第三章 “炎の界”へ (二)
(二)
さわさわと、木々の葉擦れの音がさやいでいる。
ミスティンキルは仰向けに寝転がって漆黒の宙と星々の瞬きとを凝視していた。そしてようやく、自分が悪夢から目覚めていたのを知った。天高く昇っている白銀の月は、今宵ほぼ完全な円を象っている。月は常にかたちを変えるもの。二十八日すなわち一ヶ月という周期をもって、月は満ち欠けを繰り返すのだ。おそらく明晩は満月となることだろう。白銀がくすんで見えるとはいえ、その独特の神秘性にミスティンキルは魅了されるのだった。
やがて、こぅん、という鐘の音が耳に届いてくる。風に乗って麓から運ばれてきたのだろう。一日の終わり、闇の時間のはじまりを告げるその鐘は六回鳴らされる。次の鐘が鳴るのは朝を告げるとき。それまでの間は“刻なき時”と呼ばれており、闇が支配するこの時間、人々は眠りに落ちるのだ。
天上を見上げていたミスティンキルの視界は唐突に遮ぎられた。不意をつかれ、何事かと思ったミスティンキルは、思わずびくりと身を震わせた。だがそれは見慣れたものだった。ウィムリーフがミスティンキルの顔をのぞき込んだのだ。ウィムリーフの膝を枕代わりにして寝入ったのを思いだし、ミスティンキルは安堵の息をついた。一方、ウィムリーフは一言ことばを唱えて再び光球をともらせる。魔法の光は彼らの頭上へと浮かび上がるとほのかな光を発し始め、やがて周囲を明るく照らしだした。
「どうやら起きたみたいね。疲れは少しはとれた?」
鼻先、すぐ真上からのウィムリーフの問いかけに、ミスティンキルは首を縦に振った。疲弊していた体力は回復し、感覚も冴え渡っているのが分かる。
「ぐっすりと一刻ほど眠りこんでたわよ。それで、こっちのほうは、ふくろうが二羽飛んでいったのを見た他は、とくだん何も起きなかったわ。……どう、もう少しこのままにしている?」
ウィムリーフの慈しむような眼差しがミスティンキルを捉えている。
目が覚めてしまったからには、いつまでも彼女の膝の上に頭をのせていても仕方ないだろう、とミスティンキルは思いながらも、ついついウィムリーフの視線に見入ってしまうのだった。彼女の群青の瞳はいつにもまして澄んでおり、それ自体が光を放つようにも見える。
奇麗だ、と彼は素直に感じ入っていた。彼女の青い瞳は優しく微笑みかけてくる。
「……奇麗だね、赤い瞳が。まるで赤水晶みたい」
ウィムリーフの意外な言葉であった。忌まわしい力を象徴するかのような、この赤い瞳を誉められたことなど、未だかつてないのだから。
(赤い瞳。赤い……力、か)
ミスティンキルは、今し方見ていた夢を反芻するように目を閉じた。夢の輪郭は既に失われ、すべてを思い出すことは出来ないが、それが痛切なまでに辛いものであったことだけは覚えている。心の奥底に密かにしまい込んでいた感情を、思わず吐露してしまうほどに。
「なあウィム……。おれ、寝てるとき何か言っていたか?」
あれほど心に突き刺さる夢だ。もしかしたら、寝言を言っていたのかもしれない。おそるおそるミスティンキルは訊いてみた。
ウィムリーフはかぶりを振った。
「寝言は言ってなかった。でも、ミストが夢を見ていたとしたら……なにか悲しそうだった。それは伝わってきたわよ」
感情の波動が伝わってしまうのは、ミスティンキルのみならずウィムリーフ自身も、大きな力をその身に秘めているためだろう。それが都合のよいときもあれば悪いときもある。今は、どちらだろうか。
ミスティンキルは上半身を起こすと、膝を抱えて空を見上げた。
「そうだ、おれは夢を見ていた。あまり思い出せないけれども、どうにも辛い夢を。……おれの持ってる力は、どうあがいても忌々しいものなのかもしれないな」
口をついて出た言葉は、普段らしからぬ弱音だった。今は――自分の弱さを彼女には知って欲しかったのだ。彼女と出会ってから今までの間にも、過去の自分の境遇を話したことはあったが、こうして感情を吐露することで自身のもろさをさらけ出したのは、ミスティンキルの記憶している限りでは、はじめてだった。
ウィムリーフは即座に否定をした。
「忌まわしいというのとは違うんじゃないかな? あたしだってミストと同様に大きな力を持っているんだから、あんたが自分の力を怖がる気持ちは分かるつもり。……そう、こんなことがあったわ」
