第二章 “司の長” (三)
(三)
〔こやつ、もしや魔法使いか?〕
ミスティンキルの動きを封じていた二人の“司の長”は、赤い色を解き放った若者に恐れを抱き、即座に手を離すと部屋の奥まで逃げ去った。
〔“術”を放とうというのか!〕
奥の席に腰掛けていた二名の長達も、部屋を包む赤い色が尋常ならざる力を秘めているのを感じ取り、立ち上がった。“司の長”ほどの知識を持つ者であってすら、顕現した超常の現象を目の当たりにしてなすすべがない。ただ狼狽えるのみである。ある者は逃げまどい、ある者は怯えて机の下に隠れた。平然と落ち着き払った様子で椅子に腰掛けているのは、長老エツェントゥーただひとり。白い顎髭を蓄えた細身の老人は、ミスティンキルの力を見極めようとするかのように、正面から彼と対峙している。
当のミスティンキルは呆然と立ちつくすのみ。自分の前には、恐れのあまり気高さをうち捨てた長達がいる。彼らの滑稽さをあざ笑ってやろうとも思うのだが、出来なかった。今のミスティンキルは内的思考に深くとらわれ、心は凪のように静まりかえっていたのだ。
(この赤い霧みたいなのは、なんなんだ? こんな……得体の知れないものがおれの体から出てくるなんて。ラディキアの親族達が忌み嫌っていた、おれ自身に秘められた“力”というのは、こいつなのか?)
(なぜ、こんなものが出てきたのか、それなら何となく分かっている。……抑えられないくらい、あのじじいを憎たらしく思ったからだ。あいつは……)
……気にくわねえ。
そう思ったと同時に、色は鮮烈な紅色からどす黒い赤へと変貌した。この禍々しい赤は、ミスティンキル自身の憎悪の念をまとったものなのか。
ふと気付くと、先ほど蔑みの言葉を放ったドゥロームが、苦悶の表情を浮かべて胸をかきむしりはじめているようだ。赤い色は明らかに、この長に対して力を流しているのがミスティンキルには分かる。
その時、長老エツェントゥーはすくりと立ち上がると、ほっそりした老体からは想像できないほどの大声を放った。
〔そこまでだ! それから先は考えるでない! 赤目の若者よ、力を抑えるのだ!〕
威厳に満ちた声が会議室に朗々と響き渡る。
それを聞いたミスティンキルは、今まさに降りようとしていた内なる思考の深淵から、意識を戻した。
彼が己を取り戻すのと同時に、忌まわしく濁った赤は徐々に小さくなっていき、色合いも鮮烈な赤へと戻っていく。ついに一点に凝縮した紅の光点は、矢のように鋭く放たれ、ミスティンキルの胸の中に埋まった。刹那、ミスティンキルの全身が赤く輝く。
ミスティンキルは目を見開き、また、大きく息を吐く。流れる血潮の音すら聞き取れるほど、彼の鼓動は高まっていた。そして、今し方発動し、また取り込んだ得体の知れない力に対し、恐怖を覚えているのを知った。
エツェントゥーは長達に叱咤した。
〔……そしてお前達、なんたるざまだ。炎を守護し司る者の頂点――“司の長”ともあろう者達が、魔力に怯えるとは! さあ、さっさと席につくがよい!〕
長達は、ミスティンキルに怪訝な眼差しを投げかけながらも、各々の席に着いた。
部屋はもとの薄暗さと静けさを取り戻した。この沈黙は重苦しい雰囲気を助長する。“司の長”達はミスティンキルを威嚇し咎めるように睨み、一方のミスティンキルは居心地悪そうに彼らの視線から目をそらした。だが、今し方の現象について誰も言葉にしようとはしなかった。
〔……以降、エツェントゥーの名において、無駄ないがみ合いはまかりならん。よいな、各々がた。しかと肝に銘じよ〕
不自然な静けさが支配する会議室の空気を破ったのは、長老だった。
〔さて、若いの。先ほどはこちらのマイゼークが無礼を言ってしまったようじゃな〕
先ほどまでの厳格な表情は消え失せ、エツェントゥーの物腰は柔らかなものとなっていた。彼はまず、先ほどの口喧嘩を仲裁するようだ。長老のみが先ほどの“赤い力”について何かしら知っているような素振りを見せていただけに、ミスティンキルはやや落胆した。エツェントゥーは言葉を続ける。
