不安に陥れば、それを巧みに利用しようとする輩も現れるだろう。冥王降臨をとなえる崇拝者も出てくるだろうし、戦乱の世を望む野心に満ちた者も出てくるかも知れない。過去の歴史が証明しているように。
「そうならないためにも、おれたちが魔導を解き放って、世界の色を元通りにしてみせる!」
ミスティンキルは言った。
「なあウィム。こいつはとんでもない大冒険ってやつだぜ。やってみようじゃないか」
ウィムリーフはくすりと笑った。
「面白そう……か。さっきミストの言ったこと、確かにそのとおりかもね。ともあれまあ、冒険記の編纂にはだいぶ手間取りそうね……あんたにももちろん手伝ってもらうわよ」
「手伝えって……おれは、字の読み書きなんて得意じゃないぞ」
「あら、じゃああたしが教えてあげるわ。出来ないなんて言わせないからね。さっきから自信満々に言ってのけてるんだから、これもやってのけてちょうだいな!」
まず最初に故郷に戻るというミスティンキルの予定は、早くも崩れそうになっている。が、ミスティンキルも言い返すことが出来ず、観念するほか無かった。
小悪魔のように笑ったウィムリーフは次に畏まり、右手を胸に当てて龍王に誓った。
「わかりました、龍王様。この変事に際して、あたしたちは微力を尽くしたいと思います」
「……やるよ。龍王様」
やや意気消沈したミスティンキルが続けて言った。
【なれば今こそ、ぬしらが為すべきことを告げようぞ!】
龍王は高らかに声をあげた。
◆◆◆◆
【この周りを見てのとおり、我が宮殿には炎のみならず、風・水・土の界の力が集っている。なぜならそれは、三界とデ・イグとを繋ぐ“次元の扉”がこの宮にはあるからだ】
天上から流れ落ちる滝と、浮かぶ島々、そして吹き抜ける風は、“炎の界”では本来あり得ない存在だ。しかしこの球内に限っては、三界の事象が次元の壁を乗り越えてもたらされている。
【そしてそれ以外にも、いくつかの次元へ繋がる“扉”がある。力持つ若きエウレ・デュア《はらからの子》よ。“風の司”よ。私がぬしらに与える使命は、月に行き、その地に封印された魔導を解き放つことだ】
「月だって?」
ミスティンキルはあっけにとられた。
「あの、空に浮かんでいる月ですか?」
【アリューザ・ガルドの天上に浮かぶ星々とは、諸次元が放つ煌めきだ。この“炎の界”とて、アリューザ・ガルドから見れば煌々と光る星々のひとつなのだ。そして月もまた同じ。かの世界はアリューザ・ガルドと近しい位置に存在するため、ああも大きく見え、行き来も比較的たやすい。だからこそ人間は魔導をあの地に封印したのであろうな】
色のことや星のこと。その存在があまりにも当たり前だったために大して考えもしなかったことなのに、こうして聞く真実はあまりにも突飛なものだった。ミスティンキルもウィムリーフもぽかんと口を開けるほか無い。
「……書くことがまた増えたわ」
ウィムリーフの呟きが聞こえる。
「その月へ、どうやって行けばいいというんですか? アリューザ・ガルドに戻って、おれたちの翼で飛んで行けとでも?」
ミスティンキルが問いかけると、龍王はその雄大な二枚の翼を大きく横に広げる。と、翼からは竜巻のような螺旋を巻く炎が出現した。その炎は肥大化し、ミスティンキル達を包み込んだ次の瞬間、辺りの景色は一変した。
美しい遠景は今までどおり変化はなかったものの、ミスティンキル達を取り巻く赤い情景は消え失せ、かわって一帯は暗黒の空間と化した。
アリューザ・ガルドの奇麗な夜空を想起させるこの空間は、実のところ宇宙そのものと繋がっているのだろう。数え切れないほどの星々が全天に姿を見せている。これらすべてが他の次元の世界の放っている煌めきだというのだ。
真上を見上げると、ちょうど天頂にあたる部分に一つの門が出現していた。壮麗な二本の柱によって象られたその門は淡く銀色に輝いている。――月そのものを彷彿とさせるような、神秘的な色だ。
【この扉を越えれば月の世界へと転移する。その際に唱えよ。『ナク・エヴィエネテ』とな。……心の準備が出来たのなら、飛び立つがいい。あの地からアリューザ・ガルドへ戻るすべは、月に住む“自由なる者”が知っている】
ミスティンキルは思い出した。時は今しかない。ミスティンキルに残されたもう一つの願いを果たすには。
「イリリエン、今ひとつ聞きたいことがあるんです。このおれが、龍の力を持つことは出来るでしょうか?」
駄目でもともとと割り切り、ミスティンキルは龍王に問いかけた。
【ほう。龍化の資格をも求めるか、エウレ・デュアよ。まったき赤を身に有するミスティンキル……】
恐ろしいまでの低い声が鳴り響いたかと思うと、空間からはウィムリーフとアザスタンの姿は消えていた。ただ、ミスティンキルとイリリエンの姿のみが、暗黒の宙に浮かんでいた。