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俺はずっと、何も感じなかった。寂しさも苦しさも喜びも何もかも俺とは無縁の存在であった。
ならば俺は今なぜこんなにも焦っているのだろうか。俺がこんなにも切羽詰まる訳はないのだ。しかしその自制とは裏腹に、ただならぬ緊迫感が津波のごとく押し寄せ、俺の焦りを一層駆り立てた。
先月から俺がバイトしている3か所のうち、この時間帯にシフトが入っているのは駅最寄りのパン屋――唯一安堵できるバイト先――のみだ。新婚ホヤホヤ夫妻が経営するパン屋『パサパサ工房』は静かに繁盛している。それは今日も変わらず、森のログハウス然とした屋根の一端が見えるとほのかな明かりの中
で人影がゆらりと揺らぎ、三者三様幸せそうだった。やはりいつもと何も変わらない。
では、なぜ俺はあんなにも焦ったのだろうか。どうして、あんな焦燥に駆られたのだろうか。いくら橘の橘による橘のための浪費が不本意だったとはいえ、逃げ出すには度が過ぎる。俺は何で急いだ――あるいは、何が俺を急がせたのだろうか。
抱えた頭に、消えかかった陽光が降り注がれた。
「あら成田くん、どうしたの?やけに早いじゃない」
店に入ると奥さんの暖かな声が掛けられ、次いでパンの小麦の香りや和気藹々とした数名の客の話す姿が五感を程よく刺激した。
「いつもなら遅刻ギリギリで来るのに、今日はシフトより1時間も早いなんて――熱でもあるの?」
「俺が早く来たらいけませんか?天変地異でも起こるんですか?」
「だってあの成田くんだよ!?お早い出勤なんて信じられる!?」
信じられるって、本人に訊かれてもねぇ……。でも毎度遅刻かその瀬戸際になってしまうため、反論は出来ない。
厨房の方からは喧騒がせわしなく聞こえ、ご主人の慌ただしさが手に取るようだった。実際、何をしているのかは知らない。
俺の仕事はひたすらに焼きあがったパンを店に陳列することであるため、厨房内を俯瞰できるのは業務前と後、すなわち準備の時と閉店後だ。だから働く夫妻の声と2人による物音は店の狭さと相まって異常聴域と呼ばれるレベルで嫌と言うほど聞こえてくるが、その光景を目にしたことはない。
「おーい、ゆいー!」
と、ご主人の声が店内に響き渡る。『ゆい』というのは奥さんの名前で、ご主人は『きょうや』らしい。実に需要のない情報だ。俺とご夫妻が名前で呼び合う訳でもあるまい。
「はいはい、今行くからー」
奥さんが呼応する。あまりの大胆さに、こっちまで顔を赤らめそうだ。―――厨房へと続く扉の前で堂々と人目をはばからず、あろうことか有り得ざることに唇を交わした大胆さゆえに。
「まったく、お熱いことで……」
先刻までの焦りはどこへやら、打って変わって呆れすらしている。忙しい奴だな俺は、と自嘲した。
「じゃ、成田くん今日はここまでね~」
その声が、本日のバイトの終わりを告げる。
にこやかに笑いかける奥さんは、実際いくつなのだろうといつも思う。外見や振る舞いが若々しいため20代にも見えるが、お子さんが2人もいるらしい。なんでも1人はもう社会人で、一人暮らしをしているのだという。もう1人は俺と同い年だとかなんとか。
ご主人はご主人で、たまに『この人を大人と認識していいのだろうか』と葛藤に駆られるときがあるほどに純粋というか無垢というか。いつまでも少年というか、落ち着きがないというか。今もこうして奥さんに悪戯する様は、小学生の男子が好きな女の子にちょっかいするときのそれと何ら変わらない。実に楽しそうで―――いたたまれない。この2人の子供というのは、さぞ幸せなのだろう……
……親のいなかった、俺たち家族とはまた違って。
突如思い起こされる過去の記憶。大した記憶ではない。我が家から親がいなくなる前の、ほんの少しだけの記憶。
俺が生まれた時から、母親はいなかった。辛うじて父親の記憶がある。
***
店を出た後、少し蟠りが残るものの家路に着くのが安泰だろうと思い自転車にまたがった。その拍子、春の夜の心地よい風が髪を揺らして過ぎていく。さくらの花弁が目の前を横切り、掴もうと少し腕を伸ばしたが空高く舞い上がって見えなくなってしまった。
少しだけ、一瞬だけ触れた指先に暖かい花弁の感覚を覚え、もう一度腕を伸ばす。
伸ばした腕の先で、人影がゆらりと揺れた。
見かけない顔だった。
しかしその顔を、俺は知っていた。
清楚という形容詞がよく似合う。
儚げで、それでいてどこか強さを感じる。
それはまさに、雪の中でも寒さに耐えて咲く一輪の花のように。
『雪の中でも』――その言葉を思い浮かべた途端、何かを思い出した。
『そういえば2人とも名前に『雪』って字が入るな』
隣の席の日下と、もう一人、名前に雪の入った奴がいた。
その名前は……。
……いや、そいつは不治の病だったんだ。こんな薄ら寒い春の夜に、一人でいる訳がない。そう思って踵を返した。
不意に、後ろから声がした。
「あなたは……成田くん?」
風がもう一度、ザァーッと吹き、髪を波立たせていった。
振り返ると、そこには誰もいなかった。