彼女もまたミスティンキルと同様に天上を仰いだ。何か思い出そうとしているようだ。そしてようやく、彼女はゆっくりと言葉を紡いだ。
“――人間が、おのが持つ力を行使しようとしたとき、よきにせよ悪しきにせよ結果がもたらされる。たとえ悪しき事象が及ぼされたとしても、力そのものが悪なのではない。力を行使する者の気の持ちようがすべてなのだ。しかしだからこそ、心せよ。自分を強く保て――”
「これは、“風の界”の王エンクィが言った言葉よ。あたしが“風の界”に赴いたことがあったってことは前にも話したと思うけど、そのとき風の王に会ったの。エンクィに言わせると、あたしには純粋な青い色が――大いなる力が宿っているんだって。……それでもたぶん、ミストの力にはかなわないだろうけれども、アイバーフィンとしては珍しいほど、魔力に恵まれているんだって。だからあたしは生まれながらにして翼を持っていたりしたらしいのね」
ウィムリーフは、ただ慰めているのではない。彼女なりに真実を語っているのだ。“風の界”の王エンクィは、ディトゥア神族の一人である。一介の人間が、神に対面できることはまずあり得ない。彼女が秘めた力の大きさが推し量れるというものだ。
「魔力に、恵まれているだと?」
ミスティンキルは起きあがると、ウィムリーフの言葉を反復した。
「そう、あたしは『恵まれている』と言ったわ。エンクィも言ったように、魔力っていうのは行使する人次第で良くも悪くもなるものだからさ。ミストもそう落ち込まないで! あんたの力はけして忌々しいものなんかじゃない。炎の司ミスティンキルという人を、世の中の人が知るのはこれからなんだから。……だから、きっちりと試練を乗り越えるのよ!」
ウィムリーフはばんと、ミスティンキルの背中を叩いて励ますのだった。ミスティンキルは心の中で礼を言った。
“力を行使する者の気の持ちようがすべてなのだ。だからこそ、心せよ。自分を強く保て”
そして、風の王エンクィが語ったとされるこの言葉は、後々までミスティンキルの記憶に刻み込まれたのだ。
ごうっと音を立て、一陣の風が強く吹き付ける。
「……風が出てきたな」
「さっきからそうだったんだけど、この周囲の風の力が、もとに戻っているみたい。なぜなのかは分からないけれどね。これだけ風の力に恵まれていたら、あたしも今だったら飛んでいけそうよ。……ほら」
ウィムリーフはそう言って軽く地面を蹴る。と、彼女の体はふわりと宙に浮かんだ。
「見て! 今だったらいつもと同じように飛べるよ」
ウィムリーフがいかにも嬉しそうに、くるりと宙返りをしてみせると、翼をきらめかせて空高くまで飛び上がってみせる。ミスティンキルは小さく笑みを浮かべ、彼女が空を舞う様子を見ていた。
その時。
なんかしらの感覚が、心の奥底をざわりと触れた。ふと勘が働いたミスティンキルが、視点をデュンサアル山の中腹へと移すと、二本の赤い炎が、蛇の舌のようにちろちろと揺れ動くのを見た。あのあたりに“炎の界”に至る門があるに違いない。
“炎の界”が自分達を招いているのだ。あるいは、龍王その人が呼んでいるのか? ――ミスティンキルの研ぎ澄まされた感覚はそのように訴えかけている。
だとしたら一刻も早く、扉のあるところまでたどり着かねばならないだろう。
「さてウィム、降りてこいよ。行こうぜ! どうやらおれたちが今夜デュンサアル山に向かうことは、間違ってなかったようだからな」
こうして二人は再び山路を歩き始めた。
◆◆◆◆
風に乗って届いてくる狼の遠吠えと、木々のざわめきとを耳にしつつ、岩山の頂上をしばらく歩くと道は途切れ、巡礼者の行く手は阻まれる。山を割くような断崖があるのだ。だがこれは先刻、“司の長”エツェントゥーから聞いたとおりである。
断崖を越えるには細長く頼りない吊り橋を渡るほかないのだが、その吊り橋の横には一件の山小屋があった。デュンサアルへの巡礼者のための休息所として建てられたのだろう。もしくは、聖なる山を守護する守人の詰め所をも兼ねているのだろう。
灯りのともった山小屋を横目に見ながらも、ためらうことなく二人が吊り橋に向かおうとしたその時、山小屋の扉が開き、小屋の中から一人のドゥロームが現れた。
〔止まれ!〕
槍を片手にした守人のドゥロームがあからさまに警戒をしながら駆け寄ってくる。ミスティンキルほどではないが、背の高いこの若者は――もっともドゥロームとしては平均的な身長だが――二人のすぐそばまでやって来ると、怪訝そうにミスティンキル達の様相を伺う。
