第四章 龍王イリリエン (二)
(二)
柔らかな表面から球の中に入るとそこは、手を伸ばしたわずか先の空間すら見通せない、炎の濃霧となっていた。そばにいるウィムリーフの顔さえかすんでよく見えない。だが、躊躇している場合ではない。アザスタンは先にこの中へと飛び込んでいるのだし、何より龍王が待っている。二人ははぐれないようにと手を取り、固く握りしめると、赤い闇の先を目指して羽ばたいた。彼女の感触はやや質感には乏しいが、それでもこうして触れられるというのは、物質界での姿を強く意識し続けていたためなのだろう。
まるで雲の中を飛んでいるようだ、と真横からウィムリーフの声が聞こえる。その声色から、彼女は自分以上に気分が高揚しているに違いないとミスティンキルは思った。ウィムリーフにとって最初となるこの冒険行は、幾昼夜、机に向かっても書き足りないほどに貴重で、素晴らしい体験になることは間違いないのだから。
逆にミスティンキルは浮かれがちな気分を抑え、努めて冷静になろうとしていた。龍王と対面した龍人が、果たして何人いるというのだろうか! 高ぶる鼓動を少しでも静めるために、彼は大きく息を吐いた。
ようやく雲を突破したかと思うと、息つく間もなくまた眼前にはすぐ次の雲の層が立ちふさがっていた。幾層もの雲をかき分け、二人は疾駆する。
しかしいくら行けども果てが見えない。これは“炎の界”のあやかしなのではないか、はたまたこのまま球を突き抜けて外に出てしまうのではないか、と不安がつのり始めた頃、ようやく二人の眼前の視界が開けたのだった。途端、雷鳴のような音が二人の鼓膜を響かせた。どうやらここから先は、静寂に覆われていたそれまでの空間とは明らかに異なっているようだ。
ミスティンキルとウィムリーフはその場で滞空し、しばし空間の様子に――超常の景色に魅入った。
広大な球内もまた外と同じく、炎によって形成され、橙色に彩られた空間が揺らめいている。だがここには、“炎の界”には無いはずのものがあった。土・水・風の要素が確立され、存在しているのだ。
自分達が入ってきた場所以外の三方は、天上から底に至るまで白いカーテンが垂れているよう。だが、雷のような轟音を響かせるそれは、実のところ水によって形成されているのだ。はるか高みから轟き流れ落ちる、一面の大瀑布。滝底の様子は舞い上がる水煙に隠れ、ようとして知れない。
この空間を吹き抜ける風が、滝の轟音と水を周囲一体に運ぶ。時折風は強く吹き、ミスティンキル達のところにまで水しぶきを届かせるのだが、“冷たい“という確かな感覚があるのは、かえって不思議に思えるのだった。球内を炎が支配しているというのに、熱さはまるで感じないのだから。
中空には、岩山を得た島々がいくつか浮遊していた。島の間を時々走る閃光こそ、大地の力“龍脈”だ。これが島々を繋ぎとめ、浮かぶ力を与えているのだろうか。
大地の力は水・風の力と融合し、島々の至る所に樹木を育んでいた。その枝葉は炎に彩られるが、決して木が燃え尽きることなど無い。
四つの事象が融和したこの様相を、ミスティンキルは純粋に“美しい”と感じた。
そしてこの空間の中央には炎の柱があった。球のはるか底から吹き上がっているそれは、中空で枝分かれし、中心部を守るかのように覆い囲んでいる。その中心部では、周囲の炎よりなお燦然と輝く炎が繭状に燃えているのが、枝越しからも見て取れる。あれこそが間違いなく――。
【力ある者よ。はらからの子――エウレ・デュアよ。来たな】
繭の中から発されたのは力強い和音。奇麗な高音と打ち響く低音が折り重なるその音こそ、いと高き龍の声に他ならない。
そして炎の繭は四散し、中から深紅の龍が――龍王イリリエンが姿を現した。と同時に、圧倒的な存在感から生じる、凄まじい力が二人を襲った。
◆◆◆◆
古来より現代に至るまで、神々の姿をかいま見た人間はほんの一握りにしかならない。神と対峙し、かつ会話を交わした人間となれば、さらに。
イリリエンの放つ莫大な神気に気圧されて、ミスティンキル達はまったく身動きがとれなくなってしまった。だが、それだけでもましと言える。かの龍こそは太古より生きる龍の王、そしてアリュゼル神族にも匹敵する力の持ち主。心弱き者は姿を直視するだけで、魂を簡単に抜かれてしまうだろうから。
――龍王様に対面するなどと大言壮語を吐きおって。お前などに出来るものか――
“司の長”ラデュヘンの放った言葉が、単なる侮辱ではなかったことをミスティンキルは思い知った。龍王に会うということは、それなりの決意が必要なのだ。
だが結果として、彼ら“司の長”が望んだところでイリリエンに会うことは叶わなかった。今、自分は出来た――。慢心ともいえる優越感が、頭をもたげようとしているのにミスティンキルは気づいた。それはある意味、痛快でもあった。“炎の界”は権威に寄りかかる長よりも、一介の漁師を選んだのだ。忌まわしいと言われ続けた、赤い力を持つ自分を。
「ようやくお出ましかい。龍王様」
ミスティンキルはぽつりとつぶやくと、ほくそ笑んだ。
だが。
【否。私は待っていたのだよ、同胞の子】
龍王はこのように言った。自分の些細な呟きが聞こえていたことを知り、ミスティンキルは驚いた。
