第四章 龍王イリリエン (一)
(一)
龍。
その風貌は、巨大なトカゲが大コウモリの翼を得た姿を連想させる。しかし、龍を獣として捉える人間はアリューザ・ガルドにいない。龍は生けるもの達の中でも超越した存在なのだから。
無双の猛々しさと膨大な魔力、深遠たる知性を所有する龍にかなう人間など、数少ない例外を除いてありはしないだろう。太古の時分から現在に至るまで、龍とはまさしく畏怖と驚異の象徴なのだ。
龍は孤高の存在であり、生まれ故郷の“炎の界”にあっても、またアリューザ・ガルドにあっても、他の者を寄せ付けることなくひっそりと棲んでいるという。しかし、彼らは世の中に背を向けているわけではない。冥王降臨の折りに“魔界”に攻め入ったり、魔導師に協力してラミシスの魔法障壁を打ち破ったりと、情勢によっては率先して動くこともある。
龍の姿態に酷似した生物として竜が存在する。“龍もどき”とも言われるこの巨大な化け物は、人に害をなすものとして恐れられている。獣達の長として認識されるのがゾアヴァンゲルだ。しかし、ゾアヴァンゲルは所詮獣の域を出る生物ではない。
古来より、竜殺しの勇者を讃えた伝承は世界中に数多く伝わっているが、龍を倒した者となると皆無に等しい。龍はよほどのことがない限り人間に危害を加えるようなことをしないし、そもそも龍の強大さを一介の人間と比較しようとすること自体、見当違いも甚だしいというものだ。
龍の体内には灼熱の炎が宿っているという。この炎が、自身の魔力の産物なのか、それとも“炎の界”から転移されてくる異次元の炎なのか、それは定かではない。確かなのは、激昂した龍の放つ業火に巻かれれば一巻の終わりであるということだ。
龍達の語ることには注意を払わなければならない。龍の言葉そのものに魔力が込められているために、何も警戒しない人間が接すれば、たやすく虜となってしまうだろう――。
◆◆◆◆
その驚異の存在が“炎の界”の空間を飛び交っている。そして何より――人間大の姿に化身しているとはいえ――自分達と対峙しているのだ。
【そう怯えなくてもいいだろう? わしの姿が怖いか?】
龍の衛士アザスタンはこう言った。はた目にはわずかに震えているようにも見えるのだが、それは龍を目の前にして気圧されたためではない。
“炎の司”という確固たる地位を手に入れること。
龍という存在そのものになること。
九ヶ月前に旅を始めてからこのかた、ずっと待ち望んでたときがいよいよ訪れようとしていることを知ったミスティンキルは胸が詰まる思いだった。
だが一方で彼は内心首をかしげるのだ。
(ひょっとして、おれの願いの一つというのは、すでに叶っちまったんだろうか?)
この龍、アザスタンは【試練を乗り越えた】などと言ったが、試練などいつ受けたというのか、ミスティンキル自身には全く身に覚えがなかった。だが、彼の背に生える龍の翼こそ、炎の司であることのれっきとした証拠に他ならない。
ウィムリーフは、というと――龍という希有な存在を目の当たりにして、冒険家としてこの上ない願いが実現したことに格別の思いがあるのだろう、彼女の喜びようが見て取れるようだ。
「怖がるなんてとんでもない! ドゥール・サウベレーンとこうして話すことが出来るなんて、それこそ夢が叶ったというものだもの……あ、あたしはウィムリーフ。で、こちらがミスティンキルです。見てのとおり、アイバーフィンとドゥロームの組み合わせなんだけれど、おかしなものでしょう? でもあたしたちはこの半年近く……」
ウィムリーフは頼まれもしないのに、早口で衛士に語りかけた。緊張しているわけではない、が舞い上がっているのは一目瞭然だ。たぶん彼女は吟遊詩人の伝承に出てくる英雄達のことを想起し、それらを今の自分に投影しているに違いない。
普段の彼女らしくなく、声がうわずって聞こえるのが、かえってほほえましくも思えるのだが。
そんなウィムリーフの様子に苦笑しながら、ミスティンキルもまた声を発した。
この二人の適応性は大したものだといえる。静寂なこの空間にあっては音を発すること自体が出来ないものだと思って当然なのだが、彼らは自らの声を音を伴って発しているのだから。
「ウィム、落ち着けって。今からそう興奮してどうするんだよ。おれたちはこれから、イリリエンに会おうっていうんだぜ? そんなことじゃあ龍王を前にしたとき、ひっくり返っちまうだろうに」
【龍王様に会う、と?】
ミスティンキルの言葉を聞いたアザスタンは即座に反応した。
「ああそうだ。おれは龍王にお目にかかりたい。ぜひ、訊いておきたいことが……いや、訊かなきゃならないことがあるんだ」
ミスティンキルの頭に浮かんだのは、旅商達やエマク丘陵に住むドゥローム達の不安な面持ちと、狭量な“司の長”達が差し向ける蔑みのまなざしだった。