〔だがおぬしとて、我ら長に対して暴言を放ったこともまた事実。まずはそちらから詫びてくれ。さすればこちらも同様に詫びるとしよう。マイゼークよ、よいな?〕
先ほどまでミスティンキルと言い争っていた無骨な龍人――マイゼークは決まりが悪そうに頷いた。
〔……確かにおれも口が悪くなってました。長たちを前にして申し訳ない〕
ミスティンキルは小さく頭を下げた。
〔なにぶん長引く会議のために、俺も気が立っているのだ。まあ……済まなかったな〕
こうしてマイゼークも、長老に催促されてしぶしぶながら謝罪した。が、この強情な偉丈夫の目は責めるように、じっとミスティンキルをねめつけている。
忌々しいやつめが。お前は海蛇の毒を放って、俺を苦しめたのだ――マイゼークの目はそう語っていた。
〔……では話を戻そう。お前は“炎の界”へ行くのだったな。だが、どうやら察するに“炎の界”への入り方などは知らぬようだな?〕
長老エツェントゥーの問いにミスティンキルは頷いた。
〔長老。一つ訊いておきたい。あなたは知ってるんでしょう? さっきの……赤い霧みたいなものが、一体何なのか〕
エツェントゥーは頷いた。
〔ふむ、ふむ。……力を放った当の本人がそのように言うか。やはりそうか。お前は自分の持つ力について何一つ知らないのだな?〕
〔ガキの頃から、なんかしらの力が宿ってることは知っている。けど、それが何なのか、分からなかった。もしかすると……〕
〔忌まわしい力だ……〕
ミスティンキルは驚き、体をぴくりと震わせた。マイゼークが漏らした言葉こそ、自分が言わんとしていた言葉だったのだから。
〔マイゼークよ、口を慎めと言った! 今後そのような振る舞いをすることは、わしの名にかけて許さんぞ〕
エツェントゥーの叱責を受けたマイゼークは肩をすくませた。一方のミスティンキルは、自分の過去を――大きな力を秘めるがゆえに疎んじられてきた過去を思い出し、わなわなと拳を震わせた。
〔やっぱり、あってはならない力だっていうのか? おれが持つ力とやらは……呪いなのか?〕
〔いや、赤い色を秘めた者よ。恐れることはない。あのような力は、実のところアリューザ・ガルドの住民であれば、多かれ少なかれ誰しもが持っているものなのだ。このわしも、そしてここに居並ぶ長達も。そして下の町に訪れている商人達もな。それはすなわち――魔力だ〕
魔力。
七百年もさかのぼる昔のこと。バイラル達は国をあげて魔法の研究に取り組んでいたとされている。その魔法を行使するための源こそが、魔力。
ある時、制御を失った膨大な魔力が氾濫し、アリューザ・ガルドが危機に瀕したことから、もっとも強大な魔法――魔導は封印されたのだ。それ以来、力のある魔法使いは姿を消し、現在に至っている。
〔魔力だって? そんなものは、魔法使いの持ち物でしょう?〕
ミスティンキルの問いに対し、白髭の長は静かに首を横に振った。
〔そうではない。魔法について全く不勉強ではあるものの、炎の“司の長”であるわしには分かるのじゃよ。魔力は確実に、わしらに宿っておる、とな。だが、先ほどの赤い色……鮮明なかたちを成すほどの魔力――。あれほどの力を発動できる人間は、我らドゥロームのみならず、今のアリューザ・ガルドを探してもいはしないだろう。おぬしはそれほど強大な魔力を持っているのだ〕
それを聞いてミスティンキルは鼻で笑った。
〔おぬし、いま心の中で否定をしたな? まさか、自分はそんな大それた力を持っているわけでない、とな。否定してはならぬ。己が大きな力を持ち得ていることを確信するのだ。だが決して増長してもならぬ。過信こそが、おぬしを陥れるであろうから……それこそ呪いのごとく、な〕
〔長の言っていることが、さっぱり分かりません。おれは頭の出来がよくないから……〕