龍人の正装である赤い長衣をまとった男。それに、瑠璃色の短衣と白くゆったりとしたズボンを着た女。ふわりと宙に浮く魔法の光球。
この守人に自分達はどのような印象で受け止められているだろうか。怪しい者だと思われても仕方がない。加えて、ウィムリーフの衣装はアイバーフィンの正装なのだ。これでは銀髪を染めた意味がない。だが、種族の正装でなければ、事象界に入ることが出来ず跳ね返されてしまうこともままあるのだ。
“デュンサアルに住むドゥロームは、アイバーフィンを快く思っていない。”
ともに旅をした旅商から聞き知った言葉だ。その言葉どおり、デュンサアルには偏狭な龍人が多いことをミスティンキルは身をもって知った。海洋地域出身のミスティンキルすらまともに取り合ってくれないのだから、太古に敵対していたアイバーフィンに対する扱いはいかなものになるというのだろうか。
(へんなことで咎められるのはごめんだ)
ミスティンキルは内心不安を感じながらも、感情をあらわにすることなく守人と対峙した。そして眉をひそめた。この若者のがっしりとした体格と、厳めしい顔つきには見覚えがある。憤りを覚えるほどにあの龍人に似ている。自分を侮辱したあのマイゼークとかいう長の若い頃は、このような容姿であっただろうと思わせる。
〔ふん……魔法使いか? けったいな術を使うなど……〕
ふわふわと浮いている光を訝しげに見ながら若者は問いかけてきた。彼の若い声色は、マイゼークのような低い声ではなかったが、気分を害する口調はあの老人譲りである。
〔よそ者が、聖なる山になんの用あって赴こうとするのか? しかもすでに深夜――“刻なき時”に入っているというのに〕
「けして怪しい者じゃない。おれは――海の向こうのラディキアから来た、ミスティンキル・グレスヴェンドというんだ。“炎の司”になる試練を受けるためにデ・イグに行こうとしている。“炎の界”への門はいつでも開かれている、と“司の長”エツェントゥーどのから聞いたから、今こうしてやって来たんだ。……あんたは長からなにも聞いていないのか?」
ドゥローム語を話す若者に対して、ミスティンキルはアズニール語で返答した。自分まで龍人の言葉でやりとりを行ったら、言葉を解さないウィムリーフにはあたかも密談のように聞こえてしまうだろうから。
くっくっと、含み笑いをしたあと若者は言った。
〔知ってるとも。君の話は聞いている、遠方の海辺からわざわざお越しなすった同胞どのよ。私はマイゼーク・シェズウニグの長子ジェオーレという。……しかしこんな夜更けにこそこそ闇に紛れて――まるで魔の眷族のように――やって来るとは、父の読みどおりだったよ。しかしながらこれは予想できなかったな……同行者がいたとはな〕
守人ジェオーレの表情は笑ってはいない。また、彼の口から出る言葉は言葉遣いこそ柔らかではあるが、きわめて辛辣なものであった。デュンサアルに住む者以外は信用ならない、そんな様子が言葉の端々から伺いとれる。
ジェオーレの鋭い目つきがぎろりとウィムリーフを凝視する。服装からアイバーフィンであるということがばれたのだろうかと、ウィムリーフは心配そうにミスティンキルを見た。
「……バイラルの女か。デュンサアル山になんのようだ」
ジェオーレは、ややたどたどしいアズニール語で話しかけてきた。
「ウィムリーフと言います。あたしも、このミスティンキルと一緒に“炎の界”に行くんです。……龍王様に会いたい一心で、ここまでやって来たんですよ」
気を取り直した彼女は臆することなく、持ち前の快活さで答えた。
「ふん。ドゥロームであっても会うことが叶わないお方だぞ。ましてバイラルなど……我らの“炎の界”に入ること自体がとうてい無理だ。たどり着いたところで、業火に身を焦がされて、魂すらも消し炭になるぞ」
ジェオーレはウィムリーフなど歯牙にもかけない様子で言い放ったのだが、“炎の界”に赴こうとしている二人は、とりあえずほっとした。この若者は、どうやら実際にアイバーフィンを見たことがないのだろう。彼女が着ている翼の民の衣装には、まったく気付く様子がない。あくまで、ウィムリーフの黒く染め上げた髪の色のみで種族を判断しているようだ。
「我らの“炎の界”、だと? ……なあ、あんた思い違いをしていないか。“炎の界”はドゥロームの持ち物じゃあないはずだろう? 誰のもんに属するものではない、とエツェントゥーどのからは聞いているぞ」