“色が褪せる”というアリューザ・ガルドの異変を解決するのは、ことによると自分なのかもしれない。高慢と同情、期待と不安という複数の感情がミスティンキルの心中に折り重なる。
【ふむ。ならば、わしについてくるのだ。龍王様もお会いくださるかもしれぬ】
龍は、必要なこと以外の言葉を発しないという。アザスタンはそれだけ言い放つと、身を翻して翼を広げて飛び立った。それまで龍が立っていたあたりの炎が、風に巻かれたかのように揺らめく。アザスタンはかなりの速さで滑空しているのだろう。見る見るうちに姿が小さくなっていった。向かう先は、きらきらと赤い輝きを放ちながら宙に浮かぶ巨大な球体。やはり思ったとおり、あの中にイリリエンがいるのだ。
ぽつんと取り残された格好となった二人にアザスタンからの言葉が届いた。
【ついてこい、と言ったぞ。……じきにこの周囲は嵐に巻かれる。炎に飲み込まれ、世界の彼方にまで吹き飛ばされたくなければ早くすることだ】
「ま、待ってよ! さっきあなた、試練を乗り越えたって言ったじゃない? あれはどういうことなの? 試練があったなんて全然分からなかったのに!」
ウィムリーフもまた、ミスティンキルと同じ疑問を持っていたのだ。あたふたとしつつ、銀髪の娘は翼をはためかせて蒼龍の後を追い、答えを聞き出そうとした。が、当のアザスタンは言葉を返すことなく王の住まいへと、ただまっすぐ向かうのみ。
あとに残ったのはミスティンキルひとりとなってしまった。
「あいつ、ひとりで浮かれてやがるなぁ」
やれやれと、黒い翼を広げて彼もまた宙に舞った。今まで自分の力で飛んだことなどもちろん無い。そのために、空を飛ぶことについてかすかな違和感があったが、じきに消え失せた。背中に得た龍の翼は思うままに羽ばたき、飛んでくれる。もはや自分の体の一部なのだ。
試練に打ち勝ったドゥロームは龍の翼を得て、今や炎の司となった。
そういえば――。
炎をかき分けて飛びつつ、ミスティンキルは漠然ながら“試練”のことを思い出していた。確かに自分は試練を受けたのだ。
アリューザ・ガルドからこの世界に転移したとき、つまり<赤い思念体>を象って炎の界に顕現したとき、この世界の炎達は激しい業火となって自分達に襲いかかった。あれがおそらくは試練だったのだろう。あのとき自分は抗うことなく、炎に身をゆだね、また一見不条理とも思えるこの世界特有の理を、ごく当たり前のものとして受け入れた。
その瞬間、炎の理はミスティンキルの知るところとなり、炎の力は彼のものとなった。それを経ているからこそ今、自分達は“炎の界”の中心部に存在出来ている。ミスティンキルはそう悟った。思う間もなく試練を乗り越えてしまったことにいささか拍子抜けしながら。
だが、ふつうのドゥロームであればもっと長いこと試練に苦しみ、その果てに理を掴むものなのだ。しかし、この赤い力の持ち主はいともたやすく試練に打ち勝った。それもまたミスティンキルが元来持っている力の強さ故であるのだが、当の本人はまったく気づいていない。
ようやくミスティンキルは、先行していたウィムリーフに追いついた。みるとウィムリーフの息はやや上がっているようだ。空を自在に舞う彼女にしては、らしくない。ウィムリーフは、ミスティンキルのそばに寄ってきた。
「あれ……不思議ね。今まで暑くてたまらなかったのに、あんたが来たとたん涼しくなったわ。ミストは、飛んでいて暑くなかった?」
ミスティンキルがかぶりを振るのを見て、ウィムリーフはさも不思議そうに首を左右にかしげた。
再び、アザスタンからの声が届く。
【そのミスティンキル……からあまり離れないことだな。ウィムリーフ、おぬしは炎の試練を乗り越えて理を知ったわけではないのだ。今までこの世界でお前自身を維持出来ていたのは、ミスティンキルの守りがあったためだ。距離が離れればその守りも薄くなり、やがては炎に焼かれてしまう】
それを聞いたウィムリーフは目を丸くし、さらにミスティンキルに体を寄り合わせるのだった。
「そんな怖いことを淡々と言わないでよ! じゃあなに、今あと少しであたしの体は燃えるところだったっていうわけ? ちょっと、聞いてるの? アザスタン!」
【はっは……。龍に対しても怯むことのないその堂々とした言い様、わしは気に入ったぞ、アイバーフィンの娘よ。……まあ、ぬしの言うとおりだ。お前がいくら風の王じきじきの加護を得ているからといって、炎の世界を見くびると痛い目に遭うというもの。それを心に留め置くのだな。だからこそ、わしも前もって注意しなかったのだ】
それを聞いたウィムリーフは、むう、と一言唸った。