エツェントゥーは、自分の孫を見るように目を細めて言った。
〔いまは分からずともいい。いずれお前にも分かるときがやってくるじゃろう。ただひとつ、わしと約束をしてくれ。今後どのようなことが起きようとも自分の力を否定せず、かつ増長しないことをな〕
こうしてミスティンキルはエツェントゥーと約束を交わした。そしてあらためて長老は、“炎の界”への“門”の所在や彼の地で用心すべき事をミスティンキルに教えるのであった。
◆◆◆◆
西側の窓掛けごしに差し込んでいた西日がやや眩くなり、虚ろな橙色へと部屋を染めぬく。太陽がほのかな暖かさを伴って窓に顔を覗かせ、夕刻になったことを“司の長”達に知らせた。
〔エツェントゥー老。陽が落ちかけておりますし、そろそろ会議を再開しませぬか?〕
手前右に腰掛けていた痩せぎすの長が言った。
〔そうじゃな。ならばミスティンキル、下がってくれぬか。あとはお前の望むときに“炎の界”の門をくぐるがいい。門はいつでも開かれておるゆえに〕
ミスティンキルは半歩後ずさりはしたものの、部屋から出ることを躊躇した。
〔あのう。最後に一つだけ、教えてもらえませんか? どうしても訊きたいことが、いや、訊かずにはおれないことがあるんです〕
〔なにか? わしに分かることであれば答えよう〕
ミスティンキルはもうひとつ聞きたかったことを――色の変化について――語りはじめた。自分や旅商達がエマク丘陵に至り、そしてデュンサアルに到着するまでに経験したことを、覚えているかぎり洗いざらい述べた。
〔……おれは、あなたたち“司の長”であれば知ってるんじゃないかと思ってました。なんでこんなふうに、色褪せちまったんでしょうか? あの葬列の男が言ったとおり、呪いのせいなんですか? もしそうだとしたら、色を取り戻す方法など、知ってますか?〕
ミスティンキルが言葉を切ったと同時に、ばん、と大きな音を立てて机を叩いた者がいた。左奥に座る長ラデュヘンであった。彼は憤慨した様子ですくと立ち上がるとミスティンキルに向き直った。
〔痴れ者か?! 我らが何のために会議を延々おこなっているというのか、場の空気を察することすら出来ないほどに! 出ていけ!〕
ミスティンキルにとっては予想も出来ず、また謂われのない中傷であった。彼は言葉を失うが、やがて沸々と胸の奥から怒りが湧きだし、長老の制止も耳に入らず、ラデュヘンに言葉を叩き付けた。
「あんたたちが色について会議していたことくらい、俺にだって分かる! 分かんねえのは、なぜ出てけなどと言うのかってことだ!」
〔双方とも、やめい! わしが先ほど言った言葉をもう忘れたというのか〕
長老の声と共に、喧嘩をしていた両名の足元から一瞬、小さな火柱が上った。驚いた両名はあわてて後ずさった。
〔今度このようなことがあれば、容赦なくおぬしらの舌を炎で包むぞ〕
エツェントゥーは厳しい表情で両者を睨みつけると再び座した。長老の横でマイゼークはいやらしく薄笑いを浮かべている。彼なりに思うところがあるのに違いない。
両隣の長を目で制止しながら、長老は語った。
〔残念ながら、いまだ対応策は出ていないのじゃ。バイラル達はどうなのだろうか。彼らもまたそれぞれの国でわしら同様、議論を戦わせているのだろうか?〕
〔……では、龍王イリリエンはどうなんだろう。神にも匹敵する力を持つというのなら、色について知っているはずでしょう? なんならおれが“炎の界”に行ったときに、訊いてみるとしようか〕
ミスティンキルの言葉を聞いて失笑を漏らしたのはマイゼークであった。
〔まったく、無神経もここまで来ると立派なものだ。ラデュヘンの怒りを買って業火で焼かれる前にここから立ち去るがいい。彼とクスカーンは先日、まさに色について訊くために“炎の界”を訪れておる。だが、さしもの彼らであっても力及ばず、龍王様にはついに会えなかったのだ。まして貴様のような者がイリリエンに会えるわけもない。“炎の界”に入った途端に試練に敗れ、さらには炎に焼かれておのが存在を灼熱の中に消し去るのがおちだ〕