ミスティンキルの言葉に対しジェオーレはわざとらしく頭を押さえ、悩んでみせた。あからさまにミスティンキルの感情を逆撫でしようとしている。
〔ああ。エツェントゥー様も、余計なことをおっしゃるものだ……。たしかに海辺の漁師どのが今言ったことは間違ってはいない。が、海の住人たちは忘れてしまわれたのだろうなあ。我らドゥロームの誇りがあることを。炎を司る我らにとって、他の種族の者達が“炎の界”に赴くのは好ましからざることだ〕
(ここの連中は、誇りってやつの意味をはき違えてるんじゃねえか? そんなのは、単なるくだらねえ偏屈だ)
ミスティンキルは苦々しく思ったが、口に出すことはなかった。
「さあ、もういいだろう。その槍を引っ込めてくれよ。おれたちはデュンサアルを登る。そして“炎の界”に行くんだ」
〔……それはならないな〕
威嚇するように声の調子を落としたジェオーレは、手にした槍を横につきだして道をふさいだ。
「不敬なウォンゼ・パイエ(海蛇の落人)を行かせてはならないとの命を受けている。ましてバイラルまで同行しているとあっては、なおさら通すわけにはいかない」
「……マイゼークの差し金か?」
今まで抑えてきた憤りを隠しきれなくなったミスティンキルは、食ってかかるような勢いでジェオーレに言った。
〔差し金とは酷いことを言うな。確かにわが父の指示であるが、これは“司の長”じきじきのご命令と思え。お前が我らと同じ炎の民、龍の末裔だというのなら、これに従う必要がある〕
「そんな命令など聞けるか?! そこをどけよ」
ミスティンキルは、ジェオーレの槍に手をやると、力任せに押しのけ、強引に通り抜けようとした。
「これ以上進もうというのなら、それは“司の長”に刃向かったということを意味する。……デュンサアルの掟に従って罰せられるぞ」
ジェオーレは槍を手にしていない左手を後方の吊り橋のあたりに向けて、高く掲げた。すると、吊り橋の入り口あたりの地面から勢いよく炎の柱が幾本も立ち上り、壁となって行く手を阻んでしまった。
〔……年若いからといって、この私をなめるなよ。私とて炎の加護を受けし者、炎を操る者――“炎の司”だ。こうして道をふさいでしまえば、お前たちにはどうすることも出来ないだろう。無礼な赤目よ。この炎が消せるか? ……無理だな。いくらお前が強大な魔力を持っていたとしても、おのが力の使い道を知らなければ、為すすべなど何もないからな〕
「ああ、確かに今のおれでは何も出来ないな。でもな……突破してみせてやるよ。あんたが思いもかけないような方法でな!」
そう言ってミスティンキルはウィムリーフのほうを振り向いた。
「ウィム……さっき、風が出ていると言ってたよな。どうだ、いけるか?」
ウィムリーフは一瞬戸惑ったが、この龍人の若者の言わんとしていることを理解し、渋々ではあるが頷いた。
「風はさっきと変わらないわ。いける……けれど、罰せられるというのはどうなの? それはデュンサアルの――ドゥローム族としての掟に反することになるんじゃない?」
「掟だって? どのみち、このへんぴな村を出ちまったらそんなものには意味がねえよ。だいたい、こんな了見の狭い連中の言うことなんかを『はい、そうですか』と聞いていられるか?! おれは我慢ならねえな。ウィムだってそう感じないか?」
ウィムリーフは頷いた。彼女の表情はミスティンキルの言い分には幾分納得しかねている様子だが、だからといって堅物なジェオーレの言葉に従うつもりも無さそうだ。傲慢で偏った排他性こそが誇りである、と思い違いをしている守人に対して、彼女なりに怒りを感じているのは間違いないだろうから。
「なら、決まりだ。……行こうぜ!」
ミスティンキルはニヤリと口元を歪ませて、再びジェオーレの方へ向き直った。
ジェオーレはそのやりとりをただ聞き流していた。彼らがどうあがこうと、炎で遮られたこの吊り橋を渡ることなど出来るはずもないのだから。彼ら同士のやりとりは無駄なあがきにすぎない。たとえ泣きついてきたとしても、ここから先へ通してなどやるものか。
そう侮っていただけに、ミスティンキル達が次に為したことは、この若者の理解の範疇をまったく越えていた。
決意を固めたウィムリーフはミスティンキルの背後からそっと手を伸ばし、胴回りを抱きしめると――彼ともども高く跳躍した!