「あたしとしたことが、すっかり増長しちゃってた、なんてね……。それに、あたしの力はやっぱり、ミストには敵わないのか……」
ウィムリーフにしてはめずらしく自嘲気味に言った。その表情にはややかげりすらも伺えたがそれも一瞬、ミスティンキルが知るいつもどおりの彼女へ戻った。
荒れ狂う炎の力が徐々に強まっていくのをミスティンキルは感じ取った。アザスタンがさきに言ったとおり、じきに嵐がやってくるのだろう。ミスティンキルは、ウィムリーフに一声かけると飛ぶ速度を増した。
深紅に煌めく水晶球の威容が近づいてくる。
◆◆◆◆
黒い翼を得た赤い力の使い手と、白い翼を羽ばたかせる青い力の持ち主はともに横に並んで宙を疾駆し、龍戦士の後を追っていた。ちらと後ろを振り返ると、先ほどまで自分達がいただろう空間には、ふつふつとたぎる溶岩を思わせる重厚な炎の塊が出現していた。その塊は飴か粘土のように空間一面に拡散すると、質量をまるで感じさせないかのように激しく吹き荒れた。飛び立つのがもう少し遅ければ、アリューザ・ガルドではおよそ想像もつかない、あの異様な嵐に飲まれてしまっていたのだろう。
前方、彼らの視界には、いよいよ眼前に迫ったイリリエンの住まう球体のみが映る。ミスティンキルの故郷であるドゥノーン島が、丸ごと球の中に収まってしまうかのように思えるほど、途方もなく大きい。遠くから見たときは分からなかったが、この深紅の太陽は完全な球体ではなく、多面体のように表面が削られているように見える。その表面のあちらこちらでは、赤や橙、はたまた白など色とりどりの炎がとぐろを巻き、時折高々と火柱を突き上げると、そのたびに球体の面は光り輝くのだった。
この球の近くには何匹かの龍が飛び交っていた。彼らは見慣れない人間達が来たことを察知すると、二人のすぐそばまでやってくる。いかつい龍鱗を持つ赤龍や、すらりとした体躯が美しい銀龍、さきほど会ったことのある小柄な白龍など、ひとくくりに龍と言っても彼らの容姿は様々だ。
ここの龍達には敵意を感じない。龍達はそれぞれ思い思いに二人の周りを飛び交う。その威風堂々とした様に、二人はすっかり魅了されるのだった。
ふとミスティンキルは、銀龍の大きな瞳と目があった。瞳の色こそ違えど、その瞳孔は縦に細長く切れている。――自分と同じように。おれもいずれ、このような龍の姿を持つことになるのだろうか、とミスティンキルは思った。
龍達の中でも一番の巨躯を持つ赤龍がアザスタンの横に並ぶと彼に話しかける。横に並ぶと言っても、たとえるのならば巨岩と大鷹ほど、彼らの大きさには差異がある。
【ドゥロームと、さらにはアイバーフィンとは! さても珍しいものだ。先ほどから龍王様がお待ちのようだが、こいつらを待っていたというのかな。アザスタン、お前は何か知っているのか?】
赤龍はしゃがれた低い声を発する。
【どうだろうか。かの方の心の内は、とらえどころがない炎そのものだ。あのドゥロームが龍王様に会いたいと言ったからわしはここに連れてきた。だが、今こうして力ある存在がデ・イグに顕現したというのは、何かしらの引き合わせなのかもしれんな】
【運命というものは私の関知するところではないが、それもまた楽しみなことだ】
龍達は謎めいた会話を交わし、そして赤龍は身を翻して去っていった。
そうこうするうちにアザスタンはとうとう球体の表面にたどり着いた。しかし彼は球体に降り立つ様子を見せず、また、飛ぶ速度を落とそうとしない。どうするのだろうかとミスティンキルが訝るうちに、龍の頭は球面に接触し――表面をすり抜けて中へと消えていった。
ミスティンキル達も少し遅れて赤い水晶球に到着した。今し方のアザスタンの様子を見ていた彼らは炎の壁の間際で滞空し、どうしたものかと互いの顔を見合わせる。
まずはウィムリーフがおそるおそる指先を壁に触れさせる。すると何の抵抗もなく、指先は壁の中に埋まる。
「面白い感じよ。ほら、お菓子の生地みたいにふわふわしててさ。……このでっかい丸全部がお菓子だったらすごいわよねえ?」
「こんなふうにめらめら燃えてる菓子なんか、誰が食べるってんだよ」
ぶっきらぼうに言うミスティンキルは右の腕を壁に突入させる。すぐ横でウィムリーフが口をとがらせて不満を言うのを聞きながら。
「ふうん。生地、と言うよりはクリームだな、こいつは」
ついに肩口まで壁に埋まった彼は、簡潔な感想を漏らしながらはい出した。この球体には入り口らしい扉や穴はない。ならば、この壁から中に入るほか無いのだ。先ほどアザスタンがそうしたように。
ミスティンキルとウィムリーフは意を決して球体の表面に触れ、そのまま内部へ入っていくのだった。
この中ではイリリエンが待つという。龍王との出会いがもたらすものは果たしてなんなのか、二人の若者は知るよしもない。