【音として放たれた言葉は、多かれ少なかれ空間を揺らすということを知りおくのだな。ともあれ、苛烈な炎を乗り越えよくここまでたどり着いた。まさか風の司まで来ていようとは思いも寄らなかったものだが、嬉しく思うぞ。さあ、イリリエンのもとに来るがいい!】
イリリエンの言葉とともに、ようやく体の呪縛が解けた二人の前には、再びアザスタンが空間を渡って現れた。アザスタンは二人を先導し、龍王の御前まで行くと飛び上がり、龍王の頭の横で滞空した。
こうしてあらためて見上げると、イリリエンの巨躯にはやはり圧倒される。体は山のように大きく、アザスタンの龍戦士姿は、龍王の牙と同じくらいの大きさにしか見えない。
炎の繭を打ち払ったとはいえ、イリリエンの体には常時炎が取り巻いている。
ミスティンキルは、司の長の館で見た壁掛けを思い出した。長達が会議を行っていた部屋の奥にあった壁掛けの意匠は、炎に取り囲まれた雄々しい龍王が描かれていた。
しかし、イリリエンの醸し出す雰囲気は猛々しいだけではなく、優雅さをも兼ね備えている。
イリリエンの金色の瞳が二人をじいっと見つめ――龍王は声を放った。
【……私は力ある人間の来訪を待ち、デュンサアルの扉を介して呼び寄せようと試みていた。おそらくは、他の界の王達も同様に力ある者を呼び寄せていることだろうが、運命は私の方を向いていたようだな】
龍の発声の仕組みというのは明らかに人間とは異なっているようだが、いくつもの音を同時に発するイリリエンの声は神秘そのものを具現化したかのようだ。男声と女声が調和してひとつの音楽をなす合唱にも似ている。アルトツァーンのどこかの街で祭りが催されていたとき、そのような音楽を聴いたことをミスティンキルは思い出していた。
「ひとつお訊きして……よろしいのでしょうか?」
ウィムリーフの言葉に龍王は目を細め、肯定した。
「龍王様は、あたしたちが来ることを知ってらしたのですか?」
【名は……ミスティンキルにウィムリーフ、か。……今、ここにいるアザスタンから聞くまで、ぬしらの名前は知らなんだ。力を持つ者がデュンサアルに来ていたことのみ分かっていた。それがたまたま、ぬしらだったということだ】
イリリエンはしばし風の司の娘を凝視した。ウィムリーフもまた、龍王の瞳を見つめるが、緊張の極致にあるさまがうかがい知れる。息を止め、まばたきひとつしようとしない。
【……なるほど、風の王は、ぬしがこちらに来ていることを知ったら残念がるであろうな。ぬしが今、“風の界”に行っていれば、エンクィは間違いなくぬしに“使命”を与えたであろうに】
イリリエンは即座にウィムリーフの力のほどを見抜いたのだ。
「ありがとうございます。……こうして龍王様のご尊顔を拝したこと……それだけであたしはもう、胸がいっぱいです……」
念願叶ってイリリエンと会話が出来たことで、彼女は張りつめた緊張の糸がぷつりと切れたのか、くらりとバランスを崩し倒れてしまった。その体をミスティンキルは抱え上げる。
「龍王様。あなたならば知っていると思って……どうしても聞いておかなきゃならないことがあるんです」
いよいよ自分が出る幕なのだ、と考えたミスティンキルが口を開いた。心臓の音が頭に響いてくるかのようだ。
「今、アリューザ・ガルドでは変なことが起きているんです。こういうことを言って信じてもらえるか分からないが、世界の色が褪せている。草の色や空の色まで……。こんなことは今まで生きてきてはじめてで、周りの人間もどうしたらいいものだか途方に暮れてしまっている。……どうしてこうなったのか、どうすれば元に戻るのか、その方法を知らないでしょうか?」
「……あのね、ミスト。いつも言ってるけれど、説明するにしてもそれじゃあまりに言葉が足りないのよ。今さらどうこう言ってもしようがないから、あたしがあらためて……」
ミスティンキルの腕の中から彼を見上げ、いつもと変わらぬ様子でウィムリーフが諭しはじめる。またか、とミスティンキルは顔をしかめた。
【それには及ばぬ、“風の司”よ。我ら四界の王は、アリューザ・ガルドの情勢を見極めている。今、アリューザ・ガルドの色が褪せてきた原因も、それに対しなすべき手段も知っている。だが、我らやディトゥアの神々は、いかなる世界の潮流に対しても、自ら率先して新たな流れを作ることを禁じ手としている。運命を切り開く役割というのは、唯一人間のみ有しているのだ。四界の王が力ある人間の招来を願ったのは、なればこそ。使命を乗り越え、新しい流れを作るためである】
「だとすると、おれたちの手で、この異変を解決できるっていうんですか? どうやればいいんです?」
龍王の語る言葉は漠然としており、ミスティンキルはすべてを把握しきれなかったが、これだけはつかみ取った。どうやら本当に、世界の異変を正すのは自分達にかかっているのだということが。
【ことの発端は、封印された強大な魔法の力――すなわち魔導によるものだ。なればこそ、唯一のすべは、おのずから見えてこよう? これにより事態は収拾し、新たな運命が切り開かれて行くであろう】
龍王は言った。
【これは、力ある者だからこそ達成できることだ。……同胞の子よ。魔導を、解き放て!】