〔飛んだだと?! ばかな!〕
槍を落とし、半ば呆然とした様子のジェオーレが徐々に小さくなっていく。彼の哀れなまでに呆けたさまを楽しむかのように、上空のミスティンキルは笑ってみせた。
「まんまと突破されました、とマイゼークに伝えてやれ! どのみちおれは、エツェントゥーどののお墨付きを貰っているんだ。……なあ、嫌味ったらしいマイゼークのせがれさん! この試練が終わったら、今度は同じ立場で――“炎の司”としてお前に会ってやるよ!」
余計なことを言わないの、とウィムリーフのたしなめる声が背後から聞こえてくる。
ジェオーレにはもはや怒声を張り上げるほか為すすべがない。世界が色褪せてから自然の持つ力が弱まった。龍人の飛ぶ姿を見かけなくなったということは、おそらく“司の長”の命令で飛ぶことが禁じられているのだろう。ジェオーレは追ってくることはなかった。かりに追うことが出来たとしても、“風の司”ウィムリーフに敵うはずもないだろうが。ジェオーレは苦しみ紛れに攻撃を仕掛けてきた。吊り橋を阻んでいた炎の壁が大きな火の玉へと姿を変えて二人に襲いかかった。ウィムリーフは、ミスティンキルの大柄な体を抱きかかえたまま、いともたやすく避けてみせ、さらには風の力を用いてその火球を吹き飛ばしてしまった。
「まったく、無茶するわねえ! ミストも、あたしもだけれどもさ。……こうなったらどうあっても“炎の司”となって、しかも色を元に戻す方法を龍王様から聞きだして帰ってこなきゃね!」
背中越しに聞こえるウィムリーフの声は、やけに楽しそうだ。底意地の悪い守人に一泡吹かせて気が晴れたのだろう。
ウィムリーフは光の玉を消すと、精神を集中させるために一つ二つ大きく呼吸を繰り返す。と背中から、夜の闇をも照らすように白い光が煌めく。
時折輝く翼を広げたウィムリーフに抱きかかえられ、赤目の若者は雄大なデュンサアル山を見た。今また山腹からちろりと炎の舌が姿をのぞかせた。
◆◆◆◆
風をかき分け、空を疾駆する。
デュンサアルの大きく黒々とした山容がぐんぐんと迫ってくる。
みたび、山腹のとある一点から炎の柱が上がるのが見えた。ウィムリーフもそれに気づき、自分達を呼び寄せるように立ち上るそれに向かって、見えない翼を羽ばたかせるのだった。
炎に誘われるまま、彼らは空き地へと降り立つ。すると二本の石柱から炎がすうっと消え失せた。そのものが意志を持っているようなこの炎は、アリューザ・ガルドの産物ではないだろう。次元の狭間を通り越して“炎の界”から流れ込んできているに違いない。
「ありがとうよ、ウィム。重くなかったか?」
「重かったわよ! 大柄なあんたを運ぶのは骨が折れる仕事なんだからね」
そう言いつつウィムリーフは興味深そうに柱をまわり、冷たくなった石の肌をべたべたと触っている。夜の闇に覆われているために周囲の情景が把握できないが、空き地には二本の柱以外めぼしいものは何もないようだ。そしてこれこそが“炎の界”へと通じる扉に他ならない。
ミスティンキルは、ここで自分達が何をすべきなのか、分かっていた。エツェントゥーから聞いた言葉にしたがって、彼は二本の柱の中央に立つ。ウィムリーフも彼の横に並んだ。
「ウィム、覚悟はいいか? いよいよ行くぞ」
自分自身の声がやや震えているのが分かる。物質界であるアリューザ・ガルドとはまったく様相を異にする異次元に転移しようというのだ。恐怖、不安、期待。様々な感情が織り混ざる。
「……いいんだな? 帰ってこられないかもしれない」
「ミストの力をもってすれば、大丈夫。試練に打ち勝つことが出来る。あたしが保証するわ」
差し出されたウィムリーフの手を堅く握ると、いよいよミスティンキルは覚悟を固め、ことばを発した。
【デュレ ウンディエ ゾアル イリリエネキ】
それは龍の言葉。放たれる音そのものが魔力を持ち得るという、太古の言語だ。言葉を放つと同時に、柱の石の裂け目から炎が吹き出して石柱全体を赤々と包み込む。視界が歪に曲がり、アリューザ・ガルドの情景が徐々にうっすらと消し去られていく。
――我赴かん、イリリエンのみもとに――
柱の頂から炎が高々と立ち上ったその時、二人の姿はかき消えた。