〔龍王様に対面するなどと大言壮語を吐きおって。お前などに出来るものか〕
と、ラデュヘンも言った。
ミスティンキルは気が付くと、怒りを込めた笑いを漏らしていた。
「おもしれえ。なら、あんたたちが出来なかったことを、おれはやり抜いてみせる。よし、イリリエンに会ってやろうじゃねえか。そして、色を元に戻す方法をおれ自身が探し出してやる。大言を吐いたなどと、いまは笑ってるがいいさ。……けど、こんな海蛇の落人がやり遂げたなら、あんたら“司の長”はそれ以下の存在だってことだぜ」
この言葉をあからさまな侮辱と受け取った司の長の面々は怒り心頭、
〔ウォンゼ・パイエめが、身の程を知れ!〕
〔出て行け!〕
と口々に罵るのであった。さしもの長老とて、この勢いを止めることは出来なくなっていた。
ミスティンキルは、そんな長達を一瞥し、長老のみに一礼をすると、即座に会議室から出ていった。
壊れんばかりの大きな音と共に会議室の扉が閉まる。床を踏みならす足音も徐々に遠ざかり――玄関の扉が乱暴に閉ざされると、“集いの館”は閑散とした陰鬱な空気に閉ざされた。
〔無礼な奴め。あのような者、水牢に幽閉してしまえ!〕
怒髪天をついたラデュヘンは再び机を叩く。
〔なぜあのような者を招いたのだ。おぬしにも責任があるぞ?〕
とクスカーンは、ミスティンキルと最初に対面したファンダークを責めた。ファンダークは返す言葉が見つからず、ただ小さくなって耐えている。
〔エツェントゥー老よ。本当にあのような者を“炎の界”に行かせるのですか? 危険だ。奴は赤い魔力をもって、このマイゼークを害しようとしたのですぞ!〕
マイゼークの言葉を長老は肯定した。
〔確かにぬしの言うとおり、あの者の力は底知れぬほど大きい。危険であるかもしれぬ。が、あの若者ならば世界の色を元に戻す手段を見つけるのではないか、とわしは直感したのじゃ〕
マイゼークは首を振った。
〔まったく甘い。それほどに入れ込むとは厳格な貴方らしくもない。ならば私めは、あの者が危険だという自分の直感を信じて行動させていただきますぞ〕
◆◆◆◆
「あいつ、マイゼークと言ったか! 見ていやがれ、目にもの見せてやるからな!」
館をあとしたミスティンキルは怒りの感情に身を委ね、大声を上げた。ひとしきり喚き叫んだあと、ようやく気が済んだミスティンキルは山を下りていった。頑なな決意を胸に抱きつつ。
「ウィム。寝ているところすまねえが、これから行くことにした。“炎の界”へな!」
ミスティンキルは宿の自室に戻るなり、毛布にくるまっているウィムリーフに開口一番で言った。
「……だって、もうじき夜になるっていうのよ? 明日にしましょうよ? ミストだって疲れてるでしょうに」
先ほどまでぐっすりと寝入っていたウィムリーフは、いまだ気だるそうな顔をしている。
「いいや。なんと言われようと、おれは今すぐにでも山に登るって決めてるんだ。ウィムも十分寝たんじゃねえのか? 今起きないっていうんなら、置いてっちまうぜ」
その言葉を聞いて、ウィムリーフはがばりとベッドから起きあがった。こういうときのミスティンキルは依怙地であり、梃子でも動かないのが分かっている。なにより彼女自身、体の疲れより好奇心のほうが勝った。
「分かったわよ、仕方ないなあ。今回はあたしのほうが折れてあげる。長旅の果てにようやくここまでたどり着いたっていうのに、置いてかれたんじゃ堪らないからね」
「……なんだよ。なんだかんだ言って乗り気なんじゃないかよ」
「当たり前じゃない。冒険家のたまごとしての血が騒ぐのよ」
ウィムリーフが支度を整えるのを待ってから、彼らは宿をあとにした。目指すはデュンサアルの山。そして――“炎の界”である。
太陽は山の稜線に隠れ、ほのかに西の空が薄茜色に染まっていた。もうじきに日が暮れるだろう。